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2016年12月

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2016年12月珍しく合鴨でないほんとの

2016年12月1日 5:56

 

 

鴨を手に入れたので

 

 

珍しく合鴨でないほんとの鴨を手に入れたので、土曜日くらいに焼いてみようかと思っている。いや丸ごとでなくスライスだ。付け合わせはハンガリーのキャベツの煮物である。キャベツを千切りにし、塩をまぶして30分置く。熱したラードに砂糖を少し入れ、みじんの玉ねぎとキャラウェイシードを入れ、ここにキャベツと酢少々を入れ、汁が亡くなるまで煮る。その後少しずつさし水をしながら煮て、ワインを入れる。少し歯ごたえがあるように仕上げる。鴨に添えるとぴったりの味になる。
ついでだから、ハンガリーのカーロイ風のサラダを作る。カーロイはハンガリーの伯爵の血族のひとつで、たくさんの政治家や軍人、作家などを輩出したが、もうわからないそのうちの誰かが名前をつけた。名著『ハンガリー料理』のグンデル・カーロイもその一族。白いんげんの乾燥したのでもいいが缶詰めがあるので、これを使う。ジャガイモをゆで、ピーマン(赤と緑)と湯剥きしたトマトを薄切りにし,サラダ菜と小さく切ったピクルスを入れる。マヨネーズソースにレモン汁とマスタードを加えてあえる。これは肉の入らない、卵だけの精進サラダだ。これとキャベツサラダは木曜くらいから作っておく。
よくばってもうひとつ。羊のカッテージチーズをほぐして、バター、マスタード、オイルサーディン二匹分をほぐしたものとその脂、アンチョビ少々、少量のビールで伸ばし、刻んだあさつきを加える。このまま食べてもいいし、薄切りパンに乗せて食べてもいい。かぶや長ネギ、薄切りニンニクを添えるのもあり。


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2016年12月相棒を見てから

2016年12月1日 6:07

 

 

四時間ほど寝た

 

 

相棒を見てから四時間ほど寝た。起き出してあちこちのサイトを見に行っているうちに、腹が減って来た。ごはんにニンジンなどを入れて混ぜご飯にしたものがちょうど茶碗に一杯くらい残っていたので、小鍋に移して水を入れ、醤油とごま油と豚の三枚肉と豆板醤を入れて辛いお粥にして食べた。豆板醤大さじ一杯でけっこう辛い。明け方は辛いのがいい。いやいつもだけれど、特に、だ。


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2016年12月ザ・焼酎  12

2016年12月1日 7:44

 

 

黒麹

 

 

ザ・焼酎  12

黒麹

 沖縄泡盛の製造に用いられる麹菌。
麹とは一種のカビである。西洋は乾燥しているのでカビでなく麦芽つもり大麦のモヤシを酒造りに使うが、中国と東南アジアはカビで発酵食品を作る。中国大陸ではリゾップス系とよばれるクモノスカビなどが使われるが、日本本土ではアスペルギルス種の黄麹菌が使われる。清酒はこの黄麹菌が使われる。黒麹菌は糖化の課程でクエン酸を多量に作るので、雑菌が抑えられ、高温多湿の風土での酒造りはこれなしには難しかった。しかし、沖縄に泡盛を伝えたタイにもリゾップス系の麹しかなく、黒麹がどこで見つけ出されたのかはまったくの謎である。
薩摩藩が琉球を植民地化したのは周知の通りだが、そしてイングランドのスコットランド占領と同じくのちに焼酎技術が薩摩の栄光となるわけだが、なぜか黒麹だけは伝わらなかった。あえて伝えなかったのかも知れないし、薩人の側で、知っていても大事なことと思わなかったのかも知れない。ともかく黒麹が鹿児島に伝わったのは明治も末である。それまではどこも黄麹菌で焼酎造りをしており、とくに鹿児島など南方ではもろみが腐ってだめになることがしばしばあった。明治34年、東京帝大の学者たちが泡盛菌=黒麹を分離してそのすぐれた特性を研究し、発表。それを受けて40年代から鹿児島で黒麹が使われ、質がいいので「ハイカラ焼酎」として全九州に一遍に広まった。またそれまでは前回の麹の一部を残して次の種麹としていたが、これを機に純粋培養した種麹を買うようになり、品質は安定した。これは当時の鹿児島税務監督局技官河内源一郎の指導によるところが大きい。
河内らはさらに、泡盛菌の観察を続けるうちに、それが突然変異した白子を見つけ、大正七年に特許をとった。これは実際に使ってみると、黒麹菌と同じすぐれた性質を持っているだけでなく、黒麹を扱うときの大きななやみである、壁も天井も、服も鼻の穴も真っ黒になってしまうのを免れることができた。しかし、河内が民間の研究社であるため誰も信ぜず、十年たった河内の死後に京都大学の北原覚雄博士によってやっと証明されたいかにも日本的な経緯があった。この菌の学名は「アスペルギルス・カワチ・キタハラ」と名づけられ、通称「河内白麹菌」とよばれている。昭和25年頃から焼酎造りに普及し、やがて沖縄を除く本格焼酎のほぼ全体がこの白色変異種を使うようになった。
河内源一郎の名前は焼酎関係者には非常になじみ深いものである。というのも、その孫の婿にあたる山元政明氏が河内源一郎商店という名前で種麹屋をやっていて、現在全国の94%の蔵元がここから種麹を購入しているからである。

黒ヂョカ

 黒茶家と宛て字されることが多い。鹿児島での焼酎の席になくてはならない、素朴な、愛すべき酒器である。ヂョカの場合はやや平たい土瓶型をして蔓を撒いた取っ手がついている。ガラというのは徳利を平たくつぶしたようなもので、沖縄のカラカラとたぶん同じ起源をもつものだ。これは熊本でもよく使われるし、鹿児島にもある。ぼってりずんぐりの徳利の両側に萬歳をしたように注ぎ口がついたものもあるし、大ぶりのヂョカで四方に継ぎ口のついたものもあって、持ち直さずに注げるというが、ほとんど冗談と言っていい。カラカラの語源は「貸せ貸せ」という意味の「カラカラー」だという説と、昔は注ぎ口を仕上げに中に切り落とし、そのため酒が空になるとカラカラと音がしたという説があるようだ。ヂョカ、チョカの語源もよくわからないが、よく似た形のものを沖縄で「酎家」といっているのの変化かも知れない。
沖縄にはまたダチビン(抱き瓶)という腰に下げるための、からだの線に合わせて三日月型にカーブさせて焼いた焼酎水筒もある。宮崎にはチロリとよばれる先のとがった燗徳利がある。鹿児島でハトというには鳩に似ているせいだ。ヂョカやガラが平たいのはそのまま直火にかけて燗をつけるためだ。今ではお湯割れが普通だが、伝統的にはそのまま燗をするか、ぬるま湯で割って火にかけるかのどちらかだ。すぐ燗がつくような造りになっているのは、鹿児島人が気が短いせいもあるが、アルコールが飛ばぬようにという配慮でもある。こうした焼酎の酒器はじつにこころなごむたたずまいを持っているる
黒ヂョカの黒とは黒薩摩の黒である。佐多郎焼きとか長太郎焼きとかの昔ながらの窯がいまもこの黒薩摩を焼いている。白薩摩のチョカもあるが、これは観賞用と言った所で、生活の匂いがしない。昔なら島津専用、今なら観光客専用だ。秀吉の朝鮮侵略の結果さらってこられた陶工たちが、鹿児島では苗代川に住んで李朝の精髄を伝え続けた。司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』に描いたのは白薩摩のほうだが、民衆の生活具として作られて来たのは黒物の方が本筋である。焼酎はつややかな徳利には似合わない。芋焼酎と黒もんの組み合わせこそ、アジアの北と南の生活文化が最も幸福な出会いをした例ではないか。
黒ヂョカはダイヤメ[だれる=疲れるのをやめる]とよぶ晩酌の量的基準でもあった。これ一つがちょうど具合のいい一人分だった。みんなで飲むときはカラカラが普通で、台所でウッカタ[奥方]が酔加減を見て薄めて燗し、出した。黒ヂョカを使ったこんな飲み方もある。はじめに生で入れて、少しずつ飲んだ分だけ湯を足して行くのだ。酔いがまわるにつれて湯に近くなるのだから,至極健康的だし、けっこう飲んだ気になれるのである。


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2016年12月鞍馬口の古本屋にて

2016年12月1日 17:30

 

 

33回の『上品會写彩』が残っていた

 

 

鞍馬口の古本屋にて。

33回の『上品會写彩』が残っていた。のかまた出して来たのか。
先週四冊買ったもののもう一冊が出ていた。
きものにそれなりに興味を持って来たが、こんなに美しいものとは知らなかった。
ベッドサイドのデスクを台所に持って行ったので、そのあたりを少しきれいにして、きものの本だけ置いてみることにした。
『きもの百撰』加賀友禅由水十久作品集
B4サイズの大きな写真集。ページがいっさい入っていない本も珍しいが、分厚いアート紙で300ページはある。昭和五十年で23000円の値段。申し訳ないと恐縮しながら買ってくる。むろんまだちらりと見ただけだが、悪鬼払いとか源氏物語とか、どれをとっても引き込まれる。この人は人物が本領のようだ。子供たちの群像がどれもすばらしい。
同じB4版の日本の染色シリーズ。たくさんあった中で『庶民の染色』をとりあえず買った。刺し子の仕事着とか、紋の入った半纏とか、手拭を二つ重ねて襦袢にしたものとか、いちいち面白い。これも3800円のが100円。
平山郁夫の奥さんの美知子さんの『道はあとからついてくる』。主婦の友社。「家計簿に見る平山画伯家の足跡」のサブタイトルが面白そう。
創元社の旧版の創元選書が三冊。
柳田國男『昔話と文学』
柳宗悦 『工芸』
谷崎潤一郎『吉野葛』
吉野葛は全集版にあるがこちらのほうが読みやすそう。『工芸』のみ初めてである。三冊とも「T.SAKATA EXLIBRIS」とあってその間に山小屋のランプを手彫りしたシールが貼付けてある。どれも背表紙がほとんど真っ黒に日に焼けた昭和十一年とか十三年とかの本で、定価も一円とか一.二円とかのものである。


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2016年12月足のトレーニングもあって

2016年12月2日 18:08

 

 

自転車で出町柳に行った

 

 

 

 足のトレーニングもあって自転車で出町柳に行った。
ひとつは古本屋が目当てである。毎週木曜に鞍馬口に出ているのと同じ本屋らしいが、出張先と本拠地とは本が違っていいる。こちらも大部分100円なのだが、200円500円という本もある。幸田文全集が三冊、一冊400円で出ていた。ほぼ十分の一の値段だからこれは買いである。親父が「一回も開いてもいないで古本に出したんと違うか」といいながら苦労してはさんである伝票を取り出していた。二巻が「みそっかす」が中心、七巻が「おとうと」が中心、第十二巻が「動物のぞき」「あじの目だま」など短めのエッセー。
ちょっと珍しいのが『中国共産党最新資料集成』の1978年12月から1981年5月まで。大きな本で原価が7500円しているが、誰も買わないと見てか100円である。全二巻のうちの一冊。鄧小平・胡耀邦体制の頃である。華国峰以来一番解放感があったのがこの時期で、直接には胡錦濤時代は師匠の胡耀邦を真似ようとして江沢民の猛烈な抵抗に遇い志半ばで習に譲った。そのあたりをもう一度詳しく考えてみたい。
あとは100円の文庫ばかり。
ヴァン・ヴォークト『月のネアンデルタール人』創元推理文庫。『非A(なるえー)の世界』以来、意味論的革命を果たした月の住人と非A(非アリストテレス論理学ということ)革命を経ていない一般の地球人との闘いを描いている。この巻は読んでいなかった。白崎秀雄『北大路魯山人』中公文庫の下巻。同じ白崎の『当世畸人伝』もあった。
三田村鳶魚『大衆文芸評判記』。赤穂浪士や南国太平記、富士に立つ影、大岡政談、大菩薩峠などを取り扱っている。ただの紹介かというととんでもなくて、こてんぱんに批判している。三田村は江戸学というものを確立した人であり、それも武家の歴史ではなく庶民生活の歴史を書いた人だから、小説家がろくな時代考証もせずに筆に任せていい加減なことを書くのが我慢がならない。そこはフィクションだからと弁護したくもなるが、寛永の話としてスタートした小説がいつのまにか文化文政の話になっていたり、明治以後にかかった橋の上で大捕り物を演じたり、大佛四郎とか直木三十五とか吉川英治とか、とにかく滅茶苦茶なのだという。三田村自身がこうしたものを読むのに疲れ果てていると告白している。昭和十三年には海音寺潮五郎らの若手作家が満月会を開いて三田村の話を聞き、三田村の考証レベルに達しないものは書かないという厳しい態度がうまれてくるのである。
もう一冊林達夫の『歴史の暮方』(中公文庫)。著作集版では持っているのだが、あらためてベルグソンのことを考えたくて買った。哲学者で気功的立場に近い身体論を持っていたのはベルグソンだけで、それを取り上げたのが林である。晩年林は山口昌男に「津村喬という奴にあってみたい」と言ったそうだ。山口はそれを私に伝えず、中公の編集者に伝えた。知った時にはもう会えなかったのが残念なことである。もうひとり高橋和己も病床で「津村に会いたい」と言っていた。当時は東京にいて、彼は京都で入院していて、そのうちと言っているうちに亡くなってしまった。会いたい人には何をおいても会っておくべきだ。何を話したかったんだろうと、彼らの本を読みながらのちのち悩むことになる。


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2016年12月勉誠出版で出た

2016年12月3日 10:13

 

 

『文化大革命を問い直す』を

 

 

 

勉誠出版で出た『文化大革命を問い直す』を共著者の一人である前田年昭さんが送ってくれた。まだ二日目なので、全部読めていない。専修大学の中国文学の教授である土屋昌明さんが中心になった「中国六〇年代と世界」研究会が編集している。中国でも体制の側からは「指導者が誤って発動し、大きな災難である内乱をもたらした」とされて全否定されて過去のものとなり、中国でも日本でももう関心を持つ人がほとんどいなくなっている文化大革命が、中国の庶民に取ってどんな体験だったのかを問い直している研究会である。以前に土屋さんと前田さん、そして筑波大学の松本潤一郎さんの三人でわが家に来られて丸一日かけて「私と文革」についてインタビューを受けたことがあった。曖昧なままにしていた体験がだいぶ整理された気がした。私自身がいつか「毛沢東と文革」についての一冊の、あるいは何冊かの本を書きたいと思っている。
まず土屋さんの序文を読み、前田さんの二つの文章と、松本さんの文章を読んだ。それから土屋さんと朝浩之さん金野純さんの鼎談「運動しての文化大革命」を読み、さらに土屋さんの「小説”星火事件”」と陳継東さんの「林昭の思想変遷」を読んだ。この最後の二つは初めて知ったことで、1930年代に生まれ、50年代の反右派闘争の中で「右派」とされ、投獄を繰り返し、文革中の1969年に死刑された女性のことである。表紙にはかわいい女の子である林昭の写真と、のちに捕えられてから物が言えぬように無惨に顔に眼だけ開いたかぶりものをさせられた彼女の絵が並んでいる。蘇州の出身で北京大学の学生となり、政府の不正に声を上げ続けた。
前田さんは中国の下放についてと日本での下放について二本の文章を書いている。中国の下放は知識青年を農村に送って貧しい暮らしを体験させる伝統のことで文革期に歴史の舞台に躍り出た紅衛兵たちもまた下放を体験した。すさまじい餓えと屈辱と過酷な労働の体験だったのだが、深夜には連日中国と世界について討論を続けた。日本での下放ということを言う権利があるのは前田さん自身しかいないと言ってよいが、高校全共闘から中退して「下放」し「卸売市場雑役、山林伐採、農業、土工、建築雑役、左官手元、ペンキ屋見習い、石工手元、玉掛け、鉄筋工、船内荷役、チンドン、窓ガラス拭き、工員(鍍金)、牛丼屋店員、工員(金属刃物加工)など」を体験し、その後は写植、組版、編集、校正など本造りに関わって行く。私自身も会社に入らなかったという意味では下放なのだが、書く仕事でなんとかつないで来られたという意味では、そうしたすさまじい現場体験をしていない。前田さんはその生き方を続けながら、中国日本を問わず「次の文革」をできるだけ悲劇を少なくしながら準備して行こうとする。文化大革命が終わっていないことを教えてくれる。
まだゆっくり全体を読んでから紹介し直そう。文革は過去のことと思っている人に勧めたい。


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2016年12月天河神社から

2016年12月3日 11:45

 

 

封筒が届いた

 

 

 

天河神社から封筒が届いた。大峰本宮天河大辨財天社神璽というお札、来年の平成二十九年丁酉年辨財天暦、来年一年の神社の日程、新春の松囃神事、牛王法印神符頒布祭、鬼の宿・節分祭などの案内が入っている。五日には湯立て神事があり、十七日の牛王神事で刷る如意法印の火炎寶珠が彫られ、また新春初舞台として三番叟が奉納される。湯立て神事はもとは熱湯に手を浸して潔白な者は火傷しないという裁判の方法だったが、今日では信者にぐらぐら煮える釜から笹の葉で熱湯をかけるだけになっている。私は残念ながら一月三日に発ってフィンランドに行ってしまうので、今年も行けない。来年またぜひ天河合宿をしてみたい。


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2016年12月京都講習の宣伝です

2016年12月5日 19:23

 

 

10日はいつも通り

 

 

 

京都講習の宣伝です。
10日はいつも通り一時から背骨ゆらし、グルーミングなどをします。初心者に受けて欲しい授業ですが、その時いる方に合わせて、いろいろアドバイスをつけ加えていきます。背骨ゆらしとかスワイショウとかもう長年教えているし、改めて聞く事もないとお考えの方もいるでしょうが、どちらも基本が完成するまでに最低10年はかかりますし、その先の課題も次々に現れてきます。気功の面白さは同じ事を長年くりかえしてみないとわかりません。初めてしても一応できますが、その後ずっと変化が続いて行く所が、一番気功らしいところです。
易筋外経は易筋経の200年後にできた、「よりシンプルで、次元の高い」練習方法です。私も周稔豊先生に易筋経を習ってから30年近くやって来て、この宝の山に気づきました。名前も簡単素朴でたいしたことに思えないのですが、そしてやってみても「ただのストレッチか」と反応してしまいがちなのですが、筋肉を入り口として内気を深く感じ取り、気の力を解放しつつ、少しずつ内丹の領域に入って行くための素晴らしい方法です。体操としての易筋経は普及していますが、本来の易筋洗髄経は易筋外経をしてからやっていくととても分かりやすい。
易筋洗髄経は少しずつやっていきますが、最初の三動作をまずマスターしてください。周先生が手足の指の自発動を一番わかりやすく誘導している部分で、これを徹底体験すると六段選も八段錦も変わってきます。周稔豊の功法は易しいと誤解している方ももう一度取り組んでみてください。

六時から食事が出ます。別料金で1000円です。今回はCoutry Cooking という大きな本を買ったのでその中から作ってみます。定方先生がくださった焼酎があるので提供します。翌日の昼はいつも通りお粥で500円です。今回のお粥は広東式の及第粥という受験生のためのお粥です。

11日は午前中胡耀貞気功を研究します。八段錦をていねいにやります。ほかのいくつかの功法も体験してみます。三月の大同訪問に向けて深めて行きましょう。
午后は龐明さんの『智能気功科学概論』から「内求法と外求法」についてまず紹介します。気功の根本原理なのですが、日本にはほぼまったく紹介されず(私が文章の中で5,6回書いていますし、評伝の中にも書いていますが)知られていない物です。外求法はふつうの外的世界の科学ですが、内求法は内面の科学、自己認識の学であり、心理学的な自己認識を超えて、老子の言う「根」に達し、DNAをさかのぼり、外部の139億年の宇宙像と同じものを内部に求めて行こうとするものです。改めてこのことをきちんと伝えないといけないなと反省しています。そのほか、みなさんのやりたい、体験してみたい、復習してみたい功法も希望に応じてなんでもとりあげたいと思います。
二月からこのあと三時から露伴を読む会が始まりますが、この日はこれでおしまいです。
一月はフィンランドに行っていてありません。ぜひ十二月に参加してください。


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2016年12月大徳寺の東南の角の

2016年12月5日 20:03

 

 

交差点からすぐのところに

 

 

 

大徳寺の東南の角の交差点からすぐのところに「ひふみ」といううどん屋さんがある。私の所からは北大路まで上がって次の交差点まで行って角の二件目だからめっぽう近い。そこが質が高い。長い事外国に行ったりしていて、まず行きたい店というと、ここである。京都にうまいうどん屋は少なからずあろうが、とりあえずここで満足している。そんなに通っているわけでもなく、自分で料理しないのはひと月に一回というくらいだが、そのうちの半分以上行きたくなるのがここである。
エビ天鍋焼きうどんが1100円、エビ天が入ってないと900円、他人うどんが900円、梅うどん、にしんうどんが850円、山かけうどんが850円、一番安いのが玉子うどん、月見うどんで600円と言った所。天ぷら定食が1300円、冷やしきつねが650円、冷やし山かけが800円。あと切り干し大根定食とかひじき定食とか、何種類かの特別うどんもある。
たまに食べるとなると、鍋焼きである。まず太いうどんか細うどんかを聞かれる。細うどんはそばの二三倍の太さである。ここはそばは一切置いていない。どちらも注文を聞いてから打ち、茹でるのだが、細うどんは少し早い。でも急ぐ人は余りこういう店に来ない。急ぐから細ではなく、出しをしみ込ませたいときは細、うどん自体をじっくり味わいたければ太という感じだ。どちらもいいが、鍋焼きは細にする事が多い。鍋が熱くなっているので、小さな丼に取って食べる。まず上に乗っているエビ天の衣のぱりっとした所を半分食べる。あとのエビ天は衣を汁に漬けて最後にする。かまぼこもねぎも鶏もたっぷり。椎茸の煮方がていねいだ。小丼に7,8回でまだ余るほどだが、一回ごとに風景が変わって行くのがほかのうどんにない楽しみだ。唐辛子と山椒を少しずつ増やして行く。そして十回ほどで汁を飲み干すまで、味わい尽くす。時々知的興味が出てくるとほかのうどんに浮気するが、結局鍋焼きに落ちつくのである。


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2016年12月カナート洛北店にいった

2016年12月6日 21:36

 

 

堀川から烏丸を越え河原町の北方の

 

 

 

カナート洛北店にいった。堀川から烏丸を越え河原町の北方の呼び名である下鴨本通を過ぎて、川端通まで。荷物がなければずっと平らな道で楽勝なのだが、いつもカナートでたくさん買い込んでしまうので、帰り道はけっこう苦労することになる。今日の目的は土曜日のアメリカ料理の素材とついでに切れているものを補充することで、生鮮食品は買わない。缶詰やチーズが狙いだ。「やまや」という地下の酒屋にだけ行く。酒の揃えもよく、まともな焼酎も安くてちゃんと飲めるチリワインやアフリカワインも置いているが、今日はそれまで買うと運搬が破綻するので、見ない。輸入食品をよく揃えている。中華材料もタイ料理、インド料理も,イタリア料理も普通のスーパーには置いてないものがあるので、わざわざここまで来るのである。
中華で言うと、まず腐乳である。台湾のものだが、質が良くて安いものが置いてある。黄日香の辣醤腐乳と紅腐乳が358円である。一人ならひと瓶でひと月楽に持つ。生ニンニクのペーストのチューブ入りと五香粉の割合大きいのがなんと170円で出ていたので買う。まだ三月に北京で買って来たものが半分あるが、予備があれば心強い。ロレアのアンチョビソースとセビリアのアンチョビペーストが375円と321円。ヨーロッパ各国料理にもトルコやモロッコの料理にもよく使う。
ドンシモンの1リットルのフルーツジュースが149円。これもここしかない。オレンジを二個、グレープフルーツを一個、パインを一個買う。これだけで四キロだ。もうひとつお目当ては豆の缶詰とオリーブの缶詰、瓶詰めだ。白いんげんが105円で出ているから二つ、レッドキドニービーンズがやっぱり105円で三つ、ボロッティビーンズが1140円。ダイストマトも105円のを三つ、セビリアの種抜きオリーブが192円、黒オリーブが105円。
ボストン風のクラムチャウダーを作ろうかと思っていたのだが、クラムの缶詰がないので、あつさり切り替えて、スモークオイスターに切り替えた。缶詰三個で540円。あとはレッドチェダーの三ポンドくらいある塊が750円、クリームチーズ二個とブリーの三点で972円、カットしたとろけるチーズを三袋972円が一番高い買物。
あとは韓国のキムチ麺とか汁なし冷麺とかちょっと買う。
隣のパン屋(ドンク)で焼きたてのフランスパンがおいしそうだったが、これだとどうせつぶれるし、あきらめる。上にスタバとかあるが、寄る気もしない。背中に10キロ、荷台に20キロという感じで、よれよれで帰る。帰りは高野川や賀茂川の緩やかな橋が乗ったままでは上がれない。帰ってよほど疲れたと見え、二時間ほど寝てしまった。


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2016年12月アイヌの踊りと気功

2016年12月7日 10:22

 

 

私が初めてアイヌ舞踊にふれたのは

 

 

 

アイヌの踊りと気功
別冊宝島・アイヌから
1993.8脈脈

 私が初めてアイヌ舞踊にふれたのは、1988年に開かれた札幌の食の祭典のアイヌモシリ館でのことだった。そのときは旭川の伝統舞踊のチームが、いわばレストランのショータイムにいくつか紹介してくれた形だったのだが、女性たちが早いテンポで踊る鶴や雨つばめの踊りや、刀を構えた男性がリードしての輪踊りに魅せられた。黒い長い髪をほどいた女性たちが首を前後に打ち振り、髪の毛が地面に届かんばかりにして「風に吹かれる松の木」を演ずるのにもびっくりした。本来は神の前での体力比べの意味があって、倒れるまでやったのだという。
どれもとても力強い。気功の中に単純な動作を繰り返して行って脳を「非日常化」する方法がいろいろあるが、それに似ていると思った。そして中でも興味を引かれたのが動物の模倣である。
中国の気功には、さまざまな動物模倣がある。二千年以前の五禽戯は虎熊猿鹿鶴の模倣で、後代の気功、武術に多くな影響を与えた。亀蛇気功という爬虫類の模倣の系統もある.魚や虫もある。こんにち百万単位の愛好者のいる鶴翔庄や大雁功は鶏の気功の現代的なヴァリエーションである。
これらは動物の真似をしてふだん「人間的」な暮らしではあまり使わない筋肉などを動かすことが健康にいいのだと説明されることが多いが、アフリカや中南米、シベリアなどの至る所にある動物霊を呼び出すシャマニズムの拡がりの中でこれを考えてみると、どうも運動だけの問題ではなく、「動物になる」ことを通じて動物のパワーを借りてくる、あるいは動物と深いコミュニケーションをするということとかかわりがありそうだ。マイケル・ハーナーが『シャーマンへの道』で紹介している中米のシャマン医師の場合も、病人とともに夢を見て、守護動物霊を探して連れてくる事で病気を治すのである。
アイヌの動物舞踊には、五禽戯のもっと原型に近いものがウラル・アルタイの狩猟民族の中から形成されて来たころの痕跡が残っているのかも知れない、と鶴の声を挙げてはばたきながら回る鶴の舞を見ながら思ったのだった。日本列島の中で気功を考えて行くと、アイヌの自然を髪として尊敬する文化をもっと知らないと話にならないと考えるようになり、四年間にわたる「アイヌ自然医学の旅」をすることになったのも、この時の舞踊の強烈な印象がひとつの原因だつた。
アイヌ自然医学というものは、体系だった形のあるものとしては、ない。今までで一番詳しく日本語の文字になったのは青木愛子フチが語って長井博氏がまとめた『ウパシクマ』(樹心社)である。そこには助産の技術を中心に、薬草、整体手技、そしてシャマン的な治療のびっくりするほど奥行きのある世界が描かれていた。こうした伝承技術をもっと知りたいということと、伝統的な食生活の医食同源の知恵や、運動療法でもあり髪に帰依する心の癒しでもある舞踊までをひとつの視野に収めてみたくて「アイヌ自然医学」と言い始めたのである。土地の人自身が「そんなものあったか?」という感じだったり、シャマン的な送り深い世界については迷信と思われないかと警戒してなかなか語り合えなかったりもしたが、少しずつ仲良くなるにつれて、言わず語らずで一種ホリスティックな生活即医療の世界が見えるようになって来た。そうなると逆にそれを言葉でまとめていくのが難しく、四年間の記録はまだまとめられないでいる。
90年の夏の舟下しの祭りのときだったか、二風谷のチセ(伝統的な小屋)で囲炉裏のまわりを一列に囲んでホリッパという踊りをした。手拍子を打ってからだを上下させながら左足を一歩ずつ踏み出してまわっていく単純な踊りだが、誰でもすぐに参加して一緒に踊る事ができ、実に楽しい。上下させると言っても飛び上がったり伸び上がったりでなく、すつと大地に沈んで大地の気をポンプで汲み上げてくるような感覚だった。無心に手を叩いてまわっているうちに、輪の中心に巨大な気の球が出来てゆったりと回転している感じがしてきた。
この時に請われて五禽戯を見せた。酒が入っていたので虎だ猿だとしているうちにみじめなほど息切れがしてしまったが、皆とても興味を持ってくれた。残念ながら熊や猿の踊りは伝承されていないが、昔はあったかも知れないという。習いたい、という人も出て来て、それ以来「動物ごっこのお兄さん」にされてしまった。
四回目の旅で千歳のたくさんのフチが集まってくれたのを訪ねたとき、よし、踊ろうということになって、何がなんだか分からぬうちに刀を持たされ、頭に藁で作った鉢巻きのようなものを乗せられて、ずん、ずんと踏みながら踊るように言われた。刀はけっこう重いし、腕を伸ばして立てておくのがけっこうつらい。ずん、と踏んでいるくらいはよかったが、片足の動作がずっと続いた。「あんたはその大きさにしては身軽で驚いたよ。いつだったら15分も続かないのにえんえんと30分以上も踊ったのは初めてだ。フチたちもうれしかったんだな」と土地の若い衆に言われた。
もっといろんな踊りを系統的に習ってみたい、という気持ちがある。なまじの気功法よりも「気功状態」になるのに役に立つ。トム・ラブランク[ラコタ・インディアンの友人]がいつか大阪でやってくれた太鼓での輪踊りもよく似ていたので、そういう単純で力強く、気を強めてくれる踊りはいろいろな先住民族によく似た形であるのかも知れない。しかしまずは仲良くなる事が先決だ。千歳では参加したみんなでフチたちにマッサージしたり手当てしたりして元気になってもらった。双方がもっているもので癒し合う相互関係の中で学びも継承もあるのだと改めて思っている。


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2016年12月ザ・焼酎 焼酎事典から その13

2016年12月8日 4:12

 

 

減圧蒸留

 

 

 

ザ・焼酎 焼酎事典から その13

減圧蒸留

 焼酎の「ニューウェーブ」の立役者がこの減圧蒸留。山の上で百度以下で湯が湧くのと同じ理屈で気圧が下がれば沸点が低くなる。蒸留機の中を真空に近く減圧して加熱すると,微量なエキス分を残したまま低温でアルコール分だけを取り出す事が出来る。灘の生酒で知られる酒造がこの減圧蒸留の焼酎を生焼酎として売り出し、那覇辺りのバーでさえ「生ビールと同じ生の泡盛なんですって」という誤解が行き渡った。これはもともと甲類のための器械で純粋に近いアルコールを取るためのものだから「生」とは何の関係もない。たしかに雑味の少ない、きれいな、フーゼル油のない焼酎が出来るが、同時に焼酎らしい風味もなくなる。球磨焼酎はすでに九割が減圧と言われ、球磨焼酎特有の重い香りを除くのに効果があるが,そのかなりの部分がライトに過ぎて、麦焼酎の軽いものに似て来ている。

健康問題

 健康に関する古典の中では焼酎は概して評判がよくない。よく知られるように貝原益軒の『養生訓』には「大毒あり、多く飲むべからず」と書いてあるし、『本朝食鑑』にも「誠ニ濃烈、人ヲ害スル事少カラズ」とマイナス面ばかり強調されているのは呑んべにとっては不満である。食い物については万事大らかな中国人が酒については抑制的だ。日本のように「酒の上のこと」ですませる甘え社会ではないから、麻薬的要素のある酒に警告が先に立つのかも知れない。中国医学の古典がおおむね酒に否定的なのを写して日本の健康書のトーンも決まっている。しかし『本草綱目』でも悪くいっているだけではなくて、「血行を滑らかにし気を養い、胃を温め寒を退ける」と書いている。もっとも焼酎の事ではなく老酒のことだが。上等のスピリッツは今でも庶民の口に入らず、幹部の宴会用であるから古い時代にそういい酒があった訳もない事も考えておくべきだろう。
酒はからだの面から言うと「食品」であり、同時に「薬品」でもある。中国では上薬、中薬、下薬という区別をする。よく効く薬というのは必ず副作用があって危険なので、どうしても必要な時に飲むべきであり、専門家の厳格な管理のもとに用いなければならないので、これは「下薬」である。これが西洋医学で言う薬品に当たる。では「上薬とは何かというと、日常家庭で食べ続けて薬効があり、害がないものを言う。キャベツが胃によいといったことは、大昔の医学書から書いてある。最近また中国で食材供給体制の改善とともにこうした「食療」への関心が高まり、『家庭医学手册』の類いの本が次々に出されているが、それらは日常の野菜や穀物、肉や魚がどんな薬効を持っているか、体質によってどんな食べ方をすればよいかの手引きであって、これが予防医学の本道、「医食同源」である。酒の特徴は「下薬」、急激な効果のある薬品でありながら、「上薬として日常飲まれていることにあり、そこに難しさがある。自己管理能力を問われる所でもある。
アルコールは一グラム当たり七カロリーあり、糖質や蛋白質の四カロリーをはるかに上回り、脂肪の九カロリーに次ぐ。醸造酒にはアルコール以外にかなりの糖分が含まれていて、ビールで言えば一本230カロリーの三分の一は糖分によるもの。焼酎はほぼアルコールのカロリーのみだ。
焼酎は二日酔いせず、酔い覚めがさわやかであるとはよく言われる事だが,二日酔いの原因になる血中のアセトアルデヒドの残留については他の酒との違いは認められない。ただ考えられる事は、本格焼酎の場合、一般の清酒のように添加物、砂糖、アルコールの混入がないか、少ないので、からだの排泄機能・免疫機能を弱めないこと、またお湯割り水割りで飲むことが多いのでその分からだへの負担は少ないということだ。チューハイもアルコール分が低く「ヘルシー」であるが糖分や果汁味の化学薬品を添加して飲み続けるのは感心できない。
焼酎発ガン説については、針小棒大の報道と言う感もあり、多量の酒を飲み続ければ肝臓がんが出やすいのは焼酎にかぎったことではない。
むしろ妊娠中の飲酒による異常出産のほうが問題だ。アルコールは胎児の脳を直撃して急性アルコール中毒を引き起こすので先天的障害を生みやすい。これは絶対に逃れ用のない殺人であるから、妊娠中の飲酒はなんであれ避けるべきだ。普通はからだが欲しがらなくなるはずだが,ストレスから無理に飲む場合がしばしばある。
胃潰瘍になると酒をやめなさいと医者はまず言うが、これは胃酸が増加するためである。潰瘍は心因性のものであるから適量の酒で気分をほぐすことは逆に予防になる。酒には血管拡張作用があるので狭心症の治療に用いられて実際に効果があるが、主として不安の除去が心筋収縮の定価につながると見られている。
肝硬変による死亡は統計的には南欧の葡萄酒菌にとくに高い。他の酒も大量に飲むとアルコール性肝炎になることがあり、それを繰り返していると肝硬変になりやすい。カロリーが高いので糖尿、肥満の原因になりやすい。この天では醸造酒より焼酎は罪が軽い。
「おいしいと感ずる時以外飲まない」のが身を守る最良の方法である。おいしくないのに付き合いで飲んだり、さみしいから飲んだりというのは「大毒」につながる。焼酎どころには多量の酒をゲームとして無理強いしたりすることがあったが、お湯で割った質のいい本格焼酎をマイペースで飲むという個人主義時代に向かうべきだろう。


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2016年12月アメリカの田舎料理

2016年12月8日 10:41

 

 

トランプさんが好むような

 

 

 

アメリカの田舎料理
トランプさんが好むような安いベーシックな料理です。
チリ・コン・カルネはもともとメキシコ料理だが、ここではバァファロー肉を使う騎兵隊風のメニューです。ただむろんバファローは手に入らないので、普通の合い挽きでしています。クリームチーズのディップは蟹を二缶使うのですが、100円のアボカドですませています。ニューイングランド風のクラムチャウダーはクラムが手に入らなかったので、スモーク・オイスターで作っています。
土曜日はあまり人が来そうにないから、小人数の宴会です。余ったら日曜にも出しましょう。

◽️フェスティバル・チーズ・スプレッド
チェダーチーズとクリームチーズとニンニクで作ったディップをクラッカーで。
◽️アボカドクリームチーズのディップ
つぶしたアボガドとクリームチーズ、みじんの玉ねぎ。チップス。バッファロー
◽️ミニハンバーガー
小さいパンをまだ探していない。わさびと酢漬け胡瓜を効かして。
◽️牡蠣のチャウダー
ポテトとオニオン。ミルクと小麦粉を使ったソースにスモークしたオイスター。
◽️バッファロー・チリ・コン・カルネ
バッファロー肉はネットで探す限り日本では手に入らないようです。牛豚合い挽きで代用。キドニービーンズ(赤いんげん)ピントビーンズ(まだらのうずら豆)をトマト缶とグリーンペッパー、チリ・パウダーで煮て行きます。
◽️カリフラワー・グラタン
カリフラワーとハムのチーズたっぷりのグラタン
◽️赤キャベツ、ビーツ、りんごのスウィートアンドサワー
赤ワイン酢、砂糖少々。
◽️苺のクリーム・パフェ
ホイップクリームと苺で。ミントを乗せて。


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2016年12月古本市

2016年12月8日 15:52

 

 

先週手に入れた染織関連の本が

 

 

 

古本市。先週手に入れた染織関連の本があまりに素晴らしかったので、売れ残りを探して早めに行った。お目当てのものはもうなかった。ここ以外に六ヶ所回っているのだから、売れてしまって、そうそうあるわけがない。京都国立博物館が染織の展示会をしたときのカタログがあった。カラー写真は10枚程度だが詳しい歴史とか概況が貴重だ。『香』という一文字のタイトルのB4版の本があった。目次を見てその豊かさにびっくり。
第一章 香りの誘い
森林の香り、花の香り、潮の香り、女の香りなど
第二章 香りをしのぶ
白檀、梅花、伽羅などの香の世界
第三章 香りを映す
桜、藤、菊、梅の花の装い
第四章 香りを味わう
伊勢海老、あわび、松茸、すずきなど香り中心の料理
第五章 香りをまとう
衣服や装飾、ガラスまで。香水論も。
第六章 香りでもてなす
季節ごとの香りの演出
第七章 香りを生きる
茶道、書道、華道、香道の達人に取材
第八章 香りをたずねる
ハーブとスパイスの辞典。
全ページカラーである。中から手紙が出て来て資生堂の企画で小学館の編集スタッフが作成したらしい。値段がつけば20000円くらいの本だろう。
『The World of Cats』もA4版141pの写真集。これは楽しい。
それくらいでお兄さんにあずけに行ってまた見ていたら、なんとどっと出品が増えていた。おやじさんが隠していて、時々出してくるのだろう。一日何度かこなければいけない話になる。
前回と同じB4版の『きもの百撰』が二巻。これは個人の作家ではなく、京都工芸染匠協同組合の第四回と第五回の友禅手描染作品競技大会の出品作品。京都彩芸美術協同組合という組織の『彩芸展』というカタログも着物と帯だけのもの。あと柳選というわけのわからないもの。着物だけがひたすら美しい。きものの本だけでもうひとまとまりになってしまった。ゆっくりこれらだけを眺めるためのコーナーを作りたい。
もう一冊池澤夏樹の『骨は珊瑚、眼は真珠』(文芸春秋)を買った。今日は締て900円。


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2016年12月ザ・焼酎 焼酎ものしり辞典 14

2016年12月9日 5:53

 

 

原料表示

 

 

 

ザ・焼酎
焼酎ものしり辞典 14

原料表示

 自分の食べたり飲んだりするものが、見かけはどうあれ何を原料としているかを知りたくない人はいないだろう。いま出回っているイクラのかなりの部分は日本カーバイトが合成したものである[現在の商品リストには掲載されていないようだ。全面中止かどうかも不明。後に関連記事を引用しておく]。アイスクリームにしても、木材パルプが原料の重要な要素を占めるという[これも文末引用参照]。主として消費者運動の努力でカニ蒲鉾もカニ足といったまぎらわしい表示をしてはいけないといつたルールが次第に出来て来ている。日本酒の場合でも、なるべく実態を表示して欲しい消費者と、なるべく隠しておきたいメーカーの間の微妙な力関係で徐々に表示のルールを作って来た。たとえば「本醸造」というのは砂糖を添加していなくて、アルコール添加も普通の半分以下の25%以下であるものしかラベルに使えない。表示していないよりずっとましだが、本来の表紙世とは「アルコール25%添加酒」と名乗ることであって、名乗らずにもっと高級な品だと見せようというのは商道をはずれている。最近は米ぬか糖化液を添加して「純米」と名乗ったりが出て来ている。
焼酎の表示はまったく立ち後れていて、まだなんのルールもない。ワインと焼酎は何を原料にしても2%までは何を添加しても表示義務はないことから業界にさまざまな甘えが出て来ている。砂糖添加問題もその一つだ。減圧か常圧かを表示するだけで愛好者はずいぶん選択しやすくなる。一番の問題は主原料の表示。ごま焼酎、サフラン焼酎などと行ってもそれだけでモロミが出来る訳はないので、風味を添えている添加物を主原料のように表示していることになる。管理規制のためでなく、自らの品質維持・工場のために、業界自らがルール作りをしていくべきで、焼酎ブームの定着のためにはそれが不可欠である。[公正競争規約][珍素材焼酎]参照。

《資料》人造イクラについて
世界で初めて、富山県魚津市の日本カーバイド工業が人造イクラの生産に成功した。収穫量の少ない天然物の代わりとして、サラダ油と海草エキスを主原料とした人造イクラも出回ったことがある。皮にはカラギーナンやアルギン酸ナトリウムなどが用いられる。
2013.10.16matotame10
現在の日本カーバイト工業の製品リストには掲載されていない。製造を中止したのか
子会社などに移したのかははっきりしない。

《資料》木材繊維のアイスクリーム応用
安定剤による冷菓の保形性向上は、添加量を増加することにより達成できるが、期待する効果を実現する程度まで添加すると冷菓の食感が糊様になり、風味を著しく損なう。
低HLB乳化剤による冷菓の保形性向上も、添加量を増加することにより達成できるが、このような乳化剤には特有の味と匂いがあるため、期待する効果を実現する程度まで添加すると風味が低下する。それに加え、低HLB乳化剤は乳化破壊を誘因し、フリージング中にチャーニングが生じ易くなる。なお、チャーニングとは、複数の脂肪球が一つに合わさって塊に成長し、大きなものでは目に見えるほどの塊(バター粒)に成長した状態を言い、冷菓の口溶け悪化、ざらつきの原因となり、著しく冷菓の食感を悪化させてしまう。
本発明者らは、下記のパラメータを有する植物由来の微小繊維状セルロースを、冷菓の原料ミックス中に含ませることにより、他の特性に悪影響を与えずに冷菓の形状維持時間(保形性)を期待する程度まで十分長くできることを見出し、本発明をするに至った。
なお、本発明における後述の『微小繊維状セルロース』は、以下後述する各パラメータにより解繊度が明確に異なる2種の微小繊維状セルロースを指し、解繊度の低い「微小繊維状セルロース」を「微小繊維状セルロースD規格」とし、解繊度の高い「微小繊維状セルロース」を「微小繊維状セルロースK規格」と呼称を区別する。

公正競争規約

 ある商品の広告、表示等について、公正取引委員会が指導して業界に作らせる規則。自主規制のタテマエになっているが、罰則、制裁をともない、法律に準ずる規制力がある。世界各国、ことにヨーロッパは酒の品質維持のために実に厳しいルールを作っているが、その点で野放しに近い日本ではこれが大きな意味を持っている。焼酎に関しては1983年11月認定されて官報に告示された「泡盛の表示に関する公正競争規約」が先駆的な意義を持つものである。その直接の動機は鹿児島の大手酒造が泡盛製造を始めたことへの規制にあったが、フェアプレイの要求は自分たちにも帰って来て、泡盛の品質は著しく向上した。品質の維持・工場のためにはまずルール策定という声が裏書きされた形だ。同時に蒸留法、濾過法等も表示できればもっとよかった。焼酎全体が見習いたいもの。


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2016年12月烏丸の京都シネマで

2016年12月10日 3:17

 

 

「躍る旅人-能楽師・津村禮次郎の肖像」を見てきた

 

 

 

 烏丸の京都シネマで「躍る旅人-能楽師・津村禮次郎の肖像」を見てきた。観世流の能楽師である津村は三年前に70歳を過ぎて新しいことに挑戦すると宣言し、バレエやコンテンポラリーダンスなどとの競演に取り組む。孫のような人たちとともに稽古し、虚心に教えてもらい、能楽の可能性を広げて行こうとする。能の世界にいればあらゆる面で大先達であり、巨匠として振る舞っていられるが、あえてその枠をはずして、若いアーティストに学んでいこうとする。60歳はひとつの完成点だが、70歳は新しい自分への通過点だという。能は互いに接触しない。ダンスは二人でからみ、また離れていく。それだけでも大きな文化の違いだ。東北の古寺での若者たちへの伝授。そしてバリ島でのバリ舞踊との交流。互いに仮面劇だったり、手足の細部に著しい類似点があったり、バリと日本列島をつなぐ文化の大道に世阿弥も津村もいる。もともとの田楽は旅する河原乞食によってなされた。コンテンポラリーとの接点を求め、バリダンスとの通路をたどる津村は、能をもういちど始まりに突き返している。監督三宅流は一人で撮影し、録音して300時間の映像を撮り、そこから110分の凝縮した映像を編集した。躍る旅人は躍動感と津村の始原への旅を象徴するいいタイトルだ。


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2016年12月準備はほぼ終えた

2016年12月10日 3:43

 

 

ディップなしにはアメリカのパーティはすまない

 

 

 

 準備はほぼ終えた。
ディップなしにはアメリカのパーティはすまない。スーパーにもさまざまなトマトのディップやアボカドのディップの瓶詰めがあり、それとコーンチップだけで立派な前菜になるが、こうして一手間かけて作ると、天と地ほどの違いがあることがわかる。ひとつはチェダーチーズを湯煎して融かし、バター、クリームチーズ、ガーリックなどを混ぜる。ウスターソースがいろいろなものに登場するが、わが家には用意がないので省略である。アボカドをつぶしクリームチーズと玉ねぎのみじん、ホースラディッシュの代わりにジンジャーを入れたのはもうひとつのディップ。ポテトチップスで十分だが,コーンチップスがあればもっといい。クラッカーや薄切りフランスパンを揚げたり焼いたりしたものでもうまい。
ミニハンバーグはおいしくできた。フライパンで焼いてからオーブンで焼き上げる。小さいバーガーブレッドが手に入らなかったので、こぶりの黒糖パンを買って、レタス、薄切りチーズとともに乗せる。
チャウダーはクラムでなしにスモークオイスターで、牛乳味で作る。うまい。明日小麦粉でとろっとさせてスパイスを整える。
チリ・コン・カルネは夕飯に試食した。豆と挽肉のトマト煮込みがひたすら好きだ。グリーンペッパーを使わずに豆板醤を使っている。四川風チリだ。
カリフラワーのグラタンはもう出来ていて、食べる前に温め直すだけだ。
赤キャベツと赤かぶとりんごのサラダは、砂糖を入れろというので普通に塩とワイン酢で味を整えてからちょっと砂糖を入れてみたら確かにおいしくなった。
ストローベリーは食べる人数によって盛り付けが変わる。銘々のガラス鉢でもいいくらいだ。
定方さんにもらった焼酎を出しますと書いたが、このメニューは焼酎は合わないかも。ポルトガルの路地の風景を描いた箱の赤ワイン(二箱目だ)の方がいいかも知れない。


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2016年12月食べものの薬効(1)

2016年12月12日 6:19

 

 

大冊『中華養生薬膳大全』から

 

 

 

食べものの薬効(1)
大冊『中華養生薬膳大全』から
中国では日常の食べものも薬と見なして、家庭でもそれぞれの体質にあったものを使いこなしています。本屋に行けばその種の食べもの辞典が並んでいて大きな書店では百種類を越える場合もあります。『中華養生薬膳大全』はその中でも大きな、信頼できる本のひとつです。第一章が薬膳概論でこれはあとで紹介します。第二章は薬膳原料で食物の薬膳と応用と中医薬の日常薬膳への応用、第三章が四季の養生薬膳、第四章が五臓を整える薬膳、第五章は「老化を遅らせる」「心を安定させる」「眼がよくなる」「やせる」など課題別の滋補養生薬膳、第六章がありふれた病気を薬膳で治すということで風邪から肝炎、便秘、糖尿など45種の病気があがっています。
中国には「医食同源」「食薬同源」の言葉があり、なつめ、蓮の実、山芋、さんざし、梨、生姜、ねぎなどたくさんの食べものが薬としての観点で使われますし、いくつかの中医薬は日常の食べものとしても使われます。たとえばクコ、何首烏、冬草夏虫、ハトムギ、金銀花、西洋人参等です。
中医薬には四気、五味、帰経の区別があります。
四気とは寒、涼、温、熱の四つの区別です。熱を下げたい時には寒性、涼性の食物を選びます。熱性の人に合う食物は緑豆、せり、クコ、柿、梨、冬瓜、すいか、鴨肉などで、これらには清熱(熱さまし)生津(唾液を増やす)解暑(暑さをやわらげる)止渇(のどの渇きを潤す)作用があります。これに反して虚寒体質、陽気不足の人には羊肉、犬の肉、雀、唐辛子、生姜,茴香、肉桂(シナモン)、焼酎等の温性の食物をとるということです。 
五味とは食べものの持っている辛、甘、酸、苦、咸(塩辛い)の五種の味覚のことです。実際には淡味、渋味、旨味などもあるのですが、この五つに代表させています。たとえば辛味は胃腸の蠕動を促進し、消化液の分泌を促し,血液循環と新陳代謝を促すので、風寒を散らしたり経絡を疎通させるのを促します。唐辛子、生姜、葱、しそなどの食品は寒くて気が滞った状態やそこからの痛みを解消するのに役立ちます。焼酎も「辛散風寒、温通血脈」に役立ちます。甘いものは補益強壮作用があり、気虚、血虚、陰虚等の人に効果的です。甘いものは気血を補充し筋肉と心理的緊張を取り除きますが、食べ過ぎると肥満、心臓血管の病、動脈硬化等を引き起こしも糖尿病患者にも禁忌です。それぞれ食べ過ぎると害があります。その人に合った五味のバランスとともに、偏って食べ過ぎないことが大切です。
もうひとつ、帰経というのは、食べた時にどの経絡に効果を及ぼすかということです。例えば肺が虚して喘息がちだという人には、医師は百合、山芋、ぎんなん、白木耳などを食べて、栗や蓮の実,ナツメ等は避けるように言います。前者は「肺経に帰する」もので後者は肺以外の経絡に帰するものだからです。
うるち米を例に取りましょう。性味帰経として「味甘、性平、入肺、脾、胃経」とあります。性平とは偏りがない場合です。効用として「滋陰潤肺、健脾和胃。煩熱口渇(熱があって口が渇く)、脾虚瀉泄(脾が弱く下痢しがち)、消化不良など」の人に向くとあります。インド米と日本米の違いについても説明しています。内が寒い人は少なく食べた方がいい、食べ過ぎると大便が乾燥しやすいなどと書いてあります。もちごめは「味甘、性温、入脾、胃、肺経」と順序が変わっています。性質もうるちは平でしたが、もちごめは温です。「補中益気、治消渇、自汗、便泄」と功能があります。小麦は「味甘、性涼。入心、脾、腎経」と米とはかなり違ってきます。功能には「養心、益腎、除熱、止渇。腫瘍や外傷出血、やけどに効果。湿熱の病的な状態にはパンは食べてはいけない」と書いてあります。


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2016年12月2016年度を振返って

2016年12月13日 4:37

 

 

気功の世界での10大ニュース

 

 

 

2016年度を振返って

気功の世界での10大ニュース

 どうしてもほとんどが気功文化研究所の活動になってしまうのはご容赦ください。私の目から見てこれ以上に大事な、記憶に残すべきことが気功界に起きているとは思えません。
①胡耀貞研究会が仕切り直して丹学研究会として呼びかけられる
胡耀貞研究会は今年三月に大同から帰国してすぐに呼びかけたのですが、ほとんど反応はなく、二三人の方から入りたいという申し出があっただけなので、少し待ってくださいにしていました。濱野先生との共同作業が進んで来た所で、丹学研究会として胡耀貞だけでなく陳攖寧、王沐、胡孚琛、陳兵、李遠国、胡海牙などの現代の内丹研究家と、魏伯陽、鐘離権、呂洞賓、張伯端、邱処机、陳摶、張三丰などを研究対象にしていこうと、改めてよびかけました。今度はきちんと会費も取って、翻訳費等にまわしていこうと考えています。
②易筋洗髄経及び易筋外経が発表される
周稔豊のテキストである易筋洗髄経及び易筋外経をきちんと訳してみると、とんでもない深い内容が含まれていました。従来は動きだけをたどって来ただけですが,この洗髄と結びついたバージョンをきちんとやってみて、この気功の健身気功などとはまったく違う深さが理解できました。とくに内丹の入り口にもなる外経は大発見でした。まずこれを普及したいと思っています。
③特に東京・福島方面でのがん患者激増。郭林気功の見直し進む
東京方面で何人か若い人が急にがんが発見されて進行し、熱心に気功をシテにもかかわらず若くして亡くなっていきました。福島の子供たちのガンも深刻だし、東京周辺では考えられないほどのガン患者の発病が迫って来ています。これに対して郭林気功を見直して、より容易く取っ付きやすいやりかたに修正発展させる試みをいろいろ初めています。
④胡麗娟五禽戯を教える
三月大同は五禽戯を習いました。まだ全部を伝えることが出来ませんが、この自発五禽戯は日本の気功を新しいレベルに引き上げてくれるものだという強い感想をもっています。       
⑤北京で胡耀貞研究会と交流
大同の帰りに北京で出来たばかりの老師道教研究会の中の胡耀貞研究会の皆さんと一夜交流して、日本での丹学研究会との提携を決めました。今後中国と日本で合同の研究会を年々開催していく予定です。
⑥国際健身気功協会新しい目標を掲げる
国際健身気功協会は公然と路線転換をしたわけではないが、2015年頃から、導引気功の枠内で垣根を設けることをやめ、技術的にもレベルを揚げようとしているだけでなく、存思内丹の世界に踏み込む講義を増やして来た。総合的に気功を論じようとする気運はフランス,ドイツ、フィンランドなどでの動向とも結びついている。
⑦フィンランド、エストニアで周気功、胡気功と並んで郭林気功の連続講義始まる
津村は基本的に年二回フィンランド,エストニアを訪れているが、そこでは胡耀貞・陳攖寧の内丹気功、周稔豊の新発見素材とともに、郭林気功の新しい体系化を求めて、十回の講座を何年かにわたって作ろうとしている。
⑧東京、大阪で健身気功協会主催の定方先生による易経講義開催
日本健身気功協会の今年度の研究会は東京、大阪とも定方昭夫先生を招いて易の話をうかがった。はじめて触れる人も多く、みな大きな刺激を受けた。易と気功、風水と気功を結びつけて大きく理解していく気運につながっていくだろう。
⑨東京、京都で露伴を読む会の準備進む
露伴全集の中にはその何分の一かが道教、仙学の研究に捧げられており、小説にもその世界に遊んだものがとても多い。だがこれまでは露伴の道教研究というものがまとめて読まれ、評価されるということがなかった。露伴の朗読会を東京と京都で進めながら、露伴研究の盛り上がりを期していきたい。
⑩京都で人体科学会の一環として気功シンポジウム開かる
十二月初めに京都で開かれた人体科学会の総会で気功の分科会が持たれた。定方会長が司会をし、津村と星野稔の30分の対談があり、そのあとに何人か報告、コメントし、最後に鳥飼さんが陳摶の二十四節気功から二つ紹介した。まあ余り論議は深められなかったが、久々の出会いとなった。


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2016年12月【津村喬物語】

2016年12月13日 11:15

 

 

今週の土曜日

 

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【津村喬物語】を今週の土曜日(12/17)の14:00~18:00、東京の《ほびっと村学校》で開きます。
津村さんが生まれた高野家の父母のことから幼少期。
父・實さんの病気治療のため高校1年のときに、国交回復していない中国に長期滞在したこと。治療の一環で太極拳と気功に出会う。
早稲田大学に入っての全共闘運動。
これらのことは、話の始まりに欠かせないと思っています。
真っ青な空の下から数えても現在まで半世紀。縦横無尽な生きかたを4時間で喋りつくしてもらうことはできないかもしれないですが、じっくりお伺いしたいと思っています。
家族写真に始まる膨大な資料を撮影させていただいています。その中からスライドショーを用意しています。
津村さんの歩みに興味を持たれるかたの参加をお待ちしています。
どうぞお楽しみに。


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2016年12月大宮通りの郵便局に行って

2016年12月15日 19:05

 

 

二三出してから

 

 

 

 大宮通りの郵便局に行って二三出してから、少し下ってココカラファインの店に行って5円コピーがないか聞いたらないというので、もう200メートルほど下がったところのファミマで10枚分だけ10円でコビーした。見本の分だけだ。実は昨日天満橋の5円コピーで大量コピーをして、目がくらんで一つ間違えてしまった。ページを切って差し替えれば使えるが、きたないし手間が大変だ。5円コピーがあればしてもよかったが、もう少し待てば次の気功文化もできる。大阪コピーでいっしょにやればいい。
べんがらという行きつけの喫茶店でカレーを食べてコーヒーを飲んでビッグコミックオリジナルの最新号を読んだ。ここは月に一回か二回行ってオリジナルを読んで過ごす。ゴルゴと細野不二彦のギャラリーフェイクが数十冊ずつ本棚に段にわたってあるので、以前は順に読破していたが、全部読み通してからはオリジナルである。ここはなぜかビッグ本誌を買わない所なので、本誌の方は翡翠に行って読む。ほかのコミックはあまり集中して読まないがロレアルで読む。漫画のない喫茶店には余り行かない。あ、週刊朝日は「陽」で読む。
いつもの古本市へ。今日はあまり時間がないから、この間のような着物の本が出ているかどうかだけチェックする。1980年に出ている『染織の美』の「能装束」、100ページ近く能の衣裳が出ていて、橋本健一郎が解説をしている。友禅作家人間国宝の中村勝馬、西陣つれづれ話、型染め、絵更紗、天然染料は石榴の紹介、友禅、手織り、金沢の「るり虎」の紹介と盛りだくさん。1982年初夏号がもう一冊。歌舞伎の舞台の写真が80ページほど続き、そのあとに特集「掛袱紗」、後は天然染料二藍など。
この二冊は京都書院で出ていて、どちらも裏表紙は龍村美術織物の全面広告である。
『染織の美』は一が「辻が花」これは室町の幻の染めといわれるものの特集、二が更紗、三が友禅染、四が能装束、五がインドネシアの絣、六が紅型、七は正倉院裂と上代の染織、八が名物裂、九が日本の刺繍、十が世界の紋、十一が日本の絣、十二が茶屋辻と夏衣装、十三コプト裂、十四強減の装束、十五振袖、十六が型染・版染、十七が歌舞伎の衣裳、十八が予告が出ている沖縄の織物。このさきどこまで出たのかはわからないが、古本であるなら全部揃えたくなって来た。
もう一冊、日本発見の十九号『染めと織り』。これも京友禅で始まるが、東日本のこぎん刺し、紅花染、白石紙布、結城紬、黄八丈、長坂中形、越後縮、山繭紬、葛布、西日本の郡上本染、加賀友禅、有松鳴海絞、阿波正藍しじら織、博多織、大島紬、芭蕉布、紅型、八重山上布、読谷山花織手巾と並べられるとこれだけで賢くなったみたい。志村ふくみと古澤万千子の対談、近江の斜め織、牛首縮みなど各地の名品の紹介,最後に全国染め織りガイドがあって自分で訪ねたりできるようになっている。これは東京の暁教育図書の編集出版。
いままでこの種の本に興味を持たなかったが、日々引き込まれている。それにしてもゆっくり味わう時間もないままに大変な情報量が手元に集まり出した。これで300円の出費だから恥じらってしまうほどだ。


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2016年12月NPO推進課に出す

2016年12月17日 4:47

 

 

資料をやっと作り終えた。

 

 

 

府のNPO推進課に出す資料をやっと作り終えた。おととしまでのは去年出していた。郵送で送った記録もある。それがついていないと言われた。三年分を作って送ったのが今年の八月である。だいぶたって呼び出しがあり、いろいろ違う所があるから返しますと言われた。いちいちのページに特定非営利活動団体気功文化研究所と書いてないとか、活動が落ちてる箇所があったとか、どうでもいいことばかりだが、定款変更や役員の変更はたしかにいい加減に書いていた。出し直してまた突っ返された。今度はおとなしくいうことを聞いて、その通りに書いてやろうと思ったが、変更する定款の原本がみつからない。探すのに一週間かかった。コンピュータに入れておいたのだが、画面が壊れて使えなくなっている。コピーの仕方はあるのだが、面倒でしていない。紙に打ち出してあるのを探す。わが家の保存紙類というのは袋ファイルにいれているだけで500くらいある。あとはクリアファイルのまま見出しもないのが数百。定款という袋にたどり着いたが、ページがそろっていない。またひとしきり片づけて、ようやく全文を見つけた。改訂したものも作って、やっとひといきついた。提出書類二部と、保存用のコピーを取りに午前三時のセブンイレブンに行く。思い出して理事の印鑑を揃えにローソンへ行く。一人分、見つからない。一人が「島」の字が入っているのだが「嶋」しかない。明日東京に行って中央郵便局で出す前にはんこ屋を見つけないと行けない。しかしはんこ屋がそんなに早起きとは思えないし。あ、明日はって今日、もう二時間ほどしたら出なくちゃならないのだが、西荻のほびっと村で津村の生涯を振り返る会がありますよ。風呂に入ってヒゲくらいそろうかな。


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2016年12月西荻の話(1)

2016年12月20日 0:08

 

 

三日間ご無沙汰したが、東京に行って、

 

 

 


西荻の話(1)

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 三日間ご無沙汰したが、東京に行って、「津村喬(高野威)の生涯」のイベントをしていた。キコリが私のむかしの写真からスライドを作ってくれて、わかりやすかった。赤ん坊時代のヌードから高校生で周恩来に会っているのまで、あれこれ。あ、いま思い出したが、父と母が59年に行った時に毛沢東と歓談している写真があった。また探してみましょう。毛沢東の言葉は「字字金」(ひとことひとことが黄金のようだ)とその写真の脇のアルバムに母の手書きで書いてあった。実際にまわりの人がついていけないほどの教養があり、ユーモアがあり、警句にあふれた会話をしていて、それを「字字金」と表現した。田中角栄が毛に会いにいったときも毛は楚辞を田中に渡して、この本は勉強になるからぜひ読んでみてくださいと勧めた。シャマンのこともあれば、中国の詩の歴史上初めて「悲歌」の形を取って心理描写がされた本でもあり、気功のこともたくさん含まれている。角栄と一緒に読んで「ご進講」したかった。私は両親が毛沢東にあった時に行かなくて残念だったが、のちに周恩来に会う機会があった。「大学はどこだ」と聞くから「早稲田です」というと「おお、革マルの暴力が大変ね。がんばってください」と日本語で言った。なんでこの人こんなこと知ってるの、ということにびっくりしたが、それを通訳を無視して日本語で言ったのにはもっとびっくりした。
津村喬_imagetext_% 周さんが日本語を話すなんて聞いたことがなかった。でも早稲田にニセ学生ではいっていたのだから、できて当然だ。私がつきあった中では郭沫若と廖承志は通訳がついていてもごく普通の日本語で話した。あまり大した会話をした分けでないが、中国の最高指導部にこれだけ日本語が流暢に使える人がいることが嬉しかった。このことは話さなかったな。中国のことはまだいくらでも話すことがある。父のことも母のことも、父の指導者であり母の最初の夫だった猪俣津南雄のことも、それだけで六時間かかるような話なのだ。
私の生涯を話すことは一時から七時まで六時間やっても足りないことが分かった。もう一度やろうか、という話が持ち上がっていた。今度は時間無制限の朝まで、津村料理付きと言ったような話。私はもちろんいいですよ。でも二時から18時間後の六時までとか20時間後の八時までとか、みなさん絶えられるだろうか。カストロは12時間の演説をしばしばしていた。

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2016年12月穀類の米と麦だけ

2016年12月20日 8:11

 

 

紹介しましたが

 

 

 

 穀類の米と麦だけ紹介しましたがそのあと粟とか豆類の紹介に入ります。。
《粟》
[性味帰経]味甘、咸、性涼、陳粟米(古い時間のたった粟)苦、寒。入腎,脾、胃経。
[効用]和中(中焦を調和させる)、益腎、除熱、解毒。脾胃虚熱、反胃嘔吐、消渇、泄瀉。古い粟は下痢止め、解煩渇(異常な渇きを止める)。粟は脾、胃、腎の湿熱を解決し小便の通りが悪いのを治す。
[用法その他のコメント]粥で食べる。長時間水に浸したり熱湯で煮るのはよくない。
高梁とかは日本の都会ではほとんど手に入らないので、省略します。
《大豆》
[性味帰経]味甘、性平、入脾、大腸経。
[効用]脾を健康にし燥(渇き)を潤し、たまっている毒を排除して瀉します.妊娠中毒や腫瘍の毒にも効果があります。外傷出血にも使います。咽頭炎、結膜炎、口腔炎、腸炎にも有効。手足の筋肉が張っていたい時に大豆100gに米ぬか60gに水を入れて煮、一日分を二回に分けて飲みます。乾いた傷の時に毎日大豆を少しずつ煮て飲んでいくと直りが早く傷跡も消えやすい。
[用法その他のコメント]豆乳として飲むのが一番飲みやすい。瘡痘のときは大豆とその製品はとらないほうがよい。
《もやし》
[性味帰経]味甘、性涼、脾経と膀胱経に入る。
[効用]滋潤清熱、利水解毒。失血性の貧血にはもやし250g,ナツメ15g、豚骨250gに水を加え、塩を加えて調味して長いこと弱火で煮、一日三回、もやしを食べスープを飲む。
[用法その他のコメント]虚寒の体質で尿の多い人は内服を慎む。
《豆腐》
[性味帰経]味甘、淡、性涼,脾、胃、大腸経に入る。
[効用]益気和中(気を増やして中焦=胃を調和させる)脾胃虚弱で腹張があり吐血したり嘔吐したりの時に用いる。渇きを潤し唾液を増やし、渇きを消し、乳が不足する時にも用いる。清熱解毒。焼酎の中毒には硫黄を使う。
[用法その他のコメント]豆腐は消化はゆっくりで、とくに豆腐を干した物などは子供の消化不良を引き起す。にがりを含んでいるので、痛風の病人、血尿酸の濃度が高い患者は少しだけ食べる。
《えんどう》
[性味帰経]味甘、性平。
[効用]益脾養中、生津(唾液)止瀉。消渇に用いるにはえんどうを適量、薄味で煮ておいてたえず食べるとよい。気血虚弱の人にはえんどうと羊肉をよく煮て食べる。
《いんげん豆》
[性味帰経]味甘渋、性平、種子は脾、胃経に入る。
[効用]種子は脾を健康にし腎を補う。清熱利尿、根は脾を健康にしつまりを通す。小便不利の薬としては、いんげん120g、水で煮て少しザラメ糖を加え、飲み続ける。栄養のアンバランスからのむくみは、いんげん250g、豚骨適量、豆を食べスープを飲む。
《緑豆》
[性味帰経]味甘、性涼、心臓の経絡、胃経に入る。
[効用]清熱解毒、消暑、利水。主として暑熱煩渇(夏の暑さもあるが精神的な原因も会ってひたすら喉が渇く)、水腫(水分のたまっているむくみ)、瀉痢(下痢をして悪い物を出す)などに効果。薬毒を解いていく。夏には緑豆、冬瓜、昆布、蓮の葉を煮て佐藤や塩で調味したものを食べていくとよい。
[用法その他のコメント]
《黒豆》
[性味帰経]味甘、渋、性平、脾経、腎経に入る。種皮は味甘、性涼、肝経に入る。
[効用]活血、利水、袪風、解毒、慈陰補血、安神(精神不安定を落ちつかせる)、明目(目が明るくなる)、肝腎の陰を益する。むくみによく、風毒脚気を治し、黄疸がありむくみがある、風痺で痙攣したりする、、ほかのさまざまな薬の毒を解決する。腎虚腰痛を治す。黒豆100g、胡子鮎一本、杜仲10gをよく煮て黒豆がよく煮えて半透明になったら杜仲を取り除き,油と塩を加えて毎日二回食べる。
[用法その他のコメント]虚の人や小児はあまり食べない方がいい。よく煮た物はいいが多くは食べない方がいい。
《そら豆(蚕豆)》
[性味帰経]味甘、性平、入脾、胃経。
[効用]そら豆は健脾利湿、和胃止瀉。茎は止血、止瀉。葉は収斂止血。花も止血に使える。種子は量、その皮も収斂止血に。むくみの治療のためにはそら豆60g、冬瓜の皮15gでよく煮込んで食べる。肺結核の喀血には臼で粉にして20gずつ一日二度服用する。酒によってなかなか醒めないときは、そら豆の苗を少し油を加えて入り、水塩を加えて煮てスープにして飲む。
[用法その他のコメント]極めて少数の人、男児に多いが、そら豆の花粉が急性溶血性貧血を引き起すことがあり、世に「そら豆病として知られる。注意して欲しい。


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2016年12月露伴の「道教に就いて」を

2016年12月20日 8:18

 

 

二月から読んでいこうとしています

 

 

 

露伴の「道教に就いて」を二月から読んでいこうとしています。まずは読めない字、読みにくい字がたくさんあるので、それを抜き出しました。わからないものはわからないとしています。ここには四ページ分だけ出します。こういう作業を一緒にやっていきませんか。京都と王子でしていきます。

『道教に就いて』の中の難しい言葉
p247からp264


p247
【草率に】 久松潜一等の国語辞典でひいてみると「倉卒・草卒」があって「あわただしいこと」とされている。
【假令】 「かりに」と読む。
【支那を掩蓋する】 「おおいかぶさる」。
【清眞教】 イスラム教のこと。
【貽つた】 は「おくった」と振り仮名がある。国語辞典にも漢和辞典にも古語辞典にも出ていないで中日大辞典に出ていた。贈る、あとに留め残す、とある。「朝鮮日本に多少の影響を貽つたに過ぎない」という文章。


p248
【道教の源委流傳】 この委が辞書を引いてもわからない。
【聊か】 いささか。

p249
【然様】 さよう。 そのように。
 【那方】 あちらの方。
  p250
 【晤】【神僊・神僊家】 【神仙・神仙家】と同じ意味であるが、道教成立以前を神僊といい、以後を神仙と読んで区別しているようである。
【平明に看取して】  かんしゅして
【解知し得る】 げちしうる。
【道經】    道教の経典
【教經】    道教の経典。


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2016年12月西荻の話(2)

2016年12月20日 11:30

 

 

四つくらいに分けて話していくはずだったのかな。

 

 

 

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西荻の話(2)
西荻の話ですが。
四つくらいに分けて話していくはずだったのかな。
(1)おいたち
(2)父の系譜
(3)母の系譜
(4)料理と気功について
というと30歳以降の40年分は全部(4)に集中してしまう。実質は(3)までで少し二十代のことも話して、六時間あっという間にたってしまった。
おいたちを簡単に述べると、1948年7月10日に下北沢の小さな産院で生まれた。下北沢の家は庭に大きなケヤキの木があり、柿や梅が実をつけ、ヤツデがとても印象的だった。その庭でも遊んだし,当時は周囲にまだ家が建たないままの空き地があって、そこで遊んだり、自転車に乗れるようになると20分くらいの守山公園まで走ってそこで遊んだ。
家にはいろいろな人が同居していた。自宅や借家が焼けて苦しいときはお互い融通し合った。荒畑寒村がいたこともある。のちに社会党の委員長になる山花秀雄もいた。高野の助手や秘書をしていたような人も何人も変わって滞在していたこともある。共産党の徳田虎雄とか社会党の鈴木茂三郎とかも、当時は知らなかったがよく来ていたらしい。鈴木が来た時に虫の居所が悪かったのかモサさんの頭をしたたかに叩いたことがあった。これはかすかに記憶している。天下の鈴木茂三郎を殴りつけたのは初めてだと組合活動家の間では評判になったらしい。
道了尊のことは前に書いた。小さな神社で人はいないで、巨大な天狗の面が飾ってあった。年に一度祭りをやってきたのだが、私は当時知らなかった。ここにしょっちゅう紙芝居屋が来て、ガラスの管に入ったゼリーとか、薄い煎餅にタレを塗って昆布をはさんだのとかを売っていた。
下北沢の家は借家だった。三軒先に画家が住んでいて、絵とか少し習ったが全然大成しなかった。その隣に『はだか随筆』の佐藤弘人の家があった。大学教授がお色気随筆を書いて売れに売れた。その後石黒啓七の『おいろけ随筆』、有賀徳寿の『かっぱ随筆』池田弥三郎の『はだか風土記』今東光の『はだか説法』などなどの模倣企画が出た。当時はよく雪が降って、この坂道は下北沢駅に通ずる道まで臨時のスキー場になって、段ボールなどで滑っていた。一度雪の日に風呂場から抜け出して、雪の中に寝て、ちんちんの跡をつけて兄と比べ合ったりした。
うちは路地の角で、左のほうには足立さんがいてそこの美人姉妹にはあこがれていたが、覗く機会もなかった。その隣は大きな洋館で、占領軍の将校が住んでいた。一日招かれてクリスマスだかを過ごした。
わが家は入ると玄関の間があり、左に当時で言う応接間があって、一応洋間だが応接セットとかはなかった。むしろ次々に下宿人がいた。右に庭に面した座敷があり、それに続いて六畳間があった。ここの廊下の端が小学校になってからは私の書斎になった。玄関の正面が台所で、三四人のときはそこで食べた。台所の奥に風呂場があり、長いこと薪で焚いていた。二階は一間で父の書斎だった。ここは本と書類に溢れていた。
父は400万人の組織のトップだったから、商品を紹介して仕事にしませんかという話はしょっちゅう来たが頑としてはね除け、どんな企業も相手にしなかった。事務局長の報酬は数万という感じで、労働者の賃金水準よりすっと低かった。労働者の賃上げは要求したが、自分で稼ぐようになるのは恥ずかしいことだという明治人の心象をかたくなに持ちつづけた。引退して借金で横浜に家を建てたが、人よりも本が住みやすいような家だった。それは私の16歳くらいのときだ。
少し先に進みすぎた。母は父が入れてくれる生活費では足りず、小さい頃やった小唄を復活して教え始めた。たちまち五十人くらいのお弟子さんを獲得して、おさらい会だの年末の「熱海の海岸散歩する」だのソーラン節だののイベントをしたりしていた。私が五年生の頃から近処の小学生を集めて英語を教えた。私がやんちゃでバンドベースなどなかなかやめずに、授業をさぼったりして、よく怒られた。
私がさぼらなかったのは台所で料理につきあうことだった。思い返してみると幼稚園の頃から目玉焼きを作ってごはんの上に置いた弁当とか、のりの佃煮を置いたりとか自分で弁当を作ろうとしていた。兄は全然やらなかったから、母が楽しんで教えていたのか、とにかく料理好きに育った。それ以来ずっとやってきたが、高校生の時に母親が寝込んで、辻留の本とか辻静雄のフランス料理とかを真剣に学んで基礎を身につけた。


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2016年12月西荻の話(3)

2016年12月20日 12:56

 

もう一つ大きかったのは本を読むことを奨励されたことだ

 

 

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西荻の話(3)
もう一つ大きかったのは、本を読むことを奨励されたことだ。小学校の三年頃までは、近所のネオ書房と言う貸本屋で、端から「丹下左膳」とか「ああ無情」とかを次々に読んでいって、ほぼ一軒読み尽くした。世界文学全集を買ってもらって、世界の名作とよばれるものは読破した。なぜかロシアのアファナーシェフとかクルイロフとかの人たちが好きだった。ロシアの昔話というタッチで、大宴会の様子は「そして蜂蜜がヒゲを伝ってながれましたとさ」で結ばれていた。
小学校の四年の時に母が「これを読んでみる」と渡してくれたのが「学べ、学べ、そして学べ」とタイトルのついた本でレーニンという人が話したことだった。それには「われわれ共産主義者は、人類の叡智のすべてを引き受けなければならない。共産主義者は共産主義者の書いた物だけを読んでいれはいいのか。とんでもないことだ。古代から現代までの、東洋から西洋までのすべての叡智の総合の上にきみの共産主義は打ち立てられねばならない」というその内容にも、その話すトーンにも、私は夢中になった。私の「共産主義」は「人類全体の叡智」のことだった。母親の「偏向教育」は大きな効果があった。私の読書は小学校の図書室にあったエム・イリンの「人間の歴史」「灯火の歴史」「書物の歴史」「時計の歴史」「すばらしきもの人間」などを系統的に読み、その中で知ったジョージ・ガモフとかツィオルコフスキーとかの宇宙読み物に熱中した。当時評判だったルイセンコはあまり好きではなかった。自然に武谷光男に進み、出てくる数式はわからないから全部飛ばして、つながる所だけを読んだ。そうしてアインシュタインやシュレジンガーやハイゼンベルグを、これは原著ではなく解説書で読んだ。その時期に書いた私の論文に「人間の二元性について」というのがあった。量子力学の単純な類推で、一人の人間が同時に波動でもあれば粒子でもあるということを論じていた。粒子としての人間は目に見える、形のある人間だが、波動としての人間は関係性の束としてのみ存在する。関係性の束とは私の食べたいっさいの生命によって私が成り立っているので、この個体は同時に集合生物でもある。そして私は孤立していないで、ともに生きているいっさいの生物は「わたし」なのだ。このことは話し忘れていたな。私の小学校四年のときの重大な悟りだ。この中に気功の原理も料理の原理も全共闘の原理も皆はいっているのだ。
それで飽き足りなくなると当時キャンペーンを始めた岩波文庫の100冊とかを順番に読んだ。レーニン全集に取り組んだのはさすがに中学には行ってからで、一応43巻をノートをとりながらよく分からないなりに読み上げた。ロシア革命の一部始終を知ることで、それが青春時代にどれほどの影響を与えたか計り知れない。マルクスに関しては全集本はあったが、読まなかった。国民文庫、青木文庫で出ていたもののいくつかを読んだ。分かりやすかったせいで、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」は特にお気に入りだった。宇宙論にこっていた私を人類学に連れ込んだのがこの本だった。
私は国語の教師や社会の教師に挑戦するように、長い長いレポートを書き続けた。特に中学校時代は、私説・日本文学史だの、人権宣言集を読むだの、もうひとつの現代世界史などをレポート用紙に手書きでそれぞれ百数十枚書いて、いわれもしないのに提出した。人権宣言集はテストに「人権宣言」と書いて欲しい所を「人及び市民の権利宣言」と書いてバツにされたので、フランス語の原典を引いて反論した。教師に取ってさぞ扱いにくい子であったことは間違いない。
母親はもうひとつの偏向教育をした。小さなカメラを買ってくれて、行った田舎の土地や出来事を絵と写真と文章とでまとめるように言った。これはのちに兄にも同じ提案をしていたことを知る。隅田川は、柳橋で生まれて笹塚で大きくなった母には特別の土地で、隅田川に架かる十二の古くからの橋をまとめてご覧と言われて、白鬚橋から永代橋、勝鬨橋までのスケッチと写真と文章をまとめてみた。これは魅力的な企画で、ぜひもう一度大人の目でしてみたい作業である。
中学二年の時には法隆寺を書いた。当時の私は長い文章を全体として完成させていく力量はなく、国語の教師から「始めは処女のごとく、後ろは脱兎のごとしだね」と笑われたが、ともかくも一冊まとめていくという力は段々について来た。母は中央公論の編集者としての経験をふたりの息子の教育に使っていた。
帆足計という左派社会党の代議士でありながら次々にいろいろな会社を興し、経済同友会の組織化に奔走する面白い人がいたが、わが家は家族ぐるみでつきあい、彼の軽井沢の別荘にも行ったりした。その彼が新世界レコードを興し、来るたびにレコードをもって来てくれた。中国の白毛女とかいろいろなポピュラーソングも彼のお陰で知った。とくに「梁山伯と祝英台」という世にも美しいヴァイオリンコンチェルトのレコードはすり切れるまで聞いた。スヴィヤトラフ・リフテルのピアノやロストロポーヴィチのチェロはこれまでまったく聞いたことのない音楽だった。チャイコフスキーの交響曲も、コンチェルトも、ピアノ曲も私はロシア直輸入で聞いた。そしてもう名前も覚えていないが、ヴェトナムの少女の美しい歌曲の声に酔いしれた。私がビートルズなどに本気になるのはもう20年くらいしてからだ。小学校から中学はロシア、中国、ベトナム音楽の世界に酔いしれていた。演歌や歌謡曲とはまったく無縁の子供時代を過ごした。
中学に入って吹奏楽部でトランペットとホルンをやりだしてから、私は意識して全音のクラシック楽譜を集め出した。最初は簡単なヘンデルとかヴィバルディから初めて、レコードを聴きながら確かめられるチャイコフスキーの交響曲とかを繰り返し読んで、その音を思い浮かべる練習をした。だんだんその頃聞いたこともなかったイタリアオペラもモーツァルトも読めるようになった。本棚一つ楽譜をもっていたのだが、大船の家を出る時に置いて来てしまった。時々取りに行きたくなるが面倒でもある。


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2016年12月西荻の話(4)

2016年12月20日11:30

 

 

父親は高野實といった1901年生まれで、昭和天皇と同じである

 

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西荻の話(4)
父親は高野實といった。1901年生まれで、昭和天皇と同じである。いつか昭和天皇と対比した年表を作ってみたことがある。高野は1974年に亡くなったが、昭和天皇は15年ほど長生きして、1989年に亡くなった。
生まれは内幸町だというが、何代か前に金沢のほうから移って来たらしい。父は家系とかに余り興味がなかったが、もとは石附姓で、石附は足軽の槍持ちで槍の下についている石から来たに違いないとたまに興に乗ると話していた。石附から高野家に養子に出された。ただこの高野家とは余り交渉はなく、シーズ線で有名な昭和電熱の社長をしていた石附家のほうには、戦時中人民戦線事件で投獄され出獄して以降世話になり、小さなおもちゃ屋を手伝いもした。
高野は明治34年の生まれだから、政治活動は大正期には行ってからになるが、十代のころには
明治のキリスト教社会主義に影響されていたと聞いたことがある。年表的に言うと1918年に麻布中学を卒業し、早稲田大学高等部に入学。1920年には早大文化会を作り、1917年に成立して混乱期にあったロシア飢饉の救援運動をしたり、学費引き下げなどの運動をする。1921年に早稲田の理工学部応用化学科に進学。1922年に結成された日本共産党に参加する。学生戦線の担当となり、最初の全学連を11月に作る。のちの左派社会党の中心である黒田寿男が初代委員長、高野が書記長だった。1923年の紀元節に過激社会運動取締法違反のデモで愛宕署に逮捕され、拷問で肋骨を何本も折られた。そのまま肋膜を発病し、さらに当時難病だった肺結核を患う。六月第一次共産党事件で連座して検挙されるが、投獄はされず、藤沢で憲兵隊の監視つきの療養となる。その三ヶ月後、関東大震災が起り、憲兵もいなくなったので東京に戻った。布施辰治の労働者救援会に参加した。しかしまだ結核はひどかったので、浅沼稲次郎の世話で三宅島で療養した。浅沼は早大雄弁会で後の社会党委員長。右翼のテロに倒れて亡くなった。
1925年には市川正一らのコミュニスト・グループと対立する。当時の共産党は1921年時点では堺利彦、山川均らののちの労農派と徳田球一、佐野学らの直接行動派との連合体で、23年には第一次検挙があるが、堺や山川はとても非合法組織をやっていけるようなリーダーが集まっていないと身を引いて、のちに雑誌『労農』を相関して佐野や徳田とは袂を分かった。市川らはまず前衛を大衆から分離した所に確立するという福本イズムの影響を強く受け、どんどん孤立していった。高野にとっては山川らは書斎社会主義者であり、また市川、佐野、徳田らは「主義者ごっこ」をして逮捕されることが誇りになっているヤクザ共産主義で、どちらとも縁を切りたいと思い、豊島合同労組の書記長になって、これ以降労働運動畑で働いていく。高野は唯一早大教授で第一次検挙で辞職してやむなく評論家の道を歩んだ猪俣津南雄を尊敬しており、猪俣の強い影響下に全産業労働組合(全産)を作るが即日逮捕される。その後全国労働組合(全労)に加入して、さらに日本労働組合全国評議会(全評)を作ってようやく自分が主導する全国組織を持てる。この時に芝浦の沖仲仕や隅田川の運輸労働者を組織化するが、彼らの多くは朝鮮出身者だった。波止場でホルモンを焼きながら交流してことをなつかしそうに話していた。そのころの朝鮮人の裏組織は組合で何十人かの者がつかまりそうになってもすっと隠してくれる奥行きがあったという。
だが1937年12月、でっちあげの人民戦線事件で捕まり、四年間の獄中生活を過ごす。出てから兄石附慶太郎の経営する昭和電熱で働きながら、姉貞子のおもちゃ屋を手伝ったりして過ごした。1942年猪俣が死去する。残された猪俣夫人倭文子(しずこ)と結婚した。自分も27年に伊藤花子と結婚していたが、カリエスを病んで間もなく死亡していた。
1944年に長男孟(はじめ)が生まれる。
45年の終戦とともに動き出して「巨象のような大統一組合」を目指して東奔西走した。46年には総同盟を結成し、50年には日本労働組合総評議会(総評)が作られる。そして51年に事務局長になる。ここで高野は400万人の労働者の頂点に立つことになる。この就任演説で、突如高野は折りからの朝鮮戦争での朝鮮・中国支持を打ち出す。米軍占領下に、日本の多くの企業が戦争に加担して米軍の下請けで稼いでいる中で、それに真っ向から異を唱えることだった。


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2016年12月西荻の話(5)

2016年12月21日 5:30

 

 

高野實は1937年7月7日のことを鮮烈に覚えている

 

 

 

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西荻の話(5)
高野實は1937年7月7日のことを鮮烈に覚えている。日本軍が中国に対して戦端を切った日だ。憲兵隊によばれて、いきなり竹刀で殴られ、陛下に忠誠を誓えと迫られた。なんのことだと聞くと、戦争が始まったらしい。中国と闘うにあたって、お前らもいい加減なことでなく、きちんと日本の臣民として積極的に支持しろ。高野は殴られながら、言を左右にして、戦争に賛成するとなんとか言わずに過ごした。だがはっきり戦争反対とは言えなかった。高野はまもなく人民戦線のでっちあげで逮捕されてしまうから、同じことだったのだが、この屈辱はずっと消えなかった。私が抵抗して殺された方が、中国人の殺され方が少しでも少なかったろうか、という慚愧の思いである。それがのちの高野の中国びいきにつながった。
このことはずっと誰にも言わなかったが、30年目の七七を北京で迎えた時、北京の日本人会で初めて告白した。このとき抵抗していれば私はこの世にいなかったことになる。

津村喬_imagetext_% 人民戦線はディミトロフがよびかけた反ファッショの統一戦線のことだが、日本ではそれを中心になって担う主体もなかった。だがファシズムであることを自覚している軍部と政治家たちは「反ファシズム」を恐れ、芽のうちに積んでしまおうと考えて、37年の12月に労農派446人を予防逮捕したのがこの事件である。高野がやっていた全評も結社禁止となった。
戦後中国で共産党の軍隊が勝利し、共産党を勝利に導いた軍閥馮玉祥の妻で中国衛生部長だった李徳全が残留日本人の遺骨をもって来日した。1954年のことで、これを羽田に迎えたのが高野だった。ようやく高野は中国の人たちに直接侵略を謝罪する機会を持つことができた。
のちに私は中国気功界を代表する馮理達さんと親しく交流させてもらった。海軍病院の副院長であり中国医療気功会の主席である彼女は、馮玉祥と李徳全の娘だった。だいぶん親しくなってから「1954年にあなたのお母さんが日本に来られた時に羽田に迎えたのが当時総評事務局長だった私の父だったのですよ」と伝えたら「まあ知らなかった。母の記録を調べてみるわね。親子二代の友情だった訳ね」と言っていた。馮さんは健身気功というのを作ろうとしているのよ、とその責任者の黄健さんを呼んでくれて一日過ごしたのだが、それはまた次回の話だ。
高野総評は共産党も地下に潜って過激化し、社会党も分裂を重ねる中で、文字通り前衛的な役割を果たした。そのころ高野による総評の変身が「ニワトリからアヒルへ」とよばれたが、これはマッカーサーがアメリカの市民原理に基づく労働組合を育てようとし、おお大きくなったわいと思っていると裏切られ、ニワトリと思ったのがアヒルになってしまったという意味である。朝鮮、中国支持ということに止まらず、電産・炭労のスト、破防法阻止の闘い、日鋼室蘭、尼崎、近江絹糸などの大争議を次々に指導した。MSA予算というアメリカの押し付け援助を基軸にした予算を組むのに反対し、日本の労働者の現実から国家予算をくみたてるべきだと主張し、平和経済国民会議を作った。これは一部の企業が戦争のために私腹を肥やしていたのに対抗して、自立した経済を打ち立てることを目的にしていた。同時に高野は頻発する争議に対して「家族ぐるみ・街ぐるみ」で企業を包んでいき、全国民の闘争にして行こうとよびかけた。すでにアメリカから自動車を導入し、そのための道路網を作り、石油なしにはすまない国作りのプランが進行し始めていく中で、石炭を守っていくにはまさしく「家族ぐるみ・街ぐるみ」が必要だった。
日米の支配層は高野を退場させるために総力をあげて国労の岩井、合化労連の大田を支援し、買収作戦を行い、1955年には高野を引き下ろすことに成功した。それ以後総評は春闘という春ごとに賃金を上げて行くための団体に変身してしまった。大田はそのころ「くそのついた金でも金は金」という名言(?)を残している。
高野はその後も総評組織部長として生産性向上運動を批判し、勤評闘争、三井三池闘争などを指導した。まだ数百年分があった炭坑を徹底的につぶしていく政策は、その後の石油による日本再占領(岸)、原子力による再再占領(中曽根)につながっていく。
高野は四回の中国訪問をしている。
一度目は55年総評の事務局長をやめる直前。
二度目は60年世界労連評議会参加と療養を兼ねて妻ととともに。
三度目は64年家族と一緒に。旅大(当時旅順と大連を合併させていた)と広州で長期療養。
四度目は文革のさなかに私と二人で。
1954年には雑誌『国民』を出し、1959年には『労働情報』を出し、1967年には『労働周報』を出した。総評内外の反戦派労働運動のセンターとなった。晩年には入退院を繰り返す中で、猪俣津南雄研究会を組織した。それが最後の仕事となった。1974年9月13日に死去した。


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2016年11月西荻の話(6)

2016年12月22日 5:24



母倭文子(しずこ)は同じ


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.西荻の話(6)
母倭文子(しずこ)は同じ74年の9月29日に亡くなったので、二週間で後を追った形になる。さすが比翼連理と言われた。しかし実際にはそうではなかった。もう最晩年になって「一緒にいると堪え難い。別れる」と言い出した。高野實はものすごく忙しかった。子供でも滅多に顔を合わせる間がない。総評の事務局長の座を追われても、組織部長はもっと忙しかった。全国各地の争議の現場をまわるだけで、年二百日くらい使っていた。事務所にふんぞりかえっている人ではなかった。高齢になってそれができなくなり、入退院を繰り返し、家では膨大な資料を整理することに時間を使った。ファイリングと言っても、ビニール袋に一点ずつ入れて見出しを付けていくだけだからあまり整理とは言えなかったが。そうして戦時下以来初めて夫婦で家にいるようになると、倭文子は自分が夫を愛していないことがわかった。高野がいばる訳ではない。飯の文句を言ったりいっさいしない。模範的な亭主と言ってよい。ただ、なんというか、普通の生活者感覚がない。生涯のほとんどを革命運動に捧げている。倭文子も息子たちもそれを尊敬している。だが、一緒に住む人ではない。
それまでにも、母は時々「家出」していた。その前に、イライラがたまってくると、茶碗を壁にぶつけたりしていた。そのための安い茶碗などを買ってあった。そして限界を超えると「家出」する。コースは決まっていて、小田急線で御殿場まで行って富士山に逢ってくるだけなのだから、まあ「家出」とは言えない。だんだん様子も分かってくるとこちらも心配しなくなって、ご飯を作って待っていたりした。晩年には「別れて、京都に住みたい」になった。本当に離婚するのか、別居だけなのかはわからなかった。生計をどうするのか、晩年にも小唄の弟子はいたけれども、地唄の街京都で小唄を教えるのは難しかろう。母がふさぎ込んでいる時に、しばらく京都旅行しようかと誘ったが、「ありがとう。いいのよ。離婚は冗談よ」とはぐらかした。まあ本気になったりあきらめたりといったところか。そのうちに父はほとんど病院に入りっぱなしになった。父の1923年以来の結核との格闘はまだ続いていた。新しい薬が発明されると、しばらく元気になったが、また菌のほうが強くなる。いたちごっこだった。母は心臓のすぐ上に大動脈瘤が出来ていた。「場所が場所だし、その年齢では手術はできません」と言われた。破裂して死ぬのを待つしかない。
京都と言えば、なぜあんなに京都の店をよく知っていたのか、それも不思議だった。戦後博文館の大辞典の仕事で新村出の手伝いをしたりしていたから、だろうか。もっと元気な時に、私を連れて「京都にお勉強に行きましょう」と、四条畷の元芸妓の親子のやっている一見では入れない小さな宿に行って、まずは飄亭の朝粥からはじまって大市のスッポン鍋とか、ここの鰻の佃煮はとか、漬け物だったらここでとか、連れ回った。にしんそばから南禅寺の湯豆腐、くずきりまで。さすがに祇園の茶屋にはいかなかったが、自分の大事な店はこうして育てるのだと教えてくれた。
東京でもいくつかの店は特に教えてくれた。神保町の揚子江菜館の焼きそばと冷麺はひとつの標準よ、覚えておきなさいとか、銀座資生堂パーラーのかにサンドは、とか駒形どぜうは、とか、いつもぜいたくをすることはないが、くだらないことにお金を使うのはやめなさいと繰り返し教えた。こうして書きながら、こういう教育をしていたのだなあといろいろと思い出して来た。
父の葬儀は総評と全国金属のほうでとなるとまあ気は楽だった。やっと母も自由になるなと内心思っていた。しかしわずか二週間後、母の大動脈は破裂した。私が早稲田で何かの用をすませて、早めに大船の家に帰って、今日は何か美味しいものを作ってあげようと思っていたら、玄関に母が死んでいた。座敷からそこまで大量の血を流して。たぶん最初の出血で電話をかけようとして(まだ携帯というものはなかった)玄関まで這って、そこで命脈が尽きた。私は母を抱いて布団に戻し、兄に電話し、近くの小唄の弟子でもあった医師に、死んだ時いたことにして検死してくれないかと頼んだ。そうでないと解剖になる恐れがあったからだ。血も拭かずに、冷たい母の手を握ったまま、人が来るまで失神していた。私も血まみれだったはずだが、覚えていない。
これが比翼連理の実際だった。生前は母は高野の墓に入りたくないと言っていたが、親戚などの手前、骨の全部をもってくることはできなかったので、半分ほどをもらってきた。約束した通り、奥入瀬の渓流に少し流し、草津の白根山の湯釜に、火口湖には入れなかったが遠くから投げた。湯釜は母が好きだった翡翠の指輪にも似た白濁した青緑色をしていた。どちらも猪俣との思い出の場所である。残りの骨はまだ私の机の猪俣の写真の裏に缶にはいって収まっている。私の骨をどこかに流す時に、一緒にながしてやってくれと息子に頼むつもりでいる。


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2016年11月西荻の話(7)

2016年12月22日 11:10



倭文子(しずこ)が生まれたのは


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.西荻の話(7)
倭文子(しずこ)が生まれたのは1905年(明治38年)だ。母の父は高瀬真卿といった。高瀬についてはたくさん書くことがあるが、今は少しだけ。1855年9月に水戸で生まれた。1876年甲府日々新聞の編集者になり、のち編集長になる。のち仙台日々の記者、東北毎日の経営者などを経て、フリーの著述家となった。そのうちに内務省の友人に監獄の教誨本の提案をし、自らそれを執筆したことが大きな転機となった。彼自身監獄教誨師となって話をしたり、石田梅巌らの伝統心学に加えて釈迦、ソクラテス、ベーコン、ワーズワースなどの要素を入れ込んだ感化心学を作ってひろめはじめた。そこから感化院の経営に乗り出し、それが28年間も続くことになる。
感化院経営から身を引いて高瀬がやり始めたのが、小さい頃から興味のあった刀剣鑑定だった。刀剣流通の仲介斡旋、一時は住居内に刀剣鍛造の鍛冶場まで作った。刀剣保存会を作り、雑誌『刀剣と歴史』を発行した。この雑誌は今も続いている。この辺り、長沼友兄氏の『近代日本の感化事業のさきがけー高瀬真卿と東京感化院』を要約している。高瀬の弟松吉の孫がジャズピアニスト山下洋輔だということもあり、山下には母方の系譜を中心に書いた『ドファララ門』があって、またひとつの世界なのだが、ここでは略す。
高瀬には病気がちの妻がいて、息子と娘もすでにいたが柳橋の芸者屋に遊びにいった時に16歳だった大塚園と出会う。容貌だけでなく園が作る和歌に惚れ込んで通い、契りを結ぶ。その二年後に生まれたのが倭文子だった。いつ購入したのかわからないが、笹塚に大きな家を買って、園たちを住まわせた。築山のある大きな庭があり、三つの家が建っていて、その一つを書斎と称し、またひとつに園たちを住まわせた。
園が亡くなった時に高瀬は和綴じ本の『素園遺稿』を出している。園が残した一千あまりの和歌から百余りを選び、これに明治40年6月5日から断続的に亡くなる直前の大正五年八月に生涯を閉じるまでの日記(かなりとびとびである。終わりの方は高瀬が整理要約)をつけ加えて、小さな一冊にしたものだ。「子供らに遺さんとての業なるのみ」と高瀬は書いているし、園も「これのみは書とどめて倭文子に採らせんとて、かくかい記すなりこれもまた他に見せんとにあらずあなかしこ」と書いている。
園は五歳の時に大塚の家に養女として来て十六のときまでそれを知らなかった。祖父は播州明石藩の用人で六百石、潮田范三という砲術の名人で600人の門人がいた。勝海舟とも親しかった。父も享吉といったが五十嵐家に入り、これも砲術の達人で海軍省に入った、などなど。倭文子が生長して祖父母の事を知りたくなったときのためにと書いている。
日記には「倭文子をおきんに背負て上のの博覧会へ」とか鎌倉に行く列車の中で「ひとりで騒ぎ回る」とか出てくるがまだ三歳のことである。
大正四年九月二十四日の日記には二歳年下の弟范(すすむ)が登場する。十六夜の月見とて高瀬も来て、三人の子供(倭文子、范、洸子=たけこ)と園相手に飲み、酔って寝てしまう。そこへ二人の知人がやってくる。范が戯れに招待の葉書を出したので来たという。また宴のやりなおしである。
倭文子は9歳、范は7歳、洸子はどこかの写真に書いてあったはずだが3歳くらいのはずだ。
園は大正五年八月、29歳で亡くなる。高瀬が亡くなったのが十三年、69歳でのことである。この八年間、倭文子はまだ笹塚にいたらしいが、いつこの家を出たのかは分からない。倭文子にはもう二人、葉子と八重子という妹がいたが、二人は昭和の生まれだから父親も母親も誰かわからない。葉子も八重子も結核で亡くなった。范は海軍学校でとんとん拍子に出世して軍艦に乗ったが、昭和18年に撃沈された。洸子は戦後も長く長唄のプロとして活躍したが、いつ亡くなったのかは知らない。ちゃんと聞いておけばよかった。今は写真だけが残っている。


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2016年11月西荻の話(8)

2016年12月22日 21:29



母の父が死んだ時には17歳



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.西荻の話(8)
母の父が死んだ時には17歳。母は府立第三高女に受かっていた。麻布にあったが後に空襲で焼け、駒場に越して駒場高校になった所だ。父が死んで学費援助はなくなり、それどころではなくなった。もともと本好きだった倭文子は、そのころもっとも羽振りがよかった中央公論社に飛び込みで入って、『婦人公論』の編集長だった嶋中雄作の所へ行き、就職を頼んだ。一面識もない。だが嶋中はこの肝っ玉ギャルを気に入って、すぐに社員にすることは出来ないが私のポケットマネーで雇ってあげようということになった。嶋中は翌年滝田樗陰の死を受けて編集主幹となり、さらに28年社長になった。この人が大物になる,という倭文子の見通しは正確だった訳だ。初め社内の雑務をしていたが、だんだんに担当の書き手を決めてそこに通うようになった。倭文子には久保田万太郎が特に印象強く残っている。全身を浅草情緒に浸していた。芝居小屋と寄席と料亭を往復しているようなスタイルだった。柳橋の出身である倭文子は小さくて知らなかったことを久保田から教わった。しかしなかなか原稿をくれない。ようやくくれたと思ったら、「……」ばかり書いてある。詠嘆の「…」で芝居で言うと科白が途切れて逆に役者の仕草に引き込まれる所だが,原稿用紙でそれをやっても「ちょっと」だった。「先生ちゃんと字で埋めてくださいよ」といつも要求しなければならなかった。
そのうちに猪俣の担当になった。猪俣は新潟の長岡の出身。十六歳くらいで碧梧桐門下の新体詩人「鹿語」として知られ、『三千里』にも登場した。ちょうど新潟にさしかかって長岡に滞在していた時に大須賀乙字の「新傾向俳句」の宣言案が届き、鹿語のシュールレアリスムのような俳句はそれにぴったりだった。東京に行ってから猪俣は根岸に入り浸った。子規の後を常識的な高浜虚子が継ぐか新傾向の碧梧桐が継ぐかで緊張があった。しかし結局彼は留学の道を選び、ウィスコンシン大学に入った。彼は経済学を学び、ヴェブレンの「有閑階級の理論」などの講義を聴いた。またこのころアメリカにいたブハーリンの影響を受けた。1921年アメリカ共産党の成立に参加したが,16カ国語で作られた最初の機関誌に感動した。日本では英語や中国語、朝鮮語で作るという発想が生まれなかったろう。帰国して早稲田の教授になり、同時に1922年に作られた日本共産党に参加したが、アメリカとまったく違う秘教的な雰囲気にびっくりした。最初の学生担当だった高野に出会って、見所のあるまじめな奴だったので、最初の全学連を黒田委員長、高野書記長で作った。第一次共産党事件に連座して、早稲田の教授の職を失った。それで在野のまま物書きとして身を立てていくことを余儀なくされ、とりあえず10冊ほどの基本になる本を書こうと計画した。『帝国主義研究』『農村問題入門』『金の経済学』など。とくに『金の経済学』は大ベストセラーになり、当時の市電の横腹に宣伝が出るなど同時に当時の二大政治雑誌『改造』『中央公論』の常連執筆者になった。
ある時期から中央公論の猪俣担当になった大塚倭文子を猪俣は気に入り、次第に恋愛関係になった。猪俣は自宅は貧しい所に住んでいたが、自宅で書くだけでなく、あちこちに旅行して田舎の宿に長期滞在して一冊仕上げてくるのが好きだった。半ば堂々とそこに担当編集者を呼んだ。あまり旅行などの経験がなかった倭文子は日本のあちこちを楽しんだ。そして猪俣との愛の生活。ラジオから聞こえる名曲の時間は逃さない。俳句はプロ意識を捨ててずっと楽しんでいた。アメリカで身についたダンスの習慣。時には「どてらを質に入れてタキシードとドレスを借りて横浜グランドに踊りに行った」と言っていた。倭文子が想像もしていなかった楽しい暮らしだった。
しかしある日びっくりさせられる。アメリカで結婚して別れて来たはずのポーランド人ベルタが訪ねて来たのだ。正式に離婚しないで、別れ話だけして帰国した。まさかと思ったがベルタは結婚証明書をふりまわして復縁を迫った。ベルタがようやく猪俣に興味を無くして離婚しアメリカに戻ったのは十数年後だった。ベルタとのからだの関係はなく、旅先には倭文子を呼び続けたが、倭文子にしてみればいつも不倫をしているみたいなもの。心労が続いた。
そしてようやく猪俣と正式に一緒になれた所で、人民戦線事件だった。獄中に毎日通って届け物をしたが、弁当などたいてい獄吏に取り上げられた。苦労して甘いものを手に入れて届けても没収されて、自分たちで食べていた。中央公論は軍部の攻撃を受け嶋中も追いつめられていたから、守ってやれなかった。獄中で猪俣はいろいろな病気を抱え込み、とくに脳軟化の気味が出て来たので、割合早く出所できた。今度こその二人だけの愛の暮らし。名曲の時間。俳句。貧しいが楽しい食卓。だが猪俣の病状は進んでいった。だんだんに「痴呆化」してくる。「あれだけ聡明な人が子供のようになって」とよく回想していた。猪俣は1942年に死んだ。彼との間に子供が一人で来たが、流れてしまった。忠実な猪俣の部下であった高野から求婚されたとき、そんなに好きだという気持ちはなかった。だがなんとか一人でも二人でも子供を作りたかった。18年に孟が生まれ、23年に威が生まれた。「あなたは猪俣との間にできた死んだ子供の再来よ」と言っていたが、兄にもそう言っていたのかも知れない。


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2016年11月キコリさんありがとう

2016年12月23日 5:23



写真がつくとやはり全然違いますね




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キコリさんありがとう。写真がつくとやはり全然違いますね。
全裸写真まで公開されてしまった。
周恩来と会っているのも印象的な写真ですが、彼は当時大好きな馬から落馬して右手の手首を折っていた。そこにちょうど毛語録をはさむとちょうどいいというので、紅衛兵にあうときはいつもそうしていました。林彪を倒してついでに周さんを孔子に見立てて攻撃する「批林批孔」というのがあったので、毛語録で身を守っていたのです。この写真では私が代わりに毛語録をもっている。
猪俣はいい男でしょう。私がにているなどということはまったくなくて、やはり高野の子なのですが、性格的な所は似た面があったかもしれません。


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2016年11月西荻の話(9)

2016年12月23日 7:58



猪俣津南雄はマルクス主義の歴史で



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西荻の話(9)
猪俣津南雄は日本のマルクス主義の歴史で非常に大きな地位をしめていたのだけれど、共産党とも対決し、雑誌労農の中心人物だったのに労農派の山川均、向坂逸郎らと対立したために、共産党の歴史からも社会党系の歴史からも抹殺されている。いまわりに手に入りやすいのは岩波文庫の『窮乏の農村』、而立書房の『横断左翼論と日本人民戦線』、あといまてもとにないみたいだが図書新聞社『日本プロレタリアートの戦略と戦術』の三冊が戦後に出た本だ。
高野実が晩年最後の仕事として猪俣津南雄研究を選んだというのは、自分が労働運動で実践して来たことを理論的に跡づけ、整理をしてみたいということもあったし、共産党でもなく労農派でもない「まっとうな日本マルクス主義」をきちんと位置づけたいということもあった。そして猪俣夫人だった妻へもそれを捧げたい気持ちがあったと思う。私と玉城素、のちに総評・連合でずっと仕事をした龍井葉二が中心になって事務局を作り、よびかけてみると、日本の左翼について無念な思いをもっていた人がたくさんいたと見えて、予想外に多くの、多士済々の人々が集まった。『猪俣津南雄研究』という年四回ほどの雑誌を出し、また猪俣全集をやろうという出版社もあらわれて、大いに盛り上がった。しかし結局出版社は途中で降りてしまい、そのうちに高野も亡くなってしまったので、続けていくことが出来なかった。私が死ねばもう誰もこの仕事をしようという人は出て来ないだろうから、何かの形をつけたいと思っている。
猪俣津南雄全集の第1案のタイトルだけの概要である。
第一巻  帝国主義研究
第二巻  金融資本と帝国主義
第三巻  現代日本研究
第四巻  日本無産階級の一般戦略
第五巻  日本に置ける資本主義と労働者階級
第六巻  恐慌下の日本資本主義
第七巻  貨幣・信用・インフレーションの理論
第八巻  金の経済学
第九巻  統制経済批判
第十巻  日本の準戦時=戦時体制  
第十一巻 窮乏の農村
第十二巻 農村問題入門
第十三巻 極東における帝国主義ー隣邦支那の前途
第十四巻 エセー
ロックフェラー伝・ブハーリン・裏切られた革命・下獄者の手紙等
第十五巻 翻訳・英文手稿・ノート
特権階級論(ヴェブレン)など
猪俣は日本資本主義論争の立役者でもあった。日本資本主義講座に執筆した共産党の野呂栄太郎、山田盛太郎らを相手にして闘った。野呂らは明治政府下の日本の政治体制は絶対主義であり、また当時の社会経済体制の実態は半封建的地主制である、と捉え、天皇制を打倒するブルジョワ民主主義革命が社会主義革命に強行的に転化する、とする「二段階革命論」を唱えた。これはコミンテルンの32年テーゼを擁護するものとなり、当時の日本共産党の基礎理論となった。猪俣はこれに対して日本は発達した帝国主義段階の独占資本主義であり、天皇自身も土地をもった資本家になっていると論じた。猪俣の立場はブハーリンの『世界経済と帝国主義』にも近く、『極東における帝国主義』などで詳しく論じられている。


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2016年11月西荻の話(10)

2016年12月23日 9:24



猪俣研究会の理事長の高野実は



西荻の話(10).
猪俣研究会の理事長の高野実はずっと向ヶ丘の病院にいた。私たち20代の事務局を支えてくれていたのは副理事長の須田貞一だった。その須田さんが1973年9月18日に心臓発作で突然なくなられた。近衛内閣の官房長官、司法大臣を務め、戦後も9回連続で衆議院議員に当選し、左派社会党に入り、日ソ協会や日中国交回復国民会議の理事長をした風見章に私淑し、ジャーナリストとして活躍した須田貞一さんは郭沫若の翻訳などでも知られ、あちこちのメディアに執筆していた。その元気な盛りだったはずの須田さんが突然死した。死の直前の毎日新聞に、いろいろ参加したい支援したい団体はたくさんあるが、これからは高野さんのしている猪俣研究会と画家富山妙子らの市民に権利の回復を市民連合だけに関わるのでよろしくというコラムを書いたばかりだった。
須田さんが『ぱれるが』に連載していた記事の中で猪俣のことを書いている。死んでから30年も全集も選集も出ていないのは生前も死後も不遇の人で、日共とも労農派とも対立したせいだろうと言った後で「山川と猪俣の相違を端的に示す一例を挙げよう」と書いている。
「『改造』の37年9月号に山川は「支那軍の鬼畜性」と題する一文を寄せている。67年の雑誌『中国』創刊号に再録され、山川尊敬の大内兵衛をびっくりさせた。それは「反語的な表現をしたに過ぎず,当時としては反語的に表現するしかなかったのだ」と山川を弁護したものもある。ところが、この一ヶ月後の10月同誌の「支那事変特別号」に猪俣が寄せた論文「隣邦支那の前途」(『猪俣津南雄研究』第五号に再録)を見ると,猪俣は「隣邦支那の前途を決定する重要な事柄は現にブルジョア=軍閥の手にある政権が民衆の手に移るかどうかである」と断じ、抗日戦争の成行きを「社会の進歩的再建の契機」としてとらえ、みごとな展望を示しているのである。猪俣理論を教条的に踏襲するのでなく、彼の豊かな思想を、経済分析、権力究明、戦略規定、運動の各分野にわたって総合的に把握することが大切だ。猪俣思想の性格をグラムシ思想、毛沢東思想との連環において、マルクス主義のポスト・レーニン的段階して世界史的に学びたいと意欲を燃やす人もある」
この文章は私が手書きのガリ版で切った『刊行会ニュース』に掲載されている。同じページに大内兵衛が短い文章を寄せている。自分はヒルファーディングの『金融資本論』を種本にすれば日本で当分やっていけると思っていた所に同世代の猪俣に、マルクスレーニンを自分のものにして全く新しい日本資本主義分析をする手つきを見せられて圧倒されたと書いている。日共の理論をリードした福本に対しても「猪俣君の福本イズム批判は風が枯れ葉を捲くように圧倒的であった」と書いている。あとから考えればすべて猪俣が正しかったが、彼が孤高の人だったために受け入れられなかった。それだけでなく日本のマルクス主義が幼稚すぎて、受入れられなかったのだ。
山川の中国鬼畜論はどう見ても弁護のしようがない。猪俣はそれにふれていないが、「隣邦支那の前途」では「軍隊の壊滅した後になお抗戦の展開を見ることもありうる」として普仏戦争やパリ・コミューンの例を挙げている。中国の民衆抵抗をパリ・コミューンの継承者として世界史的視点で見ていたのである。山川などと水準が違っていたことがわかる。 
猪俣の講座派理論批判、福本批判は徹底していた。しかし福本は猪俣の笹塚の家にしょっちゅう来ては、親しく交流し、ごはんを食べさせてもらっていた。猪俣は派閥を作るのを嫌った人なのである。


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2016年11月西荻の話(11)

2016年12月23日 17:08



父の四回の訪中のうち


 

西荻の話(11)
父の四回の訪中のうち、一回目は55年で、一人で行っている。二回目は倭文子と一緒だった。毛沢東とあった時である。60年だった。
三回目は一家で行き、大連の家に滞在し、途中から兄は学校のため帰り、母も一緒に帰り、父と私は少し残った。太極拳と静功を習った。これが64年である。
四回目は父と私で行った。文革のさなかで、67年である。
64年の時が気功に触れた最初だった。『新編私の気功歴1964-2004』からその部分を紹介しよう。
「田中角栄が訪中して国交が回復する8年前のことであるから、訪れる日本人はきわめて少なかった。香港に飛んで、香港から深圳への国境を両側から英軍と中国軍が銃を構える中を徒歩で国境を越えた。そこから広東へ、北京へと飛び、列車で大連に行ってしばらく住んだ。私は高校に入ったばかりだったが、早稲田大学の付属の高校で大学入試はないところだったからすっかりリラックスして、夏休みをはさんで数ヶ月休んでついて行ったのだった。その後45回ほども[現在までは150回余り]繰り返した訪中体験の最初の一ページだった。
当時は旅順といっしょにして旅大といっていた街の大連の部分に家を貸してくれた。ソ連の技術者が住んでいたという洋館で、トイレも坐ると足が足が床に届かないほど大きかった。はじめてたわむれにマオタイを7、8杯も飲まされて倒れたのもそこだった。ずっと滞在している日本の技術専門家の一家に会って同い年の女の子と仲良くなり、一緒にいろんな歌を歌ったりしたのもその洋館でのことだった。
一人は中医学の診断もできる西洋医が来て、主治医ということになった。鍼や灸やマッサージをする筋骨隆々のおじさんも来た。ある時「悪い血をとるから」と梅花鍼という鍼のたくさんついた器具で血だらけにしているのを痛ましい思いでこわごわ見物したりした「トンブトン」といつも聞くのが「痛いか痛くないか」で父が「ブトン」(痛くない)と答えるのが父にとっても私にとっても覚えた最初の中国語だった。もうひとり、小さくていかにも地味な中年の女性が来て太極拳をやりますということになった。日本でまだ誰もしていなかったころで「拳」という字がついているから殴り合うのかと思ってびっくりした。むろん太極拳はゆったりした舞いのようなもので、老いた病人にもできるものなのだが。
それを習いながら知ったことは、中国では病気になったら医者に任せるという考えはなくて自分で自分のからだと対話する手段を何か持たなければならず、それを手がかりにして自己治癒を進めて行くのを医師は援助するのであって、病人の自助努力なしには治るものも治らないと考えられていることだった。
私はずっと体育嫌いでほとんど拒否して来たが、この太極拳とはいい出会いだった。型があるのだが、それにそって動いて行くとからだの中からどんどん動きがわいてきて、頭で命令する動きをどんどん越えて行く動きが出てきた。自分の中の生命の泉みたいなものを感じたのはこの時だった。
私はそれ以来ずっと自己流の太極拳を続けているけれども、父にとってはそれはあまり幸福な出会いではなかった。やればやるほど緊張して、まわりをわらわせてくれたけれども、少しも治療に役立っていないように見えた。しばらくやってから、主治医が「別のやりかたにしたほうがいいみたいですね」とその大人して中年女性を首にしてしまった」
「かわりにやってきた初老の男性は、われわれを椅子に坐らせて,背筋をまっすぐにし、両手を膝において、目を閉じるように言った。その姿勢をして、何が始まるかと待っていると、何も始まらずに,ずっと待たされた。ずいぶん経ってから(実際は30分ほどだったが)「終わります」と言われた。何も始まらなかったのに何が終わったのか。今まで何か習うというのは何かをすることを習うのかとおもっていたが、これが何もしないことを習った初めての経験だった。老子の言う「無為」[無を為す]である。」


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2016年11月西荻の話(12)

2016年12月23日 22:11



『私の気功歴』から引いている


.西荻の話(12)
『私の気功歴』から引いている。大連で教えてもらった静功のことである。
「これは荘子に出てくる心斎というやりかたで、陳攖寧という道教の最高指導者が現代人にやりやすいように整理して”静功”とよんで普及していたものだった。気功の中の動功に対して動かないものを静功というが、その意味ではなく、”静功”という名前の方法である。特定の呼吸法もイメージコントロールもなく、ただ自分の呼吸を聴いて行って、自分の生命と意識が一体化して行く方法だ。
その時は時間がたっぷりあって睡眠も多すぎるくらいとっていたから、それでうとうとするということもなく、じきに「眠るよりも気持ちのいい休息の世界がある」ということに気づいて、またやみつきになった。父親もこちらのほうならやる気になったようだった。それは私の出会った最初の気功だった」
睡眠について一言。私は若い頃は普通に八時間寝る人だった。それが25をすぎたころから、突然あまり眠らなくなった。一日四時間で十分だった。それが気功のせいらしいことは、気功をしなかった日はたちまち八時間睡眠になることでわかった。このペースは60代まで続いたが、最近は少し乱れてきて、一日二三回二三時間寝るというようになった。「眠るより気持ちのいい休息」が次第次第に身についていったという具合だ。気功に熟練してもたくさん寝ないといけない人はいるので、これは私の場合のこと。気功の教科書にも書いていない。しかし、八時間睡眠が四時間ですむようになって40年経ったとなると、これまでに58400時間本を読んだり気功をしたりぼんやりしたりに使ってきたことになる。
「こまかい前後関係を忘れているのだが、そんなに長くはない最初の中国滞在の中で、兄と二人でハルビン、鞍山、瀋陽などの東北から上海、南京、武漢、広州など南方の都市をガイドをつけて回らせてくれた。南京で40度の酷暑に会い、その時に零下30度の豚肉倉庫を見学して、70度の温度差をあじわったりもした。その時に南京虐殺博物館を見せてくれて、さすがにこれで人生観が変わってしまった。この旅で気功にであったことと、戦争の残虐さを知り、日本人であることの重荷を初めて感じたことが二つの大きなできごとだった」
南京では当時の日本の新聞から虐殺の成果を誇っている記事や写真を大きく引き延ばしたり、いろいろの展示があったが、日本軍が開発した拷問器具のあれこれが恐怖をさそった。丸木に二個穴を開けたものを何だろうと思ったら、頭を乗せて上から叩き、目玉二つを取り出すものだった。当時の博物館の最後に展示されていたのは大きく引き延ばされた、生首を下げた日本兵の写真だったが、そのどこにでもいるフツーの農民の屈託のない笑顔にショックを受けた。臆病で気のいい日本の農民は、機会を与えられればこうして笑いながら生首を下げるのだ。それは圧倒的な体験だった。


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2016年11月西荻の話(13)

2016年12月24日 1:30



いよいよ、私が一生慕い続けてきた


 

西荻の話(13)
いよいよ、私が一生慕い続けてきた陳攖寧との出会いの部分である。64年の夏のことである。父と二人になっている。
「そのあと杭州の西湖のほとりに行きましょうということになった。ここには杭州工人療養院があって、たまたまそこに陳先生が来ているのだという」

 父と私が習いかけていた「静功」の創始者の所へ習いに行けるのだ。
陳攖寧老師は中国道教協会の会長をしていた。歴代の会長のうち彼の名声は決定的で、今でもこの協会のサイトの初めのページには陳攖寧の肖像がある。ずっと上海で過ごし、『道藏』全巻を何年かかけて読んだ人として知られている。「正統道蔵」「続道蔵」あわせて、5485巻ある。そこから実際に使える気功法のやり方を整理しただけでなく、道教の玉石混淆の中から「仙学」の伝統を掘り起こし、現代の諸宗教の病を救うとともに暴走する現代科学に対抗しうる人間=自然システムの壮大な理論体系を作った。正確には「作りかけた」のであり、完成にはまだ時間がかりそうだが、次第に多数の人がそれに取り組んでいる。老子の道家とも数百年後の張陵の宗教としての道教とも違う「仙学」の伝統は数千年前から続いてきたものだが、陳攖寧によって蘇り、新しい前進を始めた。陳攖寧は道教を内側から食い破って突き抜けた人であり、道教にも道家にも属さない「仙学」の人なのだが、中国道教協会の人々にも道家哲学の信奉者たちにも自分たちの最高の指導者として慕われているのである。
その陳攖寧が大衆的に教えていたのが、荘子の心斎を革新したやりかただった。新中国では当時で言うノイローゼの患者が激増していたので、陳攖寧はさまざまな抑鬱神経症(気分変調性障害)、不安障害、強迫性障害などの治療に心斎は使えるとし、当時まだ形成途上にあった中国の精神医学に代わってこれを指導し、大きな成果を挙げていた。
「自分でガリ版のパンフレットを作って、労働者の心身症を解決するために自ら全国を歩いて普及していた。」
「記憶の中ではどうしても白い髭の仙人の親分みたいな姿をとってしまうのだけれど、実際にはごく普通の老紳士だった。陳先生に習ったのは数日のことであるから、とても弟子とは言えないのだが、しかし古き良き時代の最高峰の知識人の雰囲気に僅かでも触れて,そこから私の気功人生が始まったことは本当にありがたいめぐりあわせだった」
「あなたの最初の師匠は、と中国ではいつも聞かれるものだから、陳攖寧と答えることにしてしまった。中国人の経験ある指導者なら目を丸くする。いま活躍する気功指導者がその先生の世代から聞いていた伝説上の人物だからだ。そしてそのことをみんなよく覚えていて、張宇先生が陳先生の側近の先生に会わせてくれたり、王沪生先生も観気旅行のなかでわざわざこの杭州工人療養院を訪ねるコースにしてくれたし、北京のホテルに訪ねてくれた閻海先生はこの陳攖寧のガリ版テキストのコピーを持ってきてくれた。劉尚林先生も人に私を紹介する時はまず陳攖寧先生の話から始まるという具合である。
陳攖寧の弟子を称するのは少しおこがましい。しかしそこから私の気功歴が始まったというのも嘘ではない。そして精神の上ではずっと陳先生の弟子であり続けたつもりである」 
陳攖寧の静功を私はずっと研究してきた。ほかのさまざまな気功と並行してである。50年を記念して、少しずつ人に教え始めた。陳攖寧文集も何種類か手に入れ、少しずつ研究してきた。2016年の3月に、私は北京で陳攖寧の側近の弟子だった胡海牙に指導されて学位をとり、学問の道をたどりはじめた何人かと出会った。陳攖寧の道は続いて行く。


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2016年11月ブラザーの7000円ほどの

2016年12月24日 16:36



モノクロプリンターが届いた




..

 ブラザーの7000円ほどのモノクロプリンターが届いた。
ずっと使っていたCanonのpixasが調子悪くなって、そのうちまったく動かなくなった。ネットで見ても、持って行って直るかどうか見てもらえとしか出ない。見てもらうのに一万円かかるという。もともと二万円しない安い器械だから、それなら買った方がいい気になる。それに三ヶ月に一度、インクが六色で一万円近くかかる。
決断を遅らせたまま、フィンランドに持って行くために買った携帯用のプリンタでしのいでいた。Epsonである。普通に使えるが、印字速度は遅く、インクもよく食う。九月から十二月で三度目のインクである。pixasよりは安いインクだがそれでもフルカラーである。うちはカラーはいっさい使わない。モノクロの文書だけだ。このEpsonの器械はそれでも勝手にカラーインクを四色使って、「?」とおもわせるが、八割がたはブラックを捨てる時に一緒に捨てることになる。
それでも仕方ないからインク二個買って来て、当分大丈夫、のはずだった。ところが「廃紙ボックスを交換してください」という指示が出て、頑として動かなくなった。なにそれ、聞いてないよ。廃紙ボックスがなぜいるのか、どこにあるのか、交換とは何をするのか。またインターネット頼りだが、何も説明していない。廃紙ボックスは大部分のEosonにはついていませんが、こう言う機能がありますという挨拶くらいあってよさそうだ。またEdionに行く。店員に聞いても「へえ、廃紙ボックスねえ。はじめて聞きましたね」と言っている。裏側を開けると小さな箱がついていて、一面はブラスチックでふさいである。みんな腹を立ててこれを開けたくなるらしく、決して開けないでください、と書いてある。一気に白髪になるのか、一気に顔が黒くなるのか。値段を聞くと520円だと言う。それはいいけど、買えるの、と聞いたらうちにはありません、神戸店か大津店には一つ残っていますが、取り寄せは正月休みの後になります。それじゃこのかん仕事ができないし、フィンランドに持って行くために買ったのに使えないじゃん、ということになった。踏んだり蹴ったりである。
しかたなく、今度こそモノクロのブラザーを昨日買って、今朝ついた。アマゾンである。この速さはなかなかのものだ。白黒は20年くらい前にヒューレットパッカードのを使って以来久しぶりだ。四色だの六色だの入れないのがこんなに気持ちいいとは。しかも速い。たまたま打ち上げた「露伴のわからない漢字」という二月に使うのを印刷した。12ページが五秒くらいで仕上がってしまう。早くこれにしておけばよかった。露伴の「道教に就いて」前半の243語のリストが五秒である。今日中に「気功文化」もう一冊仕上げて、といろいろ仕事したくなる。まだどんななんとかボックスがついているのかいないのかは分からない。知りたくもない。
しかしフィンランドはどうするか。年内に東京に行く機会があるので、秋葉原で探して見るか。マイナーな器械を買ってしまった。しかし大きさで言うとブラザーの器械の二十分の一くらいなのである。不便は覚悟の上か。


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2016年11月くだものの薬効 その(1)

2016年12月24日 17:48



《茘枝》


くだものの薬効 その(1)

《茘枝》
[性味帰経]果肉 味甘、酸。性温。核[種子も食べるんだ]味甘、微苦。性温。脾経と肝経に入る。
[効用]果肉は益気補血。核は理気[気を整える]散結[しこり、気のつまりを解く]止痛。脾が虚してずっと下痢がちだという人には茘枝を30から60グラム、皮を取り去り、ナツメ五個と水煮し,朝晩少しずつ飲む。
[用法その他のコメント]皮膚に腫れ物が出やすい人、胃に熱があり口が苦い人はたべないほうがよい。
《りんご》
[性味帰経]味甘、性涼。
[効用]補気、健脾、唾液を増やす,下痢を止める。
《なし》
[性味帰経]味甘、微酸、性涼。肺、胃経に入る・
[効用]唾液を増やす、乾燥を潤す,熱を下げる、痰を出やすくする、酒の酔いをさます。熱病で傷陰あるいは陰虚で咳が出る、口が渇く、便秘など、また内に熱があり喉が渇く、咳が出る,痰が黄色い時によい。皮を酒に付けておくといい薬になる。
[用法その他のコメント]脾虚で軟便の人,寒くて咳をしている人はたべないほうがよい
《もも》
[性味帰経]果肉 味酸、甘、性温。種 味苦、甘、性平、少し毒がある。
[効用]果肉は肺を引き締め唾液を出す。血を活発にする。種は血の通りをよくしあちこちのつかえを取る。腸を潤す。
[用法その他のコメント]食べ過ぎると熱が出る。
《バナナ》
[性味帰経]味甘、性寒。肺大腸に入る。
[効用]熱を下げる、唾液を増やし渇きを止める、肺を潤し腸を滑らかにする。温熱病で口が渇く大便が固まる。痔の出血のある人は少しずつ常食した方がよい。
[用法その他のコメント]過食すると脾と胃が冷える。軟便の人は食べない。潰瘍があったり、胃酸過多の人は食べない。
《ぶどう》
[性味帰経]味甘、酸、性平。肺、脾、腎經に入る。
[効用]気血を補い、筋骨を強め、小便をよく出し、気血虚弱、肺が虚して咳が出る,心臓が速くなって寝汗をかく、風湿のしびれと痛みがある、むくみ。
[用法その他のコメント]多食は熱が出、下痢を起こしやすい。
《みかん》
[性味帰経]味甘、酸、性涼。肺と胃経に入る。
[効用]胃を開き、渇きを止め,肺を潤す。胸膜に気がたまって動かない、吐いて食べられない、口が渇き、飲み過ぎによい。
[用法その他のコメント]風寒で咳のある人はたべないほうがよい。


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2016年11月全体のタイトルを

2016年12月24日 23:33



私自身、そして私をつくった人々



全体のタイトルを
私自身、そして私をつくった人々
としました

「第一回 誕生から中国老師との出会い」はここまでである。まだ書き込みたいこともむろんあるが、西荻窪の話に不足したこと補いつつ一応まとめてみた。父親の話、猪俣の話、母親の話が錯綜して入ってくるので分かりづらいかも知れない。
このあとどういう展開になるのか,実は話したり書いたりしてみないと分からないが、
◇気功にいれあげたところで中国では気功弾圧の時代が始まり会えなくなってしまうこと
◇仕方なく「日本の気功」を探して彷徨うこと
◇早稲田のバリケードの中でガリ版原紙に直接チラシを書きまくった頃
◇二冊の本がきっかけで売れっ子物書きになりすごい量の原稿を書くこと
◇吉本隆明に喧嘩を売り、本気を出させたこと
◇北京で気功に出会い直し、書店の本棚一段気功の教科書を買って帰り,読み始めること
◇週刊ピーナツ、全共闘とベ平連の合作
◇鹿児島の女と一緒になり、奄美沖縄を放浪すること
◇焦国瑞、周稔豊、張宇という三人の先生につくこと
◇神戸への脱出、神戸気功懇談会の頃
◇雑誌『80年代』への参加としなやかキャラバン、リヤカーを引いて本を売った
◇最初の料理の本を出し、幼稚園から辻留までを振返る機会を持ったこと
◇月刊焼酎通信で全国のメーカーとふれあう
これでまた13回なのだが、そのあと
◇関西気功協会を設立し、中国観気旅行が始まる。
ということになる。まだ1987年ですね。


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2016年11月私自身、そして私をつくった人々・

2016年12月25日 0:13



周恩来が日本語を話した



私自身、そして私をつくった人々

01 周恩来が日本語を話した
02 下北沢の少年時代
03 私を育てた本たち
04 父・高野實 第一次共産党から総評事務局長まで
05 中国に謝りたい
06 比翼連理?
07 不倫の子
高瀬真卿ー大塚園ー倭文子
08 猪俣津南雄と倭文子
09 出版されなかった猪俣津南雄全集
10 隣邦支那の前途
11 大連での暮らし
12 心斎との出会い、南京虐殺博物館との出会い
13 陳攖寧老師との出会い


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2016年11月 母と、母の母の写真 (1)

2016年12月25日 12:10



素園遺稿のこと再掲します



素園遺稿のこと再掲します。
母と母の母の写真 一

 淑徳大学の長沼さんという方から何度かお電話を頂戴した。高瀬のことをしらべているということだが、すぐにピンと来なかった。よく考えてみると、なんと私の母方の祖父なのである。祖父が刀剣の鑑定家だと言う話は聞いたことがあったが,それ以上にどんな人かというのは聞いたことがなかった。長沼さんはもう長年にわたって高瀬のことを調べていたらしい。ただの刀剣鑑定でなくさまざまな分野に足跡を残した人らしかった。
長沼さんは私への手紙で描いておられる。
「小生は43年にわたって日記を書き続けた高瀬真卿(1855-1924)の事績を研究している者です。高瀬は明治・大正期にジャーナリスト、新聞経営、政治小説、歴史小説の著者、出版社経営、刀剣鑑定の分野に足跡を残しております」� ジャーナリストで小説家だったなんて、聞いたこともない。それだけでゆさぶられた。その高瀬の子孫が残っている43年分の日記を淑徳大学に寄贈して、長沼さんが調べることになった。その関連資料の中に「その、しづ子、范、たけ」が写っている写真があったので、それはあなたの母おじおばだろうかという問い合わせをして来られたのである。それは大正三年に撮られた写真らしく、志づ子9才、范7才、たけ2才と書いてある。范は模範の範と同じ字で、すすむと読ませていたらしい。たけは洸子でたけこと読ませていた。それに比べれば母はまだわかりやすいが、倭文子と書いて「しづこ」である。高瀬は「志づ子」「志津子」とも書いていたらしい(実は私のペンネームの津村喬は「志津子」と「猪俣津南雄」からとったのである)。長女の倭文子はくりっと大きな眼で見間違えようがない。� 母の母は大塚園子といって、1916年8月3日に結核で28才で亡くなっている。母の方は1905年生まれだから,母の母が17才の時の子供である。高瀬の方は50才だった。園は芸者だったらしい。それは母からも聞いていた。小さい時は三味線や琴も親にならった。それを身請けして愛人にした。少し年上の本妻はずっと元気だったから、隠して、ということもできなかったろうが、笹塚に結構大きな家を持って、書斎ということにしてそこに通い、園を住まわせた。翌年に倭文子が生まれた。母から聞いていた話では、園はずっと柳橋で芸者のままかと誤解していた。� 高瀬が50の時に園は17才で、親子のように離れていた。そのことは今回はじめて知った。� 東京駅前のKitteビルの五階の喫茶店でお会いした。思いつかなかったのでこの辺が分かりやすいかと指定したのだが、なんとなくコーヒーだけではすまないような雰囲気でケーキセットも取った。余計な金を使わせてしまった。さっそくおくっていただいた写真の確認から始めた。


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2016年11月 母と、母の母の写真 (2)

2016年12月25日 12:10



私の祖父である



母と母の母の写真 二

 私の祖父である高瀬真卿については刀剣の鑑定をしていたという話しか聞いていなかった。長沼さんに会って初めて聞く話ばかりだった。ジャーナリストをし、新聞経営もし、いろいろな小説を書いた。これは明治の自由民権運動の頃である。常陸の国、茨城県の出身で、茨城新聞、仙台日々新聞などを主宰した。何度も獄中生活も体験したらしい。その体験から東京集治監の教誨師となり、明治18年(1885)日本で二番目の感化院である東京感化院・錦華学院を創設した。最初の感化院は大阪でできたがすぐつぶれていて、現在まで残っているのは錦華学院のほうだという。非行少年・少女の保護・教化の目的でできたのが感化院だが、現在は児童自立支援施設と呼ばれている。高瀬の人に知られる事業というとこれであるが、晩年はどこで知識と研鑽を積んだものか、刀剣鑑定家として知られるようになった。刀剣鑑定でどんなふうに金が入ってくるものか、未だによくわからない。 
その高瀬の43年に及ぶ日記が残っていて、遺族が置いておいても邪魔で処分したいが福祉研究で知られる淑徳大学に引き取ってもらえるならと、無償で提供してくれた。長沼さんは『近代日本の感化事業のさきがけ―高瀬真卿と東京感化院―』という本をまとめ、膨大な日記を六巻に整理して、五巻までがすでに刊行されている。全部で二万程度のものだから、フィンランドから帰ったら注文するつもりでいる。� 私の祖母と子供たちについては、高瀬家ではむろん記録には残っていない。 � その中に紛れ込んでいたこの写真については、見落としていたのかも知れない。� 長沼さんはお会いした時に『素園遺稿』という80ページほどのパンフレットのコピーをくださった。それはまさに驚くべきもので、園が亡くなったときに高瀬が編集して、おそらくごくごく内輪で残したものと思われた。扉には園子の写真がある。むろん和服姿で丸髷に結っている。14才くらいから折りにふれて書き残した千首余りの和歌から自ら百首を選んだ。ということは死を覚悟してこうした形に残そうと思ったか。「わらはが、幼き頃より読出たる、腰折れ歌あまたあれど、みな幼き口ぶりのみにて、ひとに見すべきものにはあらず、そが中に君が見たまひて點加へたまひしもの百首ばかりもあなり、これのみは書きとどめて倭文子に採らせんとて、かくかい記すなり。これもまた他に見せんとにあらずあなかしこ」� ここに倭文子が登場してきた。「君」というのが高瀬のことである。� この和歌は基本的にはすべて恋歌だ。�   うつせみの世にふたつなき命をば�     君にまかせて十年へにけり�   世の中は何をうつつと定めはや�     夢とも見えぬ夢もありけり� 倭文子にこの物狂おしい恋心のありかを伝えたかったというのだろうか。


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2016年11月母と母の母の写真 (3)

2016年12月25日 12:12



園の日記に



母と母の母の写真 三

 園の日記に倭文子(しずこ)の名前が出てくる所を抜き出してみる。
01 素園百首の素園による序文
これのみは書とどめて倭文子に採らせんとて、かくかい記すなり
02 明治40年6月5日[倭文子二才]
 倭文子が生長して祖父母の事を知らんと思ふ心も出つべし思ふ故
03 7月30日
 母上は倭文子をおさんに背負うて、上野の博覧会に行きたまふ
04 12月14日
 (鎌倉へ)六時半に起出て支度をなす、同行は母上、倭文、銀次郎と妾なり、倭文は銀次郎におん負して。(品川より)透きたれば倭文子を下したるに、ひとりで騒ぎまわるそれを見ながら行くうち…
 庭園を散歩しながら倭文子を遊ばせ居るなかに
 銀次郎に倭文を背負わせて八時の汽車にて帰りたまふ
05 明治41年2月15日[倭文子三才]
 朝飯しまつて、倭文子に靴はかせて、中通りの邊を散歩しながら遊ばせる、右より左より織るが如く来る車、あぶなければ、なるべく軒下を歩かせるに、気ままにしておけばスタスタと菓子屋へ入り込み出て来ぬ故、余儀なく買ねばならず、下駄屋へ這入りて、小さな下駄持ち出されてまた入もせぬ下駄を買て大笑いした事もあり
 夕方倭文子つれて湯にゆく
06 2月21日
 行違いて乳母(ばあや)倭文をおん負して来る
07 明治42年1月10日
 モウ[書道の]お稽古をやめたくなった、いつか倭文子か十三にもなつたら習はせやうと思う�08 大正4年9月24日[倭文子10才]
 十六夜の月を見るつもりとて、…米一升挽て團子十六こしらへ、三宝の上に盛り、…涼臺の上にて子供三人相手に都合五人にて、月を見ながら酒もりをなす
09 4年11月10日[倭文子12才]
 今日は御大禮御執行の當日なり、…子供等をお湯に入れて三時に一同衣服を更む、[大正天皇の即位礼があった]
 京都の方へ向て妾が天皇陛下萬歳と唱へたれば、三人の子も同じく萬歳を呼ぶ…三人に御赤飯を祝はせ、五時頃倭文子をつれて日本橋まで買物にゆきたるに
10 4年11月16日
 うちでも小さな園遊会を催さうと、俄に折紙で色々の小旗をこしらへ、庭の松の木より桜と梅へと二枚絲を引わたし、それへ数十枚の小旗を釣し、また小共が学校の旗行列で貰つた小旗や、小提灯をいくつも下て、庭におでん屋と海苔まきすしの店を出し、小共らのお友だちを五六人呼で来て遊ばせる,皆々嬉しがつて飛回る、洸子までが喜ぶこと一通りでなし
11 5年2月6日
 今日倭文つれて小島へ年始に行ふと思ふたるに雨天にて見合せ、倭文は不平だらだらなり[この頃発熱、悪寒、寝汗があるようになり北里の養生園にかかることにする]
12 5年2月8日
 倭文は風邪にて学校を休む
13 5年2月13日
 倭文子に催促されて小島さんへ年始に逝く白木屋で買物してから小島により四時に帰る
[連日発熱。一日おきに北里に行くがそれも苦しい。2月24日から5月15日まで日記は中断。17日も「涙のとまらぬ日なり」18日も「同じく」とある。治らないので東大の伝染病研究所に行くが見立ては同じ。自筆の日記は25日で終わっている。以後「二十六日より十日計は倭文子に口授して代筆させたけど、六月に至りては病床に呻吟して口授するすら懶き體なり」8月8日永眠。28才だった]


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2016年11月 母と、母の母の写真 (4)

2016年12月25日 12:12



この写真では


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 この写真では、母の園と倭文子(しずこ)、范(すすむ)、洸子(たけこ)の三人が写っている。ところが私の記憶には、まだ雪子がいる。それから葉子と八重子がいる。葉子と八重子は会っていないのだが、雪子は洸子同様倭文子の晩年にもいつも会っていた。そのことを長沼さんに伝えた。長沼さんは知らなかった。雪子は范と洸子の間の子のはずだが、子供時代の写真はない。帰って探してみたら、倭文子と雪子の着物姿の写真は何枚かあった。洸子も成人してからはずっと着物である。倭文子はふだん洋装で小唄の会などでは着物を着ていた。
雪子は藤田親昌の妻だった。藤田親昌は戦時中の中央公論事件の被告として知られ反軍部に突出していた中央公論の編集者だった。親昌と雪子の息子が劇団三十人会のふじたあさやである。雪子は倭文子の妹と聞いていたが、私の勝手な思い込みかも知れない。「養子という事も当時はしょっちゅうありましたからね」と長沼さんはいう。園の父も五十嵐の養子であったし、園自身も大塚の養子だった。雪子の事は調べてみなければならない。
范の写真はわが家に残っていたのは軍服姿のものばかりである。結婚式のも、一人で写ったのも皆軍服である。高校までも常に一番だったが、招集されてからも成績抜群で、海軍大学に推薦されて入った。昭和18年に潜水艦に乗っていて撃沈された。倭文子はしばしば思い出していた。私も会ってみたかった。
洸子がどんな育ち方をしたのか、聞いたことがない。私が知っているのは浪々と長唄を歌い、三味線を弾く姿である。私が晩年の倭文子に小唄を習って三味線をいじった時に、それを聞いて洸子は「姉さん、この人を長唄にちょうだい。きっと大成するわ」と言った。リップサービスだとは思ったが、長唄に売られては大変と逃げ出したことがある。
もうひとつ記憶に残っているのは、洸子の亭主が急にボケ始めたことである。長唄で忙しくしていた洸子は家にいた夫とあまり生活をともにしていなかった。あるとき帰ったら「どちら様でしたでしょうか」という。ふざけているかと思ったら、本気なのである。施設に入れてやっと落ち着いた。
葉子と八重子はどうなのか。『素園遺稿』には二人は出て来ない。
 古いアルバムには八重子の写真はたくさんあるのだが 葉子の写真は今の所見つからない。まだ写真はありそうな気がしている。ただ、一番古いアルバムの一ページに、「范さんの兵学校入学記念」と倭文子の字である写真がある。といっても写真そのものははがれてしまっている。その下に「しづ20、范18、葉子8、八重子5」と書いてある。その下に残っている写真があり、八才の葉子と五才の八重子の後ろに倭文子が立っている写真がある。しずが20というと大正14年(1926)。葉子は大正6年、八重子は大正9年の生まれということになる。園は大正5年に死んでいる。葉子はその翌年、八重子は4年後に生まれている。葉子と八重子には別の母親がいたのである。もう高瀬は62才だった。元気な人である。母親が誰だったのか。わたしが「おばあちゃん」として記憶している人なのだろうか。 
私は小さい頃「おばあちゃん子」でおばあちゃんに負ぶわれて背中で過ごして、その時間はけっこう長かったきがする。しかし小学校4年くらいの時におばあちゃんが死んで、浅草寺に祀った。その時に本当の祖母でない事を知った。彼女が葉子、八重子の母親だったのかも知れない。
 葉子と八重子は二人とも二十歳前後で結核で死んだ。


 

 



2016年11月1967年のことである

2016年12月26日 7:45



1、23『人民日報』、


·

1967年のことである。
1、23『人民日報』、社説「プロレタリア革命派は大連合して、資本主義の道を歩む実権派から権力を奪い取ろう!」を発表。
1、28「上海市紅衛兵革命委員会(略称、紅革会)が張春橋を攻撃。
反革命組織と断定され、鎮圧される
2、5「上海人民公社」
2、11・16中南海懐仁堂で、周恩来主宰の中央連絡会議が開催される。党・政・軍の長老と江青・張春橋らが文化大革命の原則問題を巡って対立す
5、17江青、「伍豪公告」事件で周恩来を攻撃。
6、17中国、初の水爆実験に成功。
7、18戚本禹、「劉少奇批判闘争」大会を開催する。
7、20武漢「7・20」事件発生。謝富治と王力ら、武漢の大衆組織「百万雄師」に拘束される。

 私が周恩来に会った時、彼はどんな状況だったのか。
この年は文革発動二年目だった。前の年の66年の5月に、中央文革小組が作られて、共産党の政治局、書記処は停止された。5月から6月に若い学生たちを中心に紅衛兵が登場し、全国に拡大する。8月、毛沢東は自ら「司令部を砲撃せよ」という大字報(壁新聞)を書いて、まだ形の上では党と政府に君臨していた劉少奇、鄧小平を批判する。軍の組織を除いて、すべての政府機関は停止する。中国全土で若者による党組織の破壊が進み、奪権闘争とされるが、むろんさまざまな立場があり、互いに武装して闘い、社会は大混乱する。古くからの党幹部や各級政府職員は実権派と呼ばれて、時にはとんがり帽子をかぶせられて大衆大会で自己批判させられた。周恩来はこの状況をいいとは思わず、陰で出来るだけ老幹部を保護しようとしたが、下手をすれば自分も血祭りにあげられかねない。劉少奇、鄧小平らの古くからの仲間が追いつめられて行くのを尻目に、彼はここはとにかく毛沢東を支持しようと決心する。自己の保身だけでなく、混乱の中に永久革命の可能性を見たからだ。
毛沢東は気が狂った訳ではなく、彼なりに解放後の政治権力は次第に保守化し、思い切ったやり方で「再革命」をやらなければならないと考えていた。党と政府のネットワークは頼れないので、若者たちを動員しようとした。だがその中に毛沢東の意図を越えて、上からの指令によるのでなく、本当の民衆革命を志向する潮流が出てきた。毛は彼らを農村に追放して解体しようとした。毛沢東夫人の江青と上海出身の若手の過激派は劉少奇らに罪を着せて極端な罪状をあげて非難した。その中で67年2月、上海市は張春橋らによって奪権され、「上海人民公社」を名乗った。
人民公社とは「ピープルズ・コミューン」の中国語訳である。この言葉は50年代末から農村部で「村」のかわりに使われて、家庭で食事を作らず食堂でただで食べられるとかの共同生活をつくりだしたが、いろいろ極端なこともあってすたれ、形骸化していた。上海コミューンが実現するとすれば大きな意味を持つが、はたして実現するのか。周恩来らは反対した。全国がコミューンになったら中国は中華公社になるのか。毛沢東は一時上海公社を支持するが、それで国家は維持できないという周たちの意見に同調する。
「伍豪公告」というのは今は詳しく述べないが、江青たちが周恩来をやめさせようとした事件だった。だがそのネタは台湾のスパイが流したものだとばれて、疑いは晴れた。しかし江青らと周恩来の対立は激化していく。
6月、中国は初の水爆実験に成功する。軍部と原子力関連の組織は奪権はしてはならないと文革の圏外におかれていた。そしてアメリカから帰った銭学森が人工衛星、ロケット、ミサイルの開発を指導していた。紅衛兵で解体しかけた国家の重みを感じさせるデモンストレーションでもあった。
周恩来が私たちに会ってくれたのは、こう言う時期である。共産党の初期には、周恩来の権威は毛沢東よりはずっと高かった。抗日戦争の国共合作の頃も周は共産党を代表して蒋介石と交渉していた。だが次々に最高幹部が消されて行くのを見て、「ナンバー3」になるという腹を固めた。毛沢東・劉少奇の時代にも「ナンバー3」だったし、毛沢東が失脚して劉少奇・鄧小平の時代にも、復活して毛沢東・林彪の時代にもそうだった。林彪が反逆して毛沢東を殺そうとしついに逃げ出して飛行機事故で死んだ時には、困ってしまった。誰が見てもナンバー2は周恩来しかいなかったからである。毛沢東は誰よりも毛沢東を支持した周恩来をいじめ抜いて、膀胱ガンの治療も受けさせずに周は死んだ。まだそれはだいぶ先の話だ。


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2016年12月 三日からヘルシンキに発つ

2016年12月31日 8:23 ·



MKの空港タクシーを予約した



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三日からヘルシンキに発つ。MKの空港タクシーを予約した。朝四時に迎えにくる。カウコからはいろいろ要求してきたので買い回らないといけない。貼るカイロは患者の治療にも使うし自分たちでも使う。オロナミンは昔からの彼のフェイバリットで、いまはリポビタン全盛だから薬屋で簡単に手に入るかわからない。フリカケはもう買った。空港のイナリ弁当がほしい。空港のセブンイレブンのことである。スプリング人形というのは、空港のもう乗り場に近い売店に売っている人形で舞子とか相撲とかのずっとお辞儀をしている人形。エレナのショウウィンドウに並べて喜んでいる。
エストニアで小さな正月パーティをするかとも聞いて来た。それは簡単なことで、スーパーで黒豆とか伊達巻きとか蒲鉾とか餅とかそろえていけばいい。このさい品質に贅沢は言わない。
ひとつ心配なのは、持って行く小さなマックでは私が通じなくて余分の高野のページを作ったのがいつまでも残っていて、これを消去したら正しいアドレスもうけつけなくなって、今の所大きな器械でしかフェイスブックをみられないということだ。いろいろやってみてるが、何度も葬ったはずのが復活してくる。これができないとまた三週間沈黙になってしまう。

 

 

 

 

 

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