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2017年2月



2017年01月気功辞書(1)

2017年2月2月1日 8:00



得気  とっき  deqi



得気  とっき  deqi
気の海の中にいる自分を自覚すれば
自分が変わることが世界を理解することだとわかってくる

気が通ったという実感を持つこと。
言葉通りからすれば「採気」同様外部世界から気を「得る」ことのように思えるが、普通は「理解」「自覚」に関わる言葉として、気の感覚を得ることを言う。
鍼灸師にとっては「得気」は鍼を打った時の気が通ったという実感のことである。その感覚が薄れ機械的に「ここに打てばこの症状が取れるはず」と打つタイプの人が多くなった。増永指圧が気の指圧といわれたゆえんは得気訓練を基本においたことによる。1980年代の気功の復興期にまだ公然と気について語りにくい中,練功十八法はひとつひとつの動作の「得気感」を指定している。それは筋肉のストレッチによる刺激感を内容としていて本来の気感とは言えないが、動いてみて体の中の変化を確かめ、自分の体と対話して行くという気功の基本姿勢を養うためには重要だった。
気感というのき気が動くことによって生ずる違和感のことで、多種多様な感じ方を伴っている。「意が気を導く」段階では、どこかの部位や流れを意守するとそこに違和感が生ずる。やがてもっと深い気が動くと意図しなかった深い違和感が生じて意念がそれについて行かざるをえなくなり、「意気相随」になってくる。文明人は鈍感になっているので、微妙な自然の声を聴くことので来た古代人の敏感を取り戻すために訓練が必要である。然し敏感追求が強迫観念になると過敏症状に悩まされることになる。得気の訓練は必要だがそれにつりあう定力を養うことがもっと大切。敏感であることのいい面と悪い面を知るべきだ。

 

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2017年01月気功辞書(2)

2017年2月2月1日 8:00



行気  ぎょうき  xingqi



 

行気  ぎょうき  xingqi
私が気をめぐらせるのか
めぐる気を意識できるだけなのか
主客が何重にも転倒して「僕って誰」になると
やっと気功の門に入る

気がめぐる状態に近づきたいと思う結果気がめぐること。
自然に気がめぐるのでもなく、人為で気をめぐらせるのでもなしに、やろうと思って呼吸法などするが、なおかつ自分がしているというこだわりを捨てて「凝神浄慮」になった時に気がめぐる。運気と似ているが、運気は経絡中を「めぐらせる」にせよ体外を「めぐらせる」にせよ意識主動のニュアンスが強く、やってみてあとは天命を待つという感覚の行気と少し違う。
いろいろな方法があるが「凝神浄慮」ということと、呼吸は軽くゆったりコンスタントに長く深くということでは共通している。漢代には気功の総称であったと説明されることがあるのは周天功の秘訣を要約した「行気玉佩銘」の存在による。いずれにせよこう言う感覚で気がめぐらないと気功をしているとは言えない。しかし宋代になると、三調の中でもとくに調息によって行気する流派を行気派というようになった。調身を主とするのが導引派、調心を主とするものに存思派などがある。行気派の代表的な功法に六字訣、胎息などがある。小周天はこの行気の典型である。ただしこれも淡い意念で内発の気のめぐりを待つことができないと、想像力でめぐらせるニセの行気になりやすい。「こうき」「ぎょうき」どちらでもよいが「ぎょうき」のほうが舌になじみやすい。

注 ここでは小周天を内丹ではなく行気に分類している。先天の気を問題にしなければ周天は行気の一部である

 

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2017年01月東京の気功仲間の西尾さん

2017年2月2月3日 4:36



『帝都東京を中国革命で歩く』とい


東京の気功仲間の西尾さんが『帝都東京を中国革命で歩く』という本を見つけてくれた。譚璐美という人が書いていて、白水社ででている。
第一部早稲田、第二部本郷、第三部神田という構成である。明治大正期の東京地図が豊富に挿入されていて、当時のようすと現代を対比しながらの歴史記述になっている。
日清戦争で小国日本が買ったことが清国の知識人たちの関心を引き、清国留学生が次第に増えた。1902(明治35)年には500人の留学生が来た。翌年には1000人と増え、1905年に日本が日露戦争に勝つと日本留学ブームが起った。早稲田大学は特に人気で、1910年の段階で700人に達していた。康有為、梁啓超らは新潮の改革を押し進めていたが、西太后によるクーデター戊戌政変によりつぶされてしまい、康、梁らは日本に亡命した。梁は吉田松陰、高杉晋作にあやかり吉田晋と名乗って、日本の各界に支持を訴えて歩いた。東京で東京高等大同学校、神戸で同文学校という華僑師弟向けの学校を作ったのも彼である。進化論から金融政策まで膨大な研究をし、辛亥革命の後袁世凱の政府の司法総長、財政総長を歴任したものの、抗議辞任し、余生は学者として過ごした。
清国留学生として来日した宋教仁は孫文の下で『民報』の編集に携わったが、決裂して揚子江流域からの革命を構想して働きかけ、武昌に始まって全国十八のうち十一省が清国からの独立を宣言した。実質宋らが組織したものだったが、アメリカの軍艦に乗って帰国した孫文が総統の座についた。内閣総理大臣には衆目の一致する所宋教仁だったが、1913年3月北京駅で暗殺され、31歳で亡くなった。袁世凱がしたことで、孫文は総統の座を降りて袁に譲った。
国民党の蒋介石も、中国共産党を作った13人の創立メンバーのうち4人、李達、董必武、周沸海、李漢俊が日本留学生だった。周恩来もそうである。共産党の顧問格だった陳独秀や李大釗も早稲田組である。
その後の魯迅や郭沫若のことなど、話は今の中華人民共和国を作った人々に向かって行く。日本政府は隣国に遠慮して立ち退きを要求したりして、彼らに亡命生活をしいた一方、頭山満、宮崎滔天らの右翼や石川三四郎、木下尚江らのアナキスト、社会主義者の支援を受けた。
この本はよく出来ているが、私の関心の焦点である宋教仁や章炳麟の日本での活動がほとんど描かれていない。宋と北一輝の交流や、宋、章の岡田式静坐との交渉がまったく書かれていないのが残念なことである。

 

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2017年01月寒い日が続くと

017年2月2月4日 3:28



やはりおでんがいい




寒い日が続くと、やはりおでんがいい。四人前の土鍋を出して、一人で食べるにはだいぶん多い量の豆腐とか練り物とか大根とかを買って、煮て、日々冷蔵庫から継ぎ足して行く。今は少し体の調子がよくないので、これ以外には余り食べない。ご飯やパンや甘いものをやめるということになっているが、フィンランドからの落花生の粉末を固めた菓子を買ってきたり、つい卵サンドを買ってしまったりの癖が抜けないので、心を鬼にして全部冷凍庫にしまいこみ、おでん中心の生活に切り替える。糖分や糖分に変化する澱粉を全廃するのである。そうはいってもみかん、きんかん、バナナなどは安いし、口さびしさを補ってくれるものだから、おいてある。食べ過ぎないようにしている。牛肉のもやし炒めとか、キッシュとか、自家製のコンビーフとか、砂糖を使っていない梅干しとか野沢菜とかわさび漬けとかは推奨されているから、寂しいことはない。はるさめとか、朝鮮のお好み焼きとか、焼きそばとかが残念ながら駄目である。おでんには豆腐、焼き豆腐、厚揚げ、大根、人参、えびイモ、ウィンナ、ゴボウ天、はんぺん、ゆで卵、さつま揚げ、ちくわ、鶏手羽などの中から適当に取り上げて行く。東京と関西とほぼ半々の人生になって来たから、関東風のおでんと大阪の関東炊きとの区別があまりつかなくなってきた。相変わらず濃い口醬油を使っている程度だ。朝昼晩と決めないで好きな時にすこしずつ食べる

 

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2017年01月城達也のジェットストリーム

2017年2月2月5日 16:54



探してみたら



ジェットストリーム、探してみたらけっこう長時間聞けるので、なんとなく流している。レイモン・ルフェーブルも実に久々に思い出した。ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、カラベリなどなんとなくアメリカと思っていたが、この四者ともフランスだったのにびっくりした。
それ以前はムード音楽と言っていた。イギリスのマントバーニ・オーケストラが1950年代初頃に「シャルメーヌ」を ヒットさせたことで広く知られるようになった。 彼のサウンドの特徴は、所謂「カスケーディング・ストリングス」と呼ばれた滝が流れ落ちるかのようなストリングス・サウンドと言われた。アメリカのパーシー・フェイス・オーケストラは、1960年に発表した「夏の日の恋」が、ストリングス・サウンドにロックのリズムを融合させたアレンジで大ヒット曲となった。 パーシー・フェイスはその後のイージーリスニングに通じるソフトなロックとストリングスの融合と言う演奏スタイルを確立した。それから上記のフランスの四大オーケストラの登場とともに、イージー・リスニングと呼ばれるようになった。それが70年代中期であり、私が一番聞いていたころのことだ。ストリングスにブラスやドラムを加えた編成がグランド・オーケストラとよばれた。
このころのヒット曲に
●「恋はみずいろ」 ポール・モーリア・グランド・オーケストラ
●「シバの女王」 レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラ
●「エーゲ海の真珠」 ポール・モーリア・グランド・オーケストラ
●「アドロ」 フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラ
●「ふたりの天使」 サン・プルー&ダニエル・リカーリ
●「ある愛の詩」 フランシス・レイ
●「愛よ永遠に」 ワルド・デ・ロスリオス
●「ゴッド・ファーザー~愛のテーマ」 ポール・モーリア・グランド・オーケストラ
●「涙のトッカータ」 ポール・モーリア・グランド・オーケストラ
●「哀しみの終わりに」 レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラ
●「オリーブの首飾り」 ポール・モーリア・グランド・オーケストラ
などがある。
70年代後半からピアノ・ソロを中心にストリングスを配した新しいサウンドが台頭し、従来のグランド・オーケストラと区別してニュー・イージーリスニングとよばれた。
80年代に入るとジョージ・ウィンストンなどが登場して、「巻き込まれないで距離をおいて聞ける」「壁に自然の風景を映しているみたい」なタイプのサウンドが登場して、ニューエイジ・ミュージックといわれた。そういえばジョージ・ウィンストンも何枚も持っていた。80年代から90年代にかけて、長時間イージーリスニングを流すラジオなどは次々に姿を消し、若者をターゲットとした騒々しい音楽にとってかわられた。しかし意識的に聞いて行こうと思えば、まだまだ残っている。ジェット・ストリームを見つけた所から思わぬページをめくってしまった。

 

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2017年01月気功通じて自然と一体感

2017年2月2月5日 23:29



ディープ・エコロジーのつながりを強調して



気功通じて自然と一体感

1994年頃は気功とディープ・エコロジーのつながりを強調して気功を通じての健康教育だけでなく、気功を通じての環境教育を提起し、様々な形で進めていた。いくつか当時の新聞記事から拾ってみよう。以下は神戸新聞の94/2/20から。共同通信の発信で十いくつかの地方紙に掲載されていた。30数年前のことである。

 野鳥や草花を観察したり、ごみを拾ったりするだけが「環境教育」ではない。都会暮らしの現代人にはまず自然とどう向き合うかの”訓練”が必要だろう。こうした考えのもと、このほど三田市の関西学院千刈キャンプで開かれた「環境教育ワークショップ」の分科会で、関西気功協会代表の津村喬さんの指導を受けて、気功を通じて木や動物との一体感を味わう「ディープ・エコロジー」の講習が行われた。
日本では健康法や超能力の一種と考えられている気功だが、その目指す所は「天人合一」という人間と自然の深い調和にあるという。津村さんによれば「五禽戯」と呼ばれる動物をまねた気功法は、クマや鳥など人間以外のものを演じることで、人間のありかたを省察すること。万物に霊魂が宿っていると考える「アニミズム」や、脱魂や憑依の中で治療や予言を行なう「シャーマニズム」とも共通点があるという。
ワークショップは、まず「木になる」ことから始まった。両腕を肩の高さに挙げて丸い「幹」を作り、森の中でただ立ち尽くす。すぐに背中や腕が痛くなるが、じっと我慢していると、そのうち意思とは関係なく、身体が一番楽な状態になろうとして動き、力むことなく立てるようになる。根が生えたようなイメージを持ち、重心を下の方に意識すると、自然と「枝」である腕が上がってくる。これは「たんとう功」という樹木気功の基本の形で、環境教育の手法であるネイチャーゲームにも似たようなプログラムがあるという。
直感で好きな木を探し、自分の「気」とその木の「気」をかわすことで対話を試みる。じっと寄りかかる人、並んで立ち,自分が木に近づこうとする人…。さらに林の中で手を取り合い、それぞれが目をつぶって「そーん」という声を出す。高い声や低い声が重なって木々にこだまし、骨まで共鳴するような感じ。鳥になったり、イルカになったり、心がくつろいでいると呼吸もゆっくり深くなっている。
「森林浴は人間が木から精気をもらうだけだが、たんとう功は自分が木になって木の言葉に耳を傾け、より深く自然とつきあう手法」と津村さん。「頭で自然が大切と分かっているだけでなく,全身で自然と耿深くで会う体験をすることが大事。そこから今の生活を見直し,変革していく力が生まれる」と話す。
関西気功協会では「世界が全体健康にならないうちは自分の健康もない」として、健康運動と環境運動を合流させて行くことに意欲的だ。1992年夏には環境教育のメッカである清里で、日本で初めて「ディープ・エコロジー気功」を一つの環境教育プログラムとして確立している。
千刈の環境教育ワークショップには、近畿を中心に全国から約百人が参加。気功のほかにも、共生をテーマにしたコーポラティブ住宅や、旅行を通じて世界や自分を見直すエコツーリズムのプランニングなど、ユニークな分科会が開かれた。事務局長を務めた兵庫県立人と自然の博物館主任研究院の戸田耿介さんは「地球市民をキーワードに様々な視点から環境教育を考えたかった。気功は初めてという人が多かったが自分や木々の気を感じた経験はおおきかったようだ」と話していた。

 

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2017年01月第二弾。この人94というシリーズ

22017年2月2月5日 23:30



手元にあるのは岐阜新聞94/7/1



第二弾。この人94というシリーズ。手元にあるのは岐阜新聞94/7/11 。
東洋体育道での変革志す 津村喬さん
気功を通じて環境運動
日本と中国で同時進行

ー中国渡来の気功が盛んです。ところで、健康法としての気功が環境運動とつながるのはなぜですか。
「気功は一般に宇宙や自然環境の気を取り入れ、体の中の気を動かして、病気を癒す健康法だと考えられています。ではそれをやっていれば健康になれるかといえば、そうでもない。気功で体が敏感になると、かえって大気や水など環境の汚染をまともに受けて、調子がわるくなることがある。気功はもともと天地宇宙と一体になるための技法です。この宇宙や地球が病んでいると、気功をする人も病む。本来古人の健康エゴを越えた環境運動を含まざるを得ないのが気功なんです」    
ー中国でもそんな考え方がひろがっているのですか。
「1980年代の気功ブームの中の気功は、結構、狭い個人エゴでやられていました。仙人になりたいとか超能力を持ちたいというのもそうですね。でもこの数年、四川省の友人たちが「大気功」ということを言い出した。この地球全体が健康でなければ、だれも健康になれないという発想ですね。そして現在四号になる季刊雑誌『気功と環境』を発刊し、「ひとつの地球のために」と銘打って環境保護の署名運動を始めた。それが黒龍江に飛び火し、合わせて20万人の書名が集まったんです。いま中国の西南と東北の二つの辺境から気功と結びついた環境運動がわき起こっています」
ー現状への危機感もあるのでしょうか。
「揚子江(長江)も重慶から下流はヘドロの海と言われ、大気では重慶、水では上海の汚染が世界一とされています。ふるさとの誇りとしてきた湖がどこも軒並み汚れてきて、それをきれいにしようというとみんなが身を乗り出しますよ。そこでぼくは運動の象徴として様子工場か計画という大風呂敷をぶちあげたわけです。何世紀かかるか(笑い)」
ー国境を越えて連携しているわけですね。
「ぼくらが資金を援助して、四川省の成都に国際環境教育センターを発足させました。神戸市の環境ビデオをダビングして持って行ったり、金のかからないことから進めて行きます。先ず,人々の意識変革。そしてエコビジネスに結びつくアイデアの紹介も。中小企業の社長さんたちから商談や反響があります。学者、アーティストの参加が多いので、出版や環境芸術の活動も展開して行きます。今年から来年にかけて成都や北京でいくつか国際シンポを開き、21世紀の緑色文明のあり方を討議する予定です。
「中国の伝統思想は天人合一といって、本来、環境一体型なんです。中国の人々にそれをもう一度思い出してもらい、世界にわかる形で提出してもらいたい。そうすれば、現在の文明の危機を救えるでしょう。気功はその思想を生活に根付かせるさいの優れた技法です。ぼくがそういうと中国の人々も大いに賛成してくれるんです」

 

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2017年01月息子太一に娘が生まれた

2017年2月2月6日 14:04



二月四日の17時



息子太一に娘が生まれた。二月四日の17時。母子ともに健康である。3500gのビッグベイビーって、誰に似たのか。ま、太一も私より少し大きいのだが。神戸の垂水にいる。私もついにおじいさんになってしまった。

 

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2017年01月528ヘルツの音を聴くだけで

2017年2月2月6日 14:04



心と体が休まります



528ヘルツの音を聴くだけで、心と体が休まりますというので、30分ほどBGM代わりに流してみた。ストレス解消、免疫機能回復、DNA機能回復とどれにも書いてある。ちょっとうるさいので、音量を絞ってみると快適になった。いろいろなのがあって、一本調子でないトレモロのやつもあれば、波の音などと一緒のもある。気持ち悪くないが、気持ちよくもない。ストレスは解消したかと聞かれると難しい。DNA修復というと、そういうことが起きているのかどうか、見当もつかない。
この528ヘルツの問題は、二年前頃からIn Deepさんが繰り返し問題にしていた。「研究者たちは星の音を発見した?」というヨーク大学のニュースの紹介に始まった。そこでは「星の周囲にプラズマを持つ星なら、そのすべてが「歌っている」可能性がある」ことが語られている。そこでは太陽の持つ固有の「歌」も紹介されている。スタンフォード大学のソーラー・センターのサイトで、聞くことが出来る。むろん宇宙空間は真空だから音は直接に伝わらない。NASAの太陽観測衛星の装置で太陽表面の圧力派から震動を取り出したものである。それが528ヘルツに合致することで、「地球に住む私たち人間は、太陽の下にいるだけで、常に DNA が癒やされ続けている」ことがわかってきた。
・ 396 Hz・・・トラウマ・恐怖からの解放
・ 417 Hz・・・変容の促進
・ 528 Hz・・・DNA の修復
・ 741 Hz・・・表現力の向上
・ 852 Hz・・・直感力の覚醒
ということになる。むろん、異なる音程でほかの機能はあるし、またこれらの周波数の機能もこれだけではない。
普通調音の基礎になるのは、A(ラの音)が440ヘルツである。だがこれより早く、ヴェルディが提言して432ヘルツがイタリア政府によって制定されていた。しかし1925年にアメリカ政府は440ヘルツに確定,その後1953年に国際標準化機構ですべての国で基本調率は440ヘルツになった。In Deepさんによると、「もう少し正確に書けば、ロック時代という概念は一般的な見解では、1954年にビル・ヘイリーという人の”ロック・アラウンド・ザ・クロック”がビルボードチャートで一位を記録した時代から始まるとされていますので、1953年の440Hzが国際基準値とされた直後からロック時代が始まったといえそうです」つまり432ヘルツだった場合、「パンクやハードロックなどの音楽は生まれにくかった」。
彼は「432Hzの音が鳴ったとたん体の緊張が解かれる感覚になる」「440Hzでは、一瞬力みのような緊張が走る」と体で実感している。432Hz に関して、比較的有名なことだが、ルドルフ・シュタイナーが 100年以上前に、以下のような警告を発していたことが知られている。
「音楽において、 A=432hz 以外を使うことは、『ルシファーの夜明け』と『アフリマン』の貪欲なパワーを西側にもたらす可能性がある」とし、シュタイナーは、432Hz は、キリストの意識と天使の太陽のエネルギーと関係することに言及している。A=440Hz と A =432Hz の違いは、毎秒たった 8周波の小さな違いでしかない。しかし、その違いは人間の意識の経験の中で、知覚の差として現れ、私たちは「存在」という概念を共有できるのだ。」
シュタイナーの音程論はまた詳しく研究してみなければなるまいが,1950年代から現代音楽も不安と恐怖を基調とするようになり、またロックは怒りと攻撃性を表現して、シュタイナーが予告していたような「悪魔の世界」が現代音楽を覆ってきたということはいえそうだ。そこからはずれる日本の三味線音楽や、アジアアフリカの民族音楽を聴いた時の安心感はここから来ているのかも知れない。
In Deepさんはいろいろな音楽をA=440HzからA=432Hzに転換して聞けるようなソフトを開発している。アメリカ的音楽社会が世界を覆っていた時代から本来の音を聴き直せるとしたらすばらしいことである。またこれから作られる作品が聞けるとすれば、まだ音楽には果てしない世界が待っていると言えそうだ.。

 

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2017年01月また足の具合が悪い

2017年2月2月12日 13:45



なかなか椅子から立てなくなった



また足の具合が悪い。なかなか椅子から立てなくなった。そう言うとすぐ糖尿の心配をしてくれる人がいるが、これは糖尿とは関係がない。私も最初糖尿かと誤解していた所があったが、糖尿で足がこんなにわるくなるころにはガリガリにやせてますよと言われて納得した。いざとなったら阪大病院でしているウジ虫にたべてもらう治療法をしようと思っていたが、これは筋が違う。もう五年になる。最初京大病院で心臓をチェックしてもらっているから皮膚科にも行って見たが、何やら全く効かない塗り薬をくれてほっておかれただけなので、あそこには二度といかないと決めている。それで四年越しで、下鴨神社のそばの鈴木医院のお世話になっているのである。
ここはご夫婦もお医者さんで、主として子供の皮膚アレルギーを得意技にしているみたいだが、こちらのわけのわからない皮膚病も扱ってくれる。主な治療手段はOリングテストで、患者の肩に看護婦が手を当て患者の手に持たせたものが体に合っているかどうかを見て行く。本人がやらないで看護婦さんが親指と人差し指でリングを作る。医者がラップの上から傷口に触ってリングをチェックすると、体に合わないものは指が簡単に開いてしまい、効くものは開かない。投薬をそれで選んで行く。診断は奥さん先生が担当して、備主人はカルテに記録して行く。
そんなのは非科学的な迷信ではないかという人はいるだろうが広く欧米でも認められている方法である。いまニューヨークに住む大村恵昭先生が発見し、世界の医学界に認めさせてきた。私も一昨年ニューヨーク大学に呼ばれた折に訪ねて、診てもらったことがある。今はもう直接触らずに遠隔でやられているので体験してもよくわからない。
鈴木医院の方は現代医学の皮膚病の薬からホメオパシーの薬、さまざまな民間薬からありとある薬の小瓶が並んでいて、それを手にもって試すことが出来る。また日常食べているものなども、写真をとってくれば今の身体、今症状に効果があるかないかを写真に触ってすぐに診断してくれる。それでこれは感染症ということなのだが、試した結果三四種類の西洋医学の軟膏、皮膚病薬とともにオリーブの実を粉末にしたものがいいと出た。時期によって薬も変わって行く。それを医師が判断するのでなく、患者の体にまかせて判断するのである。それを時期によって少しずつ組み合わせを変えて、もう四年もやってきた。傷がほとんど消えた時期もあった。それがこのところ、またひどくなってきた。今まで見たこともないほど赤い傷口がひろがって、左足は膝近くまで、右足は甲まで通常の皮膚がなくなってなにやら騒乱状態である。そしてひどく痛い。ロキソニンなどの強い痛み取りをかなりの量飲まないととても平常状態ではいられない。体に悪いのはむろん知っているが、ほかに手段がなければ仕方がない。いろいろな痛み止めもためしてみたが、まだロキソニンがましだった。しかもこれまで使ってきた皮膚病薬が全部効かなくなっていて、オリーブだけしか薬に使えないことになった。この二週間が激・激痛の時期で、ほとんど寝ていない。ベッドには近寄れず、ソファに坐ったまま合計で二三時間うなされながら寝るという程度だ。
心配してオリーブ粉末とか錠剤とか経済的にも大変でしょうと送ってくれる人がいる。いまのところオリーブ粉末を馬油などで溶いたものを塗るのと、オリーブを水や豆乳で溶いたもの(牛乳は使えない)をがぶ飲みするだけだ。半分死んだようなのだが、大阪でも京都でも授業になるとしゃんとするが不思議だ。
今朝またなかなか易をちゃんとやらない私の代わりに卦を見てメールで知らせてくれた人がいた。風天小蓄の四爻だという。「有孚。血去愓出。无咎。(まことあり。ちさりおそれいず。とがなし。)」「愓出」は危険が去る意味。「誠がある。血や膿が出てしまって恐れも去った。問題はない」。誠意を尽くせば、難問が解決しうる時で す。慌てないこと。
はいはい。血や膿みはもっと出るかも知れないが、恐れずにいれば咎はない。痛くても希望が出てきたぞ。

 

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2017年01月土曜日に作ったお晩菜

2017年2月2月14日 0:12



簡単なものばかり



土曜日に作ったお晩菜。簡単なものばかり。
鶏皮炒め生姜風味
かぼちゃ昆布煮
鶏肝煮 
里芋煮
さとまいも煮
小松菜ひたし
カリフラワーのマヨネーズ和え
豚角煮と大根、大根葉
えのきとなめこ、もやしのみそ汁

土曜日は三人で食べた。
日曜日は二人で、もうだいぶ減っていたこともあり、餃子50個ほど作り、半分を焼き餃子に、残りをきのうのみそ汁に入れた。

 

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2017年01月陶弘景

22017年2月2月15日 10:43



養性延命録などの本を



陶弘景(456-536)は養性延命録などの本をたくさん書いた気功家である。大きいことはいいことではないと主張し続けた。これは老子を継承するものである。人生のコツは少思、少念、少欲、少事、少語、少笑、少愁、少楽、少喜、少怒、少好、少悪だという。少なく思うとは、あれこれ悩んだり妄想したりしてもほとんど何の訳にも立たないのだから、思いは少なくした方がいいということだ。「思いすぎると神(私の中の最も高級な精神活動)が危うくなる」と言っている。少念も同じことだ。「念が多すぎると志が散じてしまい、自分が何をしたいのかを忘れてしまう」。少欲は欲望を膨らませない方がいいということだが、もっと勉強したいとかもっと向上しようと言う「良い欲望」も自分を損なうことが問題だ。「多欲は志を損なう」先ず自分の存在を肯定してはじめて「志」を活かせるようになる。少事はあまりいろんなことをするなということだ。「多事即形疲」からだが疲れてしまうだけでなく、上にあるように志も拡散してしまう。少語はおしゃべりをやめること。どうでもいいことをしゃべって時間をつぶさないこと。「多語則気争」とはおしゃべりだとしなくてもいい論議をして消耗すること。少笑は「いつも楽しく微笑みを」というのには背くが、内面から笑うのでなく他人のために笑いすぎると「内臓を損なう」と断言している。少愁は哀しみすぎない。悲しい時には泣けばいいが、こだわって悲しむと、心を害することになる。少楽と言われると楽しんで生きて何がいけないのかと反論したくなるだろうが、「意が溢れる」といういいかたをしている。自分が見えなくなるのだ。少喜は「忘錯昏」という。喜びすぎると気が上がって、自分がなくなると言っている。少怒と怒りすぎると「百脈不定」だという。「内臓を損なう」と同様身体的効果を強調している。怒るのは肝臓が怒っていて、喜んでいるのは心臓が喜び、憂えるのは肺が憂えているので、それが過ぎると内臓に問題が出やすいのだ。少好は「多好は専迷不治」と説明している。好きなことが多いと道に迷う。少悪は悪いことばかり考えているといらいらして心が落ちつかず、喜びがない。無思とか無欲とかいわずに、少思、少欲といっていることに注意して欲しい。思、念、欲、笑、怒などは心の自然で、自然でいればどんどんエスカレートして行くことはない。エスカレートさせてしまうのは何かのコンプレックスが作用している。自分の心とつきあうには、何がいい,悪いと決めないで、ただある偏りが膨らみすぎないようにするだけでいい。これはキリスト教やイスラム教との大きな違いだ。世界を救うには気功がいいと思うのだが、押し付ける訳にも行かない。

 

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2017年01月大部分の気功は

2017年2月16日 9:51



道家気功



大部分の気功は道家気功、道教気功に属するが、また時代を下るに連れて仏教気功との相互浸透が進んで行くのだが、儒家の気功もまた連綿と伝えられた。孔子の体系にもさまざまな瞑想法が伝えられている。
儒家気功は「煉心」を主旨とし、道徳的な浄化と陶冶を重んじる。練功中に人を倫理的規範に導き、修身治学、摂生養気を重視する。一方面では、彼らは修身を「世に用いる」「世を治めることの基礎として捉える。『大学』の中で「身を修めてのち家が斉い、家が斉ってのち国が治まり、国が治まって後天下は平らかになる」といっているのがそれである。また別の面では、「用世」「治世」の実践の中でとくに修身を重視して、「用世「治世」を修身の延長上のもの、あるいはその一大飛躍ととらえている。まとめていえば修身をベースにして、修身、用世、治世三者を統一して行くところに儒家気功の特色がある。その意味では、一身の気功を常に天下と一体にとらえていく大気功の性格が強かった。だが身心修行から離れない小乗仏教に対して大乗仏教が理念,哲学に入り込みやすいのと同様、儒家も一心の気功をおろそかにして理屈を言っている場合もあった。
孔子のころから瞑想は重視され、また雷とともにすべての仕事を中止して雷に対して瞑想などした。荘子の記述に基づいてだが、「坐忘」は儒家の基本功法とされてきた。これは不思議なことで、掃除の中には孔子と顔回が登場してて瞑想法の討議をする二回の大きな場面があり、「坐忘」と「心斎」とこの二つは「荘子が孔子と顔回の対話として書いているので、どこまで本気かわからない」「修行内容は確かなものだが孔子が本当にこの言葉を残したわけではない」という非常に複雑な状況なのだが、「坐忘」については儒家が取り扱う儒家の伝統気功とされ、「心斎」については道教の気功とされてきた。この伝統は近世まで続き、朱子も「半日静坐、半日読書」を唱えた。朱子は実際名宋半分の人生だったが、日本の朱子学は静坐法を伴うのは例外的で、「半日読書」のほうだけが伝わった場合が多い。明の時代には七日間かけて昼夜心に香を立て、孔子の言葉を瞑想し続ける「服七規」などの功法も提案された。

 

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2017年01月ギリヤーク尼崎の舞踏を

2月18日 3:26日



ETVで見た



ギリヤーク尼崎の舞踏をETVで見た。久しぶりだった。神戸や尼崎では三回ほど見ているが、ずいぶん以前のことだ。一回だけ紹介されて、話したことがあるが、あとはただ投げ銭した観客に過ぎなかった。彼がパーキンソン病を発症してからは、初めてだ。東日本大震災の追悼の踊りは彼自身「自己最高」の踊りと言っているが、その時に心臓にはペースメーカーがはいっていて、何本かの椎間板が折れていると告白した。つづいて去年にはパーキンソン病と腰部脊柱管狭窄症であることが判明した。もう84歳である。
カメラは彼の生活に密着し、弟の世話になりつつ送る暮らしぶりを伝える。指が激しく震えて、スプーンももちにくいほどだ。それでも彼は近くの公園に出かけて行って、踊りの稽古をする。例年の10月10日の新宿公演が近づいてきている。次第に自信を無くして弟や弟子というのでもない仲間のダンサーたちに、相談する。誰もが励ましてはくれるが彼に代わって決断してくれる人は誰もいない。その日が近づくにつれ、不自由な体だが段々に動けるようにって来る。公演は成功した。彼はもう二年で活動開始50年になる。それまではなんとかやりとげたい。
ただ私は彼の舞踊を見ていて、これはもっと発展すると思った。まだ記憶に残るさまざまなパターンで踊っているところが多い。彼のパーキンソン病の症状そのものが自発舞踊の宝庫なのだ。突然襲って来た手の震えを災難と見ていて、資源とは考えていないようだ。彼は若いころ邦正美についていた。邦の自発動の理論によれば病的な震えも含めてもっと深層の表現であるはずだ。日常の中でどんなに大変なことかわかっているつもりだが、病気と健康を刺し貫いた表現世界を構築してもらいたい。
私も気功をしているときはしゃんとしていると言われて、その前後には車椅子に乗りたいような気になるが、実は形の整った気功より自発動の気功を増やしていきたい。それを受け止めてくれる生徒さんを少しずつ増やしているところだ。

 

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2017年01月道家気功の方法は

2017年2月18日 12:47



とてもたくさんあって



道家気功の方法はとてもたくさんあって、内容も豊富である。道家は「精気神」を人体生命活動のもっとも基本的な物質として見なしており、精気神の修練を基礎として、宝精・固気・嗇神(精を大切にする・気を固める・神=意識活動をけちる、気ままに浪費しない)
を目的としている。これを基礎に宗教としての道教が興って、その中で気功は大いに発展した。道教気功は性命双修(肉体を鍛錬して生命力を高めることと道徳的に自分を洗練していくことはどちらも大切だ)を説き、形と神(肉体と精神)を鍛錬するので、医薬、煉丹、服餌、房中、吐納、導引などが道教の内外で研究されて来た。道教気功の中に道家気功は吸収されようとしたが、哲学としての道家と宗教としての道教は異質なもので有り続けた。ある意味では老荘よりずっと古い神仙術=仙学も、道教に継承された部分とそれとはまったく違う文化で有り続けた。道家と道教と仙学の三者の相互引用=相互排除の歴史は中国はもとより、各国の思想史においても珍しい。気功は三者のせめぎあいの中で発展してきた。
この道教の様々な文献は各時代に集められて整理が試みられてきた。最初は南北朝時代の471年に陸修静が編集した『三洞経書目』であるが、それ以後国家組織が乗り出して編集を進め、初めて大きな形を成したのが宋の『大宋天宮宝蔵』4500巻(1455)である。ここで初めて道蔵の言葉が使われた。しかしこれは戦乱で失われてしまった。だが宋道蔵の主要部分は『雲笈七箋』240巻としてのこされ、歴代の気功家によって重宝されて来た。幸田露伴も友人に『雲笈七箋』を読むのが早いと勧めている。
明の時代になって1455年『道蔵』が1607年に『続道蔵』全5485巻が編纂された。その内容は宗教理論、典章制度、方術、数学、理学、化学、天文学、地理学、医薬学、気功などさまざまな分野に及んだ。これが原型となり、さまざまに増補されて、いくつもの版が作られた。このうち直接気功を主題にしている物は600から700ある。
道蔵は宮中に保管された以外にいくつかの写しが各地の道観で所蔵されていたが、聖書のように、あるいはコーランのようにすべての信者に読んでもらうという考えはなかった。『雲笈七箋』がまだ聖書の発想に近いだろうか。
道蔵を全巻読むという試みはほとんど誰もしてこなかった。陳攖寧が三年間かけて全巻を読み、現代人の静功として応用できるものを探したのが最初とされ、陳の名はそれだけで内外に轟き、のちに中国道教協会会長となった。1986年来日した周稔豊(当時天津中医大学教授)が神田の台湾系書店で道蔵全巻を見つけ、日本での二か月分の講習費の大半を投じて買い、天津に持ち帰った。そのころには個人で道蔵全巻を所有する者はだれもいなかったろう。最近友人のH氏より「昨日道蔵全巻コピーさせてもらったのですが、要りますか」と驚くべき言葉を聞き、15分ほどでコピーしてもらった。しかしこういう安易な入手の仕方をすると、陳攖寧のように一生をかけて道教の全体像を研究してから道教を超える新しい仙学の立場を打ち出すことも、周稔豊のように晩年まで道蔵を研究してさまざまな本を書き続けることもないままに、いつか読もうで終わってしまうかもしれない。

 

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2017年01月内丹気功を学びませんか

2017年2月18日 16:12



間違いのないホンモノです



内丹気功を学びませんか
間違いのないホンモノです
現代の内丹の源流をその文化と共に吸収する絶好の機会です
3月22日から28日まで七日の旅
内丹気功を現代に復活した胡耀貞の長女胡麗娟さん
大同に訪問します。もう80を超える高齢なので
今のうちに少しでも吸収して、長い時間をかけてわが身に定着し
育てていきたい。
日本に内丹を根付かせるために、これから内丹を自分の気功の柱の
ひとつとしていこうという方に、ご参加をお勧めします。

曜日 内容 その他
3 22 本から北京へ。列車で大同へ  
23 胡麗娟授業一日六時間(簡易動功、道教八段錦、五禽戯などの復習)  
23 胡麗娟授業一日六時間(伍柳派丹道,子路太極など新内容)  
25 胡麗娟授業一日六時間(同前)  
26 胡麗娟授業一日六時間(同前)  
27 胡孚探先生のご自宅訪問 胡耀貞気功表演と交流シンポジウム  
28 帰国予定  


費用 北京空港までの往復は各自負担してください。
一緒の飛行機を手配してほしい人は申し出てください。
◆空港からのバス代、
◆北京駅からの列車代、
◆ホテルでの全食事、
◆宿泊費教材費、
◆宴会費用、
◆受講料、
◆みやげ代、
◆北京のホテル代、
◆交流費等
現地中国での費用一切として20万円(日本円)をあずかり、すべて支払ってから残りがあればお返しします


申し込み: TEL & FAX 075-777-7719
主催:気功文化研究所
担当:津村 喬
住所:〒603-8158 京都市北区紫野宮西町18 ライトビル 2-E
電話又はFAX お問い合わせご申し込みはメール kikoubunka@yahoo.co.jp か
  FAX 075-777-7719 でどうぞ。

連絡

 

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2017年01月テレビばかり見ているようだが

2017年2月19日 21:00


西太后のことをやるといって



 テレビばかり見ているようだが、西太后のことをやるといって、紫禁城が出て来て何も知らなさそうな女の子がでてきて、タイトルも悪女がどうこういうものだから、早く消そうと思ったくらいだ。だが段々に引き込まれた。台湾の学者が出て来て、この人も光緒帝が改革をしようとして西太后が光緒帝を幽閉して戊戌政変になるという理解をしていたのだが、いろいろとあたらしいことがわかってきた。ひとつはこれは西太后がやった証拠はないのだが、幽閉された光緒帝の体から限界の数万倍のヒ素がでてきた。証拠はないが西太后の死後に復活されたくないという思いの結果でないわけでない。それだけだと「これだから西太后は」という話だけなのだが、その台湾の学者は資料を探すうちに、西太后が光緒帝を監禁する前日に伊藤博文と会っていたことを知る。それは公開の史実にはなかった。さらに光緒帝の側近の記録を探すうちに、帝の周辺には清国政府を再建するのに日本、英国など各国の要人を閣僚に入れて「列強共同管理」にしたほうがよいという考えがあることが分かってきた。とくに若い帝の家庭教師的な位置にいた男が英国に通じていて、実質英国が主導権を取る、だがその代表格には伊藤博文を据えようという具体的な計画があった。伊藤のほうは秘密裏に話を受け取っていたが、清国総督になろうなどという意識はなかった。だがこの筋書きをキャッチしていた西太后は、光緒帝が伊藤と会ったのを機に、ここでつぶしておこうと翌日からの監禁になったという次第だった。
西太后は期待して国を任せて行こうとした光緒帝が植民地勢力にからめとられてしまっていることに気づいて、せめて自分が生きている間は自分でコントロールして行こうと考えたのである。これは困った。康有為はともかく、譚思洞や梁啓兆のような質のいい革命家たちが虚しく西太后の虚像にのみ向けられていたとは。
ひとたび西太后の視点に立ってみるや、頤和園の建設も「戦争が迫っていたのに軍艦を作らず自分の見栄のために浪費をした」のではなく、「膨大な失業者たちのために働く場所を提供した」となれば変わってくる。贅をつくしたかに見える日々の食事も、100歳まで生きるための切実な健康食の小鉢ばかりで、まわりには蝋細工を並べさせていたという説もある。
もともとが北京市内の市場の娘の出身である。まわりには停滞しきった形式主義の官僚しかおらず、たまたま権力を得てできることをしただけという西太后像も浮かび上がってきそうな気がする。

 

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2017年01月恬淡虚無

2017年2月21日 12:06



黄帝内経のこの教えが


恬淡虚無
黄帝内経のこの教えが、いろいろなことの源流になっている。とくに気功の立場からは何度でも吟味したいものだ。
恬淡虚無なれば、真気これに従い、精神内に守る、病安(いずく)んぞ従い来らんや、と。これを得て志 閑にして少欲、心安らかにして懼れず。形 労するも倦まず。気 従いて以て順。各おの其の欲に従いて、皆願う所を得。故に其の食を美しとし、其の服に任せ、その俗を楽しみ、高下相い慕わず。其の民、故に朴と曰う。是を以て嗜欲も其の目を労すること能わず、淫邪も其の心を惑わすこと能わず。愚痴と賢不肖と物に懼れず。故に道に合す。能く年、皆百歳を度えて、動作衰えざる所以の者は、其の徳を全くして危うからずを以てなり。
一番始めにくる「恬淡虚無、真気従之、精神内守,病安従来」の16文字は独立した言葉としても知られている。いくつかの気功教科書、たとえば焦国瑞『気功養生学概要』はこの言葉の引用で始まっている。
「恬」は「平然として静か」「あっけらかん」という言葉である。ただ静かなのでなく、「とりあわない」というニュアンスがつきまとう。「気にしてもいいが気にしない」。
「淡」は本来「憺」で、この黄帝内経日本語訳(石田秀美訳)では中文、読み下し文では「憺」を使っているが現代語訳では「淡」を使っている。同じ字で問題はないが、中国語辞書には「冷淡」「冷ややか」「客が少ない」「色が薄い」など並んでいるうちで「あっさりしている」が近いか。
あっさりと心静かで、というのが恬淡である。
では虚無とは。虚無を辞典で引いても同じ日本語の「きょむ」という言葉があるだけでいっこうに面白くないが、この場合の虚無は「何も欲望しないこと」である。これは財産を作りたいとかきれいな嫁がほしいとかいうことだけでなく、「いい人になりたい」とか「気功がうまくなりたい」というのもだめである。なぜか。気功状態というものは、自己否定があってはならないからである。「いい人になりたい」という願望の背後には「私はいい人ではない」というすさまじいまでの自己否定が含まれていて、しかも本人はそれを自覚していない。それを通じて自分の精神分析を深めて行くことはむろん大切なことだが、練功のときはそれをしてはいけない。気功状態の私は、「私にはいろいろ問題はあるかもしれないが、とりあえず私の存在はすばらしい」と断言できないといけない。私はすばらしくないのか。私という現象は宇宙史の最先端でそれを切り開いている存在である。これより先には誰も行っていない。虚無とは実は、生きている私がすばらしいということなのである。
真気これに従うとは何か。真気は古来さまざまな意味で使われてきたが、一般的には衛気・営気のもうひとつ深層の生命の流れにつなるが内気として理解してよい。「これに従う」とは、「恬淡虚無」でないために真気が流れる道が阻害されているとすれば、「恬淡虚無」が実現するなら真気はその本来流れる道を通り、生命力は強化されるということである。
その次の所で「精神」とは何かということである。これはGeistやSpiritのように誤解されやすいが、西周がGeistの訳語として精神という造語をつくるのは明治時代のことで、まさかそれで黄帝内経を読むわけにはいかない。この精神は精気神をつづめたものであり、気を指しているといってもよく、「気を内守すれば」と置き換えることが出来る。
最後の「病安従来」は「いずくんぞ病来らん」と読んで、どこから病気が来ることがあろうかと理解される。
こうして石田訳では
心がけは安らかで静かであるべきで
貪欲であったり妄想したりしてはならない。
そうすれば真気が調和し
精神もまた内を守ってすりへり散じることはない。
このようであれば病が襲うというようにことがあろうか。
となる。
私のはほとんど違いがないといっていいが
あっさりと心静かで
あれが欲しいこうなりたいと欲望をふくらませずにいれぱ
真気はもともと流れているように流れる
気を内守すれば、どうして病気になるということがあろうか   
張宇内丹功には「恬淡虚無の瞑想」が含まれている。恬淡tian-danの言葉を耳には聞こえないようにtianと吐きdanと吸って行く。

[続く]

 

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2017年02月恬淡虚無

2017年2月22日 1:48



その二

 


恬淡虚無 その二
これを得て志 閑にして少欲、心安らかにして懼れず。形 労するも倦まず。気 従いて以て順。各おの其の欲に従いて、皆願う所を得。故に其の食を美しとし、其の服に任せ、その俗を楽しみ、高下相い慕わず。其の民、故に朴と曰う。
このため人々の心はきわめて閑で
欲望は少なく
心境は安定していて恐れることがありませんでした
肉体を働かせても過度に疲労することはなく
正気は治まり順調だったのです
それぞれの望む所は満たされ
食べたものをおいしく思い
着たものを着心地よく思い
習わしを楽しみ
地位の高低をうらやむこともなく
人々はいたって素朴で誠実でした
古代の、と語り出されているのは、この黄帝内経の時代から言っても古い時代という意味である。その同時代にはもう失われてしまっていると思われた美徳を説いている。これはどの時代にとっても同じように「昔はもっとよかったのだよ」と語られることなのかも知れない。儒教は時代が下るとともに世の中はよくなると信じている所があり、これは西欧の史観とも一致する所があるが、道家道教に取っては昔はよかったが今は堕落している、あるいは生まれたては良かったが成熟するに連れて堕落したと考える所がある。人間始まりは無垢の鏡のように生まれてくるが年を経るに従って鏡面は汚濁につつまれてくるので、それを磨いてきれいにしていかないとならない。それが「赤子に帰る」「朴に戻る」という意味である。
陶弘景の十二の「少」の始まりはここにある。根幹は「少欲」である。これがほしい、あれがほしいというのこそ、私は今のありかたに不満だという大本だからだ。「閑=のどか」というのがキーワードである。
中日大辞典によると閑は①ひまな②空にしておく③何もしないでいる時間④むだなと四つ項目があがっている。忙しくしているべきだと言う考えからすれば皆悪徳であるが、これは瞑想そのものといってよい。「閑居」という言葉でも、「小人閑居して不善をなす」と孔子の立場からの弾劾もあれば「世事に関係せず静かに暮らす」という褒め言葉でもある。「閑民」は仕事がない人という意味と、遊民、心を自在に遊ばせる人という意味がある。「閑坐」といえば用事もないのに友を訪ねて雑談するという意味と、何もせず瞑想するという意味でもある。
黄帝内経は後者に軍配を挙げる。世事に関係なく静かに暮らし、心を自在に遊ばせ、何もせず瞑想の出来る人こそ、「正気の人」だったのである。[続く]

 

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2017年02月 大同からの帰りに北京で一連のシンポジウムを開催

2017年2月23日 1:51



今のところの予定です


大同からの帰りに北京で一連のシンポジウムを開催することにしました。今のところの予定です。
3月27日 
午前中 胡孚探先生を訪ねて日中交流
胡先生は中国道教研究の第一人者。

午后  胡耀貞研究会の皆さんとの日中シンポジウム

[日本側表演]簡易動功、五禽戯(津村)

道家八段錦、道家通八脈功(濱野)

[中国側表演]胡耀貞無極站椿、簡易動功、道家八段錦
胡耀貞自然拳

[日本側報告]気功体験と心理療法(濱野)

フィンランドにおける内丹研究の始まり            (カウコ・ウースオクサ/論文参加)
日本の内丹研究(定方/論文参加)
陳攖寧・胡耀貞と私の半世紀の練功(津村)
3月28日 
午前中
《観気旅行の十年の回想》王沪生+津村喬

津村喬「観気旅行のおおまかな経過、われわれは何を、どう
学んだのか」

十年の年表、北京春風の目次を配布します。

王沪生「観気旅行の中国側ホストとして」
津村+王「十年の回想」

午后
《王先生講義・丹密参同の現時点での総括》
王沪生「97年までの理論的達成、2017までの成熟」
津村喬「日本の丹密はどうなっているのか」
質疑・討論
時間 内容
3 27 午前中 胡孚探先生を訪ねて日中交流
胡先生は中国道教研究の第一人者。
午后 胡耀貞研究会の皆さんとの日中シンポジウム
[日本側表演]簡易動功、五禽戯(津村)
道家八段錦、道家通八脈功(濱野)
[中国側表演]胡耀貞無極站椿、簡易動功、道家八段錦
胡耀貞自然拳
[日本側報告]気功体験と心理療法(濱野)
フィンランドにおける内丹研究の始まり (カウコ・ウースオクサ/論文参加)
日本の内丹研究(定方/論文参加)
陳攖寧・胡耀貞と私の半世紀の練功(津村)
28 午前中 《観気旅行の十年の回想》王沪生+津村喬
津村喬「観気旅行のおおまかな経過、われわれは何を、どう学んだのか」
十年の年表、北京春風の目次を配布します。
王沪生「観気旅行の中国側ホストとして」
津村+王「十年の回想」
午后 《王先生講義・丹密参同の現時点での総括》
王沪生「97年までの理論的達成、2017までの成熟」
津村喬「日本の丹密はどうなっているのか」
質疑・討論
         
大同に参加しませんか。この北京の二日間だけでも、得難い,二度とない体験です。

 

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2017年02月 観気旅行の最初の10年のおおまかな経過

2017年2月23日 19:14



その一

 


観気旅行の最初の10年のおおまかな経過
その一 第一次から第十次まで
◇ここから派生した北京禅密功研修三回、フィンランド研修二回、アイヌ自然医学の旅二回、カリフォルニア観気旅行二回、ハワイイ観気旅行、韓国研修二回、国内合宿七回などと一緒に時系列の表にしてあります。どの観気旅行にも30人前後が参加することが多く、最大では峨眉山の55人でした。重複メンバーも含めれば、ざっと1115人が参加した移動大学になりました。
1987/3 ◆第一次観気旅行・北京再発見
1987/9/20 ◆第二次観気旅行・北京再発見part2
1987/11/21 北京交流 石川光男・気功学と科学革命 散逸構造と宇宙の自己組織化
1987/12/5-6 研究交流合宿・自発動功をめぐって
1988/1/13 津村喬気功体系講義第一期36回始まる(年末まで)
1988/3 ◆第三次観気旅行・北京
1988/9 ◆第四次観気旅行・峨眉山と北京
1889/3/14-21 禅密功三昧北京
1989/3/18-25 ◆第五次観気旅行・神秘学シンポジウム「三十六宮都是春(からだまるごとはるかぜきぶん)北京臥仏寺
1989/4/1 湯偉忠易筋経と入門太極功一日講習
1989/4/29-30 湯偉忠易筋経・太極功27式・金剛八式二日間
1989/7/18/30 フィンランド気功研修第一次
1989/9/18-26 ◆第六次観気旅行・1185年ぶりの天台山[最澄からの年数]
1989/12/14-19 アイヌ自然医学の旅・第一次
1990/3/16-25 ◆第七次観気旅行・北京・精神の洞窟探検を
1990/5/18-20 いのちと癒しのフェスティバル
1990/5/25-31 韓国・自然医学とシャマニズムの旅
1990/6/26-7-13 気功的生活・フィンランドツァー・第二次
1990/7/1-8 北京禅密功研修
1990/8/18-22 アイヌ自然医学の旅・第二次・舟下しの祀り
1990/9/15-16 秋田県黒湯温泉津村喬気功ワークショップ
1990/9/18-30 ◆第八次観気旅行泰山・巫術的気功と儒学気功
1990/11/28-12/3 風になってみないか・ソウル6日間
1990/12/15 神奈川・三浦海岸合宿
1991/1/27/-2/3 外丹功でマナの力をもらう・張宇先生とハワイイ観気旅行
1991/3 ◆第九次観気旅行・承徳
1991/5/3-6 天河・熊野観気旅行
1991/6/2-9 北京禅密功研修
1991/7/21-29 ソウル国際シャマニズム学会設立総会
1991/8/2-4 アロハスピリッとサージ・キングのハワイアン・シャーマニズムワークショップ 奥高野
1991/8/24-9/5 カリフォルニア観気旅行  張宇・棚橋・アーネスト・カレンバック・ジョアンナメイシー
1991/9/18-29 ◆第十次観気旅行・中国のへそ大地のつなぎ目泰山再び

 

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2017年02月気旅行の最初の10年のおおまかな経過

2017年2月23日 19:30



その二

 


観気旅行の最初の10年のおおまかな経過
その二 第十一次から第二十次まで
◇後半の観気旅行は
①最大の盛り上がりを見せたのが五周年の富士・京都・天河の合宿だった、
②質的に最も高いものを達成したのが二回にわたる五台山だった、
③この中から成都の李兄弟を中心に『気功与環境』が生まれた、
④阪神大震災のダメージは思ったより大きく、全般的に気功協会の活動水準は低下して行った、
⑤観気旅行は自分の内面に向かう「閉関」シリーズと、中国聖地とともに元気をかいふくしていくことを狙う「聖山」シリーズに分裂して行った。
⑥オコゼに噛まれるという事故によってだったが、津村が参加しない初めての観気旅行が第20次だった。
関西気功協会は次第に衰弱して2000年に解散した。

1992/1/4-26 北戴河の張天戈、劉亜非先生来日講習
1992/4/24-25 ◆第十一次観気旅行・北京臥仏寺閉関[ドアを閉じて瞑想する]
1992/4/24-25 富士合宿・聖地の再活性化へ[ヤマトタケルによるアイヌ大虐殺を鎮魂]
1992/4/29-30 京都国際交流会議・聖空間と癒し
1992/5/1-3 天河弥山登山 弁天より愛をこめて
1992/5/3-5 天河火祭り・神々の大交流
1992/9/24 サーメのシャマン、エリナ・ヘランデル来日
1992/10/3-14 ◆第12次観気旅行・五台山・顔をあげて地球のために祈りなさい
1992/11/1-3 全国全国気功ネットワーク合宿・環境教育としての気功の出発
1992/11/28 われらの同時代人宮沢賢治 正中山遠寿院 
1992/12/3-5 王沪生来日富士合宿
1992/12/10-13 環境教育次の㌻へ清里の森で学ぶ新五禽戯と外丹功 張宇、コーリー・ウォン、津村喬
1993/3/13-21 ◆第13次観気旅行・北京閉関Ⅱ玄関を閉じる自分を開く
1993/3/29-5/2 ジョアンナ・メイシーとマーガレットの日本ツァー
屋久島、広島、関西ワーク、若狭、東京ワーク、仙台
1993/6/13-18 成都『気功と環境』発刊記念集会
1993/8/22-9/1 ◆第14次観気旅行・五台山ふたたび・心の聖地を取り戻すために
1993/8/30-9/7 北戴河医学気功応用国際シンポジウム 帯津良一、林茂美、津村喬、加藤清、中井脩太郎、長井博他
1994/3/27-4/3 ◆第15次観気旅行・黄山・中国で最も美しい山
1994/4/29-5/1 清里樹林気功リトリート・第一回
1994/7/22-24 清里樹林気功リトリート・第二回
1994/9/5-15 ◆第16次中国観気旅行・九塞溝・浄めの水歓喜の水
1995/1/19 阪神大震災により神戸癒しの学校構築、ボランティア活動へ
1995/3/15-22 ◆第17次観気旅行・臥仏寺藏密気功[阪神大震災により中止]
1995/4/8-9 劉尚林藏密気功講習
1995/5/23-26 第九期総会天河神社で
1995/9/3-10 ◆第18次観気旅行・白頭山・ずっと昔宇宙船が降りた
1995/22/23-26 気脈の会韓国合宿
1996/3 ◆第19次中国観気旅行・北京
1996/6 国際藏密気功学術交流会
1996/9 ◆第20次観気旅行・チベット・成都

 

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2017年02月初孫訪問記

2017年 2月26日 16:03



私の初孫、太一と晃子の娘に

 


初孫訪問記
私の初孫、太一と晃子の娘には杏(あん)という名がついた。土曜日逢いに行った。
塩屋は長田、須磨の先、明石の手前である。京都から垂水までは1時間18分ほど。駅はもう海辺である。駅のほとんど正面に、彼らのマンションがある。晃子さんのご両親が先にここに住んでいて、その別棟の二階が空いて、太一たちも移った。六甲のマンションでは手狭だったし、出産の予定もあったから、ご両親の近くはよかった。
初のご対面である。杏は授乳をすませて、寝ている。太一に似ているが、似すぎていることもなく、可愛い。唇が整っていて、耳も大きめ。なにより目元がお地蔵さんのようで、アルカイックスマイルをたたえている。さすがに少し緊張している。いつまでも抱いていたいが取り落としそうでこわい。これからますます生きにくい時代になりそうな気がするが、たくましく元気に成長してほしい。
この部屋のロケーションは凄く、窓が全面大阪湾に面している。右手には須磨海苔の工場、のりひびがひろがっている。正面には大阪湾の南の突端が遠く見え、その向うは和歌山の海、関空がある。右手を覗き込めば淡路島だ。古来万葉の詩人たちが歌ってきた舞台である。塩屋というのはこの浜で塩を作っていたらしい。山の手にはジェームス邸とかグッゲンハイム邸とかの異人館がある。海の近くにも洋館はたくさんあって、神戸で働く金持ちの外人さんたちが一番住みたがったのがこの塩屋のあたりだった。もう少し西の舞子公園には孫文の記念館・移情閣がある。私がしょっちゅう六甲に上がっていた頃、西の端からとりつくには須磨の鉢伏山から上がった。旗振山、鉄拐山、栂尾山と小さい山が続き須磨アルプスになる。もと高倉山だったところの山一つ分の土は運ばれてポートアイランドになった。私もしばらくポートアイランドに住んでいたが、その公園には高倉山山頂の碑が運ばれてきていた。山一つ削って島を作るなどという暴挙が美談として残されているほど神戸市は「開発の病」に取り憑かれていた。しかも由緒ある全六甲の一部である。神戸大地震はそれへの自然からの懲罰だったという気がする。
お母さんが来られた。私より二つ下、ほぼ同世代である。晃子が初めてわが家に遊びにきた時まで、私が晃子のおじいさんに当たる中川重雄さんと非常に親しかったこととを知らなかった。操体法の先生と聞いて、私が中川先生と作った二冊の本を見せて、びっくりした。中川先生は橋本操体をさまざまな面で発達させていて、気功に対してもとても柔軟に、それを習う姿勢で接しられた。こちらは操体法を学び、先生は気功を学ぶといういわば交換稽古のかたちでおつきあいが続いた。そのうち宝島から何冊か本が出る時に、気功と共著にしてくれませんかと提案していただいた。
阪神大震災の直前に奥さんをなくされた中川先生は、長田の道場も震災で半壊になり、茫然自失していられた。地震の10日くらいあとに、三宮の気功指導者叶治泉さんが元町に半壊のビルのワンフロアを借りていることを知って、叶さんと「神戸癒しの学校を作ろう。校長には中川先生を呼んで来よう」と話し合って、中川先生を口説きに行った。彼は引き受けてくれ、大きな布に毛筆で神戸癒しの学校と書いて、傾いたビルに下げた。
中川先生の死を知ったのは2013年の10月のことで、この時に書いた追悼文がある。


中川重雄先生を追悼して

2013年10月07日 (Monday)


操体法の中川重雄先生がこの五月になくなった。もう一年以上も、お声を聞いていなかった。時折こちらからお電話しようかと思ったが、ご病気で出てこられてもなあと遠慮していた。過去にも私があまり具合がよくないなどと聞きつけると、「いやあ、げんきですか」と大きなお声で励ましのお電話をくださっていた。だが今度はマメに作っておられた機関紙も途絶えているし、本気で心配していた。「家族葬で」というご遺族のご意向で、どこにも連絡しなかったらしい。私が『気功文化』などしつこくお送りしているので、お弟子さんの堀本俊之さんが知らせてくれた。
堀本さんが送ってくださった中川先生を偲んでという文章から引く。亡くなったのが95歳だったという。
「大阪生まれ。市立実務学校卒業。技術軍曹で終戦。三菱重工神戸造船所に入社。独学で創造学を学び、科学技術長官賞などを受賞。自身の肝臓病を食事療法と民間療法で克服。59歳で操体法と出会う。橋本敬三先生の紹介で北田洋三先生に師事。操体技術の実践研究を始め、操体道普及友の会発足」
私は80年代に神戸に移って間もなくお目にかかり、意欲的に「気功を学びたいのです」とおっしゃる中川先生にびっくりした。交換稽古のような形で私が操体を学び、先生が気功を学んでくださるという何年間か過ごした。先生が書かれた何冊かの本に気功の立場からの操体論と歴史的な考察を書かせていただいたのも、その二人だけの研究会の産物だ。堀本さんが「気功法や手当法などの方法を取り入れ」と書いてくださっているのはそのことだ。
「平成七年の阪神淡路大震災でご自宅が全焼の被害を受けられたにもかかわらず、気功法の津村先生方と"神戸癒しの学校"の設立に尽力され、被災された人々の苦しみを操体法で和らげ、生きる希望を持っていただけるように、ボランティア活動を続けられました」
この時には、叶治泉さんの持っていた元町の傾きかけた建物に中川先生の書いてくれた大きな看板を掲げ、中川先生と整体の中村照正先生、叶さんと私の気功を常任講師にした学校を作り、200人余りのボランティアを指導員に育てた。中村先生も、叶さんももういない。東京から中川先生に会いに来られてわたしが立ち会った瓜生良介さんも岡島瑞徳も、もういない。親しい仲間と言ってよかった人々がどんどんいなくなってしまった。
「息子さんにお聞きすると、奥さんが亡くなられた後気が抜けて大丈夫かなと思われていたそうです。そんな時に大震災が起こり、津村先生とともに活動されたことで、先生は生きる希望を見いだされたようです。息子さんは"そのことで父は救われたんです"と言われていました」
あの背筋をまっすぐにした姿がなつかしい。95まで働き続けて、思い残すこともないだろう。NPO法人操体道普及会は解散したが操体道普及友の会として講習は続いていくようだ。改めて先生に感謝しつつ、ご冥福を祈りたい。[ここまで引用]
晃子さんから太一の紹介を受けたとき、高野と津村が関係があることをむろん知らず、結婚する段になって気がついてびっくりした。私は太一の母親に遠慮して結婚式に参加しなかったので、先方のお母さんとは今日初めてお目にかかることになったのだ。
太一はなかなか料理好きになっていた。今日は味噌仕立てのあんこ鍋とホタルイカの酢の物とか焼豚とか出してくれて、なかなかのものだった。あんこうのグロテスクな部分はほとんど私が食べてしまい皿に骨が積み上がった。
太一はお義父さんの車で三宮まで送ってくれた。どうせならと平野の石井橋の最初に住んだところ、太一を鹿児島から連れてきた平野交差点のマンション、再度山のもうつふれてしまった水道局の向かいのアパートと前だけ通った。中華街に行って、少し買物をし、鍋の残りに入れたらという水餃子など渡した。足はときどき激痛があり、歩くのもゆっくりだったが、一日楽しく過ごした。

 

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