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2017年7月






2017年07月ずいぶん飛ばして

2017年7月1日 0:25



それでも三時間半で

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ずいぶん飛ばして、それでも三時間半でヘルシンキに着いた。すぐに包帯を替えた。ずいぶんと手早くなったがそれでも30分はかかる。小さな傷口が増えているので七カ所の手入れをしている。
今日の坐忘論というのをなぜテーマにしたのとカウコに聞いたら、英語で陳攖寧のそういう文献をみつれたのでという。私は特に坐忘に関しては見ていない。心斎については何百回も講義してきたが、陳攖寧が特に坐忘をテーマにした論文を書いたのを見ていない

。有名な静功問答ではただ一度だけ坐忘にふれている。それも、荘子の坐忘に触れないで「唐人は坐忘と言い宋任は止念と行って本に書いた」とあるのみである。唐人というのは司馬承貞のことだが、宋人の方はすらすら出てくるほど教養がない。
日本語ではどうなっているかというと、大辞林が「仏語。静座して現前の世界を忘れ、雑念を除くこと」としていが、仏語はもちろん間違い。荘子が初出で仏教徒は関係ない。世界大百科事典の吉川忠夫(京大名誉教授)は「身心を脱落放下して根源的な〈道〉と冥

合し,〈物〉すなわち外物と〈我〉すなわち自己とが一体化した境地。《荘子》大宗師篇にもとづくことば。《荘子》人間世篇では坐忘と類似の心の修養法が〈心斎(しんさい)〉とよばれている。唐の道士司馬承禎の《坐忘論》は,坐忘を道教修行の根本にすえ

,それを〈敬信〉することにはじまって〈得道〉にいたるまでの実践の過程を7段階に分けて論じた。」まあ過不足ない説明。難しいが。物と我が一体になる境地は気功ではたえず味わっていて、坐忘だけではない。
そもそも荘子の中で坐忘も心斎も孔子と顔回の対話として書かれているのが大問題である。これをきちんと説明している人はいない。つまりどちらも、孔子や顔回にここまで考えられますかねえ、という皮肉あってのことなのだ。また詳しくは別に論議したい。し

かし儒教の人は坐忘こそわれわれの原理だと思い、道教の人は心斎こそがわれわれの瞑想法だと考えてきた。『中医気功学』にもそう書いてあるが、なぜそうなったかは書いてない。謎である。

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2017年07月「堕肢体,黜聪明,离形去知,同于大通,此谓坐忘」

2017年7月1日 6:25



肢体がくずれ、聡明をしりぞけ

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「堕肢体,黜聪明,离形去知,同于大通,此谓坐忘」
「肢体がくずれ、聡明をしりぞけ、形(身体)を離れ知を去り、大通と同じくし、これを坐忘という」と荘子は書いている。これを顔回が言ったかのようにして書いているのである。昔、関西気功協会の五周年に韓国原州の張壹淳先生が、「同于大通」の字を大きな

紙に書いてくれた。私はこの意味を知らなかったが、荘子だということはわかったので福永本の索引を引いて尋ね当てた。于は於いてと同じ意味で、大通と同じくするといういみだった。当時は十分意味がわからず、「みんなつながれ」くらいのことだと理解して

いた。私に対しても「体が元気で、聡明なのがいいばかりではないのだよ」と言ってくださったのかもしれない。大いなる道と一体になるのが坐忘だと理解していなかった。この時は韓国からも三人の教授が来てくれた。パンソリの仲間たちも。中国からもアメリ

カからもゲストが来てくれた。大きなつながりに一つになったのは確かだった。

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2017年07月大阪の心斎橋は

2017年7月1日 7:25

このあたりの治水工事を

000000 大阪の心斎橋は、このあたりの治水工事をまかされたなんとか心斎という人が作って自分の名前を付けたので、荘子の心斎橋とは関係がない。その名付け親が荘子に心酔していたことがわかったりすると話は面白くなるのだが。
これも孔子と顔回の対話である。顔回は孔子のところに来て「私は重大な発見をしました。それでどこそこの国に行って治めるのを手伝って来ようと思います」と意気揚々と告げる。ところが孔子は「そんなことはつまらないよ」と相手にしようとしない。それが

何回か繰り返されるで、顔回は腐ってしまって、「なにがいけないんですか。私に足りないところを教えてください」というと、孔子は「齊(断食)をしなさい」というのである。顔回は驚いて「そんな先生、私の家はとても貧乏で酒も飲まないしニンニクみたいな

くさいものも何か月も口にしていませんよ。これ以上断食をせよとおっしゃのですか」と反論すると、「それは祭りごとの断食で必要なのは心の断食だ」と孔子は言う。それが心斎である。だが物知りな顔回でも心斎のことは聞いたことがなかったので、「先生、

あえておたずねしますが、心斎ってなんなんですか」と恥を忍んで聞くのである。孔子は「これを聞くのに耳で聞くのでなく心を以て聴く。心で聞かずに気で聴く。気で聴かずに虚と一体になる。ただ道は虚に集まる。虚は心斎なのじゃよ」とすごくわからないこ

とをいうのである。
この孔子はすごい。坐忘よりもっと本当らしくない孔子である。それで道教徒たちは、儒者たちは坐忘をありがたがっているみたいだぜ、俺たちは孔子と顔回に冗談をやらせている意味でこちらを道教の瞑想だと言おうか、と言い合うようになりましたとさ。

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2017年07月荘子のことは

2017年7月1日 8:25



いくらでも書きたい

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荘子のことはいくらでも書きたい。福永本六冊手元にあれば、一年中毎日荘子のことを書いてもよい。だから福永本は持ち歩かないようにしているのだが。
荘子の多くの節が身体障碍者を主人公にしているのはご存じだろうか。それを中心に一冊パンフレットをつくったことがある。刑罰で手や足を切られた人や、生まれつきのかたわの人や、病気で顔が崩れてしまった人たちが、実にみんなインテリで、障害のあるこ

との意味をとうとうと話すのである。荘子そのものを「障碍者の文学」と呼んでもいいくらいだ。だがそれ以上にぐでんぐでんに酔った人が車から放り出されてもかすり傷ひとつ負わないというのが好きだ。放り出されてもどこを守ろうとかふせがなくちゃとか思

わないで落ちるに任せているので、逆に傷を負わないのだ。なかなかそこまで酔った人はいない。私も十分理性が残ってしまうくらいにしか酔わないので、生傷が絶えないのかもしれない。

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2017年07月 陳攖寧は

2017年7月1日 11:25



静功問答の中で自発動にふれていっている

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陳攖寧は静功問答の中で自発動にふれていっている。静功をしようとしているのに、体が勝手に動き出してしまう場合がある。これは奇怪な現象だが何だろう。どうしたらいいのだろうか。これは人の生命力が自然に発動することだから少しも驚くようなことでな

い。肺の動き、胃の蠕動、さまざまな内分泌、
細胞の新陳代謝、爪や毛髪の成長、精子や卵子の成長、母親の胎内での胎児の成長、こういうことは脳がやれといって起きていることではなく、身体が勝手にやっていることではないのか。自発の動作が奇怪だというなら、体内で起こっていることは皆機械ではな

いか。人間がしている動作の中で、脳がしたい動作をやらせているほうがむしろ例外的なのだといっている。これは胡耀貞の立場と同じだが、胡耀貞が大部分の人は自発動がでると考えていたのに対し、陳攖寧は10から15%くらいが外動が出てくると考えていた

ようだ。

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2017年07月土曜日の授業が済んだ

2017年7月2日 3:45



金曜日は「申し込みは二人」とか

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土曜日の授業が済んだ。金曜日は「申し込みは二人」とか言っていたが七人くらい来た。今日はその倍くらい。夏至の後の夏休みはなかなか人が来ない。たいていは家族と別荘で過ごしているから、気功講習などに来ないのである。
金曜は坐忘の話をした。心斎の話は何百回もしているが、なんで坐忘なのとカウコに何度も聴いたがいっこうに要領を得ない。陳攖寧の英訳本を持ってくるが、私が中国語で読んできたように荘子の坐忘論は載っていない。結局「静功について」のことだったらしい。丸二日かけて坐忘論を組み立てた。結構いい話になったと思う。心斎論にはちょっとふれるだけで坐忘論を展開したのだから立派なものだ。最後に30分余りの静功をした。
土曜日の方は午前中二時間半が郭林の頭部按摩。ひとつひとつツボを紹介して都合三度やってもらった。
午後はやはり二時間半。背骨ゆらしの一通りの後、この間突然腰痛になった時に自分で工夫して治した方法を公開して、それぞれ応用してくださいという話。
そのあとは胡耀貞の簡易動功をていねいにやり、余った時間で道家八段錦をした。
明日が最終授業。月曜には帰国の飛行機の上である。

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2017年07月 気功を始めたのは

2017年7月2日 15:45



何度もして来た

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気功を始めたのは、という話はもうずいぶん何度もして来た。でももう一度「原点」の紹介をしておこう。1964年、父親が大連のソ連の技術者が立てた西洋建築に住んで、お忍びの療養生活をしていた。父親は総評という労働組合の事務局長をしていて、マッカーサーに抵抗して400万人の労働者を率いて突如朝鮮戦争で朝鮮・中国支持を打ち出して「ニワトリからアヒルへ」とびっくりされた高野実だった。当時の企業社会は戦争経済になっており、その戦争を支持しない姿勢を打ち出すことは大きな意味があった。だが高野は次の選挙で合化労連の太田、国労の岩井の春闘路線に負けて半ば引退に追い込まれた。労組は賃上げのためにあると考える人たちが勝利していった。高野は長年の肺結核などの病気もあり、何度かにわたって中国政府にまねかれて療養生活をした。まだ日中国交の前の香港から深圳へ、歩いて渡らなければならなかったころだ。私も高校に入った年に長期休学してそれについて行った。16歳の時である。
色々な話があるが、気功の話だけに限定する。中国で療養するということは、西洋医師と漢方の医師がつき、鍼灸と湯液だけどなく、食養と気功とを受けることを意味した。そして太極拳をしてみますかと勧められた。楊名時が日本で初めて太極拳の看板を出したのが1970年だからまだどんなものか全く知らなかった。初めて見ると私にはすごく面白かったが、父は全く形にならなかった。太極拳の先生は中年の女性だったが、間もなく首になった。そしてかわりの人が来た。四十代の男性で、坐ってください、背筋をまっすぐにして、眼をつぶって。それで何がおこるのかと思って待っていたら、何も始まらなかった。20分くらいして「終わりました」と言った。何も始まらなかったのに何がどうやって終わるのだろう。それが陳攖寧の静功だと聞かされた。 陳攖寧は中国道教協会の会長で、もともと上海の人だったが、そのころは一応会長として北京に住所を持ち、杭州の工人療養院を拠点の一つにしていた。しばらくして父と一緒にその大先生のところを訪れて挨拶し何日か指導を受けた。それから間もなくして陳攖寧は封建迷信を説いていると紅衛兵たちに追い詰められ、69年に89歳の生涯を終えた。

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2017年07月 最後の授業が終わった

2017年7月2日 23:02



朝は禅密功をやり

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最後の授業が終わった。
朝は禅密功をやり、その詳しい解説をしたが築基功だけだとどうしても二時間で終わってしまう。何かやりたいことは、と聞くと、昨日も参加していたおばあさんが内丹の運

氣法をもういちどやりたいというので、30分かけて丁寧に説明した。
お昼は向かいのKマートによってサンドイッチと小さいリンゴと大きなみかんをかった。日本に持っていくチョコレートとかも買った。岐阜の娘に送りたい。空港では車椅子

に乗せられるのでチョコレートひとつ買えないかも知れない。
午後は坐式八法と外功を丁寧に説明すると二時間半たった。小人数だが充実していた。トンミがたいじょぶかな、別れた時具合悪そうだったけど、といったらすぐ電話してく

れて、なんとエストニアの歌祭りだという。アツアツの新しい奥さんは歌手で、出場するのだ。元気でいてくれたらいい。
明日の出発まで24 時間ある。

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2017年07月 ある対話は

2017年7月3日 0:48



よくいらっしゃいました

000000 ある対話。
「よくいらっしゃいました。今は香港から入られて。たいへんでしたね」
「いえ、面白い体験でした。総工会にはお世話になっています」(日本の総評に当たる労働組合の総連合。そこに招きで訪中していた)
「日本軍が上海にいた時はつらかったですが、日本人の友人もいて、仲良くしていました。あんな関係をつづけていられたらよかったのですが。軍人たちはひどいことをした

者もいましたが、大部分の日本人に罪はありません。今後もお友達でいられます」
「私は戦争中は逮捕されていました。日本の労働組合の責任者をしていたのです。戦争に賛成した組合もありましたが、私たちは中国人を殺さないという立場をとったので、

ずっと牢屋に入れられていました」
「それはそれは。その以前からご病気だたとうかがっています」
「若いころから拷問を受けて肺結核になりました」
「大変でしたね。あなたの様な方こそ歴史の証人です。私はのほほんと本を読んできただけで、道蔵の世界しか知りません。私が今一番関心を持っているのは、神経衰弱の人

たちを伝統的な道教治療法でよくしていけないかということなのです。
「外からは見えませんが、神経衰弱の人は多いのですか」
「治りますよ、と宣伝しはじめてから連絡してくる人はとても増えてきました。真面目で繊細な人はたくさんいて、悩んでいます。黙って座ることが効果があることがありま

す。いや、あなた様の病状が神経衰弱だというのではないですが、この心斎の方法は、偏差もなく実に様々な方の病気治療に役立ちます。一般の気功法は功罪相半ばというと

ころですが、心斎は役に立つと思います。お若いの。あなたも一緒にやっているのですな。あなたの様な方には必要はないでしょうが」
「いえ、必要な方はたくさんいると思います。何十年かして、これで治していきたいので、ぜひ弟子入りさせてください」
「弟子入りでなくとも、いっしょに学んでいきましょう。荘子の世界は楽しいですよ」
「まだ読んだことがありません。」
「それは人生に大きな楽しみを残していますね。機会があれば仙学を学んでください。私はいろいろな事情で道教の組織にいますが、本当に面白いのは仙学だと思っています

。」
「先生のところに来てもいいですか」
「いつでもいらっしゃい。ただ、私の寿命はそんなに残されていません。一人になっても勉強してください。お父さんが健康になったらお父さんの闘いを助けてください。こ

れからたくさんいいことがありますとも」

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2017年07月 私は「陳攖寧の弟子」を自称す

2017年7月3日 4:36



だが実際には、杭州工人療養院で

000000 そこで私は「陳攖寧の弟子」を自称することになったのである。だが実際には、杭州工人療養院でお会いしてから、二度と会えなかった。そのまま五年後には亡くなってしま

われた。ただでさえ宗教の迫害が続いていた。道教協会の会長がどんな目に遭ったか想像がつく。弟子の申し入れをしただけで本当の弟子にはなれなかった。だがあえて弟子

といってみることにした。何人かの有名な気功家に「私は最初に陳攖寧に習ったので、一応陳攖寧の弟子と称しています」と言って見たが、嫌な顔をする人は誰もいなかった

。「おおそれはいい縁を結ばれましたね。陳攖寧老師は誰もが一度は習いたいと思いながら、たいていは実現できませんでした。老師が無名の患者に会うことを重視して、気

功家と交流することは余りないという態度をとられたからです。そしてもちろん晩年は道教協会そのものがひどい目に遭いました。あなたは落ち着いてお会いできる最後の頃

だったのでしょう」
観気旅行の中で杭州に行ったとき王盧生先生は「今日はあなたをびっくりさせる計画がある」といって、バスで杭州工人療養院に連れて行ってくれた。職員が「陳先生とおあ

いして習ったのはこの部屋だったはずですよ」といったがそこまでの記憶はなかった。
その後人民体育出版社の名編集長閻海さんにお会いした時に、「あなたが陳攖寧の弟子であることは気功界の誰もが知っているよ」と達者な日本語で言って、「それであなた

にプレゼントを挙げようと思ったんだ。これはコピーだけど、陳攖寧の静功総説の全文だ。陳先生が杭州で作った資料はガリ版だった。私は直接それをいただいたのだが、そ

れはちょっとあげられないな。コピーだけね」感謝感激でいただいたのだった。自称「弟子」が効いて来たのである。ご覧になった方もいるだろうが、この「高野威」と隣り

合った「津村喬」のfacebookのサイト(もともと英語版でエストニア向けに始めたがもう何年も更新していない)にある写真が閻海さんと私のツーショットの写真である。彼の

晩年の仕事に『気功精選』三巻本がある。その閻海さんも亡くなってしまった。
2008年に出た『陳攖寧仙学精要』はだいぶたってからだが通訳の許運堂さんが届けてくれた。下巻は詩文で私のレベルではほとんど読めない。これが全集かと思ったが、ま

だまだあるらしい。2015年に出た胡海牙『仙学養生文集』にも陳攖寧のほかに収まっていない文章がたくさん含まれている。長いこと陳攖寧の側近だった2013年に亡くな

った胡海牙にも私は会いそびれている。本格的に陳攖寧と向き合うのはこれからだ。

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2017年07月 空港の待合室にいるは

2017年7月3日 19:57



カウコが田舎の小屋の掃除に行く関係で

000000 空港の待合室にいる。カウコが田舎の小屋の掃除に行く関係で12時にはここに来たい。それで待ち時間が5時間半もある。別に今日は予定がないから私の方は構わない。どし

ゃぶりの雨というのに、船で釣りをしたいのだ。元気なことである。ここには車椅子を押してくれる人が二時が都合がいいと二時に来てくれる。運んでもらったらまだ三時間

もある。本でも読んですごすしかない。あ、今日はネットも使える。
車椅子を頼むようになって二年くらいになるのか。確実にちゃんと運んでくれるので、ありがたい。その代り途中の売店やスナックなどには寄れない。みやげのチェックなど

5%位安いから中でしていたが昨日Kマートですませた。あとは売店もない乗り口でただ待つだけである。乗組員と障害者だけの入口へいってくれるりで、混んでいても嘘のよ

うに早い。申し訳ないようだ。このまま「車椅子を頼む人」になってしまうのか。
私は障碍者手帳を持っていないけれど、空港では完全に手帖がある人のように扱われる。二時に来てくれた人は私よりもずっと巨体のご婦人で、おっぱいの間に人ひとり隠れ

そうな程である。軽々と私を押して、元気な人で歩いて40分掛かる遠い遠い場所に運んでくれる。昔はチェッインして歩きだすまで一時間見ないとならなかった。

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2017年07月 メールはヘルシンキまでしかは

2017年7月5日 3:07



上海ではwifiにつなぐ方法はあるのだろうが

000000 メールはヘルシンキまでしかつながらない。上海ではwifiにつなぐ方法はあるのだろうがわからない。朝七時に上海について、12時に発って3時に大阪に着くだから、中国円

も多少は持っていたが使うこともないなと思っていた。それから延々と待たされた。飛行機が来ていません。あさ十時頃にはかなり延着だということがわかっていたらしい。

食事してきてくださいと言われても、何時になるのか何も言わない。一人の職員は三時に来てくださいという。三時と言えば関空に着く予定時間である。もう一人の職員はち

ょっと早いけど五時にここにいてくれれば車椅子の手配をするという。え、どういうこと。そんなに遅れるのか。遅れるということもはっきり認めない。どれくらい遅れるか

も、その理由も言わない。これが中華航空の流儀なのである。こちらでホテルを用意してもいいというが、そこに行くまでにかなり歩いてもらわないといけない、車椅子は使

えない、というのでそれはいいですということにした。で、なぜかわからないが五時に来ればいいのですねと念を押して(まだ十時である)ゆっくりゆっくり歩いて銀行に行っ

て80ユーロほど換金した。そんなにいらないとは思ったが念のため。そして四階にあがるエレベーターで上に行き、麻婆豆腐とピーナッツと鶏のいためたのとキャベツの漬物

と豆腐汁で90元というかなりべらぼうな値段の定食をとった。プーアル茶の7元のをとり、お代わりをもらい、カフェラッテなどもたのんで四時間近くねばった。
それから下に降りて薬やや本屋など冷やかし、仕方なくコストコというスナックに入った。関空から大阪に行く途中でコストコというのがあり、あれと思ったが、これはパチ

ンコ屋だった。コーヒーでねばる。それから向かいの空いた椅子に座って二時間ほど過ごす。五時に来いというのを早めに行って待った。大阪空港悪天候のためとやっと貼り

だされていた。何本かは欠航している。まだ運がよかった。
それから次々におじいさんやおばあさんが車椅子に乗せられるのをしり目にえんえんと置いておかれた。六時十五分て出発時刻にちかいんじゃないの。ようやく車椅子が来た

。11時間半待ったことになる。それからの通関も大変だった。フィンランドのパンを念入りに調べている。大阪行きの最終バスが出ますというところで間に合った。
関空はもう十時近い。まだついていない中国や東南アジア方面の飛行機があるらしい。いつものMKタクシーのところに運んでもらったら、今日はパニック状態で予約した方

しかだめです。ヤサカも同じ状態。JRは特急はなくなっているから二回乗り換えならと調べてきてくれた。京都行のバスが一台遅らせて待ってもらっているのを見つけてくれ

る。いやはやお嬢さんありがとう。そんなわけで、一時すぎてバスとタクシーをのりついでついた。
部屋の鍵を開けるとまた関電が止まって真っ暗である。なれているからはがきを持ち出してセブンイレブンに来て、yahooとfacebookだけ開ける。カウコにも中華経由は安

くてもだめだなと送る。いや相当に疲れたはずだが腹を立てているのでまだ疲れは出ない。今から関電に電話する。夜中に回復できるところとできないところがあるが一晩中

受け付けるという。

 





2017年07月 午前三時頃電気を回復して欲しいは

2017年7月5日 6:10



完全自動で人は出ない

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午前三時頃電気を回復して欲しいという電話をした。完全自動で人は出ない。支払ってないのがいくらか聞きたくて電話したのに、支払い番号を伝えて、わかりましたと自動

のまま電話を終えた。ろうそくをたくさんつけて少しでも景気よくしようとして、とりあえず二日放置してある傷の手入れをしていたら、なんと五時半にぴんぽんが鳴って、

出てみたら誰もいないが、電気が回復している。最近は「お前らのやりかたは迷惑じゃー」というとすみません、つけますになっているのかな。いや自動支払いにしていない

こちらがわるいのだが。9時になったらいくら支払うんでしょうかという問い合わせの電話をしなければいけない。
電気を切って一か月だから、さすがに冷蔵庫がひどい匂いになっている。掃除をしてすこし開けておいて、炭など入れて、なんとかしないといない。
そういえば、ちょっと動くと汗ばんでしまう。帰ってきたら冷房のいる季節になってしまった。

 








2017年07月 もともと水曜日に帰ってくる

2017年7月5日 11:40



一応火曜深夜にたどりついた

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もともと水曜日に帰ってくることになっていたのだが、一応火曜深夜にたどりついた。念のためよみうり文化センターに問い合わせて、来週からですよねと確認をした。今日

行けないことはないのだが、あんまり疲れてひげ面では失礼でしょ。背骨ゆらしの治療効果のあるバージョンとか紹介しますのでたのしみにどうぞ。
あ,その前に今度の土日京都での講習が入ります。
一応無事、でもなかったけど、なんとか帰ってきました。

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2017年07月 てきぱきと仕事を始めないは

2017年7月5日 20:57



いつもフィンランドから帰ってくると

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てきぱきと仕事を始めない。いつもフィンランドから帰ってくると、一日はなんとなくだらしなく過ごす。今日も昼過ぎまで寝て、喫茶翡翠に行ってプレイボーイとビッグコ

ミックを読む。だんだん好みがうるさくなってきて、プレイボーイは二割、ビッグコミックは6割しか読む所がない。関電に約束していた金を支払いに行く。ファミマの隣に

アジェという焼き肉屋があってえらく繁盛していたので、ちょっと入ってみる。焼き肉屋自体が半年ぶりくらいだ。近くにあるのに、初めての店である。焼酎のお湯割りを頼

んで、サガリ、タン、ホルモン、キムチなど割合安いものばかり頼む。でも十二分に満足した。最後に卵かけご飯を頼んだ。マスターが次々に肉を斬る眼の前で、手さばきを

堪能しながら食べた。もう一度ファミマによって100円の玄米茶とか買う。明日の朝用に稲荷三個とか買う。フィンランドはこういうがないのが不便だな。明日は鈴木医院に

行く。『鞍と筆』という紅衛兵の先駆けだった人が、モンゴルに下放され次第にイスラム教徒として目覚めて行く物語。今朝机の上にあるのを読み始めてめっぽう面白い。

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2017年07月 二回洗濯をしは

2017年7月6日 3:43



三回目にかかっている

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二回洗濯をし、三回目にかかっている。包帯だけであと二回分がある。冷蔵庫はひと月電気が切られて大部分破棄である。冷蔵庫の上の四段はなんとかきれいにしたが、ちょ

っと疲れて一休みだ。まだ冷凍のものを捨てたあとの掃除があるし、その下に保存野菜が二段ある。向かい側にはもうひとつの古い冷蔵庫がある。開いていないジュースとか

調味料とか梅干しとかは大丈夫そうだ。明日木曜はゴミの日だが,ゴミ袋がもう二つしかない。45リットルにびっしりとなると相当だが、それではとても入らない。明け方に

ローソンで買ってくるか。早くにゴミを出したいが、カラスに散乱させられるおそれがある。次の角を曲がった所にはネットがあるので、そこに置きにいってもいい。ちょっ

としゃれたパン屋があるので、そこが七時に開く。七時にローソンのゴミ袋を買いに行けば、なんとかなる。ゴミは七時から九時で、勝手に厳格に来るチームと昼近くまで来

ないときがあって、いずれにしても腹が立つ。ともかくも、このゴミを九時までになんとかしないといけない。捨てないうちは台所は機能しないので。焼き肉屋に行ったのは

正解だった。昼間はかなり強い雨だったが、今は晴れているようだ。いや日本もなかなか忙しい。

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2017年07月 あさって何作ろうと

2017年7月7日 2:27



毎月のことだから基本的には

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あさって何作ろうと考えていた。毎月のことだから基本的には京料理のあれこれなのだが、ちょっとフィンランド帰りだから二三のおみやげはある。土曜日の夜は1000円、

日曜の昼は500円だ。昼はお粥だが、昨夜の残り物が出るからおとくですよ。気功に来て欲しいですが、気功に来ないで食べにだけ来てもいいですよ。ご一報ください。

サーモン 生サーモンですが様子を見て大きさとか選びます。
サーモン団子と野菜の炒めもの
サーモンだけのミートボールみたいなのがあるのですが、ピーマン、玉ねぎ、ズッキーニなどと炒めます。
サラダニソワーズ
いつもの味。レタス、ポテト、玉ねぎとアンチョビ、ゆで卵。
ズッキーニ卵とじ
ねぎとカイワレ入りちぢみ
万願寺唐辛子炊いたん
賀茂ナスの揚げびたし
なすとかぼちゃのみそ汁
梅おかかおむすび
変更もあり得ます。

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2017年07月 これは7/15にする

2017年7月7日 2:50



北朝鮮料理の計画です

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これは7/15にする北朝鮮料理の計画です、
もうすぐですよね。場所は檜原村です。申込がいります。
気と場の勉強会でFBで探すといいのかな。

松の実のお粥
馬のタルタル
醤油、胡麻油、すりにんにく、ねぎ、はちみつ
ごま、コチジャンであえ、きゅうりと果物または山芋の
千切りを乗せ、卵黄と糸唐辛子をのせる。
はさみきゅうりの甘酢かけ
千切り野菜と鯛のナッツヤンニョムかけ
むし野菜のヤンニョムかけ
この辺り北の宮廷料理の名残です。
トマトと豆腐のサラダ
なすの冷菜
チャプチェ
これは庶民の食卓。

大草原の冷麺(代表的な北の料理です。汁なしの絶品)
そば粉とじゃがいもの麺、牛豚とりをゆでる。薄く切る。
鶏は引き裂く。めんに胡麻油、いりごま、ねぎ、にんにく、  粉唐辛子醤油で薬味をつくり麺とまぜる。きゅうりを   
4cm1.2cm厚さ3mmに切って酢塩砂糖すりごまネギにんにく  でよくあえる。麺に肉ときゅうりを放射状に並べ、錦糸卵糸  唐辛子松の実をあしらう。

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2017年07月 張承志の名前をは

2017年7月7日 3:36



どこかで覚えていると思って

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張承志の名前をどこかで覚えていると思って読み進んでみたら、岩波新書の『紅衛兵』を書いた人だった。そもそも紅衛兵というネーミングを作った人である。1948年生ま

れだから、私と同い年だ。彼は回族だった。大学まで、ほとんどそれを意識しなかった。だが大学で考古学を身につけ、内モンゴルで長い時間を過ごすうちに、次第に回族の

ルーツに立ち戻るようになる。わたしは知識人が田舎にやられることをみな「下放」というのかと誤解していたが、彼のようなのを「下郷」とか「挿隊(農村の生産大隊に住

む)」というので、給料を受け取っている幹部を農村に行かせる下放と混同していた。
草原で彼は「牧民」としてすごした。だんだんに貧しい遊牧民と融け合って行く。
天山の氷峠で、ウリバートルの娘のロシア人とモンゴル人の15歳の混血の子のことを書いている。
「ナジャは父親とモンゴル語のオイラート方言で話し、母親とはロシア語を使う。彼女の母は新疆に流れ込んだロシア美人であり、夫との会話の通訳をたまに娘に頼む。外で

はナジャのウィグル語やカザフ語は自由自在だった。違う民族生まれの赤ちゃん達の遊びは母語をお互いに与え合うことなのだ。そればかりか、ナジャは学校で漢語を勉強し

ている。ショタの小学校は本当にどの大学の外国語学部よりも上で、同じ都市にカザフ、ウィグル、モンゴル、漢の四種類の言葉で授業をする。どれを選ぶかは子供側の自由

である。だから、よそから見ると、十五歳のナジャは(ロシア語を加えた)五つの言葉が出来る言語の天才ということになる」
峠まで送ってくれたナジャと分かれる時、彼はさようならをモンゴル語、ロシア語、カザフ語で言いたくなる。ナジャは笑った。
こういう言語混合の場所だということが面白い。あこがれるだけで、日本語から離れられない私の一方的な思いである。
孫悟空にでてくる火焔山を訪ねたとき、「このへんの山が燃えることはありますか」と聞いてまわる。彼はようやく車を手に入れて走り回り、かつてジュラ紀の地層の中の

石炭が自然発火して昔から時に本当に燃えていたことを確かめるのである。
回族とは中国語を話すイスラーム教徒のことだ。同じイスラームだが、トルコ系の言葉を話すウイグルとは違う。唐代の長安にはアラブ地域から膨大なイスラーム教徒が入

っていた。長安は外来者への差別のない世界一の国際都市だった。さらに元はたくさんのイスラームを連れて来た。860万の中国のイスラームの中で60万人ほどを占めてい

るのがジャフリーヤと呼ばれる民族で、清朝の弾圧に対して繰り返し抵抗して、回族の誇りを保ってきた。
私はジャフリーヤの存在を知らなかった。回族の歴史について知ってみたいと思う。

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2017年07月 気と場の勉強会

2017年7月7日 9:47



今回は北朝鮮料理

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7月15日
気と場の勉強会〜今回は北朝鮮料理〜
公開 · 主催者: 場づくりクラス
2017年7月15日 14:00 - 22:00
れんげ舎檜原BASE
〒190-0211 東京都 西多摩郡檜原村三都郷2810-8
基本データ
ディスカッション
参加予定9人 · 興味あり32人すべて表示
10人参加予定ときいていますが、まだ行けますよ。
詳細
「気と場の勉強会」は、れんげ舎のメンバーが、津村喬さんを招いて、自分たちのために開いている勉強会です。一般の方もご参加になれます。
気功の体験だけでなく、津村さんのお話は他ではなかなか聞くことの出来ない、とても興味深く貴重なお話です。初めての方もどうぞお気軽にご参加ください。
日 時:2017年7月15日(土)
14時〜18時  第1部・気功
18時〜20時  夕 食・北朝鮮料理
20時〜22時  第2部・お話
*第1部のみ・夕食までの参加もOKです
場 所:れんげ舎檜原BASE(東京都西多摩郡檜原村)
【タイムスケジュール(予定) 】
*変更の可能性もあります。詳細は追ってお知らせします
14時~17時半 第1部・気功の実習
□基本四技法
背骨ゆらし、スワイショウ、自己マッサージ
二人マッサージ=たんとん叩き、ゆすりタッチ
□内丹気功
17時半〜18時 料理準備の休憩
18時~20時 夕食・北朝鮮料理
□松の実のお粥
□馬のタルタル
□はさみきゅうりの甘酢かけ
□千切り野菜と鯛のナッツヤンニョムかけ
□むし野菜のヤンニョムかけ
この辺り北の宮廷料理の名残です。
□トマトと豆腐のサラダ
□なすの冷菜
□チャプチェ
これは庶民の食卓。
□大草原の冷麺(代表的な北の料理です。汁なしの絶品)
20時〜22時 第2部・お話

参加費(含む食費):7,000円
*宿泊の場合は別途+3,000円
講 師:津村喬さん
◇津村喬さんの著書(参考情報)
http://amzn.to/1GvEA48
(交通のご案内)
最寄り駅はJR「武蔵五日市駅」になります。
武蔵五日市駅より13時発「藤倉行き」のバスに乗り「千足」のバス停で降りていただくと、13時30分くらいには、れんげ舎に到着できます。
お車でのご来場をご希望の方は駐車場もございます(応相談)。詳細はお申し込みの方にご案内します。
(宿泊のご案内)
気功講習は22時までとなります。ご希望のかたは、そのまま宿泊が出来ます。ご要望があれば、駅まで車でお送りします。
*宿泊される方は、別途3,000円がかかります。
*簡単な朝食の用意があります。
参加をご希望の方は、「参加」をクリックの上、class@rengesha.comまでメールでご連絡ください。宿泊をご希望の場合は、その旨お書き添えください。
(お支払い方法)
・銀行振込の場合、メールにて振込先をご案内いたします。
・現金の場合、当日お支払いください。
(キャンセルポリシー)
お支払い方法にかかわらず、下記の通り、キャンセル料が発生いたします。
・7日前~4日前までは、参加費の50%がかかります。
・3日前~当日は、参加費の100%がかかります。

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2017年07月 七月十五日は

2017年7月7日 10:02



昼間は気功の基本的なお話と

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七月十五日は昼間は気功の基本的なお話と基本技法です。このかんここで書いて来たような「気功の分類」とか「八大領域」とかを分かりやすく伝えます。基本技法は50年余

にわたる気功実践の中から、坐ったまま背骨を動かして行く背骨ゆらし、立って腕をぶらぶらするスワイショウ、自分で自分をマッサージするグルーミング、お互いに癒し合

うための推拿の技法のいくつかを伝えます。やさしい気功をずっと続けることが一番大切です。夜のお話はでたとこ勝負ですが、一応私と中国の関わりをめぐって話を用意し

ておきます。

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2017年07月 七月十五日なのですが

2017年7月7日 16:45



夜の話のために『中国文化大革命の

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七月十五日なのですが、夜の話のために『中国文化大革命の日本における受容を考える』というパンフレットを用意します。中国学者の土屋昌明さん、印刷労働者で高校全共闘出身の前田年昭さん、フランス現代思想の松本純一郎さんが聞き手になって二日間にわたって津村から文革前後の話を効き出したものです。67ページの仮とじですが、最後

の10冊を1000円でお分けします。十五日出席者優先です。余ったらまたご案内します。高校時代のこと、うたごえ運動、紅衛兵との接触、新左翼諸党派との対立、広告批評

研究会と企業戦略研究会、ドゥルーズ・アルトー、四川雲南の独立?、言文一致と碧梧桐・柳田、所有意識がない?、など話題豊富。今度章炳麟と東学と西郷でいちどやりまし

ょうといっているのだが、いつ実現するやら。

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2017年07月 これももう少し

2017年7月7日 17:45



京都のことです

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これももう少ししつこく宣伝しましょう。京都のことです。
濱田さんは日曜の午前中に来て道教八段錦とかやってもらえます。土曜の食事だけ来られたら来たいとも。
七月の京都講習
七月八日九日です。フィンランドから帰宅した週ですが、やります。
鮭などおやげがいろいろ。
七日土曜日
午後一時から二時半 背骨ゆらしの治療効果別いろいろ〔新内容〕腰が痛かった時の角度や速度の工夫など。フィンランドで突然動けない程の腰痛になって、前屈みで背骨ゆ

らしをしたり左右差のある動きをしてめでたく回復した経験に基づいて、すっかり治った過程を伝えます。
午後二時半から四時 周稔豊易筋外経の第二部と静功八式〔新内容〕外経功の第二部は静止状態で筋肉運動をしていきます。静功八式は易筋関連の膨大なデータから新規編集

したものです。易筋経の練習方法が、立ってやる、坐ってやる、しゃがんでやる、など数百も研究されていて、その中からとったものです。
四時から五時半   坐忘と心斎  坐忘と心斎のことはプログで論議してきましたが、実際にやってみるとまた違いますよ。ふたつの静功の比較 これもフィンランド以外

では初講義。 周十二段錦〔新内容〕やさしくて楽しいですよ。健身のよりずつといい。
夕飯1000円
八日日曜日
九時から十二時   道教八段錦、簡易動功など 濱田さんがいらしたらやっていただきましょう。
昼食500円
一時から三時    智能功光の瞑想、禅密功光の瞑想〔新内容〕、あとはご希望に応じて。これは静功で光の瞑想というのがあるのを(『呼吸の技法』に入っている)知能

功と禅密功に応用したものです。真気運行法の希望が出ていました。
露伴を読む会    集まった人の希望に応じて「道教に就いて」と「参同契」か決めます。
会員は一日5000円 一般は6500円です。
フィンランドでいろいろ発展があり、新内容充実です。
京都堀川鞍馬口の気功文化研究所です。
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2017年07月 陳攖寧年譜は

2017年7月7日 22:45



1980年12月19日(これは農暦で

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陳攖寧年譜
1980年12月19日(これは農暦で西暦では1881年1月18日出生)
安徽省に生まれる。元の名前は元善。成人してから攖寧と改名。
道号は攖寧子。龍門派名「円頓」。
1983年―86年父親について自宅学習。『三字経』『四字経』『百家姓』『千字文』『論語』『孟子』『大学』『中庸』など。
1987年『詩経』『書経』『易経』『礼記』『左傳』を読む。
1889年葛公の『神仙傳』三豊真人『玄要篇』。。仙学への関心が強くなるが家庭教師は孔孟の道からはずれてはいけないという教育をする。
1892年古い詩や八股文を学ぶ。
1895年秀才の試験に出るが朝廷に異議をとなえる文章を書いて問題になるが、試験官が父親の友人で大きな罰をうけないですんだ。
1896年子供の時の結核が再発。父親は儒教の本の押し付けをやめる。『参同契』や『悟真篇』など仙学修し。
1907年病気が再発
1908-1911年仏教名山の高僧と道教丹道の大師を訪ねるが、納得が行かず、自分で道蔵に当たらねばと思う。
1912年から14年、上海白雲観で道蔵5485巻を通読した。明から民国の時期まで470年に通読したのは陳攖寧ひとりだった。
1915年杭州の海潮寺の華厳大学で仏教を研究した
1916年春北京白雲観に転居しさらに市内に転居する。上海で著名な文学者である呂碧城女史に《孫不二女丹詩注》和《答呂碧城女士三十六問》を講義する。産婦人科医呉 

珠と《結婚。それから二十年生活は安定する。医学と道家養生学を主として研究する。
1921年潜道人聘三に求められて著名な『黄庭経講義』
1922-1932年数名の仲間と外丹の実験を繰り返し、銅を白銀に帰ることに成功。
1933-1941年『揚善半月刊』『仙道月刊』の主筆となり道蔵の知識を使って全国の読者の疑問に答え、仙学を打ち立て宣伝する
1935年女性のための丹道を集中的に研究。
1936年中華道教会草章を発表。
1937年『揚善半月刊』停刊に追い込まれる。
1937-1945年抗日戦争を支持。傷病兵や難民の世話をする。
1939年『仙道月報』の編集を引き受ける。
1940年仙学院で『参同契』講義。
1942年「復興道教計画書」を起草する。道教講經壇、研究院、月報社、圖書館、流通處、救濟會、道功修養院、道士農林化、科儀模範班の九項目を提案。
1945年妻が逝去。
1946年中医師胡海牙を弟子とする。
1947年上海市道教協会設立。『復興道教計画』5000部発行
1948年『邱長春真人秘伝大丹直指』
1949年頭の使い過ぎで頭痛、心拍数異常、目まい耳鳴り、胃潰瘍の発作に。
1950年胡海牙のために『素問』『靈数経』を講義する。
1953年浙江省の文史研究官の研究員に。最初の『陳攖寧自伝』を書く。
1956年中国道教協会設立準備委員となる。各地の代表23人と『中国道教協会発起書』を起草。
1957年第一回全国道教徒代表会議が北京で開かれ、陳攖寧は副会長兼事務局長になる。8月から杭州屏風山療養院で静功講義開始。神経衰弱療養法問答など。
冬から北京白雲観に住む。
1959年全国政治協商会議委員に〔日本の衆議院にあたる〕
1961年第二回大会で全国道教協会会長。
1962年『道教会刊』創刊。巻頭に「道教の起源・陳攖寧の国務院宗教事務局での講義」を掲載。
1964年高野実・威と会う。
1965年第四期の政治協商委員に選出。
1966年文化大革命で道教協会は圧迫され活動停止に。陳攖寧は憂慮困惑して抑うつ状態に。
1969年5月25日逝去。89歳。

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2017年06月島根県も山口の近く

2017年7月8日 22:45



大田市から来ておられる

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島根県も山口の近く大田市から来ておられるGさんが途中で突然気分が悪くなったと家にいたご主人の方からFAXがあり、びっくりした。途中で引き返しらしい。ご無事を祈らない訳に行かない。あとは長野のA さん、大阪のHさん、芦屋のTさん、甲陽園のT さん。遠くからの人ばかりで、京都在住の人は中々来ない。二人は食事をとらずに帰られて、二人と私とで宴会、なかなかおいしかった。
背骨ゆらしは私自身が腰を痛めて動かして治した方法を紹介した。二コマ目は坐功八式と外経第二套をやった。三こま目は坐忘と心斎の話も含めこの間の一連のプログの内容を紹介。
宴会は6人前の予想で作ったのを何も残さずだったから、明日はゼロから作り直さないとならない。Hくんが上海から運んでくれた紹興酒がなかなかお目にかかれない上等のものでおいしかった。

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2017年06月ほびっと村でする

2017年7月8日 23:15



今月末の徹夜トークの内容

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ほびっと村でする今月末の徹夜トークの内容予定です。前回は映像資料に頼って何も計画無しにしゃべってみましたが、今回は「気功以前」の私をこんなふうにまとめました。二回に分けて掲載です。

津村喬=高野威
第二回
【01】  父と母の死
1 ) 病院で死んだ父
2 ) 帰ったら玄関で死んでいた母
3 ) 二人の葬儀
【02】  大船の家
1 ) 公安につけられる
2 ) 岡島、江口たち
3 ) 置いて来た膨大な資料
【03】  全共闘の話
1 ) 早稲田一文の環境の中で
2 ) 『われらの内なる差別』の神話
3 ) 全国全共闘と「われわれ」の対決
4 ) 入管闘争
【04】  私の初期の著作
1 ) 魂にふれる革命
2 ) ゴダールとブレヒト
3 ) 革命への権利
4 ) 歴史の奪還
5 ) 戦略とスタイル
【05】  ロッキード時代
1 ) 武藤、吉川の口説き
2 ) 週刊ピーナツ
3 ) 山川暁夫の圧倒的な影響
【06】  結婚前後
1 ) 津田塾生、朝日でバイトしていた児玉和子
2 ) 鹿児島体験
3 ) 新婚旅行は奄美、沖縄
【07】  月刊焼酎通信のころ
1 ) 海風社
2 ) 水連洞
3 ) 穂積忠彦さん 
【08】  岡島自然健康道場
1 ) 母親の整体道場通い
2 ) 野口の影響
3 ) 岡島の神田道場
4 ) 気功教育の確立
5 ) 岡島との一時決別
【09】  700人を連れて中国へ
1 ) 総評中国の船
2 ) 太極拳の指導
3 ) キャビア三昧
4 ) その後二回のピースボート
【10】  10年後
1 ) 黄議横行論
2 ) 群衆は増殖する
3 ) レーニンと組織戦略
4 ) ゲッベルとの大衆操作
5 ) 仮面と変身
6 ) 異化する身体の経験
7 ) 全共闘・持続と転形
【11】  月刊八十年代
1 ) 雑誌を作ろう
2 ) 多彩な編集委員
3 ) 全共闘の「継承者」を作る
4 ) 全地球カタログとの格闘
【12】  フェリシモと見た夢
1 ) アメリカの先住民文化
2 ) フィンランドのクリスマス
3 ) ひすいの水
【13】  食の本を初めて書く
1 ) ひとり暮らし・料理の技術
2 ) 今日も一日おいしかった
【14】  私の住まい遍歴
1 ) 下北沢
2 ) 大船
3 ) 早稲田一丁目
4 ) 烏山
5 ) 葛西
6 ) 岩槻
7 ) 所沢
8 ) 神戸市兵庫区湊山町
10 ) 神戸市兵庫区下祇園町
11 ) 神戸市中央区再筋町
12 ) 神戸市中央区港島中町
13 ) 大津市比叡辻
14 ) 草津市野村
15 ) 京都市左京区山端大塚町
16 ) 京都市北区紫野宮西町
【15】  兵庫区住まいと六甲通い
1 ) うちの三階
2 ) 再度山
3 ) 保久良山と金鳥山
4 ) 100日六甲

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2017年06月ほびっと村の宣伝も兼ねて

2017年7月9日 0:08



内容を一言ずつ

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ほびっと村の宣伝も兼ねて内容を一言ずつ書いて行きます。
【01】  父と母の死

1 ) 病院で死んだ父
父の死については前回おはなししました。若い頃の拷問に由来する長年の結核でした。向ヶ丘の病院でしばらく前から死ぬ死ぬといわれていたのに薄情にも死に目にあえませんでした。
2 ) 帰ったら玄関で死んでいた母
母は父が死んで「ほっとしている」と言っていましたが、一人の時代を十分味わうことなく、同じ月の月末に亡くなりました。心臓上の大動脈瘤の破裂で、いつでもおこりうると言っていたのが内心で実際に起るまで信じませんでした。
3 ) 二人の葬儀
母は一緒の墓に入りたくないと言っていたのですが、世間体もあってお骨は三分の一程飛鳥田横浜市長の作ってくれた高野の墓に入り、残りの一部は奥入瀬川と白根山の火口になるべく近い所に投げました。高野の残されたパンフレットを紹介します。
【02】  大船の家
1 ) 公安につけられる
大船で夜電車を降りたとき東京からつけている二人組に気がつきました。何度か公安にマークされていました。滝田実が逃亡生活をしていたころ、水道橋のゲバルト社に出入りしていた頃、などです。
2 ) 岡島、江口たち
「われらの内なる差別」の読者として接近してきた俳優の岡島治夫と演出家の江口正彦とは大親友になりました。飲み友だち、ビリヤード友だちとしてです。彼らは母が居る間は小唄を習いにかよってくれ、母が死んでからは私を慰めるように来て宴会をしてはデビッド・ボウイなど一晩中聞いていました。
3 ) 置いて来た膨大な資料
高野の資料の労働運動関連は信州大学に研究者がいたのでそこに収めました。大船にはまだ膨大な書籍があり、私の自由になったのだけど、ほとんど置いてきてしまった。年取るともう一度見たいと思います。大船の家には一時兄が住んでいて、今は空き家になっています。
【03】  全共闘の話
1 ) 早稲田一文の環境の中で
いろいろな名前でチラシを書いていたのが「私の文学」でした。父母が死んだのが74年で、全共闘は68年ですから、少しさかのぼります。
2 ) 『われらの内なる差別』の神話
1970年に『われらの内なる差別』と『魂にふれる革命』の二冊を出しました。『われらの内なる差別』はものすごく売れ、各地の全共闘、高校全共闘の仲間に読まれました。秋の文化祭だけで数十の講演依頼がありました。
3 ) 全国全共闘と「われわれ」の対決
新左翼諸党派が主導した全国全共闘はわれわれの欲するそしてではありませんでした。私は「新左翼と対決する全共闘」を全国によびかけました。そのへんはスガさんがいろいろな本の中で書いてくれています。
4 ) 入管闘争
『われらの内なる差別』ですでに在日朝鮮人、在日中国人の仲間の身分を保障して行く入管闘争が日本の左翼の国際主義のカナメだと主張しました。党派が空中分解して行く中で、別の着地点を示したかったのです。
【04】  私の初期の著作

1 ) 魂にふれる革命
ビラを集めた本を早稲田や法政、立教の仲間達が本にしてくれました。実は『差別』より好きな本でした。ここからジャーナリズムの世界に足を踏み出して行きます。
2 ) ゴダールとブレヒト
ゴダールについては何も知りませんでした。『勝手にしやがれ』さえ見たのは二十年後です。しかし松田政男さんに誘われて、世の映画評論家達がまったく評価できなくなったゴダールはお前しか読み取れないと言われて、「東風は西風を圧倒する」に始まるゴダール論を書きました。ブレヒト論は管孝行さんの公演パンフに書いたものですが、こちらの方が自信がありました。
3 ) 革命への権利
4 ) 歴史の奪還
この二冊はせりか書房から出た最新の評論集でした。久保覚さんとのつきあいも思い出がいっぱい。突然嫌われたことも含めて。私が歴史、文学理論、民俗学、読者論などのあらゆる分野に挑戦していたことが分かります。
5 ) 戦略とスタイル
その多様な関心をひとつの文脈にまとめてみせたのが『戦略とスタイル』でした。この本の話をするとそれだけで一晩になってしまいますよ。

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2017年06月【05】  ロッキード時代

2017年7月9日 1:06



どうして田中角栄批判の新聞を

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【05】  ロッキード時代
1 ) 武藤、吉川の口説き
どうして田中角栄批判の新聞をだすことになったかというと、共労党の武藤さんとベ平連の吉川さんに熱心にくどかれたからです。おおげさにいうと、ベ平連文化と全共闘文化の連合が始まったわけです。
2 ) 週刊ピーナツ
紙面作りはベ平連の吉岡忍が編集長となり、私が編集主幹となりました。一応外向きに代表する係。一年間やりました。やっているうちに最初田中糾弾でやっていたのがどうも逮捕されちゃっておかしい、裏にストーリーがあるのでは、と深まって行きました。
3 ) 山川暁夫の圧倒的な影響
山川暁夫(山田昭)は共産党の通信社をやっていて次第に公然と共産党と対立して山川を名乗って次々に評論を発表し始めました。兄の高野孟もそのスタッフになっていて、一諸に共産党と分かれました。兄との関係はすぐには回復しなかったが、当時は私も山川さんの圧倒的情報量に感動していました。
【06】  結婚前後
1 ) 津田塾生、朝日でバイトしていた児玉和子
結婚を二回していますが、児玉和子との結婚が一度目。ロッキードのとき私が接触した朝日の記者がバイトに使っていた女の子。結婚式は社会党左派の黒田寿男、全日農委員長八百板正などからいいだももまで来てくれた面白い結婚式になりました。
2 ) 鹿児島体験
鹿児島の妻の実家は乾物問屋。義父が一人だけ別の座卓で食事し、晩酌するのがおもしろかったです。いい人ですが封建遺制そのもの。
3 ) 新婚旅行は奄美、沖縄
新婚旅行と称して喜界島、徳之島、奄美大島、冲の江良部島、沖縄本島を初体験しました。義父が「連中はシナ人ですわ」と言い切ったのに興味をもって、シナ人に会いたいと思ったのです。島の酒場での島唄体験と、西郷隆盛が二度にわたって島に流刑されていたために見たものは、が生涯に残る体験になりました。
【07】  月刊焼酎通信のころ
1 ) 海風社
海風社は今も続いている大阪の出版社です。当時は徳の島出身の作井社長がお元気で、南島叢書を出し続けていました。私が神戸で始めた満月会という月例の飲み会に来てくれ、大阪でも始めたいと金時鐘の奥さんのしていた空堀商店街のすかんぽで始めた。ここに全国の名焼酎を集めた。
2 ) 水連洞
全国の焼酎を飲みまくるうちに、砂糖添加して東京の消費者に媚を売る二階堂、いいちこなどと対決する本物焼酎発見の新人を作ろうと、週刊ピーナツと同じ一年限定でやりはじめました。私のベストワンは冲江良部の水連洞でした。
3 ) 穂積忠彦さん 
渋谷にいた穂積さんの弟子のようになり、全国の焼酎を研究し続けました。穂積さんが「二階堂が君を買収するための城下カレイをごちそうしたいってさ。面白いじゃないか」と二人で買収されてすぐポストに二階堂批判を書きました。ついでに壱岐の島の酒造を訪ねたり、別の機会に奄美、沖縄のメーカーを歴訪しました。最後には全国から送ってもらった焼酎数百本を梅田のニュージャパンを借り切って飲み干しました。

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2017年06月【08】  岡島自然健康道場

2017年7月9日 3:09



少し話しは戻りますが私が

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【08】  岡島自然健康道場
1 ) 母親の整体道場通い
少し話しは戻りますが私が整体の影響を受け始めたのは母親によってでした。母親は野口さんの「治療」を受けて元気になり、活元会にも参加しました。それについていったのが始まりです。
2 ) 野口の影響
まあ結果的には圧倒的な影響を受けました。野口さんという人間にこれは面白いという興味を持ちました。大部分の本を読み、活元会、愉気の会に参加しましたが、弟子にはなりたくないと思いました。岡島の方は野口に次第に心酔して行きました。
3 ) 岡島の神田道場
岡島が神田の道場を作ってもらえるという機会がまわってきました。彼はヨガと整体をむすびつけようとしていました。私も太極拳、気功の教師として参加しました。
4 ) 気功教育の確立
まだ気功をどう教えて行くかについてはっきりした考えを打ち立てていませんでした。この時期に外大をでて中国語ができた星野と共同研究胎生をとったのはおおきなことでした。八段錦や五禽戯についてのパンフレットを出しました。
5 ) 岡島との一時決別
岡島は次第に顔が整体にだけ向いて、野口と同じような和服を着始めました。その野口ぶりがかなり極端な所まで行ったので、私と星野は一時決別することにしました。
【09】  700人を連れて中国へ
1 ) 総評中国の船
父が死んで十年経っていましたが、大単産の委員長は皆顔見知りでした。月刊総評や総評の出すいろいろなメディアにたくさんの文章を書き続けていました。選挙から国際情勢、文学、焼酎から食生活と日本の労働者の皆さんはずいぶん私の与太話を聞かされていました。そのうちに大単産連合で700人つれて中国に行くから、講師として参加してくれといわれて、承知しました。政治向きの講義をするのと、太極拳の指導とが主な仕事です。
2 ) 太極拳の指導
毎朝太極拳をするのも仕事のうちでした。後部甲板でしていました。
3 ) キャビア三昧
私は当時北京でどこに行けば本物のキャビアが安くあるかを知っていましたので、何瓶も買ってきました。サワークリームとかは手に入りませんでしたが、レモンとパンと買ってきて、労組幹部と列車の車中で飲みました。全電通、日教組、全逓などの委員長は「こいつと一緒ならどこでもうまいものが手に入る」と思っていたに違いありません。
4 ) その後二回のピースボート
ピースボートは今も毎年世界一周の船旅をしていますが、もともと民進党の辻本がやりだしたことです。この一年目にはグァム島まで、二年目には香港まで乗りこんで太極拳や気功をしました。
今日はこれまでです。

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2017年06月10  10年後

2017年7月9日 21:45



ここの部分は航思社の

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【10】  10年後
1 ) 横議横行論
ここの部分は航思社の『横議横行論』ほとんどそのままですね。これは問題の68-70年のあとの10年後にこの経験がどんな形をとったかを示しています。横に議論する、横行する、維新の志士達の行動スタイルは私のスタイルでもありました。松岡正剛の『游』の連載がベースになっています。
2 ) 群衆は増殖する
この三本は中央公論の早川さんとの精神的交流があって成立したものです。エリアス・カネッティの『群衆と権力』に注目してファシズム分析と日本の状況を重ね合わせた作業を76年にしていますが、カネッティがこの本でノーベル文学賞を受けて注目されたのが81年です。
3 ) レーニンと組織戦略
レーニンについては100倍も書きたいことがあります。これは最初のノートというべきもので,レーニンという人格と工業農業環境を重ね合わせた新しい手法の開拓でした。
4 ) ゲッベルとの大衆操作
私がずっとしてきた広告批評懇談会の活動の総括がこの論文です。ゲッベルスの手法は電通に継承されました。
5 ) 仮面と変身
これは実は自分で凄く好きな作品。芸術論と人類学的社会分析が交錯したものです。解説編を書きたいくらい。
6 ) 異化する身体の経験
全共闘経験の総括を身体論としてやったといういわば画期的な試みでもあり、その後の私の歩みにつながるものでした。
7 ) 全共闘・持続と転形
田畑書店の『全共闘・解体と現在』に参加して不満を持ち、すぐに作ったのが『全共闘・持続と転形』でした。全共闘は続いている、形を変えただけだというのが私の考えで、解体しているとは思っていませんでした。
【11】  月刊八十年代

1 ) 雑誌を作ろう
47号まで今でもかえますが[私の田舎暮らしだけ品切れ]このへんまでが中心的に関わっていたのです。とくに最初の三号は愛着があります。
第1号 いま、魂を起こす旅へ
第2号 暮らしを耕す
第3号 仕事・エコロジー・原発地図
第4号 都市的生活からの脱皮
第5号 人間史の熱いはじまり
第6号 現場としてのユートピア
第7号 いま教育はどこにあるか
第8号 からだ・しなやかさとかしこさ
第9号 いのちをまもる地域をつくる
第10号 蘇えれ、海・風・大地・いのちたち
第11号 「豊かさ」のまっただなかに
第12号 ミニコミ・今を語ることば
第13号 いま、“障害”を問う
第14号 暮らしをつくりはじめるために
第15号 もうひとつの東京地図
第16号 わたしとエロス
第17号 反核・草の根のひろがり
第18号 文明の光と影
第19号 いま、時代のまがり角で
第20号 豊かな食卓のかげで
第21号 私の田舎暮らし(品切)
2 ) 多彩な編集委員
これは全部覚えていないな。失礼だな。雑誌がでてきたらすぐにわかることなので、あとで補います。見田宗介さんはいた。野本三吉さんもいた。喜納昌吉さんもいた。発刊記念の喜納コンサートをした。石垣さんから編集長をたのまれたが、偉い人ばっかりやし、と逃げた。
3 ) 全共闘の「継承者」を作る
創刊号巻頭に書いた文章はまさに全共闘の復活継承のよびかけでした。
4 ) 全地球カタログとの格闘
アメリカでホール・アース・カタログがでて、結構対抗心があったのかもしれません。評論より実用記事を重視したがしょせん素人仕事でした。
【12】  フェリシモと見た夢
1 ) アメリカの先住民文化
フェリシモという通販会社の矢崎社長と親しくなり、「気功的生活カタログ」を作れないかという話で六甲山中の喫茶店[今はない]や山の中のお茶屋やなるべく自然の多い場所で準備会議をくりかえしました。先住民のグッズをアボリジニから雲南からラップランドから集めてみるプランがあって、アメリカにも行きました。
2 ) フィンランドのクリスマス
準備のレターを13回だし、商品の注文に対してそのレターを入れて膨大な人たちに予告宣伝をしました。そこで一番人気だったフィンランドクリスマスツァーを50人くらいでしました。
3 ) ひすいの水
中国の四川の山奥の名水「ひすいの水」を売れるかとサントリーともアサヒとも話して成分分析とかしたが実現できませんでした。フェリシモでやろうかとボトルデザインまで決まっていた時に「ひすいの水」の工場と契約した販売会社が逃げてしまいました。カタログそのものも、面白いグッズは集まったがそのまま売れる訳ではなく全部発注して作らないとならないことがわかり、結局「気功的生活カタログ」は流れてしまったのです。

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2017年06月【13】  食の本を初めて書く

2017年7月9日 23:45



風濤社の社長から食の本を

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【13】  食の本を初めて書く

1 ) ひとり暮らし・料理の技術
風濤社の社長から食の本を書かないかと言われた時は冗談かと思いました。『ひとり暮らし・料理の技術』は当初学生・若者向けの料理書として計画されましたが、現代の食生活のすべてを網羅した感があり、総合的な本になりました。永六輔の惹句もよかった。鶴見良行と大阪環状線で顔を合わせたとき、「あの本はとてもいいね。ぼくの台所にいつもおいてあるよ」と言ってくれました。その後アサヒグラフで鶴見さんのキッチンの写真がでたとき、一番手前にこの本がありました。
2 ) 今日も一日おいしかった
こちらは現代書林から出た新書判。加藤登紀子が惹句を書いてくれました。春夏秋冬の一週間をとりあげて「昨日から明日への料理」の流れ(残りもの処理とか多めに材料を手に入れた時の配分の仕方とか)を私小説風に書きました。
3 ) その他の「食」に関する著作
社会評論社で『食と文化の革命』(もちろんライヒの「性と文化の革命」をパクったもの)農文協で二冊『健康食とうふ』『自然流乾物読本』、宝島で『ライスブック』『ごはんの本』、北斗出版『風土食の発見』、カッパブックス『危ない食品から家族を守る法』など。
【14】  私の住まい遍歴

1 ) 下北沢
生まれたのが下北沢の産院。大学までここに過ごしました。
2 ) 大船
父母と転居した。大船観音の奥。父母の死後一時一人で住んでいたが兄に譲り渡しました。
3 ) 早稲田一丁目
早稲田に通うのが大変だったから借りた文学部からすぐの四畳半。
4 ) 烏山
徳富蘇峰の家の敷地内にあり、古い別荘で玄関は一階,奥に行くと二階になっている斜面に建つ辺な家でした。まだ両親が生きているとき。
5 ) 葛西
父母が死んで家を兄に譲ってから最初に借りたのが荒川河口に面したマンションの最上階。ここにいる時に最初の結婚。
6 ) 岩槻
みすず書房のHさんが分かれた状態で家が宙に浮いているというので小さな二階屋をごく安く借りました。
7 ) 所沢
所沢で庭付きの大きな家が持ち主がアメリカに行って二年間帰らないので期間限定で借りました。『今日も一日おいしかった』の舞台でもあります。
8 ) 神戸市兵庫区湊山町
はじめての関西住まい。兵庫駅前のカルチャーセンターの所長として呼ばれて行ったが全社員の給与をサラ金から借りて支払っていることがわかって決裂。
9 ) 神戸市兵庫区下祇園町
妻が鹿児島で出産して赤ん坊を連れて新築マンションに入りました。
10 ) 神戸市中央区再筋町
鳴き声トラブルなどあり再び筋の古い二階家に移りました。ここはよかった。
11 ) 神戸市中央区港島中町
ポートアイランドが人気不振で二件借りると一軒半額という時があり、一軒を書斎書庫に。ここで大震災に遭いました。
12 ) 大津市比叡辻
妻と分かれて大津のマンションへ。
13 ) 草津市野村
対岸の草津に11部屋で10万という古い家があり、しばし拠点にしました。
14 ) 京都市左京区山端大塚町
二度目の妻とも分かれ、宝がけ公園の近くに。
15 ) 京都市北区紫野宮西町
いまの住まい。
【15】  兵庫区住まいと六甲通い

1 ) うちの三回
再度三の麓に住んでいた時は裏山の道なき道を鎌で手入れして、3-40分であがれる小さな山頂を見つけ、そこで焼酎の宴会をしたり笛のコンサートをして遊びました。二階家だったので「うちの三階」と称していました。
2 ) 再度山
空海が二度来たので再度山という。空海が一度は拠点に決めた手法が原の周辺をくまなく歩きました。
3 ) 保久良山と金鳥山
保久良山は最高峰の下くらいにあって巨石文化が残されていましむた。
金鳥山はそのすぐ下でカタカムナ文字の出たところです。
4 ) 100日六甲
或る時期六甲山に百日間登ろうと思い立って、摩耶山を皮切りに57の山を全部歩きました。そのうち向こう側の有馬に降り、風呂に入ってまた登って表から降りるようになりました。

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2017年06月きこりさん

2017年7月10日 3:45



本の販売について

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きこりさん
本の販売について相談です。公開打ち合わせになりますがヒミツにすることは何もないので。
《そちらに作って欲しいバンフ》
ここに書いた1から15までの内容。タイトルだけでなしに中身も。
《こちらから送付するパンフ》
机を用意してくれればこちらでスタッフを用意して売ってもいい。重いので事前に送ります。
◇津村喬評論選(書店から印税代わりにあずかっているので)
◇気功的生き方のすすめ1993(見本として原版も)
◇六甲徘徊
◇庭に積んでおいて雨に濡れた資料を乾かしたら
貴重なものがあれこれでてきた
◇からだ論余録
◇中国文化大革命の日本における受容をめぐって 津村喬インタビュー
など
《そちら、またはこちらで取り寄せて売ってみるもの》
◇戦略とスタイル
◇横議横行論   航思社の大村さんが来てくれれば
彼に売ってもらえばいいし、五冊ずつくらい
なら全部売れ残ってもぼくが引き受けてもい
い。
◇80年代はまだあるみたいだから創刊号だけ10部くらい取り寄せたら。
◇月刊焼酎通信、ザ・焼酎など→海風社にぼくが聞きます。
《見本》
内なる差別、魂、革命への権利、歴史の奪還など
合本週刊ピーナツ
料理本など

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2017年07月誕生日のお祝い

2017年7月10日 18:28



ありがとうございます

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誕生日のお祝いをいただいた方に、まとめてご挨拶させていただきます。

誕生日のお祝いありがとうございます。
私も齢69ということになりました。なんとなくもう70代かという意識がありましたが、いや,まだまだ若いと思うことにします。
五十代までは健康を誇ってきましたが、六十の坂を越えるとあちこちに問題が出てきて、これからますます不本意な状態が続いて行くのでありましょう。パイプを入れた手術後の心臓も多量の薬でかろうじて平常を維持していますし、足の感染症も四年越の症状が続いています。その間に股関節や足の筋肉が弱ってきて、短い移動も自転車に依存する状態です。年何度かの海外旅行をして空港で車椅子の利用が当たり前になってしまい、ああ楽だと思うたびに、五体不満足の中にひたり込んではいけないと自戒する所しきりです。
気持ちだけはますます意欲的に仕事を続けて行きたいと思います。
(1)今度のほびっとの企画などは本当にありがたい機会なので、自分を振返って、蓄積してきたもの、足りなかったものを整理したいと思っています。自伝として書くかどうかまだ決めていませんが、この中からたくさんの企画が出てきそうです。
(2)もう今週末の「北朝鮮料理」にはけっこう情熱を傾けていまして、それも含めて料理の本やDVDを作りたい気持ちが強くなっています。この一年だけでも、ジビエからバスク料理、新傾向の四川料理と次々に挑戦してきました。メニューだけはしっかり残っています。ああ料理がほんとに好きなんだなと思いました。
(3)フィンランドで昔の気功の教科書を三分の一ほどですが打ち込んでみまして、まあこれはあの土地のお友達のために伝えて欲しいものですけれど、日本でこそそれが必要だと言う思いを強くしました。なんとか日本語でも教科書をまとめあげたいと思っています。→本にします。
(4)今年中という話ではありませんが,何冊か基本的な教科書を残しておきたいと思っているのです。「導引」「呼吸」「自己マッサージ」「存思」「内丹」などです。これまでたくさんの関連書を見てきて必要なことを誰も書いていないと思います。
(5)そしてもちろん丹学研究会です。第二号の準備をしています。気功で高級段階に踏み込みたい方はぜひ参加して下さい。高級なことはしないでも、気功をめぐる歴年の論議の半分以上は内丹に向けられてきました。それを掘り起こして理論として理解するだけでも大きな仕事です。
(6)初期毛沢東と文革の中の毛沢東を功罪含めてきちんと書き残したいというのは私の責任だと思っています。今でも父親よりも強く、毛沢東は私とともにいて対話を続けています。→本にします。
(7)もうひとりアンリ・ルフェーヴルという変なおじさんのことです。彼はフランスの古典哲学を整理して葬り、マルクスとレーニンを讃えつつ葬り、日常生活批判という方法と指導された消費のテクノクラート社会についての理論を初めて作りました。それはまだ21世紀を支配するものとそれに抵抗するものの理論であり続けています。膨大な著作があり、どこかでえいっと整理をしてまとめていかなければなりません→本にします。

(8)まだありました。猪俣津南雄というマルクス主義の存在について確かなものを書き残さなければ、私は死ねません。私の父の師匠であり、私の母の最初の夫でした。私の存在のルーツはここにあります。→本にします。
(9)エストニアに会社を作ろうという話があります。住まなくても会社を作れますよと政府がさそっているのです。エストニアからはEUに、そしてたくさんのエストニア人が住んでいるアメリカにもつながっています。気功文化研究所をエストニアに登録できるかどうか、少し考えてみようと思っています。片言でもエストニア語とフィンランド語ができなければ話になりませんね。
今年だけの抱負ではなく、来年からの「七十代のやりたいこと」です。なかなか死ねそうにありませんね。結局文字とは死んで皮を残すためのものなのでしょうか。

 





2017年07月ヴェブレンの(1)

2017年7月11日 17:17



私は『中央公論』と

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私は『中央公論』と『中央公論歴史と人物』にかなりたくさんの文章を残している。粕谷さんが編集長で、早川さんという編集者が担当になってくれた。その中で「ゲッベルとの大衆操作」「レーニンの組織戦略」などは『横議横行論』におさめられている。その一本に「猪俣津南雄序説」がある。昭和47年の八月号である。全部読んでいただきたい所だが、通読してみてソースタイン・ヴェブレンにふれたところが圧倒的に面白く、ちょっと紹介してみたい。ヴェブレンは『有閑階級の理論』が岩波文庫には行っていて、まあかなりの人に知られてるが、「経済学者」としてだけ理解するのは問題がある。四回に分けて連載する。

猪俣津南雄序説
三 ヴェブレンと猪俣のいる交差点 分載一

『特権階級論』という本が、大正十四年二月に新光社から出ている。ソースタイン・ヴェブレン著、猪俣津南雄訳。わたしの知る限り、日本で最初のヴェブレン紹介である。その後のヴェブレンの著作の訳業は岩波文庫に収められた小原敬士訳ほか、今日まで三四点を数えるだけである。
それ自体多くはない猪俣研究の中で、この翻訳に注目したものはほとんどない。わずかでもふれたものを探せば、a.「リベラリズムの残存」を想定する、b.「一連の反動的な訳述」ときめつける、c.全く金のためで、思想的な影響はなかったとする、の三類型になろうか。わたしは逆に、このヴェブレンと、それから(それよりは重要でないが)ジェイムズ・ロビンソンの『新思想の普遍化』の二冊の訳は、猪俣のアメリカ体験のひとつの結語とさえ考える。これは、わたしと上記の評者たちのヴェブレン評価の差異に、大きく関わる。
わたし自身は全体的なヴェブレン評価ができるだけの立場にないとはいえ、日本のヴェブレン研究の水準に強い不満を持っている一人である。しばしば言われるようにヴェブレンの文章は難解であり、「本能」という言葉一つとっても、彼以外には誰も用いないような仕方で用いている。特に彼のいう「進化論」「ダーウィン主義」になると、その言葉の内実はダーウィン進化論が持っていたものと相当違っているようであり、多くの「マルクス主義者」が自己の立場をマルクスの名において規定するように、「ヴェブレン主義」にその名を与えているようにも思われる。だが多くの論者は、そうした前提的な検証なしに、マルクス主義とかダーウィン主義というほとんど意味のない択一の中に入りこんでしまうのが常である。だがそれは、ヴェブレンのもつ驚嘆すべき多様性をそれとしてとらえず、ある図式の中に押し込めてしまうことを意味する。
『有閑階級の理論』を一読した者は、ヴェブレンを経済学者とよぶことにためらいを覚えるに違いない。それは哲学、心理学、歴史学、社会学、宗教学、文化人類学、形質人類学、経済学等の諸学の交差点のように見える。
「金銭文化の発現としての高等な学問」という「全共闘的」主題を扱った第十四章を瞥見してみよう。学問の起源は記述的な儀式とシャーマニズム的詐術にあるとヴェブレンは主張する。それは「僧職の代行的有閑階級の副産物たることからはじまった」。そして「学問の深遠な要素は、いつの時代にもそうであったように、いまでも、無学なものの心に印象をあたえ、もしくはなにかをおしつけるためのひじょうに魅力的、効果的な要素である」。「今日でも学界には、学帽、ガウン、入学試験、卒業式,ある種の学問上の使徒継承を思わせるやり方の学位、位階、特権の授与のようなことが行なわれている」が,これはむろん諸々の宗教的儀礼や慣習にその直接の源泉をもっている。こうした無意味な「衒示的浪費」としての儀礼は、南北戦争後には再び大きく復興してきた。一方で戦争の掠奪的習慣が身分的要素及び踏破的感覚を一般的に復興せしめたためであり、他方で「資産階級の手中への富野蓄積が十分に進み、わが国の大学を高等学術にたいする有閑階級の要求に合致せしめるような運動に、必要な金銭的基礎を与えるように」なったのである。ーこうしたラディカルな学問批判は、「学」の境界内にとどまる者からは出てくるものではない。学を越えたという意味では、この「ヴェブレン学」は人類学に最も近い。『有閑階級の理論』の根底にあるのは「未開savage」と「野蛮barbarian」の対立である。「文明」と言わずに「野蛮」という。「未開」社会には「文明」社会のような掠奪的な戦争も、搾取もなかったではないか、という。この根源的な対立のイメージは、ルソーに近い。また、「冷たい社会」と「熱い社会」とレヴィ=ストロースが呼んだ対立を思わせる。レヴィ=ストロースは「熱い社会」の原理を、熱力学機械のように圧力の差異=差別を糧として生きる社会と表現したが、同様にヴェブレンは発達した野蛮社会こそが有閑階級leisure classを生み出すとした。『有閑階級の理論』は、経済学の書ではない。それは経済人類学の書である。レジャー・クラスの概念,そして特にその特性としてヴェブレンが指定した衒示的消費conspicuous sonsumptionの概念は、経済事象を全文化体系の中に解き放ち、もって産業社会の文化人類学ー人類学者がそれについては余りに慎重な態度を取ってき、今もなおとっているところのーへの道をひらいた。経済学の視点から、資本家は浪費だけしているわけではないとその「流通論的傾向」を指摘することはたやすいことであろう。しかし、ヴェブレンが没したのちの擬制的な「消費社会」において、広告がこの衒示的消費の身振りを大衆のもとに送り届け、それによって貧乏暇なしの「有閑階級」が大量に生み出されたのをわれわれは眼の当たりにしている。

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2017年07月ヴェブレンの(2)

2017年7月12日 7:31



「衒示的消費」つまり「見せびらかしの消費」

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ヴェブレンの()2
「衒示的消費」つまり「見せびらかしの消費」ということがキーワードでした。

だが、ヴェブレンが諸々の学を「経済=人類学」めいたものへと総合することを見るだけなら、われわれはなお交叉点の一方を見渡しているに過ぎない。ヴェブレン的なものの見方が、どのように後の思想家達に影響を与えたかは、ほとんど測り知れないものがある。
ドラッカーやガルブレイスは、ヴェブレンをおよそ経営学なるものの創始者であると見なしている。これはいささか皮肉な結果である。ヴェブレンは起業家達を戦略的主体として、いいかえれば敵手として理想化しすぎたきらいがある。その結果「戦略化」された経済学としての経営学にモデルを与えてしまったというわけである。
彼自身一種の制度主義者であるテオドール・W・アドルノは、卓越した分か批判の徒としてヴェブレンを取り上げる。アインシュタインはその相対論的発想と平和主義をヴェブレンから取り出してくる。S・I・ハヤカワは彼の意味論的考え方の二大源泉としてアルフレッド・コーズィブスキーとヴェブレンを揚げる。このほか、ヴェブレン的思考の波を直接にかぶっている者として、人類学者のレスリー・ホワイト、社会学者のD・リースマン、批評理論のケネス・バーク等々を思いつくままに挙げうる。最後に最もヴェブレン的でないヴェブレンの弟子達、一方に「テクノクラシー運動」の担い手たち、他方に制度主義経済学者たちがくる。
ヴェブレンは交叉点だった。そうであることによってかれはもっとも「アメリカ的」だった。この交叉点に猪俣津南雄を立たせてみよう。事実彼はそこにたたずんでいたことを隠していないのだから。
猪俣が具体的にどのようにヴェブレンに出会って行ったかの過程は、よくわからない。留学時代の英文手稿が相当量現存するが、そこではまったく触れられていない。猪俣が確実に影響を受け、それと正面から格闘したと思われるウィスコンシンのイリー及びオットーの二人を通じて「ヴェブレンと猪俣」の間をはかることはできよう。
イリーは猪俣が学生の頃の日本で大きな評価を得ていた。福田徳三から堺利彦までが、その広い意味の影響下にあった。イリーはアメリカ歴史主義派経済学を代表する社会改良主義者である。十九世紀の最後の三十年間、アメリカの経済学界は、リカルドゥらの古典主義を単なる神秘的な私有財産擁護論にまでおとしめた俗流経済学と、ジョン・スパルゴーやモリス・ヒルキットによるあまり具体性のないマルクス主義とその他の大陸社会主義とに鈍されていた。ヘンリー・アダムスやイリーの世代によって、いわば第三の道としての社会政策=社会改良主義的な歴史は経済学が示されたが、それは単なる折衷ではなかった。
1985年、アメリカ経済学会がこの新しい潮流によって作られたが、イリーの筆になるその綱領は「(1)われわれは国家を持って,その積極的援助が人類進歩の不可欠の条件をなす一機関と認める。(2)われわれは科学としての政治経済学を以て、なおその発展の初期の段階にあるものと信ずる。われわれは従来の経済学者の業績を尊重するけれども、その発展の充分な完成のために、思弁に頼るよりはむしろ経済生活の現実的状態の歴史的統計的研究に頼る。(3)われわれは労働と資本の軋轢が多くの社会問題を発生せしめ、その解決は教会、国家及び科学の、それぞれの分野における総合的努力を必要とするものと考える」といった中身であった。この、面白くもないいいまわしは何を意味しているのか。イリーらは俗流経済学と翻訳社会主義にたいして、方法的には「歴史的統計的」方法を、社会的には国家の経済=社会家庭経の合理的介入の方策を対置し、もって両者を止揚しようとした。これは国家独占資本主義とともに形成された制度的・国家的経営学の一種の先取りであり、それは植民地アメリカの経済学が銀行論から始めなければならなかった事情と結びついていた。後進が「先進」になったのである。
多くの経済思想史家が歴史主義の祖をイリー、制度主義の祖をヴェブレンにもとめる中で、イリー自身はそうした捉え方に反対していた。むしろ自分こそが制度主義の祖であり、ヴェブレンはそこから過激にはずれただけだと。イリーがこの演説をしたとき、ヴェブレンはもう世を去っていたが、もしヴェブレンの立場からこれにこたえるとすればこういうことになろう。ヴェブレンはイリーを批判してまったく新しい「制度主義」をうちだしていたが、彼の弟子のいわゆる制度主義者たちの大半は、再びイリー的水準に戻ってしまったと。
ごく要約的に言えば、ヴェブレンのイリーへの批判は二点ある。一つはこの「歴史的方法」が俗流古典派ほどではないにしろ、なお目的論あるいは文明的方法を払拭していないという天である。周知のようにヴェブレンは「ダーウィン主義」によってヘーゲル主義的・ロマン主義的・目的論的歴史観に代わる「不透明で非人格的な因果関係」の考察による史観を確立しようとした。「進化」といった用語のために来れ晴れ聞いては方法と変わる所がないと誤解されがちであるが、しかしヴェブレンのいう「累積的因果関係」とはむしろ構造主義者のいう「構造」に近いものである。ヴェブレンが求めていたのは「構造の歴史」というべきものであった。これは厳密な意味では1920年代以降のヨーロッパにおいて記号学と現象学が対決し浸透しあって行く中で出現した問題意識である。
もうひとつは、国家による統制に、ヴェブレンがいささかも希望をみいださなかったことである。ヴエブレンは近代化の過程に西背ュ宇野性格を見、本来労働者階級のものである産業的合理性と私的利潤追求による企業論理との矛盾を説いて、旧い習慣制度の打倒をよびかけたのである。しかしヴェブレンは2世紀アメリカの環境の元での労働者による企業管理を幻想としてしりぞけ、「テクノクラート・ソヴエト」をそれに対置した。
(二回目終わり。つぎから猪俣のその継承の仕方になります)

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2017年07月ヴェブレンの(3)

2017年7月13日 7:02



いよいよ猪俣登場

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ヴェブレンの(3)。いよいよ猪俣登場。

猪俣が留学していた1915年から21年の時期は、「円熟」したヴェブレンー凡そこのニュアンスとは違い、孤独な生活を送りトゲトゲしい文章を書いていた彼ではあるがーの真価が発揮され、人びともそれを認めざるをえなくなってきたその時期であった。15年には日本帝国主義論である『日本の好機』を書き、19年に新社会科学院に入って論文集『近代文明における科学の地位』及び書き下ろしの『特権階級と庶民(コモン・マン)』(猪俣訳『特権階級論』)を出し、21年にはテクノクラート・ソヴエトを提唱した『技術者と価格体制』を刊行している。この間、18年のアメリカ経済学大会においてW・H・ハミルトンが「経済理論への制度的接近」という報告でヴェブレンその他を論じ、「制度主義」という呼称を一般化させた。イリーに師事していた猪俣であるが、これらの時期のどこかで、ヴェブレン的視座への転移があったことは確実である。
猪俣と最も親交を結んだオットーについては詳述する余裕はない。オットーはプラグマティズム哲学者であるが、デューイやジェームズとはいささか違う作風を持ち、カントのカテゴリー論を日常生活に解き放つという大胆を敢えてしたC・パースの姿勢を継いで「日常生活の幸福」を最大の原理とした思想方法の確立を求めた。猪俣の紹介で日本の先駆的プラグマティスト杉森孝次郎の『道徳的帝国の原理』をテクストにしたりもしている。オットーに関する資料は極めて乏しいが、日常生活批判という点でも、また彼の弟子のフリーズが当時としては例外的なゲシュタルト派心理学社になっていることなどからも、それ自身極めて興味深いし、またヴェブレンの「交叉点」の近くにいたことがうかがえる。
経済学や文化批判のディテールについては、猪俣がヴェブレンから受け継いだものはほとんどなにもないといってよい。さきに引いた多くの思想家と同様、猪俣がヴェブレンから吸収したのは、その厳しい、徹底した方法的反省であり、その発想様式であった。
(1)ヴェブレンの「累積的因果関係」と「構造」は、猪俣において「体系」ないし「構造」として受け継がれている。「それ(経済的利害関係)はまず第一に、そして極めて明白に、一般に経済制度として認識されている一連の生活便宜と生活方法の形成と累積的成長を導いた。しかしその同じ利害はまた、社会生活とその文化的成長を、それから結集する構造的特性が必ずしも直接経済的意味をもたないような天に置いても浸透した。それはあらゆる点において文化構造に影響するものであって、それ故あらゆる制度はある程度経済的制度であるということができる。過程のあらゆる段階における行動の基礎、出発点が過去の過程によって形成された思考習慣の全体的有機的複合である以上、これは必然的にそうなる」とするヴェブレンにあって、構造とは諸形式でも無規定の全体性あるいはゲシュタルトでもなく、各部分の相互関係(相互浸透と相互矛盾)による全体の内的統一にもとづく概念であり、同時にそれは習慣化し制度化し、それによって「他者化」した過去の総体を意味する。この考えは猪俣の「闘争の体系としての帝国主義」という深い命題の前提となったし、「日本的なもの」を思弁的にでなく考察する(猪俣の「制度としての天皇制」論を単にレジームの意味で理解するのは誤りである)武器と也、また『矛盾論』[毛沢東の]を思わせるインフレーション分析につながった。
(2)ヴェブレンの「見地の相対性」論は猪俣の相対論的視点と構造主義的方法に受け継がれた。「歴史上、他のいずれの時代の時代特有の見地もさうであつたやうに、近世的見地も亦た、習性の事柄である。此の近世的見地には、それだから、時と所の双方の制限がある。即ち、それは近世の歴史的年代に特有なものであり、且つ、近代世界をば、過去の文明、及び今尚ほ其の範囲外に行はるゝ文明から区分する特異な文明の圏内にある諸国民に特有なものである。言葉を換へれば、それは近世基督諸教国の一特質であり、最近数世紀に流れた西洋文明の一特質である」「これらの、正しきもの、善なる、眞なる、美なるものに関する諸原理、諸標準が、異なれる生活条件に応じて時代により国民によって異なることは明らかである。何故なら,これらの諸原理は其の性質上、常に、習慣のことに属するからである」
機能主義とは何か。それは近代科学の分析的方法、対象を孤立化させる方法に反対し、それを全構造の一要素として、その関係性においてとらえることである。それだけではない。それを捕える視点もまた、習慣に規定されてこの構造の一モメントとしてある。ここには一種の不確定性が生ずる。相対性理論から量子論へ転位する物理学が、マリノフスキーにおいてはじめて直接参与的観察方法を獲得した人類学が、「読者性」との関係で一定の集合意識の内部の機能として美をとらえようとしたプラハ構造美学が、ほぼ時を同じくして突き当たった、あの不確定性である。猪俣のあの機能主義組織論、横断左翼論は全世界に現れるこの方法意識の一環と見なされるべきであろう。

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2017年07月ヴェブレン(4)

2017年7月13日 7:46



ヴェブレンと猪俣をやっと

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ヴェブレンと猪俣をやっと二十世紀の知的革命の場に連れ出しました。結びの1/4です。

(3)ヴェブレンのこれらの方法意識は、資本主義の最新の「構造化」の進展と対応していた。支配階級によってまずこの構造は意識されているのだということと,にもかかわらず真に構造論的ないし昨日主義的な思考および行動の様式をとることができるのは、合理的産業過程によってそのように習慣づけられている労働者階級だけであることと、したがって制度的構造そのものが戦略的な場となること、この過程で労働者がかちとった生活水準と諸々の人間的要求は(「窮乏化法則」に当てはめねば気がすまぬという態度を捨てて)労働者階級の力量とみなすべきこと、等の論点は、猪俣の現代資本主義分析に引き継がれていると言いうる。
これらの点を簡単に振返ってみて驚かざるを得ないのは、ヴェブレンが、単に人類学の諸成果を内容として研究に生かしているというだけでなしに、現代人類学のくぐり抜けてきた苦悩を「学」としてのありかたそのものにおいて共有しているように見えることである。それはなぜであろうか。ヴェブレンの生涯を追ってみるなら、このことはすぐさま明らかになる。ヴェブレンに取ってのアメリカ体験そのものが、そのまま人類学的と呼ばれるべきものなのである。
ヴェブレンはノルウェー人であった。父は1847年に渡米してきた移民である。当時はヤンキー(東部アメリカ人)の北欧系移民への差別意識が特に激しく、彼らは都市を離れて自分たちだけの自給自足的な開拓農園を作らざるをえなかった。ソースタインはウィスコンシン郊外のそうした部落に生まれ、八歳でミネソタの別の移民村に移ったが、十六歳まで英語というものを知らずにすごした。はじめて町に出てきたソースタインは、異星の客のように、なぜ地球人は都市をつくるかという疑問からはじめねばならなかった。この、屈辱にみちた「異邦人」体験から、ヴェブレンの文化批判は始まる。
ジョンズ・ホプキンス大学のC・パースのクラスで、ヴェブレンはジョン・デューイと一緒になる。皮肉なことに、デューイはヘーゲルに凝っていて、パースのカント的解釈学に興味を持てなかった。パースにいれあげたのはブェブレンのほうであった。周囲に存在として同化し得ないヴェブレンに取って、あらゆる存在を記号として見よというパースの説、自己の習慣との敵対による新たな習慣の獲得というそのモティフ、歴史とは、他者化された過去のよみがえりであるという発想は、彼自身のおかれてきた状況をはじめて首尾一貫して自覚せしめるものとなったのである。
ロマン・ヤコブソンによるパースの「復活」以来、パースをアメリカ現代思想の起点に据える観点が次第に定着しつつある。わたしもまたこの立場に立ちたいと思っている。パースの記号学的方法は20年代に一度「復活」している。それは、ポーランドの意味論の厚い伝統をひきずってきたユダヤ人アルフレッド・コーズィブスキーによってであり、さまざまな記号論理学者たちによってであり、要するに流浪の亡命者たちによってであった。ヤコブソンもまた、これらの亡命者たちのひとりである。これが人脈的なものでなかったことは、パースの習慣論とブレヒトの異化論、同じく歴史観とベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』を並べてみるだけで明らかであろう。それらは、互いに無関係に生じたが同じ内容を持ち、ブレヒトの場合にはアメリカに亡命して現実にこの系譜に結びつくことになるのである。この間を媒介したのか交叉点としてのヴェブレンであった。ジェイムズ流の実存主義プラグマティズムの流行を怒り、憎んだパースの記号学的論理、そして「習慣の革命」という異化の論理は、移民の子から亡命者たちの系譜に引き継がれるのだ。これこそ、アメリカ思想の最良の部分であったとわたしは信ずる。そして、猪俣もまたいつしかこのような思想的亡命者となることによって、この流れの中に踏み込んでしまったのであった。

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2017年07月アンリ・ルフェーヴルの

2017年7月13日 8:15



日本語になった著作

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アンリ・ルフェーヴルの日本語になった著作です。
『マルクス主義』竹内良知訳(白水社[文庫クセジュ], 1951年/改訳版, 1968年)
『デカルト』服部英次郎,青木靖三訳(岩波書店, 1953年)
『弁証法的唯物論』本田喜代治訳(新評論社, 1953年)
『パスカル』川俣晃自訳(新評論社, 1954年)
『美学入門』多田道太郎訳(理論社, 1955年)
『マルクス主義の現実的諸問題』森本和夫訳(現代思潮社, 1958年/新版, 1960年)
『総和と余剰』(1-6)森本和夫、白井健三郎、中村雄二郎訳(現代思潮社, 1959年-1961年)
『カール・マルクス――その思想形成史』吉田静一訳(ミネルヴァ書房, 1960年)
『レーニン――生涯と思想』大崎平八郎訳(ミネルヴァ書房, 1963年)
『パリ・コミューン』(上・下)河野健二,柴田朝子訳(岩波書店, 1967年-1968年)のち文庫(西川長夫が訳者に加わる)
『序説日常生活批判』(1-2)田中仁彦、奥山秀美,松原雅典訳(現代思潮社, 1968年-1970年)
『都市への権利』森本和夫訳(筑摩書房, 1969年)のち学芸文庫
『『五月革命』論――突入・ナンテールから絶頂へ』森本和夫訳(筑摩書房, 1969年)
『ひとつの立場』白井健三郎訳(紀伊國屋書店, 1970年)
『マルクスの社会学』山下淳志郎訳(せりか書房, 1970年)
『現代世界における日常生活』森本和夫訳(現代思潮社, 1970年)
『言語と社会』広田昌義訳(せりか書房, 1971年)
『現代への序説』(上・下)宗左近,古田幸男監訳(法政大学出版局, 1972年-1973年)
『都市革命』今井成美訳(晶文社, 1974年)
『形式論理学と弁証法論理学』中村秀吉,荒川幾男訳(合同出版, 1975年)
『空間と政治』今井成美訳(晶文社, 1975年)
『革命的ロマン主義』西川長夫,小西嘉幸訳(福村出版, 1976年)
『構造主義をこえて』西川長夫,中原新吾訳(福村出版, 1977年)
『太陽と十字架――ピレネー山脈』松原雅典訳(未來社, 1979年)
『空間の生産』斎藤日出治訳(青木書店, 2000年)

私は最初『マルクス主義の現実的諸問題』でとりこになりました。日本のトロツキスト形成と同時代的でありながら、比較にならない深さがありました。つぎにつかまったのが『レーニン』です。すでにこどものころからレーニンに親しんできたので、それをすっかり整理してくれたように感じました。レーニンを偏見無しに読むことが現代認識への道を開いてくれるといまでもそう思っています。つぎに『日常生活批判序説』でした。これは何十回も読んで二冊目もぼろぼろになりかけています。その後の二冊の大きな本と『現代世界における日常生活』の四冊は私にとって非常に大切な本です。『都市革命』『空間と政治』を訳下今井さんとは一時一緒の研究会をしていました。『太陽と十字架』は彼の出自に関する本で、読みにくいですが興味はつきないです。彼について書き始めると一冊や二冊では終わらない感じがして、ためらっています。どこから始めるかが問題です。

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2017年07月いよいよ明後日です

2017年7月13日 8:37



北朝鮮料理というと奇を衒っている

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いよいよ明後日です。今日から少しずつ準備できることはあるかな。北朝鮮料理というと奇を衒っているようですが,北は料理王国です。庶民もいいものを食べているから不満の爆発がない。南北分断の時に北から逃げてきた人たちが南に豊かな食文化を伝えました。

◆松の実のお粥
とくにお酒を飲む時に、胃に膜を作るようにしてこれをちょっと飲みます。
◆馬のタルタル
ヨーロッパまでひろがっている馬の刺身です。タルタルはタタールで韃靼族のことです。モンゴルがヨーロッパ半島の大半をとったときに、その先遣隊だった韃靼がタルタルを宣伝しました。高句麗と韃靼と隣接していますね。
醤油、胡麻油、すりにんにく、ねぎ、はちみつ
ごま、コチジャンであえ、きゅうりと果物または山芋の
千切りを乗せ、卵黄と糸唐辛子をのせる。
◆はさみきゅうりの甘酢かけ
◆千切り野菜と鯛のナッツヤンニョムかけ
鯛刺しを真ん中において、松の実とピーナツをかけ、まわりに野菜やわかめをおいて、まぜながら食べます。
◆むし野菜のヤンニョムかけ
この辺り北の宮廷料理の名残です。
◆トマトと豆腐のサラダ
◆なすの冷菜
◆チャプチェ
これは庶民の食卓。
チャプチェは漢字で書けば雑砕。春雨の野菜炒めです。
◆大草原の冷麺(代表的な北の料理です。汁なしの絶品)
そば粉とじゃがいもの麺、牛豚とりをゆでる。薄く切る。
鶏は引き裂く。めんに胡麻油、いりごま、ねぎ、にんにく、  粉唐辛子醤油で薬味をつくり麺とまぜる。きゅうりを   
4cm1.2cm厚さ3mmに切って酢塩砂糖すりごまネギにんにく  でよくあえる。麺に肉ときゅうりを放射状に並べ、錦糸卵糸  唐辛子松の実をあしらう。そーめんでもできるのですが、まずは固めの麺で試してみて下さい。

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2017年07月「猪俣津南雄序説」の

2017年7月13日 12:51



「三 ヴェブレンと猪俣のいる交叉点」には

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「猪俣津南雄序説」の「三 ヴェブレンと猪俣のいる交叉点」には19項目の注釈がついています。面白いものもあるのですがもどの言葉についているというのは必ずしも必要がないように思ったので、ランダムに紹介させてもらいます。

James H.Robinsonは1919年にコロンビア大学から新設の新社会科学院New School for Social Research に行き、そこでヴェブレン、チャールズ・ビーアド、ウェズレー・ミッチェルとともにビッグ・フォアとよばれていた。

「緒論」のなかでヴェブレンはこのようなsavageの例として、アンダマン島の種族ニルギリ高原のトーダ族、エゾのアイヌ、ブッシュマンやエスキモーの二、三の集団およびプエブロ共同体のいくつか、等を例としながら、このうちあるものはむしろ野蛮から退化したるものとみなされるべきかもしれないと付言している。

リースマンは『何のための豊かさ』に収められた「ヴェブレンの適切性について」という論考で、これがポピュリズムの伝統と結びついていることを指摘して行く。事実、ヴィブレンの諸著作は、ポピュリズムの禁酒法時代ー猪俣の留学時代ー的完成者たるダシール・ハメットの書作品とともに読む場合、一層輝きが増すようにも思われる。

「平和で勤勉で協調的な"未開"と、攻撃的で寄生的で競争的な"野蛮"とを区別することによって、ヴェブレンは彼の受け継いださまざまな知的な流れを織り交ぜたのである。つまり彼に取って未開と野蛮の対照は文化的雰囲気の対照であり、また生活様式の対照であり、パースナリティのタイプの対照であり、またさらに世界観の対照をふくむものであった」リーマン前掲書

ハヤカワ『思考と行動における言語』序文

29年恐慌後のハワード・スコットによる「テクノクラシー運動」はヴェブレンのテクノクラート・ソヴェトのイメージによる新興宗教めいたものであった。ヴェブレンはこれへの参加を拒否した。大きな視野で見ればそれはナチスと並行したドイツ・テクノクラシー協会の運動に対応しつつニュー・ディール運動を準備した。それは制度主義がブルジョワジーによって戦略的に制度化された筋道を示すものである。

小原敬士は「経済思想」(都留重人「アメリカ思想史所収)で、イリーとヴェブレンを一緒にして「進化論的すなわち歴史的方法」とかなり粗雑に概括している。

松尾博『ヴェブレンの人と思想』は「累積的因果関係」を「すべての減少の複雑な発展的な相互関係、相互成約」としている点でわたしの解釈にやや近い。この本は類書の中では抜群の柔軟さで問題にあたり、ヴェブレンの経済学者としての全体像を描くことに成功しているが、その人類学的性格についてはつっこんで考察していない。

「構造の歴史」という方法意識がすでにマルクスにあったとすることもできる。その場合には「マルクス主義者」がマルクスをそのように読むようになったのは、やはり記号学と現象学を経由してからであるとつけ加える必要があろう。

もうひとつ、ヴェブレンの国際関係論の分析能力を窺う例を挙げよう。ケインズが英国大使館に辞表を叩き付けてヴェルサイユ会議から退場し、『平和の経済的帰結』を書いて連合国のドイツいびりの人道的不当性を告発したとき、ヴェブレンはすぐにこれに真っ向から対立する書評を書いた。連合国側が怨みを持ってドイツを圧迫していると見るのは少女趣味にもひとしいものであり、実際には、成立してしまったソ連に対抗する前進基地へとドイツを育てる国際ブルジョワジーの戦略がそれを強いているのだというヴェブレンの批判は、それがヴァイマル初期のことであってみれば、驚くべきものといわざるをえない。このことは、帝国主義を徹底してその世界性においてとらえた猪俣の方法に通ずる。

同様にわれわれは同じ多民族国家である中国において「延安整風運動」から文化大革命にいたる「習慣の革命」の系譜に、現代中国思想の最良の部分を見出しうるはずである。[これが文革期には二年間を越えなかったことについてはまた詳しく述べてみたい]

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2017年07月前日朝スタッフのためと

2017年7月13日 14:25



当日泊まった方のために

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前日朝スタッフのためと当日泊まった方のために出す朝粥です。
かゆ
搾菜、腐乳、ピーナツ
もやしナムル
ごま油、すりごま、醤油、粉唐辛子、おろしにんにく
春菊のセンチェ
お粥は16倍の水で炊く北京粥です。少し物足りない感じがしますが、病み付きになります。搾菜はご存知ですよね。漬け物です。腐乳は豆腐の塩辛でいろいろな味がありますが、唐辛子風味のを持って行きます。ナムルはこういう定番の材料で和えたさらだです。センチェも似た取り合わせなのですが、酢が入る所が違います。

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2017年07月(1)アメリカ共産党と

2017年7月13日 16:37



猪俣津南雄序説の続きの章です

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四 アメリカ共産党と人類学的体験
猪俣津南雄序説の続きの章です。
こちらの方が少し読みやすいかもしれません。三回に分けて掲載します。

1864年、マルクス及びエンゲルスによってロンドンに創設された第一インタナショナルは、1872年になって本部をニューヨークに移転した。
どのような直接の条件が彼らにそれを強いたかについては、さまざまなことが言われている。だが本質的には、パリ・コミューンの少し以前から著しく進行し、コミューンの敗北の後でさらに重苦しく進行した「国民化」の波にヨーロッパでは抗しきれなくなったということであろう。「新世界」は混沌としていたが、なお「辺境」の風があった。1876年には、インタナショナルのアメリカ部会の諸グループが合同して、合衆国労働者党を結成、翌年には来たアメリカ社会主義労働党(SLP)と改称した。1886年には、その指導のもとにアメリカ労働総同盟(AFL)が組織された。面白いことに、のちには大きく反動化するAFLの綱領は、ずっと後でCIOが結成されるまでは、第一インターの綱領に法ってくられていた。
アメリカのインタナショナルな多様性と強大な権力を背にしたナショナリズムは、複雑な対立を形作っていた。ラングストン・ヒューズは有名な詩の中で書いている。「おお、アメリカをして再びアメリカたらしめよ。いまだかつてそうだったことはないけれど、そうあらねばならぬ国ーすなわち万人の゛結うな二たらしめよ。この国はぼくの国だ。貧乏人の国、インディアンの国、ニグロの国ーそして「ぼく」の国だ」
逆から言えば、ASWP(White,Anglo-saxon,Protestant)による拝外のきしだった。若槻泰雄は『排日の歴史』の冒頭にジョン・スタインベックの言葉を引いている。「ピルグリム・ファーザーズはカトリック教徒をいじめ、両方ともユダヤ人をやっつけた。次にアイルランド人がしごかれ、つづいてドイツン、ポーランド人、スロバキア人、イタリア人、インド人、中国人、日本人フィンランド人が順番にしごかれた」
猪俣が留学するころ、1900年ころに次ぐ二度目の排日気運がアメリカ西海岸でもりあがっていた。13年には排日土地法が通過し、これに対して日本でも激しい反対運動がおこり、日比谷で粉砕のための国民集会がもたれ、『日米開戦』などという本が飛ぶように売れた。このような状態で猪俣がなぜ渡米を選択したかはよくわからないが、彼の手紙から見る限り、そう気にしていたようには見えない。だがウィスコンシンで師事したロッスなどは移民排斥運動にも手をそめており、決して人ごとではなかった。猪俣は言語的なコンプレックスを埋めることに全力を注いだ。これは大きな問題だった。ヴェブレンは『有閑階級の理論』の最後に英語の正字法に対する憤懣をぶちまけているし、後に無実の罪で処刑された二人の不幸なイタリア人、サッコとヴァンゼッティの場合には、そのブロークンな英語が裁判官にまで嘲笑され「反戦」かつ「反愛国」的陰謀の存在の証拠として印象づけられさえした。
猪俣はバーサという日本人のように小柄で髪の黒い女子学生と知り合い、英語を習い、恋をして、やがて結婚した。彼女もポーランド系移民であり、「猛烈なボルシェビキ」であったことを後になって知った。この出会いが猪俣のマルクス・レーニン主義への接近を著しくうながしたであろうことは想像にかたくない。

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2017年07月(2)アメリカ共産党と

2017年7月13日 23:17



機関誌は八カ国語

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アメリカ共産党と人類学的体験の二回目
機関誌は八カ国語。でも英語は少ないので出なかった。

当然のことに、移民労働者にはラディカルが多い。1919年4月、分裂直前のアメリカ社会党は58%が移民労働者であり、とくにロシア語系、南スラヴ語系が多数を占めた。「片山潜、猪俣津南雄らが属したアメリカ共産党(CPA)はアメリカ社会党左派、フレイナ・ルーセンバークらが1919年9月に創立したもので,移民労働者が多く、同時にジョン・リードらのつくったアメリカ共産主義労働者党(CLPA)はアメリカ生まれの労働者が多かった」。その内訳はCPAは30,000人中25,000人が民族連盟(言語別連盟)に属し、CLPAのほうは逆に30,000人中20,000人が英語系であった。20年後半にCPAは党員を1700のグループに組織していたが、それはフィンランド、ドイツ、ハンガリー、ヘブライ、レット、リトアニア、ポーランド、ロシア、南スラブ、ウクライナの10民族連盟と、イギリス、アルメニア、ブルガリア、ギリシァ、スペイン、イタリア、ルーマニア、トルコ、フランス、スウェーデン、チェコスロバキア、エストニア、セルビア、日本の14の民族の小グループを含んでいた。ここでは、日刊機関紙が八カ国語で出されたが、英語のものはー英語系はあまりに少ないためー出されなかった。
一年で党員数が大幅に減っているのは20年1月のパーマー選挙を経ているためである。バーマー検事の下でのFBIフーバー長官の初仕事であったこれは、約一万名が犠牲になり、バーサ・猪俣もこのとき逮捕された。大部分のものは出入国管理法によって退去処分を受けたが、バーサは猪俣との結婚が認められて送還はまぬがれた。
猪俣らがニューヨークにあらわれ、在米日本人社会主義者団に接触し出したのは19年の秋であった。理論的にずば抜けていた猪俣はやがてニューヨーク地区委員会の常任委員となった。鈴木茂三郎はその回想の中で、猪俣が『国家と革命』の講義をやり、日本の運動への国際的経験を配慮し、さまざまな指導をしたことにふれている。「その頃[21年以降]片山潜はアメリカのコミンテルンの全米局の役員になってメキシコに移っております。それで実際の運動は猪俣君が指揮しておったと思うのです」
文化的な錯綜は、政治以前のことであった。24の言語を前には、いかに有能な指導者も「孤独な散歩者」たらざるをえなかったろう。ヴェブレンやプラグマティズムを通してつかみとった機能主義的方法が最初の運動経験で試された。それは、人類学的な体験であった。具体的人類学、具体的なインタナショナリズムが、まさに身をもって問われたのである。

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2017年07月(3)アメリカ共産党と

2017年7月14日 0:22



ブハーリン的なアナキストに

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アメリカ共産党と人類学的体験の最終回
ブハーリン的なアナキストに影響されたボルシェビキに共感

第三インタナショナルには、新しい質の反戦・反帝インタナショナリズムと、ロシア・ナショナリズムへの同化との相矛盾する二つの面があるとさきに述べた。具体的には、結局スターリン的国家主義に行き着かざるを得なかったレーニン主義的な翼と、パリの『ナーシェ・スローヴォ』と結びついていた旧フペリョード派及びトロツキー派の非レーニン派との連合が、この国際統一戦線の核であった。『ナーシェ・スローヴォ』のグループは、綱領上の左翼主義と組織論上の柔軟さで際立っていた。それを媒介していたのは、ロシア・ナショナリズムそのものが、米・中のそれと同様、他民族の統合、異質なものの同化的統合という性格を持っていたことである。アメリカの他民族性は、さらに混沌としていた。ソ連のように、政府ー州政府としてそれを統合することは不可能であった。諸民族の現実的「出会い」は反体制運動に取って、より喫緊のものであった。そこでは統合は全く質を異にするものでなければならなかった。
[バーサとは離婚し、バーサは片山の秘書としてメキシコへ発っていた。のちに片山と対立し、再び猪俣を追って来日することになるが、それは後のことだ]
アメリカの革命運動に、コミンテルンの二つの側面のいずれが主要に投影しかつ担われたかは、そこでコミンテルン加入条件21か条が討議さえされずに無視されたことと、宗派主義が慎重に排除され、統一的なCPAが21年五月形成され、さらに合法的協同戦線党としてのWorker`s Partyが、少なくとも日本のような陰湿な混乱なしに作られて行った過程を見れば明らかであろう。1916年から17年のはじめにかけて、ニューヨークのボリシェビキの中心は、ロシアから来た非レーニン主義的なボルシェビキ左派、トロツキー、ブハーリン、コロンタイらであった。『ナーシェ・スローヴォ』派につながる彼らは、大衆的力量からの「分離」を意味する宗派主義を最も警戒していた。アメリカのコミュニストたちは、彼らの印象を通じてロシア革命の偉大な成功を理解し解釈した。それは、アメリカの本来的な国際主義的環境に合致するものであった。それ以降のアメリカ革命運動の展開、とくに民族的対立の行方はまた別に追わねばならない。
猪俣が『国家と革命』の最初の邦訳者となったことは象徴的なことであった。
[小山弘健は、『片山潜』第二部で渡辺晴男の記憶にもとづいてこの訳業を片山に帰しているが、これには根拠がない。筆者は鈴木茂三郎によって「1921年5月31日]と記された猪俣の訳稿の写し(原本は社会文庫にあるはず)を持っているが、この時は片山はメキシコにいたし、鈴木が『若き友へ』で回想していることもこれを裏付ける。ただその中で「検閲をくぐって日本へ着いたのは第二章だけであった」とあるが、訳稿は三章の前半であり、これが鈴木の誤記か、他に二章も存在するのかは不分明である]
あの「青いノート」による『国家と革命』こそ、レーニンの著作の中でも最も「非スターリン」的な、言い換えれば非「ロシア・ナショナリズム」的な,射程の長いものであった。状況適制約から、問題の単純化は避けられまい。だがそれは同時に、ツィンメルヴァルト左派以来の生き生きとした反帝・反修国際統一戦線の雰囲気と結び合っていた。レーニンにこの時期特に影響を与えていたのは、ヨーロッパのアナキズム諸潮流の空気を吸ってきたブハーリンであった。
[猪俣は帰国してまもなく『ブハーリン』を書くことになる]
猪俣がこれらの豊富な理論的・実践的体験を身につけて単身帰途についたのは1921年の秋のことであった。ここまでは序説である。彼方には本当の試練が待っていた。

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2017年07月『気功文化』と『新脈脈』の

2017年7月14日 0:53



読者の皆さん

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『気功文化』と『新脈脈』の読者の皆さん、もう少し待って下さい。『気功文化』のほうはこの間の坐功八式や易筋経外経の第二套を載せようとしています。『新脈脈』はここフェイスブックに載せてきたことを少し整理して残せるようにしています。
『丹学研究』も濱野さんと野村さんが作業してくれている胡孚探「丹道仙術入門」の翻訳が少しまとまった所で出していきたいと思っています。どちらも興味のある方は連絡して下さい。

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2017年07月「猪俣津南雄序説」は

2017年 7月14日 2:00



「歴史と人物」の「現代史の試み

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四 アメリカ共産党と人類学的体験 「猪俣津南雄序説」は「歴史と人物」の「現代史の試み・1930年代をめぐって」の中で書かれた。竹内実さんの「瞿秋白の墓」と並んでいる。私の文章は
(1) インタナショナルの今日的問題性
(2) 田添鉄二と猪俣津南雄 そのアメリカ留学体験
(3) ヴェブレンと猪俣のいる交叉点
(4) アメリカ共産党と人類学的体験
の四節に短いあとがきが付いている。もちろん通読していただいた方が分かりやすい面はあるが、一は当時の執筆当時の政治状況に踏み込んでいて分かりにくい面があるので、後半だけを取り上げた。いろいろな形で猪俣のことは書いて来たので、書くほうとしてはつい続きで書いてしまうのだが、おそらく誰も通読した方はいない。本格的な猪俣論を書く前にそういう断片を集めてみたい、とくに『猪俣津南雄研究』のものをまとめてみたい気持ちがある。結びに代えて、もここに掲載しておこう。
ちなみにこれが出たのは1972年で、私は24歳だった。よくもこむずかしいことを書いているものである。
◇ 
非政治の政治、としての天皇制的支配は、諸々の異見、諸々の異質、諸々の異族の均衡的同化を通じて貫徹すると、私は何度か述べてきた。ここでは、反体制はつねにひとつの異見、ひとつの異族となり、強権によって排除されてしまうのでなければ、それとして均衡化され、無害にされてしまうのが常であった。
大正期にいたる革命運動の中では、本当に戦略的な水準で権力の打倒が問題にされることはなかったし、他にとっては同人的サークルの域を運動が出ることは、ほぼなかった。わずかに平民社は、ひじょうに多彩な形での革命志向から成り、特に田添鉄二は、徹底した大衆路線に立って異見の並立を原理としたー単にやむなきこととするのではなしにー運動の異化的統合の志向を見せたかに見えたが、日本帝国主義の確立に伴う新たな国家形成の弾圧の前に圧殺された。
昭和初年代、山川均の〈方向転換〉の提唱を前段として、二本書く明運動は二つの方向からの「切断」をこうむる。インタナショナリズムのコミンテルン的段階を前提にして、福本和夫と猪俣津南雄が、正反対といっていいほど違うふたつの「レーニン主義」をもたらすのである。きわめて概略的に言えば、福本は新ヘーゲル主義的なフィルターを通して「レーニン段階」に達し、猪俣はアンチ・ヘーゲリズムの道を最も遠くまで歩いたパースやヴェブレン、そしてその根底にある人類学的体験のフィルターを通じてそれを吸収した。それは思想方法としては「同化」志向と「異化」志向の対立と要約しうる。[ジャーナリズムでは対立し合っていた二人だが、実際には家も近く親交があった。とくに福本は書いてだけいる暮らしぶりをみずから哀れんで、猪俣の家にしばしば現れ、倭文子の食事を食べていた時期があった]
これらを単に福本、猪俣ら個人に帰するのはやめよう。運動の習慣にもたらされた異質の体験としてとらえよう。するとわれわれは福本の切断が単に知的水準に限られ、「関係に対する関係」としてはきわめて「土着的」なものが継承されたことが理解されよう[ここでの切断や関係に対する関係などはみな福本の用語である。誰もが知っているものとして引用符さえつけていない]すなわち、天皇制への「同化」がコミンテルンへの「同化」にすりかわったものにすぎぬものとして。同様に猪俣の戦略戦術が戦前の運動において大きな流れとなることが出来なかったのは、この「異化的」方法[これもブレヒトの言葉をもとにしている]がそれ自体余りに異質だったためと理解できよう。猪俣の思想を真にユニークなものにしているのは、天皇制とコミンテルン双方に対する批評のこの上ない冷静さであり、それは彼の大衆への限りない信頼以外の何に由来するものでもないのである。
われわれの今日の闘いにおけるインタナショナルの質、国家との対決の根拠に関わるこれらの問題を、われわれはさらに、具体的な運動に引き寄せて検討して行くことにしよう。[市販される雑誌を自分の機関誌扱いにしている所が私の当時のスタイルだった。またメディアもそれを許してくれたのである]

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2017年07月誕生日のお祝いを

2017年7月14日 8:08



返礼をしたが

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誕生日のお祝いをいただいた方に返礼をしたが、その中で
(6)初期毛沢東と文革の中の毛沢東を功罪含めてきちんと書き残したいというのは私の責任だと思っています。今でも父親よりも強く、毛沢東は私とともにいて対話を続けています。
(7)もうひとりアンリ・ルフェーヴルという変なおじさんのことです。彼はフランスの古典哲学を整理して葬り、マルクスとレーニンを讃えつつ葬り、日常生活批判という方法と指導された消費のテクノクラート社会についての理論を初めて作りました。それはまだ21世紀を支配するものとそれに抵抗するものの理論であり続けています。膨大な著作があり、どこかでえいっと整理をしてまとめていかなければなりません。
(8)まだありました。猪俣津南雄というマルクス主義の存在について確かなものを書き残さなければ、私は死ねません。私の父の師匠であり、私の母の最初の夫でした。私の存在のルーツはここにあります。
と書いている中の、ルフェーヴルのことは少しずつプランを書いていって、膨大な情報を本のイメージとしてまとめていきます。だんだんに具体的な著作に絞り込んで行きます。猪俣については私の45年前の文章の一部を載せて「振返り」をしています。『猪俣津南雄研究』にはたくさんの文章が眠っていますので,少しずつ掲載して行きます。毛沢東に付いても本棚一つ資料があるので少しずつまとまるように持って行きたいです。最初に彼の少年時代についてと、若い頃からの民族観、中華がどうまとまって行けばいいのかについての考え方を議論してみたい。

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2017年07月気と場の勉強会

2017年7月16日 12:30



今回は北朝鮮料理

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津村喬さんを檜原にお迎えしての「気と場の勉強会」終了。
気功は、何年やれば完成ということではない。単純な動作の中にも果てしのない深みがあり、一人ひとりの身体が異なるので、その人にとっての意味合いも異なる。実践するこ

とでのみ深まっていく。そうして「死ぬまで“わたしの気功”を育てていく」──。津村さんが伝えるのは、そんな非権威に貫かれた気功の世界。
正しい答えを他人に求める生き方があるのに対し、自分なりの答えを導く生き方もある。非権威的であるということは、自分で決めるということだ。
気功講習以外に、今回は北朝鮮料理ということで、宮廷料理から庶民の料理までをマッコリと共に堪能。津村さん、今回もありがとうございました。

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2017年07月残り野菜と牛肉と

2017年7月16日 21:39



残っているのを全部使おうと

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残り野菜と牛肉と残っているのを全部使おうと思ったら、朝粥だけでない豪華メニューになってしまった。牛肉と豆腐と小松菜などの鍋、ありとある内容を吸収して進化しつつ

あるサラダ、カリフラワーや茄子やの炒め物。みな朝鮮風の味付け。エストニアから持ってきたタタルをゆでて、ミルクをかけて砂糖はお好みで加えてたべた。タタルは元の尖

兵として導引された民族の名前でみれはソバの実のこと。もうひとつタルタルというのず生の牛肉の食べ方のことで、ふたつに名前を残した。
やはり相当に疲れていたのだと見えて、新幹線で熟睡して気づいたらもう新大阪。構内で珈琲を飲んでまた京都に引き返し、京都駅の成城石井で680円のサバ寿司四種類セッ

トとか買い込んで帰宅した。朝九時に五日市を出て五時半の帰宅というのは随分長い。早速クーラーをきかせて、白鳳とか見てからまた眠った。

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2017年07月事前に予定していた

2017年7月17日 1:57



メニューよりも大分増えて

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事前に予定していたメニューよりも大分増えてしまった。増えたのは

◇小松菜のチョレギ
◇にんじん、ねぎ、小松菜のチヂミ
◇もやしのナムル
◇えごまの葉のキムチ
◇白菜のキムチ
◇にらのキムチ
◇ムッ(ドングリとそば粉の餅)のキムチ乗せ
やるつもりでやらなかったものは

◇むし野菜のヤンニョムかけ
◇チャプチェ(春雨の五目炒め)
で、結局メニューは

◇松の実の粥
◇馬のたるたる
◇はさみ胡瓜の甘酢かけ
◇千切り野菜と鯛のナッツヤンニョムかけ
◇トマトのセンチュ
◇なすの冷製
◇大草原の冷麺
に上の小松菜のチョレギ以下を加えたものでした。
キムチは唐辛子で漬けた漬け物であるのはご存知ですね。その中にもいろいろ変化があって、ニラキムチは醤油で漬けています。ムルキムチは水で漬けています。
小松菜のチョレギは生の小松菜の葉っぱ全体を生かすように大きく切って。長ネギのみじん、すりごま、粉唐辛子、おろしにんにく、ごま油、醤油をかけます。
もやしのナムルはほとんど同じなのですが、すりごま、ごま油、醤油、粉唐辛子(本当は少し辛いのとかなり辛いのをまぜます)おろしにんにくです。
センチュはねぎみじん、細ねぎみじん、酢、塩、サラダ油、醤油、おろしにんにく、こしょう、砂糖。酢と砂糖が入りサラダ油で伸ばします。トマトの真ん中に縦一列にネギを
盛りつけ、残りの液をかけます。

馬のタルタルは醤油、胡麻油、おろしニンニク、みぎみじん、ごまにはちみつとコチュジャンを混ぜるので少し甘い感じにまとまります。
松の実の粥は米と松の実を煮て、水分調整をし、椀に盛りつけてから四五粒のせて出します。お酒を飲む時に胃壁を守るというのタテマエです。
お酒はマッコリと真露。

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2017年07月十項目でわかる気功の六千年の歴史

2017年7月17日 12:55



この十項目はぜひ

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十項目でわかる気功の6000年の歴史
01 気功の始まりは5800年前の亀の呼吸  先史時代
02 黄帝内経と老荘で気功の基礎理論が作られた  戦国
03 丹田・命門等が発見とされ五禽戯・導引図など基本の導引が作られた  漢
04 黄庭経・抱朴子・養生要集の三大古典が書かれた  魏
05 天台小止観で気功の基礎理論が作られた  随  
06 医師たちが気功治療を具体化する一方、内丹理論が完成した  宋
07 薬学者李時珍が体験に基づいて奇経八脈理論を提出した。  明清
08 劉貴珍北戴河療養院、陳濤上海気功研究所が現代気功の始まりになった  中国建国後
09 民間の気功が大流行になり、法輪功ではじけた。  2000年まで
10 健身気功が国の気功として作られた。  2004年以降
この十項目はぜひ覚えて下さい。最小限の説明を今からお伝えします。

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2017年07月十項目でわかる気功の六千年の歴史(1)

2017年7月17日 16:19



気功の始まりは5800年前

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十項目でわかる気功の6000年の歴史

01 気功の始まりは5800年前の亀の呼吸  先史時代

(1)書物に書かれているのは
『尚書』には4000年前の中原地帯が洪水で洪水でかなりの部分が水没したとある。『呂氏春秋』がその洪水の時期に湿気で気が停滞して筋骨が緊張し全身の関節病が流行し
、舞踊を用いて気血を動かして治療したという記載がある。この舞いは導引の先駆形態と見られる。

(2)医学書の記載では
『黄帝内経素問・移精変気論』には「昔人がけものの間に住んでいるような時代、動作をして寒さを逃れ、陽の当たらない所に住んで住んで厚さを避け、内にはあれこれ思い
悩まないよう、外には疲れすぎずに、こだわりなくくらしていると、邪におそわれないことがわかっていた」とあるが、これは原始的な気功法の描写である。

(3)考古学からわかることは
1975年に青海省で出土した彩色の壷には膝を曲げて両手を腹の脇に当て、口を開けて上を向いている人の姿が描かれていて、服気吐納をしていると見られる。これは5800

年前に気功が既にあったことを表している。発見地点の岷江のすこし下流には鼈の名前を王に付けた王国が存在しており、これこそ亀の呼吸だとも主張されている。
1957年にやはり青海省で発掘された「踊る人の描かれた盆」には五人一組で手をつないだ人が三組踊っている姿が描かれている。これは舞踊・気功の起源の形であると見られる。

(4)シャマニズム起源説
宗教の古い形であるシャマニズムは気功の起源のひとつと考えられる。夢見心地の時に霊魂が肉体から遊離するなどの実感を得たのかもしれない。原始的な分かはみなこのシ
ャマニズムと結びついている。『黄帝内経』にも「祝由」「移精変気」という言葉でシャマニズムの心身医学的応用について書かれている。これについては漆浩著、池上正治訳
『中国養生学の神秘ー医学・巫術・気功』がある。

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2017年07月十項目でわかる気功の六千年の歴史(2)

2017年7月17日 17:26



機関誌は八カ国語

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十項目でわかる気功の6000年の歴史

02 黄帝内経と老荘で気功の基礎理論が作られた  戦国
 中国気功はゆったりした原始的萌芽の時期を経て、殷周時代になると、社会の生産力の高まりと文化的発展に連れて、一門の学説をなすようになった。特に春秋戦国の時期に
は百家争鳴となって、医、儒、道、法などの諸家が気功の発展に貢献した。

(1)『黄帝内経』が気功学の基礎を作った
春秋戦国時代にまとめられた『黄帝内経』は気功学の基礎を据えた。内容はあちこちに分散しているが,理論方法から治病までみな書かれている。『黄帝内経』は一種の社会
医学で「社会=心理=生物学」を統合する考えがあった。導引・按摩・行気を論じた「霊枢・病伝」、養生原則を説いた「霊枢・本神」、腎虚証の患者に対して午前五時から七
時南を向いて入せいし唾液を飲むことを説いた「素問・刺法論(遺篇)」,気功が脳の開発に通じることを論じた「素問・生気通天論」などなどがある。

(2)道家思想の気功学への貢献
道家を代表する老子は紀元前577ー477ころ生きた大思想家である。道徳経・老子五千言を残した。その中には「守一」「守中」とよばれる瞑想法、「虚其心、実其腹」と
いう入静法、「専気致柔」という吐納導引法から「道法自然」の天人相応観まで、気功の基礎理論はここに出尽くしている。荘子には導引から周天、踵息、坐忘、心斎などの功法が具体的に紹介され、また気功のイメージ操作をさまざまに言葉にしている。
老荘は気功養生学の基礎を据えた。だから後生の人は気功を「黄老の学」と呼んだ。

(3)儒家の場合は孔子の有名な「八目」ー格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下は気功の修練と言ってもよい。『中庸』は養心と養気について書いている。『中庸』『大学』の
中では「慎独」という日常の中で自己点検をして行く一種の気功法が説かれている。
孟子が「浩然之気」をいい、荀子が「治気養生之術」を説いたように、儒家も一貫して気の修練を論じる。荘子の書いている顔回の坐忘は静坐法の始まりと言われる。

(4)その他の思想家たち
『管子』の「心術」「白心」「内業」などの著作で主として静坐の方法とその効能を説いた。韓非子もまた「虚静」のレッスンを通して「長生久視」が可能になると説いた。
儒家では専ら静功が重んじられた。『呂氏春秋』には動静結合の視点が見られる。

(5)行気玉佩銘をめぐって
戦国時代の《行気玉佩銘》はひすいの十二面体の玉に45の文字が刻まれたもので天津博物館にある。「行気、深則蓄、蓄則伸、伸則下、下則定、定則固、固則萌、萌則長、
長則退、退則天。天幾春在上、治幾春在下。順則生、逆則死」がその全文。古来さまざまな解釈がなされてきた。

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2017年07月十項目でわかる気功の六千年の歴史(3)

2017年7月17日 18:39



機関誌は八カ国語

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十項目でわかる気功の6000年の歴史

03 丹田・命門等が発見され五禽戯・導引図など基本の導引が作られた  漢
 張仲景と華佗に代表される漢代の医科たちは気功の応用の範疇を大きくひろげた。
 張仲景は『金櫃要略』の中で気功による治療のメカニズムを詳しく説明した。その中で「丹田」「命門」などの重要概念の基礎が据えられた。
 華佗は「流れる水は腐らない。戸の枢(くるる)は虫がつかない」という思想で動功の大切さを説き、五禽戯を作り上げた。弟子の呉普はこれを実践して90歳を超しても耳
目聡明で歯もすべて元気だった。惜しいことにそのままの形は失われ、後生さまざまな流派が華佗のやりかたを想像して五禽戯を起こした。

馬王堆の墓から出た「導引図」「却谷食気篇」「養生方」などは当時の気功の発展状況を繁栄している。導引図の色の付いた布に書かれた44人の男女が体操をしているイラ
ストが残されている。「却谷食気篇」の食気は呼吸法のことで季節に合わせた呼吸法や養生の知恵を書いている。「養生方」は気功養生の原則と方法を論じている。
東漢の初年にインドから中国に仏教が入ってきて、気功にも大きな影響を与えた。仏教もまた気功から大きな影響を受けた。禅定を論じた『安般意守経』はさまざまなお経の
中でも古代の気功ともっとも密接な関係がある。サンスクリットのアンナパンナの訳で「呼吸の出入りを念ずる」意味である。
道教の系統では『太平経』『周易参同契』という二冊の大切な本が現れた。

『太平経』は原始道教の経典で守一法とよばれる静功と五種の顔色を観察する方法などを説いた。
『周易参同契』は魏伯陽が書いたもので仙学の分野を統括したものであり、『周易』を説明の道具として煉丹の過程を詳しく書いた。「万古丹之王」と呼ばれて内丹術の始ま
りとなったが、比喩・韜晦が多くて読むのは困難を極めるので、のちにたくさんの注釈書が出された。老子の読み方として最も有名な『老子河上公章句』もこの時期に書かれて
いる。『淮南子』は西漢淮南王劉安が食客を集めて編集したもので古代の養生しそうも反映されている。ここには五禽戯と違う動物模倣が伝えられている。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む(1)

2017年7月17日 23:01



少数民族は造反して当然なのか

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『中国の異民族支配』を読む
01 少数民族は造反して当然なのか、漢族に頼ってこそ平和にやっていけるのか
 「少数民族からみれば、中国による少数民族政策は、異民族支配であり、その異民族支配にたいする「叛乱」はまさに「造反有理」ではなかろうか」「自立できない少数民族
は「中華民族」という「大家庭」に守られてこそ、安全と安寧、そして発展を確保できるという。そこにみられるのは、優れた漢民族が劣った少数民族を援助することで、初め
て少数民族は幸せを確保できるという「救済」の論理である。かつて「アジアの解放」を謳って、アジア各国を侵略した大日本帝国の破綻した論理と似通っている」
『中国の異民族支配』の後記である。

こういう視点を当たり前と思うだろうか。今の世の中では珍しい論理と思うだろうか。
私はこの視点を支持する。中国の姿勢に批判がある。だがその背後にあるのは日本の侵略の体験である。中国の対外進出は今の程度はむしろ当然と思っている。許せないのは
、内部の、チベットやウィグル、回回に対しての弾圧である。

この本は集英社新書、横山宏章著。1944年生まれだから私の四つ上である。一橋を出て今は北九州市立大学にいる。『中華思想と現代中国』『反日と反中』『孫文と袁世凱
』などきわどい本をたくさん書いている。著者にしかかけないような微妙な論理を駆使しているのだろう。
この本は戊戌政変から現代までの中国の中での「大一統」つまり漢民族が周辺民族を統括して当然というのと、「華夷之辨」つまり中華民族とチベットや回族とは分離して当
然という論議が交互に繰り返されてきた歴史を描いている。
亡くなった劉暁波も含めて303人の連名で出された「零八憲章」は中国共産党の一党支配を解体し、中華連邦共和国の建立を提案している。そうなると辺疆民族の独立の自
由を認めざるをえなくなる。劉たちの仕事がノーベル賞に価すると考えた人たちがいて、獄中のまま受賞し、このほどそのまま亡くなった。まさに中国の民主化とはそのような
意味だと思う。自分たちの言葉で語れるようになること、それが私だけでなく、強権に抑圧されている隣の諸民族が自分たちの主張を出来るようにして行くことはひとつだ。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む(2)

2017年7月18日 0:33



チベットはどこに

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『中国の異民族支配』を読む
02 チベットはどこに
わが家には、ダラムサラで買ってきたチベットの大きな地図がある。よく見ると、普通のチベット地図とは大きさが違う。四川省の三分の二ほどがチベット領に入っている。
雲南の一部も。モンゴルと内モンゴルのかなりの部分も。これはかつてチベットの版図がもっと広かった頃の地図なのだろう。必ずしもそういう版図を回復して欲しいとは思わ
ないが、そこにチベット系の人びとが生活しているのは事実なのだろう。中国の客が来てこの地図を見たらさぞびっくりするだろう。
もっとも私の「義兄弟」である四川社会科学院の李遠国は私の気持ちを話したことはないが当然のこととしてわかっているようで、来るたびにチベットの医学読本(膨大なポ
スターを本にしたもの)などを持ってきてくれる。
回族の自治区やウイグル地区で起るイスラム系の人びとのテロが起るたびに、その背後に浮かび上がる「東トルキスタン共和国」の影を見たりする。
私は相当の「中国びいき」であるつもりだが、中国の将来に付いては、少なくともチベットにとウィグル、回族には独立して欲しいと切に願っている。内モンゴルもモンゴル
共和国と一体になったほうがいいのではないか。中国は政策としてチベットにも回族自治区にも内モンゴルにも相当数の漢人を送り込んでおり、その人たちはエストニアに残留したロシア人と同じような立場になるかもしれない。

勝手なことをいえば、延辺の朝鮮人にも自立して将来の統一朝鮮に参加して欲しい。
四川、雲南、貴州も北京から分離したほうが幸福だと思う。
広州、福建と香港、台湾と世界の華僑がひとつの国を作れば強力な存在になるだろう。
ほかの漢民族以外の50いくつかの民族にしても、もし選ぶことが出来るなら、貧しくとも自立したいと思っているのだろうか。満族が985万人、ミャオ族が730万人、イ族
が650万人、ヤオ族が241万人、朝鮮族が192万人、タイ族が103万などは、世界にはもっとずっと少人数の独立国がたくさんある。ちなみに回族は860万人、ウィグルは
720万人、チベット族が460万人(たくさんのチベット「系」民族がまだいるが)である。

でもいま独立してもCIAなどが全力を挙げてコントロールしようとするだろうから、簡単ではない。アメリカの対外支配力はトランプの下で急速に減少しつつあるが、まだ軍
産複合体の対外干渉を許しているので、アメリカが世界の警察官をやめるにはもう少し時間がかかるだろう。チベットにはずっと英国情報部がいろいろなつながりを作ってきた
し、それもどうなっていくか、まだはっきりと見えて来ない。
この五つか六つの「国」を中国から分離して行くのは遠い将来のこととして、はたしてそのように分離して行くことをよいこととする思想は果たして中国内部にあるのだろう
か。ダライラマはチベットを当然のこととして分離独立したいと考えているし、北京政府はチベット人も中華民族の一員だと考えている。それにはどんな歴史があり、どこへ向
かうのたろうか

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む(3)

2017年7月18日 7:47



漢とは誰のことか

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03 漢とは誰のことか
 清朝は1644年から1911年まで267年続いた。1911年に清朝をほろぼした辛亥革命から106年がたっている。それは「韃虜の駆除、中華の恢復」を主題にしていた。韃

虜とは満州民族=韃靼に漢民族がとらわれているという意味である。現実としては、清朝を運営してきたのは、弁髪にして恭順の意を表してきた漢人の官僚であった。清い朝を

革命しようというとき、まずこの区別をしなければならなかった。これを「華夷の辨」という。中華民族と野蛮な夷狄を区別するということである。
四世紀の五胡十六国の時代には、北方系の、匈奴、羯、鮮卑、チベット系の氐、羌が中華を占領した。宋の時代にはタングート,ウイグル、契丹、女直(女真、満州)の異民

族が侵略し、13世紀にはついにモンゴル族に滅ぼされた。元を倒した明朝で漢民族は光復を実現したが、17世紀には女真族が清朝を打ち立てて、それから260年にわたって

支配する。
だが、この「漢」というのも何が実体かを見ると、はなはだ怪しい。もともと漢は男のことだった。のちに中国に支配的な共同体を指すことに使われて、もともと民族の意味

はなかった。たとえば秦が楚を滅ぼしたとき「お前は漢になるか」ときかれて、なると言ったものは奴隷になり、否といったものは辺境に追放された。その秦を劉邦が滅ぼした

時に、たえず叛乱する揚子江上流の河に漢水と名づけ,それが国の名前になった。のちに劉備が自分の国を漢と称し、五胡十六国のうちの二つが漢を名乗り、さらに五代の十国

のうち三つが漢を名乗った。その間に漢民族という言葉ができたが、それはルーツをとわず、中国において支配的な人びとをなんとなく呼ぶことになった。だから実際には漢と

いう民族はいない。その後は東夷、西戎、北狄、南蛮と四方に異民族を名指し、その中央に漢人がいるという虚構を作った。ではいまの中国人の92% をしめる漢民族というの

は何かというと、自分の民族を名乗る気持ちがなかった人びとという意味だ。万里の長城は軍事的な意味はほとんどなく、華の世界と夷狄の世界を区切るシンボルなのである。
中国では「華夷の辨」と並んで、「大一統」(一統を大[とおとぶ])の理念があった。「華夷の辨」は中国人と異民族を峻別すること、「大一統」はいろいろな異民族がも

し恭順の意を表すなら中華共同体に入れてやるという考えだ。都合のいい時に応じて使い分けてきた。
それは、漢民族が夷狄を支配する時は王道といい、徳のない夷狄が天下を統一すれば覇道というのである。この漢民族が実体がない。あえていえば漢民族だと思っている人が

夷狄を支配すればそれが王道と呼ばれるのだ。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む(4)

2017年7月18日 16:49



回もチベットも

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04 回もチベットも漢人に復讐すればよい
 私の最も尊敬する章炳麟である。
 体制内改革派である康有為が満漢協力体制を唱えて、光緒帝を味方に付けようとして失敗した。そのとき章は「満漢を混合してはならない」「これは易姓革命ではなく、光復

である。中国の種族の光復、中国の州郡の光復、中国の政権の光復である」
光復とは仕返し、やり返す、みたいな意味だ。だから章は大同論を批判する。「大同の誤りを戒め,種族の起源を明らかにして蒙古を区別する」。この蒙古はモンゴルのこと

でなく満州民族のことらしい。革命後の国名を中華民国となづけたのは彼である。中華民国からはチベット、モンゴル、回族地区をはずせという。ただ、朝鮮とベトナムは中華

に入れてもいいという。これらは自分で国家を作ればよい、漢民族によって抑圧された民族がいれば、漢に対する光復を主張できる。
「たとえ新疆の部族長たちが満州に対して恨み骨髄に徹し、漢人に怨みを晴らそうとして、自ら分離して突厥・ウイグルのあとを回復したいと強く望むとしても、やはり心を

抑えてかれらに任せるべきだ。漢族の満州に対する関係を見れば、回族の漢族に対する関係もわかる。やむをえなければ、敦煌以西の土地を全部回族に与えて、ロシア人の右腕

を切断したい。回族と神聖同盟を結んでもよい」
この人は回族やチベット族が漢族からどんな目に遭わされてきたかを知っているのだ。満族が漢族の恨みにこたえるべきなのと同じように、回、モンゴル、チベットは漢族に

復讐すべきだと言っているのである。
「もしもミャオ人が自ら歴史書を持ち、確実に疑いなく過去の事実を記録していてそれによって復仇の兵を挙げるならば、私はどうしてその最前列に刃向かおうか」
章炳麟は中国革命同盟会を率いていて、疑いなく中国革命の主要なイデオローグのひとりだった。しかし彼の論理は余りに徹底していて、「満に対する光復」しか理解されな

かった。回、モンゴル、チベットそしてさまざまな漢に抑圧された諸民族は、満から抑圧された部分に付いては満を光復し、漢にひどい目に遭わされてきた諸民族は漢に対して

光復すればよいと主張した。
「章炳麟の主張は辛亥革命以前にあっては激烈そのものであったため、周囲と摩擦を引き起こさざるを得なかった。彼が名儒兪樾の門下であることはすでに述べたが、章が種

族革命の旗幟を鮮明としたことで師弟の間には亀裂が生じた。すなわち兪越に「不孝不忠は人類に非ざるなり」と叱責・破門され、他方章も「謝本師」(『民報』第九号)を書

いて師と絶縁するのである(「謝」はいとまごいする、の意)」Wikipediaから。
「結局、章が推奨したのは仏教であった。種族革命と仏教の取り合わせは一見奇異に映るが、章炳麟は以下の理由で問題ないとする。すなわち仏教(法相)は平等を重んじて奴

隷根性を去り、平等を犯すものを廃する戦いを承認する。したがって満州族と漢民族間、あるいは君臣間の不平等を一掃することに何ら不都合はないという立場なのである。革

命道徳の話に戻せば、仏教(華厳)は「普(あまね)く衆生を度(すく)う」、「頭・目・脳髄、一切を衆生のために捨てるを辞さない」という自己犠牲精神を眼目とするため

に、今の世にふさわしいと章炳麟は言う。彼はこうした仏教の平等性を強調し、後述する社会進化論の影響で当然視されていた「弱肉強食」に異を唱えようとしたのである。
こうした章炳麟の仏教への尊崇の念は、『五無論』(『民報』16号)のような厭世主義的な文章を時に書かせた。すなわち当面は民族主義を掲げるが、やがては「無政府」

・「無聚落」・「無人類」・「無衆生」・「無世界」に至らなければならないと言う。つまるところ章は個々人が多種多様であることを許され、かつ自立して他者を侵害しない

世界を理想としていた。これは当時一世を風靡していた社会進化論の描く理想郷とは異なる世界といえよう。仏教はこれに対抗する強力な思想的武装だったのである。」
誰が書いたのか知らないが五無論が厭世主義だというのは反対である。彼の論理を最もすっきりと徹底したものだ。民族主義は無政府主義に行き着く。それは結局無人類主義

になる。人類の活動が地球を取り返しがつかない所まで破壊し汚染してきたからだ。無世界まで行き着いてこそ、人類は地球の中で回復できる。あらゆる生物に平等な世界をど

のようにして作れるのか。それは時代を超えた思想だった。 
魯迅は1908年に東京小石川の章の自宅で説文解字の講義を受けたが何も覚えていないという。
「先生の業績は革命史に残るものの方が、学術史に残るものよりもきっと大きいであろう」彼は晩年まで章を慕い続けた。「太炎先生(章炳麟の号)に関する二、三の事」は魯

迅が亡くなるわずか10日前に書かれた絶筆である。

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2017年07月朝、小原さんが来て

2017年7月18日 21:01



鈴木診療所につれていってくれた

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朝小原さんが来て鈴木診療所につれていってくれた。最近彼はfitを7000円だかで買ったのだ。登録とかいろいろでそれだけではすまなかったみたいだが。水汲みにいきましょ

うというので、鈴木診療所にいってからということに下。彼も鈴木診療所に行っている。ところが、こちらは久しぶりに行くのに10時半だと思っていたら二時半だったらしい

。火曜日はこれからずっと二時半。今は毎日来るのをやめて週一階だけ来ている。さっそくのどじだったが、10時半でしてくれた。
水汲みに行こうと言うとだったのだが、滋賀のほうにいってみましょうかと小原さんがいう。前に時々行っていた蓬莱山の下と言うか権現山の登り口のところである。大原の野

菜や寿司やいろいろ売っている所に行きたかったが、火曜日は休みらしい。琵琶湖大橋のたもとの道の駅に行く。しいたけとかししとうとか買って、昼時なので鯖寿司弁当とか

買って、豪雨の湖畔で食べる。対岸は凄い大きなショッピングセンターができたとか、少し右のほうに佐川美術館が見えたり。もう長いこと対岸に行っていない。もとは草津に

いたから、対岸で生活していた。部屋が11もあるボロボロの家で、下の二部屋を教室にして、七つくらいの部屋を図書室にしていた。水を汲む時には陽がさしていた。原槙君

水を汲みに行く時は声をかけて下さいといわれていたが、急に決まったのでごめん。
水を汲んで帰った。小原さんには申し訳がないが家に着くまで眠り込んで、まったく意識がなかった。これで10リットルタンク五つにボトル10本程できた。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む(5)

2017年7月18日 22:05



孫文の変身

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05 孫文の変身
 光復会の重鎮、陶成章はこう書いている。
 「中国とは、中国人の中国である。中国人とは誰のことか。漢人である。中国の力士とは漢人の歴史である。中国の歴史とは、漢族の統治の歴史である。中国民族と、チベッ

ト族、ミャオ族、満州族、モンゴル族、鮮卑族、突厥族などとは別民族である」
孫文は言った。
「われわれは満州人を恨むのではなく、漢人を迫害する満州人を恨むのである。仮にわれわれが革命を実行するとき、満州人がわれわれを妨害しないのであれば、決して復讐

する道理がない」 
漢人の国を満人が支配しているから「漢人は某国の民」になっている。とすれば満人の国を漢人が支配すれば「満人は亡国の民」になる。将来満人に代わって漢人がモンゴル

やチベットを支配すれば同じように亡国の民になる。満人は万里の長城の向うに戻って満人の国を治めればいい。モンゴル人もモンゴルの国を、チベット人もチベットの国を治

めればみんなが亡国の民にならないですむ。
それで孫文は中央部の十八省だけを「中国人の中国」と呼んで、そこがまとまって自立すればいいと考えた。青海省はチベットのものである。黒竜江省、吉林省、奉天省の東

北三省は満州族のものである。モンゴル、チベット、新疆はそれぞれモンゴル人、チベット人、回人のものである。必要ならば連邦制にしてもよい、と彼は考えていた。チベッ

トや新疆が中国だとは考えていなかった。中華民族軍政府布告全国文によれば「十八行省の父老兄弟よ、ともに力を会わせて進み、ともに仇を討ってわが邦をとりもどし、我が

国の恥を雪ごう」。最初民国の旗は「十八星旗」だった。孫文は革命成功の時はアメリカのデンバーにいた。招かれて臨時大総統になったが、このときには「政体を五族共和に

改める。国旗を五色に定める。紅、黄、藍、白、黒を持って漢、満、モンゴル、回、チベットを代表し,一家となす」ことが決まっていて、孫文の考えてきた所とは大きくちが

っていたが、表面上従わざるをえなかった。1912年1月1日南京で建国宣言が孫文の名前で出された。「漢、満、モンゴル、回、チベットの諸族をあわせて一体となす。これ

を民族の統一と言う」(臨時大総統宣言)
総統を退いてから、彼は五族共和を批判し始めるが、やがて1919 年頃から自衛能力を持っていない諸民族は漢の指導のもとに同化されるべきだという主張になって行く。

モンゴル,新疆などに漢人を送り込んで支配権を奪って行く。その理由はそれらの土地の豊富な鉱物資源の奪取である。彼は漢民族に同化された諸民族を中華民族とよぼうと主

張した。もともと三民主義は中国人を「先知先覚」「後知後覚」「不知不覚」の三種類に分け、すべてを「先知先覚」の国民党が決めればいいというものだったが、有能な漢民

族が愚昧な諸民族を指導すればいいと言い出したのである。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む(6)

2017年7月19日 7:35



東トルキスタン独立運動

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06 東トルキスタン独立運動
新疆は胡人の世界であった。漢族はやっきになって人を送り込んだ。1928年には新疆の人口は255万人で、ウイグル族は70%、漢族は10%以下だったが、現在漢族は

40%を越える。ウイグル族は西から移ってきたトルコ系の民族で、カザフ族、回族、キルギス族、タジク族、ウズベク族など多くの民族と接していた。イスラム教徒のまま漢

族化した回族とはまったく異なっている。
1931年のハミ蜂起では、入植の漢民族全員を殺害したから、最初から「反漢」の性格が強かった。行政はずっと漢族が握ってきた。清朝の間も漢人が支配してきたのだ。
1993年11月、ホジャ・ニヤズを大統領とする東トルキスタン・イスラム共和国が名乗りを上げた。実質上の指導者は首相のサウド・ダームッラだった。彼はアフガニスタ

ンやインドに留学し、コーランに通暁していた。反漢、イスラム革命をめざすものだった。だが内部分裂によって、大統領はサウドを逮捕して新疆政府に引き渡してしまう。

94年の5月には崩壊してしまう。
1944年夏から秋の革命はイスラム独立運動を目指した。11月には二度目の東トルキスタン共和国樹立が宣言された。
「我々の祖先は、我々が住んでいる地域を東トルキスタンと呼んでいた。昔から、ウイグル人、タランチ人、カザフ人、ウズベク人、キルギス人とタタール人はここに住んで

おり、現在ここは依然として彼らの居住地である。ここには400万人の住人がいるが、300万人以上がこれらの民族によって占められている。これを理由に、この地域、トル

キスタンは、かつてトルコ民族の心臓と呼ばれていた。我々の故郷は東トルキスタンであり、我々はこのトルコ民族の東方の部分であり、そのほかの部分はソビエト連邦にある


「中国人はゴビ砂漠の遥か遠い中国から我々の東トルキスタンに侵入し、我々の平和を望む心理と誠実さを利用し、軍隊と鞭によって支配権を獲得した。彼らは我々を家畜に

対するよりもひどく圧迫した」
「団結したクルジャ民衆は直ちに中国政権を打倒し、我々のイスラム政権を樹立した」
ここにはソ連赤軍が参加していた。民族軍は各地を次々に解放し、ウルムチを包囲した。しかし国民党との話し合いでソ連は裏切り、ウルムチ包囲を中止した。ソ連軍は引き

上げ、東トルキスタンの戦闘的な指導者たちはソ連に連れ去られ、反乱軍は新疆政府に入って、新しい新疆政府は国民党の張治中を主席とし、中国との協調を呼びかけるウイグ

ル族のエホメッドジャン・カスミが副主席になった。東トルキスタン共和国政府は崩壊した。
人民解放軍は1949年12月新疆に進駐し、彭徳懐を軍区司令官兼政治委員として新疆人民政府を打ち立てた。

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2017年07月十項目でわかる気功の六千年の歴史(4)

2017年7月19日 8:31



黄庭経・抱朴子・養生要集の

04 黄庭経・抱朴子・養生要集の三大古典が書かれた  魏
 魏晋南北朝とまとめて言われる時代。曹操と息子たちは気功の愛好者で大いに気功を広めた。曹操は華佗を幽閉してそのまま死なせたが、16人の気功師に動物模倣や呼吸法

の授業をさせた。どんな食べ方をすれば長生きできるかという討論には曹操自身が参加している。息子の曹丕は気功による偏差について初めて記述している。
この時期、三冊の本が出現して大きな影響を持った。
ひとつは魏華存女史による『黄庭経』である。またその外景経は王羲之の手になるといわれる。『黄庭経』は人体の黄庭(庭も黄色も中央の意味。丹田、脾臓の意味)と各臓

器には皆それを司る神々がいるとし、中医学の臓腑理論とそれを結びつけた。神々を存思ことで内臓を活性化する方法を提唱して、今日まで影響を与えている。
晋代の医学者葛洪は『抱朴子』を書いて古代の気功の発展に大きく貢献した。葛洪は導引の作用は「まだ病気になる前に治療し、不和の気を通す」ことにあり、寿命を延ばす

ことができるとした。気功法の面では三つの大きな仕事をした。ひとつには胎息法であり、またひとつには『太平経』の守一法を発展させて、初めて明確に三丹田の理論を出し

たこと,また多数の動功功法を収集整理したことである。しかし不老長生につながる服食金丹についてはあいまいなものや誇張が多い。
張湛の『養生要集』は晋代の気功養生学のひとつの水準を示している。養生で大切なことは一に心を散らさないこと、二に気を愛する、三に形を養う、四に導引する、五に言

語を慎む、六に飲食に節度を、七に房室で乱脈にしない、八に俗世間に背を向ける、九に医薬、十に禁忌[タブーを尊重する]の十か条だとしたが五まで、あるいは八までは気

功そのものと言ってもよい。精気神を守るために閉気法が大切だと考えていた。
練功者が気を出すという外気はこのころ布気といわれていた。『晋書』には患者と向き合って坐り、一緒に瞑目しただけで患者が歩けるようになった例が書かれている。たく

さんの人を救ったが報酬を受け取らなかったとある。内丹という言葉は許遜の『霊剣子』に初めて書かれた。
南北朝時代の陶弘景は道教の理論家で医師でもあったが、『養性延命録』を書いた。気功は動静結合するが、静を主とする。服気療病篇では静功を導引按摩篇では動功を扱っ

ている。静功については閉気法、吐気法、引気攻病法、六字訣を詳しく紹介している。動功はさらに詳しく、五禽戯、保健功など。黄庭経の影響もあり、それまでの気功養生の

知恵を集大成したといってよい。 
この時代にインドから達磨が来て少林寺に住んで大きな影響を与えたという伝説がある。長く坐禅をし、495年に嵩山少林寺を作ったとされる。

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2017年07月十項目でわかる気功の六千年の歴史(5)

2017年7月20日 4:07



隋唐五代

05 天台小止観で気功の基礎理論が作られた  隋唐五代 
 隋唐の時期の気功はいくつかの特徴がある。
◇医療の方面で広く利用されるようになり、たくさんの医学の名著が気功について書いていること。
◇伝統内丹術が勃興した時期であること。
◇気功の理論体系がかなりまとまったものになってきたこと。
気功の臨床応用に付いて
 大医署の中でやられた。この時代は導引の中に含まれる按摩療法が非常に重視された。政府の医学部門にも按摩科が整備された。当時の按摩科にはいまの「推拿」「気功」「

整形」の三部門が含まれていた。
隋唐の三大医典とされるのが『諸病源候論』『備急千金用方』『外台秘要』であり、どれも気功と密接な関わりがある本である。
隋朝の太医令である巣元方の『諸病源候論』は610年に出された中医の病因・病機の専門書で、67部門1739 の病気を論じているが、その多くに薬だけでなく「養生法」
を支持した。重複を除くと213種類の導引法が紹介されている。ひとつの症状について多い時は十数種の導引法を指定している。それは医学気功功法大全といってよい。[病
名を確定した本として医学生が黄帝内系に次いで学ぶべき本になったが、長いことこの導引処方は軽視されてきた。最近になってその専門的研究が現れた]。『備急千金用方』
も『外台秘要』もその内容を継承し採録している。
孫思邈は偉大な医学家で道教学者であり、また「功高徳崇、造詣極高」と最大限の褒め言葉で呼ばれる気功家だった。『備急千金用方』は漢から唐までの医学の達成をふまえ
、診断治療法から鍼灸、導引、按摩、養生の術まですべてを総括している。
孫氏は修身養生の中で「性を養う」道徳修養を最も重視した。「およそ医師が治療する時は、必ず安神定志し、無欲で何も求めない境地になり、観音の大慈悲の惻隠の心を持
ち、すべての人の苦しみを救うということでは、貴賎の別もなければ年取っているか幼いか、怨みがあるか親しいか、中国の人かよその国の人か、知性のある人かどうかを区別
せず、みな同一平等に接する」と言っている。孫氏の気功は『諸病源候論』を継承しているほか、「調気」「閉気法」を主とする静功、「天竺按摩法」「老子按摩法」などの自
己按摩法も詳しく紹介している。
王燾于は752年に『外台秘要』40巻を出した。『諸病源候論』の養生導引法を引くとともに,若干の鍛錬方法を補充している。
内丹術がさかんになった。
内丹は外丹と一対の言葉である。歴史の中で少なからぬ皇帝や大臣が長生きのための丹薬を求めて中毒死したため、煉功することによって自分の中に「内部の丹」を生み出し
て防治疾病、延年益寿の効果を得ようとした。初めは内丹術の方法は比較的簡単で、胎息の基礎の上に意念導引を加えていた。唐末五代に鐘離権、呂洞賓という内丹の先駆者が
現れたので、これを鐘呂派ともいった。内丹術の興隆によってそれまで重視されていなかった『周易参同契』が内丹の指導書として重んじられ始め、さまざまな解説が書かれた

気功の理論体系が発展した。
この時期には社会の発展と科学の進歩を反映して、気功の基本理論体系に比較的大きな発展があった。
『太清中黄真経』『太清調気経』『延陵先生集鍼灸服気経』などは内煉を主として呼吸鍛錬を重視している。また今で言う外気に当たる布気も論じている。今使われている気
功の言葉はこれらの本で使われている。
隋の智顗の『童蒙止観』[天台小止観]の気功理論体系への影響は極めて大きかった。気功の基本である調身・調息・調心はこの本に由来する。また練功中に出現する八触[
八つの反応。練功の深まりの指標としての違和感]についても体験にもとづいて先駆的に整理している。

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2017年07月大分先の話なのですが

2017年7月20日 22:30



9月23日(土)に檜原村で

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 大分先の話なのですが、9月23日(土)に檜原村で済南料理をやることになりました。
 済南には何度か行っていますが、山東省の首都ですね。孔子の故郷である曲阜もあり、中国一の聖山である泰山もここにあります。もう過去のことですが、私は泰山に二度徒

歩で登っています。バスでも二度登りました。伝説の泰山の上が割れたビール瓶でいっぱいだったので、腹を立てて、次回には日本からたくさんのゴミ袋を持ってきてそのかけ

らを拾い、それを積み上げてまわりで気功をしました。また青島も山東省です。青島の大きな道観を訪ねて道士たちの生活に触れました。
中国料理の中でも済南の料理には特別の思い入れがあります。済南の料理は北京料理にもっとも深い影響を与えた料理です。清の宮廷の人びとはもともと北方の平原にいた人

たちですから、羊を焼くくらいの文化しか持っていませんでした。それがあるとき済南の庶民料理に触れた皇帝がすっかり気に入ってしまい、山東からコックを呼んで宮廷料理

を作らせました。調理場の共通語はのちのちまで山東語であったとされます。乾隆帝や西太后が愛した料理は済南の料理をベースにしたものだったのです。
しかしむろん済南にも独自の料理は残りました。それは庶民的でありながら非常に洗練されたものでした。文化大革命の時に大部分の済南伝統料理の店は責め立てられ、料理

人は皆下放されました。嵐が過ぎ去った時に済南料理の伝統はほとんど残っていませんでした。しかし済南でずっと料理修行をした佐藤孟江さん、佐藤浩六さんが日本で高い水

準の済南料理を保持していたので、中国政府は彼らを招いて済南料理を復権しました。佐藤さんたちは最近まで東京で店をやり、料理教室をしていましたが、最近高齢のため引

退しました。私は六本木にあったころの店に何度か行き、習ったという程のことはありませんが、いろいろ話をうかがいました。
まだ時間がありますので、済南料理がどんなものかを追々紹介しながら、さてさて何を作ろうか、いろいろ考えて行きましょう。来たことのない方も気軽に申し込んでください。

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2017年07月といっても計画の半分は

2017年7月20日 23:17



一応の当てがあります

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 といっても計画の半分は一応の当てがあります。
 徳洲扒鶏という鶏のとろとろ煮はぜひやってみたい。扒というのは調理法です。徳洲は済南から北に黄河を渡って110キロのところですが、中国の最大綿花集積地になって

います。正式の名称は「徳洲五香脱骨扒鶏」といいます。まず赤褐色に揚げてから15種類の香辛料を入れた中で八時間程煮ます。
たらとエビの煮物です。しょうがとネギと炒めます。卵をまぶすように炒めます。黒酢の入ったあんをかけます。
孔子から数えて53代目の子孫孔治が先祖に敬意を示し、孔府に「詩禮堂」という建物を建てることになり、その門前には一対の巨大なギンナンの木が植えられました。この

ギンナンは毎年多くの実を付け、その実は毎年の孔府の宴に用いられたそうです。今回のレシピはそのギンナンを使った孔府の名菜から。[材料]
ギンナン ……… 750g  ラード ……… 50g  水 ……… 100cc
砂糖 ……… 250g  桂花醤 ……… 小さじ1/2  蜂蜜 ……… 大さじ3
九天大腸・山東風モツ炒め
名前の由来がなかなか面白いので紹介しておきます(ただしあくまで伝説です)。清朝末期の済南地方に九華楼と呼ばれる有名なホテルがあり、毎日多くの客で非常に賑わって

いました。経営者はとにかく”九”の字が好きでたまらず、自分の経営する会社のすべてに”九”の字を冠していたといわれます。ホテル九華楼は規模は小さいながら有名な料

理人を多数抱えていたといわれ、ホテルのレストランでは人気料理だった「紅燒大腸」に改良を重ね新たな料理を生み出しました。
経営者の開く宴会では必ずこの料理が出され、招待された客は皆この料理を絶賛し、初めて食べる客は皆この料理の名前を尋ねました。経営者は道教の秘薬の一つである「九

轉仙丹」にちなんで、『九轉大腸』と呼ぶと説明していましたが、彼の”九”好きを知る親しい友人たちは、「また”九”か…」と大いにあきれたといいます。
というわけで、この料理は『紅燒大腸』がベースになっているのですが、より香り高く、より柔らかく、より食欲をそそる味付けがなされています。豚大腸を三センチくらいに

切り、炒めてから、酢 大さじ3、胡椒粉 1g、肉桂粉 1g、花椒粉 3g、 五香粉 少々で煮て行きます。
あとはマントウ、水餃子ですね、このあたりは米をほとんど食べません。主食は小麦粉ですね

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2017年07月十項目でわかる気功の6千年の歴史(6)

2017年7月21日 20:45



内丹理論が完成した

06 医師たちが気功治療を具体化する一方、内丹理論が完成した  宋
 この時期は中医学全体の発展が非常に迅速であり、学術の空気が盛んで、理論上の飛躍も多々あった。臨床上の成果も気功に影響した。印刷技術の革新があり、気功の専門書

や道藏などの関連書がどんどん印刷された。内丹術は発展してひとつの流派を形成し、また新しい価値ある功法もさまざまに提唱された。
宋金元の医師たちの気功への貢献
金元四代家と言われるのは「主寒涼派」「攻下派」「補土派」「慈引派」である。
「主寒涼派」の劉完素は六字訣の体得について深い体得をして『素問玄機原病式』などの書で「吹は腎の寒を取り除いて熱を生ずる。呵は心火を取り去って寒を生ずる」など

の仕組みを解明している。
「攻下派」の代表である張従正は『儒門事親』のなかで導引按摩と五禽戯について論じている。
「補土派」の代表李杲[りこう]は脾胃の調理を最も重視した。服薬と同時に静坐による養気を提唱した。「夜半にしばらく収心静坐することで元気を発生させる」と言ってい

る。
「慈引派」の朱震亨は「陽は常に余り、陰は常に不足する」と唱え、病気を治すには陰を養う事が大事と、薬物とともに気功による内観養神を説き、症状に応じて導引も用いた


宋代には医学書の編纂、執筆、印刷が非常に重視された。『諸病源候論』『千金要方』『金櫃要略』なども印刷されて広く読まれるようになった。1117年『聖済総録』全書

200巻が出された。皇帝の命令で医官に収集編纂をさせたのである。それは道家の修練を集大成し、神仙導引、神仙服気、神仙煉丹などを内容としていた。具体的な導引服気

の方法もあり、断食や食餌療法のこともあった。
内丹術の盛行
内丹術は唐代の発展の基礎の上に、宋金元の時期には一大気功流派を形成した。南方の張伯端、北方の王哲などの内丹を実践し著述する人びとが現れた。張伯端は北宋の学者

で1075年に『悟真篇』を書いた。全体が内丹修練を論じたものである。詩の形をとって儒仏道が一つに統合された思想を説き、とくに内丹術について詳しくやり方を書いた。

内丹の経典的な書物としては『周易参同契』と並び称されたのがこの『悟真篇』である。王哲[重陽]は北方の内丹術を代表し、『重陽全真集』『重陽立教十五論』『重陽教化

集』などを書いた。
南北ふたつの流派の違いは同じ内丹功法でも性[人格陶冶]から入るか、命[健康作り]から入るかにあった。南宗は主として命功を重視して「先命後性」を主張した。それ

に対して北宗は上丹田の元神から入手して「先性後命」を唱えた。元代には両者を結びつけて「性命双修」の考えが強調されるようになった。
気功法の発展
六字訣の応用はこの時期発展し、覚えやすい歌の形で普及されもした。元代の『修真十書・雑著捷経』の中に「袪病延寿六字法」などがあるのがその例である。
宋代に出現した八段錦は、覚えやすく簡単で運動量も大きくないし、治療効果もいいので、大衆的に広がった。その中で南北両派に分かれた。北派は岳飛に名前を托して、わ

りと難しい、剛を主として馬歩を多用するもので、武八段とよばれ、あまり広く普及しなかった。南派は粱世昌が伝えたもので、やわらかく、やさしく、文八段とよばれた。文

八段は立式のものと坐式のものがある。

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2017年07月弁当箱大きめのと

2017年7月22日 23:54



小さめのを25ずつ買った

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弁当箱大きめのと小さめのを25ずつ買った。まだ何人来るか分からない。が、やや余裕を見て買っておく。
29日のほびっと村の徹夜トークの時の料理の話だ。いろんな紙皿で出すとか大皿料理の可能性はとかいろいろ考えてみたが、結局100円ショップの弁当箱が一番いいという事

になった。大きめのが四つ100円、小さめのが五つ100円だから、一人分器だけで45円ということになる。
小さいほうの弁当箱には小さめのお握り三個と、真ん中に広東風焼き飯、右三分の一にお新香とデザート(内容未定)を詰める。
大きいほうの弁当箱には、まだ全部決めていないが,16種類か18種類のおかずを並べる。主たる情報源は『一人暮らし・料理の技術』『今日も一日おいしかった』『健康食と

うふ』の三冊。それ以外にも最近のものから少し補っている。まだ確定ではないがこんな感じである。
①切り干し大根と薄揚げの煮物・和風
②さば梅・津村オリジナル
③辣白菜・四川料理
④トマトサラダ・韓国風
⑤麻婆豆腐・四川風
⑥高野豆腐・おらんだ煮・暮らしの手帖風
⑦雑砕[チャプチェ]・韓国風
⑧タラモサラダ・ギリシャ風
⑨味噌漬け豆腐・京都風
⑩棒棒鶏・四川風
⑪豆腐ハンバーグ・和風
⑫小松菜のナムル・韓国風
⑬もやしナムル・韓国風
⑭にんじんナムル・韓国風
⑮イワシの衣揚げ・バスク風
⑯ひとくちケバブ[羊肉]・トルコ風
⑰きのこのディップ・南仏風
⑱胡瓜とディルのヨーグルトサラダ・南仏風
これを普通に一人前ずつ作れば最低でも3000円はかかる。なんとか半分くらいですむように研究している。もともと儲けは計算に入れていない。今作ってみて、弁当箱への

治まり具合を見てみている。予算に合わなければ縮小する。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む

2017年7月23日 13:12



毛沢東のジグザグの軌跡

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07 毛沢東のジグザグの軌跡
 若き毛沢東は湖南省を湖南共和国にすればよいと考えていた。
 「私は大中華民国には反対だ。私は湖南共和国を主張する。もっともよい方法は、全国的な建設ではなく、分裂して、各省ごとに分けて建設することだ。各省人民自決主義を

実行することだ。22の行省と3つの特区、2つの藩地に分けられた27の地方を27の国に分けることがもっともよいことだ」
これはすごい。若い毛沢東の、こうした暴論が好きである。
もう少し話を聞いてみよう。
「我々四千年の文明古国には、簡単に言えば国はなかった。国はひとつのフィクションであって、実体はなかった。たとえば人民も散在しているだけで、「一握りのばらばら

な沙」とはなさけない形容詞だ。中国人は四千年以上生き続けてきたが、どうやって生きて来たのか。組織はなく、組織された社会などみつけることはできないし、組織された

地方もみつけることはできない。中国の土地には、中国人がいるとか、いないとか、大した違いはないのではないか。人類の中に
中国人は必要か、必要でないか、どんな関係があるのか。原因を探れば、不幸な事に「中国」の二字のなかにあり、 中国の統一の中にある。現在唯一の救済方法は、中国を解

散することであり、統一に反対することだ」
これは1920年の文章だから、1919年の五四運動に参加しそびれたあとのものである。このあと毛沢東は全国規模の革命家に育って行き、次第に「中国」を引き受けざるを

えなくなるのだが、ここが「原点」だったことは忘れたくない。1928年には毛沢東は朱徳とともに井崗山に立てこもる。1929年1月の紅軍布告には「中華を統一し、満、モ

ンゴル、回、チベットは自らが章程を定める」とある。1931年には瑞金で、自由連邦制を盛り込んだ中華ソビエト共和国憲法大綱を制定した。ここでソビエトというのはロシ

アのソ連邦の意味ではなく、世界中で国境に関係なくソビエト(人民の議会)を作って行こうロシアのよびかけに応えたものである。その後1937年日本が盧溝橋事件で中国に

進出しモンゴルと満州を奪おうとした時に「モンゴル、漢両民族は団結して一致抗戦しよう」になる。漢族がモンゴル人から奪った土地は返すから、と言っている。
毛沢東は自分の考えよりも、中国共産党の集団的意志に従おうとする。それでも、周囲の諸民族を統合するか、自主に任せるかについてはずっと後まで迷いがあった。
「中国革命と中国共産党」ではこう書いている。
「四億五千万の人口のうち、十分の九以上が漢人である。このほか、モンゴル人、回人、チベット人、ウイグル人、ミャオ人、イ人、チワン人、プイ人、朝鮮人など、あわせ

て数十種の少数民族がいて、文化発展の程度は同じではないが、すべて長い歴史をもっている。中国は多数の民族が結合して広大な人口を抱える一つの国家である。中華民族の

発展(主要なのは漢民族の発展)は、世界の多くの民族と同様、数万年の無階級的原始コミューンの生活をへてきた。中華民族は栄光ある革命の伝統と優秀な歴史遺産をもつ一

つの民族である」
だが1945年の「連合政府論」になると、別の論点が出てくる。
「国内少数民族の待遇を改善し、各少数民族に民族自決権および自発的希望による原則の下で、漢民族と連邦国家を建設する権利を認めるよう要求する」
また別の版ではこういう。
「新民主主義の国家問題と政権問題には、連邦の問題が含まれる。中国内の各民族は、自発的希望と民主の原則をもとに、中華民主共和国連邦を組織し、またこの連邦を基礎

にして、連邦の中央政府を組織する」
この1947年版が毛沢東が一番のびのびと「自由連邦制」を主張できた最後の文献である。1949年以降には、彼は孫文と同じ地点に戻ってしまう。

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2017年07月『中国の異民族支配』を読む

2017年7月23日 22:58



引き裂かれた周恩来

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08 引き裂かれた周恩来
 中国共産党をリードして来たボロディンのコミンテルン路線と、中国伝統の孫文の路線とがあって、建国当初はボロディンの「自由連邦制」が中国共産党の中では圧倒的に強

かった。「連合政府論」はそれを反映していた。これをひっくり返したのが、周恩来ら新たな国家官僚だった、らしい。1949年の中国人民政治協商会議共同綱領では「各民族

がしたしく合作する大家庭にする」とされ、54年9月に公布された中華人民共和国憲法では「我が国の各民族は団結して、一つの自由で平等な民族大家庭となった」
政治協商会議では多くの代議員がソ連に見習って連邦共和国を作るべきだと主張したが、周恩来がそれを斥けた。
「国家制度については、われわれの国家は多民族連邦制を採用するか否かの問題が存在する。いかなる民族もすべて自決権を有している。これには少しも疑問の余地はない。

しかし帝国主義者は今、われわれのチベット、台湾、さらに新疆までも分裂させようと狙っている。こうした情況にあるから、各民族は帝国主義者の挑発に耳を貸さないように

希望する。このことから、わが国家の名称を中華人民共和国とし、連邦とはしないのである」
チベット、モンゴル、ウィグルについては当時既に強い独立要求があったが、それは無視された。朝鮮族についても白頭山の北や遼東半島の朝鮮人居住地区が朝鮮領と認めら

れればその後の朝鮮人の苦悩を多少はへらすことが出来たはずだが、それも問題にならなかった。
1949年の少数民族自決権について第二野戦軍に送った指示はこの問題でよく知られた文献だ。
「今日に至っては各少数民族に関する「自決権」問題を再び強調するようなことがあってはいけない。過去の内戦期では、わが党は少数民族を取込むために、国民党の反動統

治に反対し、この自治権容認というスローガンを強調したことがあった。当時としては完全に正しい政策であった。しかし現在では情況が根本的に変化した」
こういう態度もひとつの現実だった。しかし当の周恩来が同じ時期、苦悩に満ちた談話をだしている。
「わが国の歴史では,各民族の矛盾はとても大きかった。漢族は少数民族との関係において、少数民族にすまないことをしてきた。今後はわが漢族同志はそれを代わって受け

止め、彼らに謝罪しなければならない。今日の中国は、過去の中国は、過去の中国とは違って、二度と少数民族を圧迫することはないと説明しなければならない。一度ではすま

ず、何度も説明しなければならない。ひとびとは最後にはあなたの話が本物であるということを理解してくれるだろう」
周恩来は本気でそう思っていたに違いない。だが、チベット、ウイグル、モンゴル、などの無惨な弾圧は続いた。

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2017年07月十項目でわかる気功の6千年の歴史(7)

2017年7月24日 19:55



薬学者李時珍が体験に

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07 薬学者李時珍が体験に基づいて奇経八脈理論を提出した。  明清
1 明清の医師たちの気功発展への貢献
(1)気功理論の方面では
 明清の時期、気功理論は従来の基礎の上に新しい発展をとげた。
 明代の傑出した医学者に李時珍がいた。彼は自分の鍛錬の体験をもとに積極的に気功鍛錬を提唱した。彼は特に気功と経絡の関係の問題に多くの貴重な見解をもたらした。そ
の内容は『奇経八脈考』に集中的に反映されているが、『本草綱目』のあちこちにも見られる。李時珍は奇経八脈の人体における重要性を非常に重視した。かれは「内景隧道、
惟返観者能察之」(体内の気の動く道はただ深く瞑想して自分の中に入った人だけが見ることが出来る)という名言を残したが、それは実際に体験した人にしか言えないことば
である。
明代の著名な鍼灸家楊継洲は『鍼灸大成』を著して、それまでの鍼灸学説の全面的な総括と、自己の鍼灸実践を結びつけた。とくに任脈督脈からしていく大切さを説き「久し
く之を行なうとツボは自ら開き、経絡は疎通し、どんな病気も起らない」と言った。この時代、とくに命門学説に発展が見られた。

(2)気功養生学の発展
16世紀の龔廷賢は養生の道を重視し、その代表作である『寿世保元』の中で「内を養う者は、臓腑を滞り無くし、血脈を順調にし、全身の気の流れを調和させることが出来
、病気になることがない」と書いている。万全は『養生四要』で静坐を詳しく論じ、胎息、静功について詳しく述べている。
明代の医師たちは唾液を飲む気功の重要性について繰り返し書いている。李時珍は唾液を飲むことで「臓腑を灌漑し、肢体を潤沢にする」といい、張景岳は「久しく之を行な
うと下丹田が討ち固められる」といい、程国彭は咽津法は「陰虚を治す無上の妙法」と言っている。

(3)気功治療学の発展
導引によって病気を治すことが重視され、『普済方』では数百の導引処方がされている。用いている功法は『諸病源候論』が主だが、『備急千金要方』『聖済総録』なども使
っている。16紀中葉の徐春莆は『古今医統大全』100巻の中で中風、風痺、咳、消渇などについての静功と動功を提案している。李梃の『医学入門』は気功功法を動功、静功
のふたつに分けて,必ず動静結合でないといけないと書いている。

沈金鱉(1717-1776)は『雑病源流犀燭』で知られている。とほうもない博識で著作も多く、古代の気功もよく研究している。雑病は外患内傷いつさいのことで、それを
六部門に分けて詳述し、薬と導引・運動による治療法をつけている。

(4)練功の副作用と偏差についての研究
明清の時期には、気功は遣り過ぎたり間違ったやり方をすると偏差が生ずることが研究され始めた。李梃は「丹田に運気が過ぎると尿に血が出る。肝臓に気を集めていると腹
脹となる。六字訣は中虚者、有汗者にはよくない。八段錦は気血をよく運動させるが、中虚有火の者は向かない」などと論じている。

2 内丹術の発展
伝統内丹術は明代に成熟して、功法も次第に決まったパターンが出来て来た。その代表的な人物と著作は張三丰の『玄機直講』『道言浅近』『玄要篇』『注百字碑』、尹真人
『性命佳旨』、陸西星の『玄肤論』、『金丹就正篇』などである。

3 功理功法面の学術的達成
明清の時期、少なくない功法を主要内容とする著作が出てきた。明初の冷謙の『修齢要旨』には六字訣、長生一十六訣、十六段錦、八段錦、導引袪病歌訣などの功法が集録さ
れている。1506年に本になった『保生心鑑』の中には二十四節気に合わせた功法が収められている。周履靖の『赤風髄』には華山睡功十二図、古仙人導引図などがイラストと
ともに紹介されている。徐文弼の『寿世伝真』には数多くの功法が紹介されている。明代に作られた功法で最も有名なのは易筋経である。

4 武術気功の発展
武術の中でもとくに内家拳は気功と切り離して考えられない。站椿、導引、行気などは常に武術の基礎功夫とされてきた。易筋経も八段錦ももとは武術の鍛錬過程で作られた
ものである。太極拳の創始者である陳王廷が『黄庭経』をずっと枕から離さなかったのは有名な話だ。刑意拳の十二形拳は古代の五禽戯を全面的に継承したものである。

5 その他の達成
明代の有名な僧の一人である憨山は禅宗と華厳宗の融合と、仏教道教儒教の一致を説いた。禅家の悟りと気功の静、定を結びつけてとても分かりやすく説明した。
明代には『道藏』が編集出版されたが、これによって古代の気功を研究するための大量の文献が提供された。これを本当に全巻読破して整理し、「仙学」を作ったのは陳攖寧
になってからである。

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2017年07月古代の漢字を解読して!

2017年7月25日 11:07



中国で賞金150万円の

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古代の漢字を解読して! 中国で賞金150万円のチャレンジ発表
社会
2017年07月25日 09:11
中国河南省安陽市にある中国文字博物馆は全世界にいる有志の古文書学者、研究者、漢字愛好家に、3000年以上前の占いに用いられた甲骨文字の解読を呼びかけた。中国国営

テレビ「中国中央電視台」が23日に報じたところ、1文字解読につき賞金10万元(約164万円)が約束されている。
解読結果の認定作業には、古代文字の専門委員会が携わる。
甲骨文字は、紀元前16世紀から11世紀、殷代後期に使われた亀の甲羅や動物の骨に刻まれた文字で、主に占いに用いられた。研究者は、甲骨文字は現在確認できる最古の漢字

で、漢字の字形解釈の典拠にされている。専門家によると、甲骨文字は古代の神託や預言、当時の政治的情勢の記録に用いられていた。
研究者は、甲骨文字で現在発見されたのはおよそ4500文字だという見解で一致。現時点までに2800字以上が解読されている

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2017年07月自転車がパンクをした

2017年7月25日 22:34



鈴木診療所に一週間ぶりに行って

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自転車がパンクをした。
鈴木医院に一週間ぶりに行って、左足の傷口が、浅いけれど大幅に広がっていると言われた。
帰り道、豪雨にたたられた。
今日の三つの不幸なできごとだ。
暑いのであまり自転車には乗っていない。体力が落ちている。賀茂川の浅い坂道が一気に上がれない。その時に自転車の前車輪がぺちゃんこになっているのに気づいた。時間が

ないので、そのまま乗って行く。タイヤが左右に寄って危ない。強引に鈴木診療所に着いた。
診てもらうと、右足は小さくなっているが左足はふくらはぎのほうまで傷口がひろがって、少し出血している。ソフラチュールという網の目の薬を、右足は一枚、左足は三枚半

使っている。先生は右足一枚、左足一枚の計算で一週間分だしてくれている。こっそり溜めた分があるので、四枚半使ったが、先生はしらっとして、左足には六枚使った。オリ

ーブを塗ったガーゼは九枚使った。奥さん先生を呼んで、ゲンダシンなどのいろいろな薬が新しい葛口に有効かどうかをOリングで調べてくれたが、結局オリーブが一番いい。

週末東京に行くと言ったら、その前に木曜に来なさいと言われた。
自転車屋さんてありませんかと医院の受付できいた。看護婦さんの一人が、下鴨本通を少し上がった所にある自転車の場所を聞いた(ふたりとも下鴨本通と言わないで河原町と

言っていたのが面白かった)。
行ってみると意外に近かった。だがこれ以上乗らないほうがいいので、歩いて押してである。これはピンを換えればいけるね。タイヤも相当古いから近く換えたほうがいいと

118円をとって空気を入れてくれた。
そのまま下鴨本通と北野通りの交叉点にあるスーパー・ナカムラに行って、牛乳とかパンとか買った。肉魚はなぜか食欲をそそらない。外に出たら、また前輪タイヤがぺちゃん

こになっていた。これは困った。行きつけの自転車店は北大路駅を過ぎて少し行った所にあるから、歩くと相当の距離がある。仕方なくびっこをひきながら歩き始めると、雨が

降ってきた。傘など持ち歩く習慣はないから、すぐに濡れ鼠である。昔島根の山を豪雨の中で二時間歩いたのを思い出した。この時はビニールにきっちり着替えを持っていた。

今日は豪雨に身をゆだねながら、痛む足をひきずりながら、30分程歩いた。行きつけの自転車に見てみらう。タイヤを換えて、ついでにサドルも換えてもらった。ピカピカと

はいかないが、前輪とサドルが新しくなって楽々になった。もうどこへもよれない程びしょびしょなので、まっすぐ帰った。
家に入ったころ小雨になった。
帰ってすぐに、びしょぬれの包帯を換えた。

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2017年07月金曜の朝新幹線に乗った

2017年7月31日 3:37



東京駅で親子丼を食べて

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金曜の朝新幹線に乗った。東京駅で親子丼を食べてとかいろいろ計画していたが、意外に時間がつまっているので、西荻までいって食べることにした。まあ普通のそば屋。今日

は大阪からの寺岡さんと一緒だ。彼女は私の料理を手伝い慣れているし、勝手の分かった人がそばにいてくれるとありがたい。スーツケース三つ分の運んで来た荷物をキコリに

頼んで、タクシーで善福寺のゆりこさんのところに運んでもらう。わたしはゆりこさんと寺岡さんに手伝ってもらって残りの買物。野菜あれこれと豆腐、挽肉、たらこなど。バ

スでゆりこさんのうちへ。
三時から料理開始。もっと簡単にできそうにおもっていたが、なかなか細かいことが大変に手間のかかる作業だとわかってきた。寺岡さんは弁当箱をパラフィン紙で15に区切

ってくれた。こう言う細かい仕事は自分でしろといわれてもできない。この15種の料理を先ず作って行く。後はもう一つの小さめの弁当箱におむすびを二つと高菜チャーハン

を半分に詰め、「15通り」には入らなかった「人参のナムル」「小松菜のナムル」「キドニー・ビーンズ」「胡瓜のピクルス」とフィンランドのゼリー菓子とチョコレートひ

とかけを入れる。これは既成のおかずカップを使う。出来た料理から見本を小皿小鉢に入れていって、キコリと佐藤さんが写真をとってくれる。
それまでにできた見本の小鉢小皿を十数種机に並べる。ゆりこさんの家にあった揖保の糸を「大草原の冷麺」風に仕立てる。平常冷麺が手に入らなかったので代用品であるが、

十分おいしい。小松菜の大草原である。真っ赤な唐辛子で染めるが、実は見かけ程辛くはない。きこりがビールを差し入れてくれる。エビスがおいしい。
午前零時までに大きいほうの弁当箱の中身はほぼ作り終わった。もう寝たほうがいいとみんなに言われて、一日目は打ち切った。でき上がった料理は厳重にチャックできる容器

に入れて冷蔵庫に詰めてある。

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2017年07月土曜日。朝五時過ぎに

2017年7月31日 10:52



目がさめてしまった

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土曜日。朝五時過ぎに目がさめてしまったが、流しの近くでキコリが寝ていたから、少し時間をつぶしいからと思い、持って来ていた済南料理の資料など読んで七時まで時間を

つぶした。できた料理を弁当箱につめていく作業と、ご飯を炊いて梅おかかおにぎりにしていくのと、並行して行く。
十五の桝がある。これを左上から右に「切り干し大根」「さば梅」「辣白菜」と並べる。
第二列は、「韓国風のトマトサラダ」「タラモサラダ」「豆腐ハンバーグ」を並べる。豆腐ハンバーグは少し数が足りなくて、切り落としを寄せ集めたり大きめのを半分にした

りして、ちょっとみっともなかった。自分の弁当を見ている人は他人のを覗き込まないのが救いである。豆腐ハンバーグは醤油出しの片栗粉を引いたものを少しかける。
第三列は「高野豆腐のおらんだ煮に椎茸添え」「棒棒鶏」「麻婆豆腐」が入っている。おらんだ煮は『暮しの手帖料理の本』という30年くらい前の本に載っていた。もどして

揚げ、煮込むその揚げるのを「オランダ渡来」と名づけたのだろう。棒棒鶏はゴマだれが活躍、副菜がないのでねぎきゅうりなどいろいろ垂れに入れる。皿で出す料理だとソー

スが余ってもいいが、弁当だとソースがよその料理に回ってはだいなしになる。麻婆豆腐も同様で、四川風は唐辛子と山椒の辛い真っ赤なタレに豆腐が埋もれている感じだが、

弁当ではそれはできない。これもちょっと目分量が足りなくて豆腐がほとんどなくて挽肉だけとか少しいんちきができた。
第四列が「イワシフライ・バスク風」「ケバブ・トルコ風」「雑砕」。イワシフライは京都で揚げて持って来た。ビメントの焼いたのを三角に切って載せる。しかしそのままで

は升目に入らないことが分かったので、佐藤さんが小さく切ってくれた。ケバブも桝をはみ出してしまうので半分に切ってもらった。雑砕は主原料は春雨。余り野菜をいろいろ

入れている。
一番下の五列目。「きのこのディップ」「胡瓜とディルのヨーグルトサラダ」「もやしナムル」。しめじとえりんぎをバタ炒めして本当はもう少し生クリームを利かせるのだが

、ちょっと普通の味付けになってしまった。ディルは新鮮なハーブだが京都ではなかなか手に入らない。西荻の駅の紀伊国屋で売っていてありがたかった。ヨーグルトは昨夜か

ら水切りしてある。スタードを利かせて。もやしのナムルはいろいろなナムルと並べるつもりだったがほかのものはごはんの弁当に移すことにしたので、ここでは単品に。
申込が最初10人とかだったので、スタッフを入れて15人、18人前くらい作っておけば十分かと材料を用意したので、もっと数が必要だとなったときに、ケバブとか麻婆豆腐

とかあまり内容のないものが出てしまった。一回きりの企画では多めに作らないといけないと教訓。25人分を作り、スタッフ用という中身の欠けたのを四つ(ほかのものを多

くしている)、魚や肉が入らないベジタリアン用も二つ作った。

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2017年07月土曜日の続き

2017年7月31日 11:29



朝ご飯はゆりこさんが

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土曜日の続き。朝ご飯はゆりこさんが買っておいてくれたパンですませた。西荻界隈では一番と評判のパンやさん。あんぱんとかもあって、四つに切って分ける。お昼は写真用

見本を並べて豪華絢爛の試食。弁当に詰め込むよりお皿で食べたほうがハッピーなので、スタッフのほうが絶対うまいものを食べている。このときいたのはキコリ、佐藤さん、

寺岡さんと私。ゆりこさんは一足先に店に行っている。ごはんは三回の炊飯で出たおこげがちょうどいい量になった。
寺岡さんはおむすび作りに大活躍。天河合宿の時にも作った「梅おかか」のおむすびである。私のお袋の味で、遠足などでいつも作っていた。梅干しをこんなにというくらい入

れて、カツオ節と醤油で和えてそこにごはんを入れ、むすぶ。それを一人二個。一日おいても腐らない知恵もある。高菜チャーハンは量が少なくなった(おにぎりの足りない分

に転用した)のでおかず入れひとつにつめる。この小さめの弁当箱、といっても左右一センチくらいずつしか小さくないのだが、これにはおむすびが二つ、高菜チャーハン、に

んじんのナムル、小松菜のナムル、豆のサラダ、ピクルス、デザートが入る。デザートはこちらに来て買えばいいやと思っていたので念のためフィンランドの大きなチョコレー

トとゼリー菓子を持って来ていたが、結局買うよゆうがなく、これですますことにした。チョコレートひとかけと、球体のゼリーが12個入っていたので半分にして24。
これで全部入ったかな。もっと簡単にできるつもりが、三時までかかってしまった。蓋をして、輪ゴムをかけ、トロ箱に入れ、タクシーを呼んで、ほびっとまで運んだ。
準備の過程が楽しかったな、と思う。一人しか立てない狭い台所だが、ちょっとした隙に洗い物をしてくれたり、スプーンはどこに入ってるんだ、見本用の小皿はといつも忙し

い。本当なら五六人調理人を並べて大きな台所でやるような料理なのだが、21種類一人で回りに手伝ってもらいながらやるというスタイルを選んだのでしかたがない。昔から

そうだった。岡島道場の伝説的なパーティも沖縄からモロッコまでのあじあ半月弧料理二十五種百人前を何人かの手伝いが時々入っただけで一人で二晩かけてやった。
まだ講座が始まっていない。12時間講座というのも初めてである。

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2017年07月土曜日の続きの続き

2017年7月31日 22:35



肝腎の話

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土曜日のつづきのつづき。肝腎の話である。
前回は奔放にしゃべって、大部分猪俣と両親の話になってしまったが、内容をこうして細かく決めるよりも八方破れの前回の話し方のほうが本人には面白かった。12時間、実

質的に食事休みその他を除いて10時間ということで、レジュメを作ってその通りにしゃべろうという態度が出てきたのだが、それでも気功開始までは踏み込めなかった。ここ

までで前半生である。
途中で法輪功の話題が出て、多くの人が興味を持っているようだったので、英国の諜報部とCIAが李洪志をたらしこんで騒ぎを起こした仕組みを簡単に伝えた。日本ではチベッ

トのことも含めてマイナスに歪んでいろいろなことが流布されているから、法輪功の場合そうではないということをきっちり伝えたかった。
津村喬=高野威
第二回
01  父と母の死
病院で死んだ父
帰ったら玄関で死んでいた母
二人の葬儀
02  大船の家
公安
岡島、江口たち
置いて来た膨大な資料
03  全共闘の話
早稲田一文の環境の中で
『われらの内なる差別』の神話
全国全共闘と「われわれ」の対決
入管闘争
04  私の初期の著作
魂にふれる革命
ゴダールとブレヒト
革命への権利
歴史の奪還
戦略とスタイル
05  ロッキード時代
武藤、吉川の口説き
週刊ピーナツ→見本・週刊ピーナツ
山川暁夫の圧倒的な影響
06  結婚前後
ここは前妻からの抗議で「伏せ字」になったが、
私にとって大きな意味のある南島体験と西郷体験は
きっちり伝えた。
07  月刊焼酎通信のころ
海風社
水連洞
穂積忠彦さん 
08  岡島自然健康道場
母親の整体道場通い
野口の影響
岡島の神田道場
気功教育の確立
岡島との一時決別
ここでご飯休み。
09  700人を連れて中国へ
総評中国の船
太極拳の指導
キャビア三昧
その後二回のピースボート
10  10年後
黄議横行論→横議横行論
群衆は増殖する
レーニンと組織戦略
ゲッベルとの大衆操作
仮面と変身
異化する身体の経験
全共闘・持続と転形
11  月刊80年代
雑誌を作ろう
多彩な編集委員
全共闘の「継承者」を作る
全地球カタログとの格闘
12  フェリシモと見た夢
アメリカの先住民文化
フィンランドのクリスマス
ひすいの水
13  食の本を初めて書く
ひとり暮らし・料理の技術
今日も一日おいしかった
その他の食の本あれこれ
午前三時頃。
14  私の住まい遍歴
下北沢
大船
早稲田一丁目
烏山
葛西
岩槻
所沢
神戸市兵庫区湊山町
神戸市兵庫区下祇園町
神戸市中央区再筋町
神戸市中央区港島中町
大津市比叡辻
草津市野村
京都市左京区山端大塚町
京都市北区紫野宮西町
15  兵庫区住まいと六甲通い
うちの三階
再度山
保久良山と金鳥山
100日六甲
日曜日午前五時十五分に終了した。

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