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2017年8月








2017年08月日曜日は王子で講習

2017年8月1日 0:18



寺岡さんが

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日曜日は王子で講習。
寺岡さんが包帯を付け替えてくれた。自分でやるよりは大分いい。ソフラチュールを貼っている所が増えていて、カットしたものも含めて九枚になっている。当然薬をぬったガーゼも九カ所になる。クッションにしているだけのガーゼもそのくらい使っているから、十枚入りのを二袋使ってしまう。左の足の裏側とか、右のくるぶしあたりとか、自分では見えないので、当てずっぽうに貼っている。人がやってくれると傷口を見ながらなので、ちゃんと当たる。

傷口を換えた後は痛くて、機嫌が悪い。二時間くらい眠ったら楽だがなかなか眠れない。キコリはすぐに熟睡した。寺岡さんがサンドイッチと冷たいスープを買って来てくれて、朝食にした。いつも書いているが、朝食をとらないと食後の薬が飲めないのが面倒だ。胃をやられてしまうのである。少しごろごろして、九時に出かけた。キコリは眠っているので起こさない。

秋葉原で寺岡さんと別れる。互いの用事をして、また帰りにあって一緒に帰ることにしている。11時ぴったりに王子の教室に着いた。昨夜来ていて12時で帰った西尾さんが先に来ていたので、津村はきっと時間通りに来ないに違いないという世論?が形成されていたが、予想は裏切られた。娘の結婚式があったり、通っている鍼灸学校の行事があったり、西東京の集中豪雨で自転車に乗れなかったりで、来られない人が何人もいる。

四人に私、で始めた。こちらも動きたいので、はじめから背骨ゆらしをする。フィンランドでの背骨ゆらしを通じての腰痛治しの体験を話し、実犀にやってみる。そのあと、諸病源候論の導引をランダムにあれこれやる。

一時から二時の昼休みは会計士の池島さんと打ち合わせ。
二時からは一人増えて、五人になる。
易筋経の系列からの私の編集した坐式易筋経第一を伝える。
それから易筋外経の第二套を伝える。フィンランド、エストニアと関西では何度もやっているが東京では初公開。
午後は無駄話なしにきちんとやる。
今日は露伴を読む会は中止にする。どうも人も集まらないし、やり方を考えなくては。ちょっとお茶につきあって、王子駅に行ったら寺岡さんが迎えに来ていてびっくりした。

いままであっていた仕事仲間が具合が悪そうだという。ちょっと手当てしてあげてと自分からは言えないのだが、「いいよ。目黒まで出てきてもらえるなら、どこか場所を探そう」と言った。電話して聞いてみると「やってもらいたい」というので会うことにした。左肩、腕がひどい状態になっていて、動きが取れないのだという。左手を中心に指、手首、肘、肩周辺の筋肉を調整して行く。

左側全体が壊れている理由があるはずだ。こりと痛みの大部分が解決した時に、いつも左手一本で孫を抱いているんです、と思い出した。それは彼女に取ってよいこと、気持ちのいいこと、しなければならないことだったので、それでどれほど深く自分が傷ついているかに気がつかなかったのだ。それを思い出しただけで,大部分の筋肉はほぐれた。あとは左手だけで持たないで、交互に持つとか工夫すればよい。整形とかに行っているなら、そのポイントを発見することが医師の勤めではないか。

一時間の治療で5000円いただく。値段表にはこの倍くらいになっているはずだが、つい少なめにいってしまう。あった時と別れる時ではまったく笑顔が違う。よかったよかったと別れて、品川から新幹線に乗る。寺岡さんが今半のすきやき弁当を買って来てくれた。
朝はパンだし、昼は妖し気な喫茶店のカツカレーだったので、はじめてうまいものにありついた。シャンパンと赤ワインで乾杯した。京都で別れて、タクシーで帰った。

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2017年08月風土食の発見・生活料理の深層

2017年8月2日 6:45



1983年に出た本がある

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『風土食の発見・生活料理の深層』という1983年に出た本がある。北斗出版で出たものだが,もう会社をつぶしますという連絡があって、10冊送って来たが、あと残っていたのは断裁したらしい。残部買い取りますというように言いたい気持ちもあったが、そのままにしてしまった。鹿児島の食文化分析や、鹿児島で作ったおせちや、鹿児島も含めた焼酎文化が語られているから、今更、という気持ちになったのかもしれない。だが今度ぱらぱらと読み返してみると、意外に面白い。これからも料理本を書く意思はあるけれども、いちおうこれまでのをまとめてみると、

第一巻 一人暮らし料理の技術
第二巻 今日も一日おいしかった
第三巻 食と文化の革命
第四巻 危険な食品から家族を守る本...

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2017年08月やっぱり写真があると

2017年8月2日 8:45



いいですねえ

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やっぱり写真があるといいですねえ。皆さんにも説得的に伝わるし。自分でもカメラはあるのですが、使う習慣になってもいないし、カメラとコンピュータをつなぐのが何か億劫で。

あ、ぼくは携帯は使っていません。東京のは長田さんやみんなのカメラに頼っていたり、キコリや佐藤さんがいれば一部始終を取ってくれるのですが、だんだん自分でも出来るようにしましょう。

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2017年08月再録である

2017年8月2日 7:45



といっても以前にいつ

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再録である。といっても以前にいつ載せたか記憶にない。私の怪しい料理遍歴の最初の部分である。そのメニューが出てきたのでそれを復元して、岡島追悼の文章をつけ加えた 。
夫が70年代の末に神田に道場を開いたお祝いに作った宴会料理のメニューが出てきた。メニューというより作成過程のメモである。ああこんなことをしていたんだなとなつかしく思い出した。客は7,80人ではきかなかったと思う。料理は32種類であるが、それぞれ30人前から40人前用意した。沖縄料理から始まって韓国料理、中国の各地方の料理
、ベトナム料理、タイ料理、インドネシア料理、北インド料理、南インド料理、スリランカ料理、イラン料理、アラビア料理まで10月3日の作業、10月4日朝の作業、直前チェックとあるから前の日から作って翌日に間に合わせたらしい。途中で坂井くんが手伝いにきてくれたが、あとは私ひとり、完全徹夜でやった。こういう時に自分の寝る時間を
計算に入れないのが長年続く私の欠点である。私が気功をすれば眠らなくて大丈夫になるのはもうすこしあとだと思うが、このころから完全徹夜には慣れていたと見える。
冷盆 スクドウフ 沖縄のスクガラスを並べた冷や奴
ムッ ドングリの餅にキムチをかけたもの
腸詰め 広東風の腸詰め
タン蒸し煮 牛タンの蒸し煮
サラダ 冷絆三糸 中華前菜
チャージョー ビーフンと春雨を使ったサラダ。おおばこ、コリアンダー。
ガドガド えびせん、ピーナツソースのインドネシア風サラダ
ライタ きゅうり、トマト、レタスのヨーグルトサラダ。
鶏皮ときゅうりのわさびソース
廈門猪肉糸 アモイ風の細切り豚肉のサラダ。
焼き物 サテ・アヤム インドネシア風串焼き。ピーナツソース。
シシカバブ マトンと玉葱の金串焼き。
ゴーヤチャンプルー 沖縄料理定番。
揚げ物 ピサンゴレン バナナのてんぷら。
カヤンディ・ナツ 茄子のえびペースト揚げ。
サモサ マトンカレー風味のじゃがいもの包み揚げ。
チリ・パコラ ピーマンとししとうの天ぷら。
スープ トウモロコシのスープ    ちゃんとスープストックから作った。
唐辛子とニンニクのスープ  こちらはインカ風のスープ。
つまみ イカテリアコリン 小魚の唐辛子和え。
バン・フォン・トム えびせんべい。
腐乳 豆腐の塩から。四川のものを。
炒め物 豚と搾菜 これも四川料理。
チャプチェ 韓国の炒め料理。
ビーフン これはベトナム風に。
煮物 アドボ 鳥と豚を揚げてからニンニク風味で煮込む。
プリウ・ワーン えびとトマトなど野菜の唐辛子と糖蜜を入れた煮込み。
ラドシュ 骨付き鶏のカレー。
マトン・カリ 北インドのマトン・カリ。
プロフ ピラフ。メニューにはないが勢で三種類作った。アゼルバイ
ジャン風、モロッコ風、トルコ風だ。
デザート 蓮の実シロップ煮  上海風。
山査子のゼリー 北京っ子お気に入り。
沖縄からアラビア半島まで、切れ目なくつなげることに関心があった。
本当ならアラビアで発生した焼酎が東に伝わって泡盛になり、日本の焼酎文化に花開いてくる酒と一緒に出したかったが、当時はまだそこまでの知識はなかった。
無意識に岡島治夫のことを思い返して、追悼しているのかも知れない。
若い頃の彼が語りかけてくるような気がしている。
ビデオ屋でふだん行かないCDの棚で高橋真梨子を借りることにしたのも、この無意識のなせる技かも知れない。当時沖ヨガをしていて小劇場のようなこともしていたころの岡島である。演出家をしていた江口といつも一緒だった。私の『われらの内なる差別』を見て電話をしてきたのだ。売り出しかけの頃だったから、声がかかれば誰とでも会った。

演劇について早稲田小劇場とかテントとかのころだから、切れば血の出る関心があった。私自身『ライヒの生涯』を舞台に上げたら面白いのではという模索をしていた。岡島、江口とはどこで会ったのだったか。早稲田の近くの喫茶店だったかも知れない。文学部と法学部の間に当時オリエントという喫茶店があって、そこを学生時代からよく使っていた。
学生時代と言っても中退前からと言った方がいいかも知れない。そこで鉄板でガリを切っていても文句を言われない喫茶店だったから、愛用していて、ここで数々のチラシやパンフレットを作っていた。
ベトナムの河に思いを寄せた『紅河』もここで原稿もなしに直接ガリ板に切って作った。
とにかく岡島と出会った。最初はなにやらかしこまっていた。彼の方が一つ年上だったが、有名な著者にお目にかかるというふうだったのが、次第に打ち解けてきた。すぐに飲み友だちになり、芝居友だちになり、ビリヤード友だちになり、そして小唄友だちになった。

江口も一緒のことが多かった。
私が飲み屋で二上り新内など歌ったのがきっかけで、岡島と江口は大船のお袋のところに習うことになった。母親は下北沢での大きなお弟子さんの組織を捨てて大船に移り、すぐに何十人かの弟子を組織していた。

下北沢の時と違ってごく気楽にしていた。洋間に突き出す形で八畳の和室があり、そこに和机をおいて三味線を弾いたり写真を整理したり、寝る時はそこに布団を敷いていた。
岡島と江口は
今宵は雨か月さえも かさきて出づるおぼろ夜に
濡るる覚悟の舟の内 粋にもやいし首尾の松(三下り)
とか
きゃらの香りとこの君さまは いく夜とめてもわしゃ泊めあかぬ
寝てもさめても忘られぬ(三下り)
などを最初に教わった。誰でも入門というとこのあたりから入るが、自然描写もあるがいきなり「濡るる」「泊める」と核心にはいっている。彼らだけでなく誰でもこの辺りから習うのだ。私はそばで三味線を弾いたり一緒に歌ったりしている。

その後「梅は咲いたか」や「雪のだるまにたどんの目鼻」「舟にせんどうささやいて」などの名曲を習う。

母は江戸時代からの古典小曲もいいが、最近久保田万太郎の俳句やざれ唄に曲をつけて山田六左エ門が歌っている小品が彼らに似合うと思ったのだろう。それを教えた。そして間もなく亡くなった。はっきりした記憶にないが71年から73年にかけてのことだろう。74年の九月に亡くなっている。

二人とも酒の席で求められると古典よりもこの万太郎の唄をよく唄っていた。
いい顔は 人に迷惑かける顔
いい声は 人に迷惑かける声
いい人は 人に迷惑かける人
さりとてまずけりゃ なお困る
の類いである。私も返す。
湯豆腐や 持薬の酒の 一二杯
寒おすな
短すぎて、三味線がないと格好がつかない。
父と母が同じ月に亡くなり、兄も東京の方に移ってしまって大船には私一人になった。岡島とのぞみさんと江口と三人でよく遊びにきた。この時にずっと聞いていたのが、デビッド・ボウイと高橋真梨子だった。ふたりのLPレコードはまだあるが、ピックアップを直さないと聞けない。「ジョニーへの伝言」「五番街のマリーへ」「別れの朝」などをなつかしく聞いた。

これらを岡島は何度も何度もかけ直し、のぞみさんが「もうちょっと替えようよ」という位だった。
その後江口が脳溢血で動かなくなり、岡島とも別れたり出会い直したり、いろいろいきさつはあったが、一番懐かしいのが一緒に小唄を習ったころである。

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2017年08月腰痛のひどい人がいて

2017年8月2日 7:45



たまたま縁があって

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8月3日 9:34
腰痛のひどい人がいて、たまたま縁があって、枚方まで治療に通っている。東京に行く前に一度して、もどってから一日おきに二時間程している。もう三回。約束はあと二回で、その時点でまた相談する。昨日は頭蓋骨調整をして、気持ちよかったみたい。いままでは全般的な気功のほぐしをしていたが、三回目からは身体均整法を応用した治療にとりかかった。もう79の方なので無理は利かない。一方で気持ちいい体験を少しずつふやしながら、だんだんに信頼していただいて、少しずつ構造転換をして行くしかない。ベッドから起きるのが大変という状態を少しでも変えたい。80を越えたご主人もそばで見ていて、やってほしそうにしている。ご主人も膝が痛くて、何とかしたいが、気功とかマッサージとか言うものは信じていない。医者にいわれて片膝の手術をしたが、もう一方の膝も手術すると言われて迷っている。最初の日には料金外でちょっと膝をいじってあげたら次回には「少しまっすぐになった」と言っておられた。これも脛や腿の筋肉をほぐすだけでずいぶんよくなるはずだ。頭蓋骨調整に興味を持たれたので、少しやってあげる。頭蓋骨調整はすぐ目がよくなったように感ずるのが特徴だ。こちらには一回でぴたっと治してしまう実力はない。何度かして、仲良くなって、少しでも改善したい。

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2017年08月『中国の異民族支配』を読む

2017年8月3日 10:56



最終回

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『中国の異民族支配』を読む・最終回
行き着いたところは
周恩来はチベットを含めた「大家庭」ということを本気で信じていた。だが、実際には、家庭の中は滅茶苦茶だった。各民族には抑圧者と被抑圧者がいる。だが一律に反対はできない。
「もしダライ・ラマが帝国主義と国民党反動派に反対するのであれば、われわれは彼と合作しなければならない。宗教信仰の問題に関していえば、宗教の信仰は自由である。干渉できない。他人の信仰は尊重しなければならない。チベットは政教一致を実行している。われわれはだんだんと政教分離を進めなければならない。工作は、急ぎすぎることは避けなければならない」(1950年4月)
51年にダライ・ラマ政権との17か条の条約を締結した。大家庭を作るのだ。そのためにはチベット地方政府は人民解放軍のチベット進駐に協力する。チベットの自治は保障する。ダライ・ラマの地位については変更しない。これをチベットの平和解放と呼んだ。軍事的に占領するが、主権は侵さないというわけだ。
「祖国に復帰するというのは何と言う恥知らずな作り話だろう。ティベットはかつて一度たりとも中国の一部であったことはない」とダライ・ラマは自伝の中で述べている。「これが最後通牒として渡された。わが代表団は、それに対してどんな変更を加えることも、どんな提案をすることも許されなかった」
毛沢東もこれは理不尽だと当時書いている。
「この協約は無理矢理受諾させられたものと考えており、実施するつもりはないようである。われわれには、いまは協約を全面的に実施する社会的経済的基盤がないばかりか、協約の全面的実施の大衆的基盤もなく、また上層部にたいしても、協約の全面的実施の基盤はない。無理に実施しても害多くして利少なしである」だから時間をかけて反感から歓迎に意識転換して行こうというのだ。この「共産党方針は、まさに帝国主義列強が実施した植民地経営のやり方を真似たもの」と横山氏が言う通りである。
1959年の暴動でダライ・ラマの拉致を心配するチベット人数万がノルブリンカ宮殿にあつまり、漢族追放を叫んで中国軍と衝突した。これ以上チベット人が殺されないように、ダライ・ラマはインドに亡命した。今も続く亡命政府である。
中国は1965年チベットを自治区とした。そしてダライ・ラマらを封建農奴主階級として非難した。中国はチベットは13世紀に元に占領されたから、それ以来中国のものだと主張した。だが、それは夷狄のモンゴルが、チベットも中国も支配したということであって、元に占領されたというならロシアや大部分のヨーロッパも中国だということになってしまう。
チベット全土にあった僧院・尼僧院は1955年から61年の間に大部分が破壊され、6259のうち8つの寺しか残らなかった。
漢族がチベットやウイグル,回、モンゴルに対して取った態度は、「優れた漢民族が劣った少数民族を援助することで、初めて少数民族は幸せを確保できるという「救済」の論理である。かつて「アジアの解放」を謳ってアジア各国を侵略した大日本帝国の破綻した論理と似通っている」と著者はまとめている。
中国の国家の論理がそこに行き着いてしまうのだから、私としては夢を語るしかない。チベット、東トルキスタン、回族、モンゴルや朝鮮族が次々に独立して行く夢、もっといえば広東、福建、台湾と華僑がひとつの国を作り、四川と雲南とタイが別の国になり、東北三省が満州民族のもとに返されて行く夢。そんなことを書いて中国に入れなくなりませんか、と心配してくれる人がいるが、それで入れなくなっても別にかまわない。それは中国革命の「本流」、章炳麟や若き毛沢東の夢なのだから。

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2017年08月『激辛本』というムック

2017年 8月3日 22:27



四川料理、東南アジア料理

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『激辛本』というムックを買った。四川料理、東南アジア料理、インド料理が出ているが、四川料理が半分を占めている。四川料理の資料は何かと持っているが、最新動向はつかんでいない。巻頭の「老四川飄香」のシェフとウェブサイト「おいしい四川」を運営する人との対談によれば「人気の干鍋(ガングオ)だってもともと四川料理ではないですしね」「日本で人気の"よだれ鶏"だって樂山の料理ですね」「樂山は注目のグルメタウンですよね」「(その樂山の料理も)日本にはまだ入って来ていないけど。現地ではトレンドは終わってますからね」「次にくるのは"宜賓燃面"あたりかな」という具合で、私などすっかり流行遅れであるのらしい。
日本の家庭料理で作る四川料理とどこが違うかというと、いろいろ違いはあるけれども、豆板醤が普通に売っているものとまったく違う。四川のぴー県(卑にこざと偏)という土地で作っている豆板醤を使わないと四川料理とはいえない。黒いそら豆がごろごろ入っている豆板醤である。それと山椒が非常に重要な位置を占める。普通使うのが「干花椒」「青花椒」「花椒面」の三種類である。
材料がそろっていないので、そろそろ神戸に買いに行かなければならないが、あるもので作ってみることにした。口水鶏と坦々冷麺の二種類である。挽肉と餃子の皮はあるので、炒手という四川風のスープ餃子はできなくはないが、エビがないので明日にする。
中華麺が一つ残っていたので、ゆでる。
挽肉に油をしき、花椒を炒めて油に味をつけて取り出す。ネギ、生姜、ニンニクを加えて炒め、肉と豆板醤を加えて炒める。醤油、酒、砂糖、鶏ガラスープ、水50ccを炒める。胡麻、芝麻醤、黒酢、水を炒める。面をゆでて洗い、ソースをかける。揚げピーナツをかけるのは省略。香菜も庭に行けば生えているのだが省略。
ピー県の豆板醤がないので、普通の豆板醤に韓国の唐辛子を加える。早く買って来なければ。
口水鶏よだれ鶏である。鶏もも肉をゆで、それをもう一度生姜とネギの青い所と紹興酒を入れた湯で煮る。適当にきざんでソースをかけるだけ。
簡単そうだがソースが半端でない。材料は二人分。麻辣油大さじ4、砂糖小さじ2、ネギみじん10g、白ごま小さじ2 、醤油大さじ2、酢大さじ2、豆板醤小さじ1、中華だし小さじ1/2、みじん切りピーナツ20g、生姜、にんにくすりおろし各小さじ1、胡麻ペースト大さじ1、鶏ガラスープ50cc。
どちらの料理も、辛い唐辛子スープに浮いているという感じで出される。鶏には胡瓜を刻んで添えたが、あとは面倒なので野菜を使わなかった。明日は餃子をためしてみようか。

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2017年08月古い本をあれこれ見ていると

2017年8月4日 7:05



みんなに読んで欲しいな

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自分の古い本をあれこれ見ていると、ああ、いまみんなに読んで欲しいなと思うものがいろいろ出てくる。短い文章であれば、もう一度打ち込んで紹介したい。スキャンする手はあるのだろうが、自分で読みながら打ち込む方が好きだ。何度か取り上げたことがあるが,孔玉振(こんおくちん)のことはぜひ知って欲しい。日本のサイトには差別だ、狂気だと言うへんな思い込みの非難する紹介(見たともないのに伝聞で)があって流通しているが、むろんそんなものではない。原典は『気功=癒しの人間学』1990年新泉社である。四半世紀前のことで孔さんはもう亡くなっている。

孔玉振の病身舞劇

もう十数年前になるか、私の友人が現代舞踊をしていて、その師筋にあたる舞踊家の公演の切符を売りつけられてでかけていったことがあった。ほかにもいろいろな表現があったに違いないのだが、私はひとつの「踊り」だけを、あまりにも鮮やかに記憶している。上半身裸の彼は四方に観客を入れた小振りの体育館のような空間のはじからはじまで、重い小児まひ患者を連想させる、ひょこっ、ひょこっ、という歩き方で歩き始めた。何度か往復すると形を変えてまた歩き、それはまったき沈黙の中で数十分続いた。えーっ、とまず重い、それから思わず目をそむけて、目をそむけている自分にまたびっくりした。自分の中の見たくない部分がそこを歩いているようだった。そのことが自覚されてからは、彼のその一軒奇妙な歩行の中に、自分がいつも美しい歩行と思っているのとは異質な美しさがあり、力強さがあることがわかってきた。実はこの踊り手の名前さえ覚えていないが、ボリショイバレエも井上八千代も、この数十分に学んだよりも多くを私のからだについて教えてくれたことはないのである。
たまたま東京で半日空いて、砂防会館孔玉振(こんおくちん)の舞踊を見た時に、このことをありありと思い出した。ご存知だとは思うが、孔さんは韓国の伝統的な「一人唱舞劇」のすぐれた芸人である。四人の伝統楽器の伴奏に乗せて、語り、歌い、舞い、ひとり芝居をする。孔さんがとくに第一人者として高く評価されているのは、「ピョンシンチム」つまり目が見えなかったり、びっこだったりする身体障害者のさまを表現する踊りである。通常の身振り秩序をはずれた身振りというのは、わかっていてもやはりハッとして自分を試されているようなきもちになるところがある。
しかし孔さんの踊りは、ピョンシン(病身)を演じていても底抜けに明るく、滑稽で、つりこまれて笑ってしまう。笑いながら、不自由な人が必死で動いている、笑われることに耐えながら自分だけの自由を広げて行こうとしている気機が伝わって来て、からだが震えてくる。しかもそれは同情といったものを拒むきびしいものだ。それによって自分の中の「病身」が見えてくる。
生半可なものではない。孔さんは七歳のときに売られて日本に来、日本の敗戦とともに父を捜して広州に帰るが、会えずに橋のしたで乞食の集団に加わり、そこでピョンシンチムを習うのである。
ピューマや猿を演ずる孔さんもすばらしかった。動物園などで動物の声をえんえんと待って録音し、それを持って山中に入り、立った一人で風の神や土地の神と対話しつつ動物を演ずるのだという。動物を演ずるという反進化のパフォーマンスは中国の「五禽戯」などと通ずるものだが、「五禽戯」の虎が堂々と勇猛なままなのに、孔さんのピューマが、年取って獲物も捕まえられず、水もなくて疲労しきっているさまを演ずるのが印象的だった。
森繁哉が『踊る日記ー"犬組"道路劇場の記録』という本を出した。森は山形のある村役場に勤めているが[現在は東北芸術大学教授のはずだ]しばしば何日もかけて村から村を出会う人の前で拍子木をたたいて踊り、雪深い正月には萬歳をし、春には田植え踊りをし、秋には稲刈り踊りをして、村人にびっくりさせ、「乞食(ほいど)か」といわれ、歓迎もされて、それを道路劇場としてやり続けて来た人である。彼は羽黒山伏の家系でその資格継承者だ。道で踊る時は特別の格好をするわけではないが、放浪する山伏の心をそこに伝えているのだろう。この『踊る日記』もすさまじい本である。ごく平凡な当たり前の日本語であるのに、呪文のように気がかりに心に入ってくる。歩き、踊りながら、自然に抱かれ,定住者たちとの関係を戯れているさまが,少しも抽象化されずに頭に入ってくる。彼は猿になり乞食にもなるが、ピョンシンを演ずるかどうか知らない。だが、孔さんの舞台を見ながら、この迫力は舞台ではなく、森のように道路で養われたものに違いないと思い、森の舞台を見てもみたいがやはり一緒について歩くしかないのだろうか、と思いもしたのである。

さきに報じたと思うが、私はこの三月、北京のシンポジウムで
「病気の、足の悪い熊」を演じた。五禽戯に孔玉振のテーマを持ち込んだのである。

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2017年08月ずっと頼りにしてきた

2017年8月5日 2:08



小さな気功辞典がある

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私がずっと頼りにしてきた小さな気功辞典がある。もっと大きな辞典はたくさんあるのだが、手元において何千回でも引いて来たというのがこの『気功用語手册』だ。中国語である。1990年3月に出た。中国医薬科技出版社というところで出ている。日本の文庫版より少し小さいが、489ページもある。あいうえお順とか字画順にまったくなっていなくて、一般名詞に始って、練功要点とか呼吸方法とかの11 の部分に別れている。詳しいことはもっと分厚い辞典が四種類あるのだが、とりあえず確かめるというのにこれは手軽で便利なのだ。
一応全体を紹介しよう。
《一般名詞》気功、吐納、内養、無極、小周天、日精月華、坎離、先天気、元神、文火など170語
《経脈と人体部位》手陽明大腸経、奇経八脈、丹田、三関、鼎炉、玄関、祖竅、泥丸、赤龍、海底など104語
《練功要点》内丹三要、内三合、以意引気、意到気到、調身、調心、虚心実腹、性命双修、還精補脳、活子時など67語
《練功の姿勢と動作》架子、亀臥、結跏趺坐、含胸、搭鵲橋、握固、托天、站椿、懐中抱月、収功など87語
《練功の呼吸方法》食気、行気、四息、外呼吸、逆式呼吸、完全呼吸、長出気、数息、潜呼吸、内呼吸など56語
《練功の意念》河車、止念、止観、内観、内視、存想、守中、恬淡虚無、禅定、気沈丹田など104語
《練功効応》小成、煉精化気、炁化為神、九転還丹、玉液、尸解、坐忘、十六触、八触、布気など70語
《練功の偏差と糾正》偏差、内気不止、外動不已、外魔、走火、昏沈、雑念、沈相、浮相、散乱など37語
《功法》放松功、採日精法、岡田式静坐、内養功、智能功、迫撃臓腑功、太極気功、袪病延年二十勢、大雁功、少林内勁一指禅など201語
《門派》医療気功、保健気功、武術気功、道家気功、神仙派、内丹北派、龍門派、華山派、清静派、静功など30語
《文献》周易、荘子、行気玉佩銘、黄庭内景経、悟真篇、性命圭旨、延年九転法、気功療法実践、気功精選、中国気功学など113語
全体で983語と書いてある。
ところで上に例えばとして挙げた110語は「気功の常識」の範囲と思われるが一行ずつの説明が出来るだろうか。気功を一応知っている、という方はぜひ書いてみて欲しい。

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2017年08月神戸元町に行った

2017年8月8日 0:48



調味料などを買い

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神戸元町に行った。調味料などを買いそろえるのが目的だ。豆板醤も普通に日本で売っているものは四川で普通に使われているものとまったく違う。香りもいいし、辛味も強い。長いこと四川に行くしか手に入らなかったが、最近通販でもピー県の豆板醤が登場した。ピー県というのは成都の近くの村の名前で,そこで伝統的なすばらしい豆板醤を作っている。ピーというのは卑しいの右にオオザトである。通販であるのだから中華街でないわけがなかろうと行ってみたらやっぱりあった。最大手の広記商工が輸入して製造していた。一キロで1500円である。通販ではキロ800円というのがあったが、これは成都産でもないしやばそうである。通販だけに頼りたくなく、やはり中華街なり、現地にいってみたいのは仕方ない。
三軒程買い回った。以下は買物リストである。
《瓶類》
卑県豆板醤
辣醤
花椒辣醤油
香辣醤
四川豆板醤(李錦記)
朝元辣醤ドウチ入り
錦江香酢
芝麻醤
腐乳 台湾製でなく中国製のを二瓶
天津冬菜
《袋に入っているスパイス類》
四川源花椒面
四川花椒粉三種類
八角粉
朝元辣醤ホール(直系三センチくらいの唐辛子を干したもの)
《袋に入ったもの》
龍口粉絲100gを二袋
搾菜
干しえび
松の実
白木耳
貝柱粉末
高麗冷麺二人分
《缶詰》
うぐいのドウチ漬けの缶詰
先週から蓋が赤黄緑のガラス容器を少しずつ買っている。瓶そのままで使えるものもたくさんあるのだがあとは同じ瓶で揃えて行こうと思っている。

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2017年08月台所がきれいになった

2017年8月8日 20:20



ニトリで200円の

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台所がだいぶきれいになった。ニトリで200円の白い棚を三段買った。三段のボックスと下の棚の面とで四つ空間が出来る。ごま油の一升瓶とか醤油の大瓶とかはおけないので、今まであったこれは流しの上に回ってもしらった。他のほとんどの調味料はこの棚に収めた。一番上の段に黒酢(鎮江酢)、日本の酢、本味醂、麻婆豆腐の元のピー県の豆板醤、松の実、朝元辣醤のもとの大きな唐辛子の大瓶などを乗せる。二段目には六種類の豆板醤、すりごま、花椒粉が三種類、麻辣粉など、三段目にはにんにく下し二種類、貝柱粉、五香粉、天津冬菜、シナモンパウダーなど、四段目には塩二種類、韓国の唐辛子粉のやや辛いもの、すごく辛いもの、フィンランドで買ったChiriの粉、アゴだしなど。その下にはニンニクの大瓶など。
その他前からあるスパイスは冷蔵庫をはさんだ本棚の上一段を占めている。唐辛子もホールスタイルや、輪切りにしたもの、ペーストといろいろある。鹿茸とか滅多に使わない漢方薬も二十種類くらいある。
これを何に使うか。むろん日常食べて行くのだが、九月の済南料理の準備かというと、済南では辛いスパイスはほとんど使わない。今週末の土曜料理に少し紹介してみようか。

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2017年08月説明できますか

2017年8月8日 21:52



『気功用語手册』の

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皆さん説明できますか、と問うた『気功用語手册』の110項目のうち、一般名詞の10語に関して翻訳してみます。やってみたかたいますか。これは1990年ころの標準の,簡単な説明ですから、この基本を今も守る面もあるし、新しくして行かねばならない面もあります。
《一般名詞》

気功
気功は意念が主導し、呼吸を動力とし、特定の姿勢を通じて、気血を調和させ、経絡を疎通し、人体の病気への抵抗の能力を高め、体質を増強し、疾病を治療する一種の自己医療あるいは保健術である。その基本的な特徴は、主観的な努力によって自身の物質と機能を調節し、自身のために役立てることにある。それは三大要素を持ち、調心(主観意念)、調息(内呼吸と外呼吸の両方を含む)調身(特定の練功姿勢をとる)。気功の最も早い記載は晋代の道士許遜の『浄明宗教録』中の「気功単微」(門に単)が最初である。正式に広汎にこの概念が使用されはじめたのは1953年、劉貴珍の『気功療法実践』である。気功は古代にいわれて来た導引、吐納、行気、守一、存想、禅定などの概念に関連している。気功の分類にはつぎのいくつかがある。

①気功理論の源流による道家気功、仏家気功と儒家気功の分類、
②気功の功用で分ける医療気功、保健気功武術気功などの分類、
③練功の方式で分ける静功、動功などの分類、
④練功する部分によって分ける内功と外功などの分類である。

吐納
また「吐故納新」ともいう。汚濁の気を吐き、新鮮な空気を吸って収める。吐納法は気血の運行を促進しも気功が最も早く採用した基本方法である。『荘子・刻意篇』には「吹循環の句呼吸、吐故納新、熊経鳥伸、寿をなすのみ」とあり、『養生論』は「また呼吸吐納、服食養身、形と神[精神]が相い寄り、表も内も皆救済される」という。

内養
気功修練を通じて自分の身体的物質と功能とが自身本体と保養調和すること。養性と養命の両面を包括している。『参同契正義』曰く「内養は性と命の修養の学である」

無極
①道家の哲学述語。大自然の万物の原始状態の形のない状態をいう。『性命圭旨』にいう、「無極の太極は極まりがない極まりである」。
②人体のまだ形をなしていない先天の初めを指す。『性命圭旨』はいう、「父母の生まれる前の一片の太虚が形をなさない無極である」。

小周天
本義は地球の自転一周、すなわち昼夜循環の一周をいう。のちに内丹術で内気が体内を任脈にそって循環一周することを言う。つまり、内気が下丹田を出発し、会陰を経て肛門をすぎ、脊椎を督脈に沿って,尾呂、侠石[人偏なし]、玉枕の三関を経て頭頂の泥丸に至り、両耳頬に別れて舌先で一緒になり、任脈を降り、胸に沿って腹中の下丹田に帰る。『天仙正理』に言う。「小周天は子午丑寅の十二時にイメージを取り、一日の天地の動きに例えたものである」。

日精月華
日精は心液を指す。月華は腎気である。『金丹大成集』に言う。「日精月華とは何か。これは外側の日月のことではない。心中に真気があり、腎中に真気がある」。

坎離
もとは八卦の中のふたつの形をいい、坎は上と下が陰で真ん中が陽、離は上と下が陽で真ん中が陰である。后天八卦図の中では、南北子午線の両端であり、先天八卦の図中では東西卯酉線の両端である。坎離は常に各学科でふたつのあるものの隠語と理解されて来た。内丹術は精は気であり、腎は心であるとしてきた。外丹術では鉛と水銀を指すとし、星象家は月と日をさす、などなど。総じて坎離は陰陽の属性のイメージをあらわす。『周易参同契』の朱熹の注によれば、「坎離水火龍虎鉛と水銀は実質の所、精と気を指すものだ。精は、水であり、坎であり、龍であり、水銀である。気は火であり、離であり、虎であり、鉛である。

先天炁(気) 
人体の生命活動の基本物質であり動力でもあるもの。『天仙正理』に言う。「いわゆる先天の炁は、天に先立ってあるものであり、無形の炁であり、有形の天を生み出すことができ、天地の先天であり、故に形ある私を生み出すものだ」。

元神
人体生命活動を構成し維持する基本の物質であり原始動力の一つである。『仙籍真訣』に言う。「純陽の精英が元神である。五像それぞれの神のことではない」

文火
①練功中の微々たる呼吸、軽軽に意を用いることをひそかに指している言葉。静功中に内気生産を待って後に採用する方法で、それは穏やかな内気の作用を具えている。『修道全指』にいう。文火は呼吸の気で軽く微妙に導引し、沐浴し温まる」『生命圭旨』には「火加減の奥は一概に論ずることが出来ず、ゆえにまだ丹を得る前は武火を借りてこれをまね、丹が得られてからは文火をもってこれを養う」②煉外丹が既になったあとに採用する小火をいう。

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2017年08月終了8月京都講習

2017年8月8日 23:30



お盆ですが関係なくやります

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お盆ですが関係なくやります。
京都講習のお知らせ。
8/12土曜日
13:00 入門気功あれこれ
背骨ゆらしなど。治療の背骨ゆらし体験してない方
多いでしょう。
14:30 周稔豊易筋外経第二套路、坐功
16:00 智能功など
18:00 四川料理二三
8/13日曜日
10:00 前日の復習
胡耀貞気功
12:00 朝粥、四川料理追加
13:00 最新刊三浦国雄訳『道教と科学技術』のやや詳しい紹介
功法も適宜入ります。
(15:00終了)
露伴研究会は来た人で相談します。
気功文化研究所 地下鉄鞍馬口から10分
京都バス京都と三条四条から一本北大路鞍馬口下車
スズキオート二階075-777-7719

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2017年08月土日の四川料理です

2017年8月10日 11:33



暑い夏を辛い料理で

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土日の四川料理です。暑い夏を辛い料理で汗をかいてしのいでください。
芙蓉茄子  蒸しなすのニンニク山椒風味
 唐辛子を余り使わない四川料理もあります。
口水鶏   よだれ鶏
 典型的な四川料理(樂山の新傾向料理)を代表する、ゆで鶏に辛いソースをかけたもの。
回鍋肉   ゴーヤ入りホイコーロー
 日本ではキャベツ炒めと誤解されている回鍋肉。ゴーヤとしてみます。
麻婆豆腐
 成都の豆板醤が手に入ったので、ほんとの四川風です。
冬瓜生姜スープ
 これも四川料理のイメージと大分違う、やさしい味。
成都担々麺
 もともとの担々麺はゴマだれでごまかさない。醤油と挽肉の軽い味です。
紅油抄手
 広東で言うわんたんですが、激辛ソースに浮いています。

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2017年08月九寨江が震度七

2017年8月10日 11:45



チベット族の七つの集落があります

000000 8月10日 11:45 ·
九寨江が震度七だとか。チベット族の七つの集落があります。この世のものとも思えないすばらしい風光が破壊されてしまったのも心配です。すぐ隣には黄龍の世界に類のない池のつながった不思議世界。これも破壊が心配です。私は四回訪ねました。いずれも飛行機を使わず、バスで二日の旅でした、ここで国際的な水のシンポジウムを開いたこともあります。どんな援助が出来るか、現地と相談を始めています。

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2017年08月姜生という中国の学者の書いた

2017年8月11日 1:12



『道教と科学技術』という本は

000000 姜生という中国の学者の書いた『道教と科学技術』という本は凄い本のようだ。まだ訳者の三浦国雄さんに送っていただいたばかりで、三浦さんの解説くらいしか読んでいない。日曜までに、大まかな中身だけでも伝えたいが、A5版650ページもあって、かなり高度の中身とあれば、とてもざっとも読めそうにない。だがまさしくわれわれが研究して行きたい本なので、このあと毎月少しずつ読んでいってもいいなと思った。一番大まかなもくじだけでもすごいと思うだろうが、この各章のなかみがまたすごい。とりあえず大項目の紹介である。

道教と科学技術
姜生
三浦国雄訳

日本語版への序
解説  三浦国雄

第一部 序説
第一章 道教と科学の関係
第二章 科学の発展に対する道教の貢献
第三章 道教と科学技術の同根性
第四章 道教科学思想の変容・外丹から内丹へ
第五章 内在化の進展・全真教から宋明理学へ
第六章 文化の「攫能性」の問題・若干の理論的思考

第二部 煉丹術と化学
第一章 初期道教の煉丹術の起源と推移
第二章 魏晋思潮と煉丹・服薬
第三章 煉丹術の主要薬物とその化学的成果
第三部 医学と養生学

第一章 医道同源・道家道教と中医薬学
第二章 『太平道』・道教医学の綱領
第三章 両晋の道教医学
第四章 道教と養生

第四部 天文学と地理学
第一章 宇宙進化論
第二章 天地の構造説と天人感応論  
第三章 漢晋道教の地理学研究

第五部 物理学と技術
第一章 時間と空間に対する認識
第二章 力学知識
第三章 熱学知識
第四章 光学知識
第五章 音響学と磁気学の認識
第六章 初期道教と建築
第七章 初期道教の飛行構想

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2017年08月『道教と科学技術』

2017年8月11日 8:44



「序説」の一節です

000000 『道教と科学技術』の見返しに引用されている「序説」の一節です。
「道教における科学技術は少なくとも三層の内容を持っている。
第一は、旧時代の道教信徒が修道の末に仙人となるという理想の支配下で、
自然界や人間自体、それに人間社会の存在と運動変化の法則に対して
なしとげた素朴な観察と探求の合理的な成果であり、
それは同時に道教信徒が創造した科学技術の成果でもあった。
第二は、道教徒が修練やその他の宗教活動中に吸収し改造し発展させて来た、
既存の科学技術成果または、
伝統的な科学技術の影響を受けた道教科学技術の成果である。
第三として、道教文献や史料中に吸収され保存されて来た
旧時代の科学技術の成果がある。

西洋の考え方では宗教と科学は対立する存在である。それからすると、中国の伝統文化には科学は存在しなかったのか。西洋科学の導入は中国を覚醒させ、飛躍的な近代化がなしとげられたが、そこでは自国の科学の伝統はほとんど顧みられなかった。「15世紀(ルネサンス末期)まで有用な科学技術の発明・発見を誇っていた中国文明が、なぜ近代科学のイニシアチブを西欧に譲ってしまったのか」と中国科学史を書いて来たニーダムは言っている。また「数学的仮説を自然に応用すること,実験的方法を十分に理解して使用すること、一次資料と二次資料を区別すること、空間を幾何学的に測定すること、機械的なモデルを容認することが近代科学の発達の条件であるのに対して、中国にはそれらが欠如していた、と指摘した。
中国ではそれが国家ぐるみで受入れられ、今やすべての問題を解決してくれる科学技術信仰が社会を支配している。三浦氏は「科学技術の負の側面に対する顧慮があるのかどうか疑問に思うこともあり、また〈人間〉が置き去りにされはしないかという不安を感じることもある」と述べているのには同感である。
姜生らは、宗教としての道教は科学から最も遠い低級な宗教と見なされて来たが、その道教こそもっとも科学的遺産に富むとする。西洋の宗教と科学の対立図式は中国では成り立たない。道教はキリスト教などと違って自力救済の宗教であり、主体は神ではなく人間であるから,西洋のような対立構造は存在しない。三浦氏はいう。「さまざまな神像が香煙の立ちこめる薄暗い空間に居並ぶ道教寺院は〈科学〉と最も遠いところにあると感ずるのが常識というものであろう。ところが本書は,道教の一切経である『道藏』を丹念に読み込んで、具体的、実証的に,宗教と科学技術の協調関係を明らかにしたのである。総論に当たる「序説」に対して「煉丹術と化学」以下の各論は原書全体の8割近くを占めており,道教というものをいわゆる〈宗教〉的観点からのみ眺めて来た人は、このような道教の捉え方があるのか,『道藏』には覚までに科学技術資料が豊富に埋蔵されていたのかと、驚きを覚えずにはおれないはずである」

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2017年08月日曜日は四人だった

2017年8月14日 2:03



濱野さんが忙しい中

000000 日曜日は四人だった。濱野さんが忙しい中、二日参加してくれた。朝は昨日の復習。周稔豊の易筋外経と易筋坐功についてはイラスト入りの資料を朝作ってセブンイレブンでコピーしてきたので、まず易筋外経からした。それから坐功の一のほう。一は易筋経のエッセンスを凝縮したようなものになった。二というのも作った。左右に弓を引く、左右に星を星座に返すようにする、馬方なを抜きかける、また弓を引くようにする、動作が中心。
昼ご飯前に濱野さんに道家八段錦をしてもらう。
昼は豪華絢爛四川料理。麻婆豆腐、一口鶏など。
午後はまず92年の『気脈のエコロジー』の中の自発動についての文章を読んで討論してもらう。それから姜生の『中国道教と科学技術』の話をする。
最後に何か注文は、に知能功光の瞑想をもう一度とあったのでそれをやる。

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2017年08月昨日の四川料理のデザートには

2017年 8月15日 0:29



舟和の芋ようかんを出した

000000 昨日の四川料理のデザートには、舟和の芋ようかんを出した。一本を三人前に切っているから、ほんのちょっとである。みんな初めてで、喜んだ。自然のさつま芋に、限りなく近い菓子なのである。
東京駅で買って来た。東京駅構内には少なくとも七八ヶ所舟和の芋ようかんを買う場所があるから、有難味がなくなっているかもしれない。昔は、私の子供時代は浅草の雷門の中に一軒だけ店があって、そこの喫茶で食べられもしたし、買っても来れた。ただ一軒だった当時と今も全く同じ味であるから、それはそれですごいことだ。
小学校の三年生の時に、おばあちゃんが死んだ。おばあちゃんと言っていたが、母の母ではなかった。父の高瀬の最後の愛人だったのか母たちの世話のための女中のような存在だったのか、実はわからない。母の母はとうに死んでいた。高瀬は別に本宅があったから、死なれてみると困った。戦争中は父は人民戦線事件で何年か捕まってから放り出されてしばらくおもちゃ屋をして食べていたが、笹塚の家にいた「おばあちゃん」がどう過ごしたのか、知らない。下北沢の家には「おばあちゃん」がいた。私の幼児期には「おばあちゃん」となついで、近所をおんぶして歩いたり、井の頭線の線路につくしを取りに行ったりした。「おばあちゃん」が死んだ時に、長い追悼文を書いた。近所の指圧の先生でもあった牧師が「死というものを子供がここまで深く受け止めている」と感動した。原文はもとよりないが、子どものころから堪え難いことは文章で乗り越える習癖があったものと見える。もう何を書いたか覚えていない。
うちの墓というものもなかったのだが、そこに入るような人でもなかった。母は浅草寺に無縁佛として収めた。まあそれなりの永代供養料を収めて、葬った。それから何年かは浅草寺に通ってお参りをした。私だけを連れていった。その帰りに、いつも舟和に寄って、蜜豆など食べさせ芋ようかんを買って帰った。だから私にとっては「おばあちゃん」は舟和の芋ようかんなのである。
今では何年かに一度買うだけである。
「明治三十年前半、浅草寿町で芋問屋を営んでいた創業者小林和助が、当時高価で庶民の口に入らなかった煉羊羹の代わりに考案したのが芋ようかんです」と箱の裏には書いてある。「おばあちゃん」は私が10歳の時に63で死んだので、とすると明治30年頃の生まれだから、芋ようかんと年齢が近い。でもこうして私自身が69歳になってみると、63歳など少女のようなものだと思うが、無くなった時の「おばあちゃん」は子供の目には老婆のように年をとって見えた。

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2017年08月テレびっ子になっている

2017年8月15日 1:23



大岡昇平の『野火』をやっていたので

000000 テレびっ子になっている。といってもそんなに連続して見ている訳ではないが、Eテレで大岡昇平の『野火』をやっていたので、それを見て(突っ込みの浅いのにイライラしながら)終わってからニュース番組にきりかえたら松代大本営のことを話していた。大本営を信州に移そうとして壮大な穴を掘り、敗戦に間に合わずにそのまま放置してしまったのは有名な話だが、途中からだったから全体をどう紹介したのか分からないが、それだけのばからしい話としてだけ紹介していたような感じである。
この話の重要な点は、日本人の壮年男性は戦争で払底して、子供まで戦争に動員していた時期であるから、誰にこの重労働をさせたのかということにある。朝鮮全土で、任意に、畑を耕していた男を拉致して説明もなく日本に連れて来たのである。この「拉致」問題に比べれば、北が日本に仕掛けた拉致などまったく児戯に等しい。
Wikipediaで松代大本営を引いてみると、ここには皇居と大本営と主要政府機関を移すことが決められ、「徴用された日本人労働者および日本国内および朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となった。工事は西松組や鹿島組が請け負った」。朝鮮人労務者は優遇され、工事中止が決まったあと船で本国に帰されたと書かれているが、これはまったくの嘘である。この戦況の中で皇居の場所を建設した者をそのまま帰すはずがないではないか。松代大本営の周囲の山からは少なくとも数万人の白骨が発掘された。日本の旧貴族や右翼の大物の中に、これを重大な不本意と考える人たちがおり、戦後この白骨をまとめて鎮魂し、韓国に送り届けたことがあった。膨大な「ハン(怨み)」が残っていて、飛行機は揺れに揺れたという。
もうひとつ帰さねばならない霊がある。京都の豊国神社の門前にある耳塚である。秀吉の朝鮮侵略のさいに敵の首を取る代わりに耳や鼻をそいで塩漬けにして持ち帰ることをし、二万数千人分の耳や鼻がここに埋まっている。林羅山が鼻塚とは恥ずべきことだと秀吉を批判して以来「耳塚」とよばれるようになったというが、同じことである。これも歴史上一度も日本人は朝鮮人に謝罪していない。まだ観光施設として堂々と公開しているだけである。
実は松代大本営の鎮魂をしたのは天河神社の宮司さんである。このことは特に秘密にはされていないが、公開もされていない。松代のことは事後に聞いただけだが、耳塚に関連しては私にも相談があって、ずいぶん調べた。たださすがに日本の支配層にも両論があるらしく、まだ正式にお返ししようとなっていない。
私はこんな日本が果てしなく嫌いである。

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2017年08月吹田の駅前の

2017年8月15日 19:32



沖縄料理屋に入るのは二度目

000000 吹田の駅前の沖縄料理屋に入るのは二度目である。この前は沖縄の魚の刺身があれこれあるのかと思ったらマグロとかハマチ、タイなどで、なんだどこが沖縄だと思った。ジーマミ豆腐はうまかったのでもう一度取った。地豆とはピーナツのことで、ここのはピーナツ本体が中に残されていて、歯ごたえもよかった。それからラフテー(豚の角煮)とゴーヤチャンプルをとった。
酒は菊の露か久米島の久米仙かどちらかに決めていて、残りの短いかもしれない人生でほかの泡盛は飲みたくない。今日は宮古の菊の露の気分だった。割らず、氷も入れず、氷を入れた水は別にもらう。
だが,目の前に赤馬(あかんま)という見たことのない銘柄の泡盛があった。メニューには一ページ使って解説が出ていた。石垣島でずっと外には出ず、島内で飲まれて来た、という。600年前に中国から伝わった。サイトで見てみると「昔ながらの伝統を守り、手造りの製法と風味を大切に、現在も家族3人で造れる量だけを丁寧に製造しています。ほとんどが地元の方の直接注文で売れてしまうため市場には出回りにくいのですが、そこは敢えて生産量を増やそうとはせず、今後も今の味を守り続けていきたいと考えています。石垣では祝いの席などで唄い踊られている「赤馬節」。酒は祝いの場で必ずつきものなので、赤馬節にあやかって命名しました」ということらしい。
二杯目これにした。中華酒の面影が少しあるようで、おいしい。これは取り寄せるしかないかな。

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2017年08月石川三四郎の生涯

2017年8月15日 20:58



筑摩書房人物昭和史の8

000000 石川三四郎の生涯

筑摩書房人物昭和史の8
『漂白の生涯』が古本屋で157円で届いた。自分が一部を書いているのだが、散失してしまった。さがしたらあっけなく手に入った。愛着の深い「石川三四郎」である。ここで五六回に分けて紹介したい。

生のあり方におけるアナキスト
一 生い立ちから平民社時代
二 〈土民〉との出会い
三 ヨーロッパ放浪
四 土民哲学の展開
五 地球を耕すー永遠の理想と挫折

これを企画して私に書かせたのは鶴見俊輔氏である。鶴見さんは筑摩の近代日本思想体系の中で石川をとりあげているが、あなたの立場から何が出てくるか、やってみろという挑戦でもあった。すみません、これで精一杯のレポートです、先生に出したようだ。この巻は室謙二、青地晨、石垣綾子、小沢信夫などが書いているから、同窓会のようなものだ。その中では当時の私は最年少だった。
権力に虐殺されなかったアナキストたちはさまざまな道をたどった。堺利彦は日本共産党の創立に参加し、すぐに見捨てた。木下尚江は小説家としての道を捨て、岡田式静坐に没頭したが、岡田の死後後継者を期待されながら一灯園に身を隠した。石川は80歳までしぶとく生き延びて、農園を経営し、政府の援助は要らない生活を実現して皆にそれができることを伝え続けた。
鶴見さんはマオイストだった私をマオ・アナキストとして扱っていた。たしかに毛沢東が中共中央とぶれた時にだけ魅力を感じていて、若い頃からそれだけを書いていた。鶴見さんはそれを見抜いて、石川もいるよと教えてくれた。
わずか二頁の序文から。

生のあり方におけるアナキスト

石川三四郎は、幸徳秋水、大杉栄と並ぶ、日本の三人のアナキストといわれている。この三人の中では、一番有名でない。大逆事件で殺された秋水、関東大震災で妻子とともに虐殺された大杉のような、鮮明な、ある意味でわかりやすい死に方をしたわけではない。とはいえ、彼は二度とも捕まえられて調べられているから、死ななかったのはむしろ偶然というべきだろう。だが、彼は八十歳まで生きて、独特の哲学を生み、育てた。
アナキストといっても、わかったようでわからない。危険人物、に近い感触で受け取る人もいるだろう。アナーキーな、というとたいてい悪口で、破壊的なとか無秩序なということになる。無政府主義? それはどういう主義なのだろうか。政府があるために他人を支配したり、もうけたりすることができる少数の特権者をのぞけば、誰だって政府なんてなしにすませたいと思っているだろう。税金を取られる時には万民がアナキストになるだろう。
それが、つまり社会が政府なしにうまくやっていくことが可能であり、のぞましい、という考え方がアナキズムにほかならないのだ、とコリン・ウォードは最近の著書の中で言っている。「それが社会生活の大部分をなすまでに自立的行動の領域を拡大すること」というP・グッドマンの言葉もそこに紹介されている。今日、地域の自主管理を求める住民運動や、自力更生を課題とせざる得なくなって労働運動や、さまざまな自主講座、自主流通の運動などは、いやおうなしにこうしたテーマをかかえている。
幸徳、大杉はどちらかと言えば,政治の領域に入り、政府を攻撃し打撃を与えることで、自立の領域を拡大しようとした。石川は、はじめはそれとともに歩んだが、次第に、むしろ自立的領域の下からの拡大、生活そのものの自立的、互助的作り替えによって政府を無力化するということを模索した。単に理屈として考えたのではなく、漂白放浪しまた意識的に土着して、より自由な、より充実しかつ自然な生活を目指して苦闘した軌跡そのものによって「生のあり方としてのアナキズム」を示した。

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2017年08月石川三四郎の生涯 3

2017年8月17日 10:49



2 〈土民〉との出会い

000000 石川三四郎の生涯 三
二 〈土民〉との出会い


田中正造に学ぶ

平民社が弾圧と資金難からの解散を余儀なくされたとき、ひとりひとりが何をして食うか決めなければならなかった。幸徳秋水は渡米した。三四郎は何も当てがなかったが、木下尚江が「平民新聞」とニュアンスがちがうキリスト教社会主義的な雑誌をやってみないかとすすめた。三四郎は応じて、安部磯雄などに相談し、「新紀元」という雑誌を作って自ら編集発行人になった。
ニュアンスはちがっても言いたいことは同じで、文字通りの「伝道」をする説教会では「聖母マリヤの革命思想」といった説教をし、自由と平等、平和主義を説いた。
そのうちに三四郎は、彼の生涯の転機となる事件に遭遇する。谷中村の、反収容の闘いとの出会いがそれだ。
利根川の支流渡良瀬川の魚の大量毒死が明るみに出たのは明治十四年(1881)のことである。明治十年に政府が古河財閥に払い下げた足尾銅山からタレ流された硫酸銅のためだった。魚を食べぬようにと警告した藤川栃木県知事は、問題を大きくしたとして島根の知事にとばされてしまった。一八八〇年代の終わりから、足尾銅山の被害は渡良瀬のみならず利根の全流域にひろがり、栃木、茨城、群馬、埼玉、千葉五県およそ五万町歩の沃野を死の影がおおった。しかし,時の農相睦奥宗光は古河と縁戚関係があり、もみ消しをはかって対策をうたなかった。
明治二十四年(1891)、第二帝国議会で栃木から選出された田中正造代議士がこれをとりあげて熱涙くだる糾弾をし、ようやく世間の関心をあつめるところとなった。しかし議会は、財閥と政府の黒い癒着のまえになすすべを知らなかった。事態はさらに悪化した。渡良瀬流域は古河の山林乱伐のため洪水を繰り返すようになり、そのために平野は毒液にひたされた。明治二十九年(1896)の夏に三回の洪水、翌々年またくりかえされて農作物が全滅したときには、被災者一万二千余人が、暴動寸前までいった。
議会にいても、被災民衆のため何もできぬことにいらだった田中正造は、明治三十三年(1900)ついに議会で進歩党脱党、議員辞職の声明を発し、政治にたよっていては何もできないので直接行動やむなしという立場をとった。翌年、正造は天皇に直訴しようとして捕えられる。この直訴状は、正造に幸徳秋水が懇請されてその語るところを文章化し、さらに正造が手を入れたものだ。むろん効果のある物ではないが、正造は思い詰めていた。
この間に、渡良瀬流域の谷中村を水没させて貯水池を作るという計画を政府は進めていた。しょっちゅう崩壊する堤防を補修するより水没させた方が安上がりという発想でもあり、また公害対策の名の下に、もっとも強硬に政府と対決していた谷中村の人びとを追い立て、村そのもののとりつぶしをはかったものでもある。そして手の込んだ買収工作で農民の純真な魂をけがし、離散させ、また村人たちが自費で作った堤防を警察が行ってとりこわすというような暴挙をおこなった。
すでに高齢の田中正造は何もかも抛って、農民の間をかけめぐり、闘いをよびかけたが次第に孤立し、農民たちからも煙たがられるようになった。そしてついに明治四十年(1907)新古河合名副社長だった原敬が内相の時に、谷中村の土地強制収容を断行し、村を水没させてしまった。
三四郎が谷中村に行ったのはその前年のことである。ボロをまとって奔走する田中翁の飾り気のない姿に三四郎はうたれた。田中翁が波乱の生涯の中で身につけた無私の哲学と、その政治への絶望、貧しき細民への激しいまでの愛情を三四郎は土に水がしみわたるように吸収した。「旭山(三四郎のペンネーム)は田中翁に駄々っ子のように親しんでいた」と木下尚江は書いている。三四郎は「田中翁の偉大な人格にふれて、私は人間といいものが、どんなに輝いた魂を宿しているものか、どんなに高大な姿に成長しうるものか、ということを眼前に示されて、感激せしめられたのです」とのちに回想した。だが現実の反収容闘争に、カラダをはって参加できるか、三四郎は恐怖し、恐怖する自己を嫌悪して苦しんだ。これまでは警察に殴られることはあっても、根本は言論闘争だったわけだ。
短い間に、三四郎は成長した。彼が田中正造から受け取ったのは第一に政治への絶望であり、第二に骨身をおしまず人民につくし、人民と一体になって活動する作風、その革命道徳であり、第三に正造の老荘思想からくる漂白・無所有の思想であり、第四に生産力増大の暗黒面としての産業公害という近代化のイメージだった。谷中村は、こんにちの三里塚闘争がもつような、文明そのものへの問いと、さまざまな人民闘争の結び目にして革命倫理の培養池という性格を持っていた。のちに土民哲学を唱えることになる石川の思想の原型は、この谷中村との二年たらずの関わりの中に見られるのである。

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2017年08月石川三四郎の生涯 4

2017年 8月17日 20:06



2 〈土民〉との出会い(続き)

000000 石川三四郎の生涯 四
二 〈土民〉との出会い
続き


革新の元気ー「政党」に頼らぬ革命の構想

明治35年(1906)八月に、「新紀元」に書いた「堺兄に与えて政党を論ず」には、三四郎が谷中村で受けた衝撃の一端をうかがわせるものがある。
堺が社会党を作ろうと誘いに来たのだ。三四郎は当然それを受けて中心となるべき立場にいたが、少し考えさせてくれといい、その答をこういう形で書いた。
「政党なるものは、新たに改革の元気を人民の中に奮興する所以の道に非ずして、寧ろ既に奮起せる人心を寛和統率するの一手段に過ぎず。蓋し革新の元気は、党の評議員等の決議によりて生ずるものに非ず。又た党員の多きが故に起るも真の元気に非ず。然り、革新の元気を鼓吹するは唯だ人民の衷心に投ずる新一点火にあり。而してこれを投ずるは伝道にあり、言論を以て,行為を以てする伝道にあり」
「革新の元気」というのは透谷が「明治文学管見」の中でつかった「国民の元気」を思い出させるが、民衆の暮らしの中に潜在する変革のエネルギーと言うことだろう。それは政党活動によっては決して歴史の部隊に引き出されないと主張した時、そこに直接行動主義が生まれた。また「徹頭徹尾階級闘争を貫かんと欲せば、政党より寧ろ労働組合の発達に力を尽さざる可からず」という主張は、労働組合が政党の指導を受けずに自ら社会変革の主体に育つべきだというサンディかリズムに通ずる。断片的な形であれ、日本で最初のアナキズム宣言だったといえる。
ところが、実際の行動はいろいろしがらみにとらえられていたようで、社会党二回大会では評議会幹事にされてしまい、皮肉なことに党を代表して結社禁止通告を受け取りに警察に行ったりしている。やさしさ、義理がたさのための不決断がここにも見られる。
明治三十九年(1906)いっぱいで「新紀元」と廃刊し、堺、幸徳グループと一緒になって月刊「平民新聞」を準備することになる。「新紀元」の中心であった木下尚江が、三四郎と同じく田中正造とともに活動し、これまでの「社会主義」に根本的な疑いを持って隊列を離れてしまったことも大きかった。もっとも尚江は社会改造を放棄した訳ではなく、天理教や一灯園の土着的民衆組織に興味を持ち、またのちには「静坐」の岡田虎次郎に触れて、からだの中の自然な力,活元的エネルギーをときはなつことをこそ日本革命の根本と考えるようになった。三四郎は岡田式静坐に加わろうとしなかったが、あまりに「上空」を舞っている社会改造運動の批判において尚江と深くつうずるものがあった[そのご石川も岡田のところに通うようになり、東京在住の章炳麟や宋教仁などは石川に連れられて岡田式に通ったのだが、これを執筆当時は知らなかった]。尚江が昭和十二年に死ぬ前の数年間には、逸見斧吉宅で三人で毎週夕食会を持ったりしている。
三四郎は、福田英子がはじめた「世界婦人」誌の発行名義人を引き受ける。一方,同じく明治四十年(1907)一月にスタートした日刊「平民新聞」の編集兼発行人として、大活躍する。この日刊紙は三か月しか続かなかったが、三四郎は校正、割り付けをし、資金集めに走り、「日本社会主義史」を幸徳の監修を受けながら三十三回にわたって書き、まさに骨身を惜しまず献身した。そして足尾銅山のスト支援、山口孤剣の「父母を蹴れ」やクロポトキンの「青年に訴う」掲載の責を問われて十三か月の禁固をくうことになる。
目の回るようないそがしさから解放されて一年余り幽閉されることになった三四郎は、このかんの経験を読書によって内省的に総括する機会を持つ。監獄を別荘と名づけたのは思想犯としての先輩である堺利彦だが、三四郎たちに取ってそこはまさに「私の大学」だった。大杉などは、入獄の度に一カ国語マスターするという原則(?)を持っていた。
三四郎は『資本論』を読んだが、「マルクスはなんという頭の悪い男だ」という印象しか受けなかった。からだや感覚的なものを捨象して、現実の複雑さに対応するコトバの世界を組み立てようとするドイツ的思考が、三四郎には理解したくもないものであったことがわかる。クロポトキンも読んだが、相互扶助の自由世界が自然発生的にできるという見通しは余りに楽観的に見え、自分の内面の苦しみに触れて来ない気がした。彼がぶつかっていた宗教的覚醒と社会改造の問題、人間が誰も背負っている十字架という問題を解き明かしてくれたように思ったのは、エドワード・カーペンターの著作だった。カーペンターはバクーニン、クロポトキンなどよりもゴドウィン、オーウェン、モリスなどにつながるアナキストで、原始回帰を説き、自我分裂から統一的宇宙意志へという枠組みの中に社会主義もキリスト教もとかしこんでしまいながら、自分は英国の片田舎で自由な農耕と研究の生活をしていた。三四郎は獄中で哲学的断片「虚無の栄光」と「西洋社会運動史ノート15冊を書き上げた。
彼はこのとき獄中で学んだこととして、とくに二点を挙げている。ひとつは、進化論の否定。ダーウィンの優勝劣敗、自然淘汰の進化論と、それに従ったマルクスの社会進化必然論に変革運動の根本のつまづきがあったと彼は考えるようになった。生物界では相互扶助が成り立っているのに、闘争本能だけを膨張させた人間の社会はそこより退化しているというのだ。
もうひとつは「古事記」を読み込んで,それが大変自由なコトバにあふれた書であることに気づき、「万世一系」の証明どころか、寒冷地から熱帯に及ぶ種族複合体としての「日本」の痕跡をそこに読み取っている。
この二点は大変興味深い。前者は、最近改めて切実に評価されている今西錦司による正統進化論批判に通ずる。また後者は、大林太良、吉田敦彦らによる比較神話学につながり(三四郎が日本神話の源流をメソポタミアに見たのは大変な直感力というべきだろう)、また日本をひとつのヤマトとして見るのでなく、さまざまな異質なものの複合として見直す島尾敏雄のヤポネシアの発想につながる。いずれにせよこうした学習の中から三四郎は、政党としての多数獲得→政権奪取という経路を経ない「革命」のあり方について考えを深めて行くことになる。

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2017年08月石川三四郎の生涯 5

2017年8月17日 21:23



3 ヨーロッパ放浪(その1)

000000 石川三四郎の生涯 五
三 ヨーロッパ放浪(その一)
◇。
ベルギー、フランスでの七年間

◇ 
出獄した三四郎は、福田英子とともに住み、中国の革命派機関誌「民報」の発刊に協力したり、その編集長の章炳麟が告発された時には弁護をかったりしている。
福田のやっていた「世界婦人」も明治四十五年(1909)になって廃刊命令を受けるが,この最終号に書いた「墓場」というエセーで三四郎は再び告発され,翌年春三か月の刑を受けて下獄する。ところが、この五月に、大逆事件の検挙がなされる。三四郎も出獄してから一応容疑者として調べられるが、でっち上げる材料が足らずに帰される。幸徳ら12人が処刑されたのは翌四十四年である。
暗い時代だった。せっかく谷中村で覚醒し、獄中で理論的に整理したはずのものが、実社会でどう生きるべきかよくつかめない。大逆事件以後はものを書くこともできず、収入の道がなく、進退窮まった。まだ谷中村ショックがぬけないこともある。貧窮生活にもかかわらず自分が庶民生活を離れた口舌の徒だという意識にさいなまれ、何とか手に職を持ちたいと思う。羅宇屋(キセル直し)か下駄の歯入れ屋になるかなどと放浪人らしいことも考え、ペンキ職人も考える。ベルギー領事ゴべールの強い勧めで日本を脱出することになったのはこういう時期だった。
ゴベールが言ったように、このままでは秋水のようにやられるという危機からの脱出でもあったろう。十二歳年上の福田英子とのなしくずしの同棲を清算したいということもあったのかもしれない。
ベルギー領事夫人のつきそいという名目で、旅券もなしにフランス船ポール・ルカ号に乗って横浜を発ったのが大正二年の三月だった。
上海では、平民社時代知り合っていた北一輝、宮崎民蔵(滔天の兄)とおちあい、連れ立って浙江派の巨頭黄興をたずねたところ、「民報」で親しかった宋教仁も来ていて旧交を温める。三四郎はからだの調子が悪いという宋教仁に、木下尚江の受け売りで岡田式静坐を勧めたりしているが、[孫文に次ぐ第二代の総統と見なされていた宋教仁はこの直後に暗殺されている。]
一か月の船旅ののち、マルセイユからブリュッセルへ行く。そこでヨーロッパ自由都市の部厚い伝統に支えられたさまざまな社会運動の事業にふれて、三四郎は感激した。万国社会党本部のある平民館には、五百人も坐れるカフェの大ホールがあり、客も給仕も平等に同志とよびあっていた。ミニコミや政治パンフレットのセンターがあり、図書室があり、三越呉服店を思わせる協同組合売店があり、二階には万国社会党、ベルギー社会党などの三十の部屋がある。三階には三千人のホールがある。各種の大会やスト会議などをここでやるが、ふだんは安い映画会をたえずやっている。一八八一年(明治14)に、五十人余りの労働者がパン焼き職工を誘って組合としてパン作りをはじめたのにはじまって、畜産、ビール製造、石炭供給、診療所、健康保険などを独自に作って行って、このように大きな平民館を育てた。
また三四郎が目をみはったのは、新大学という名で1984年(明治27)から運営されている大規模な自主講座だった。カーペンターとともに三四郎が尊敬するエリゼ・ルクリュはこの創設者のひとりあった。こうした事業に三四郎は、観念的なアナキズムでなく、具体的な国家と資本からの自立、相互扶助と連合主義の拡張を見ることができ、夢をふくらませた。
E・カーペンター翁がロンドンに出てきていることを知った三四郎はロンドンに行き、だいぶさがしまわったあげく巡り会う。自由人との巡り会わせにはふさわしくない牢獄のような都会で、煤煙は産業の花と言っている英国人はずいぶんのんきな人種だ、今に死滅してしまう、と感じた。三四郎はロンドン郊外のカーペンターの姪のところに半年程おいてもらう。1914年の初夏からブリュッセルのポール・ルクリュ夫妻が三四郎を受入れてくれる。ポールはルクリュの甥で、エリゼのような理論家ではないが、思慮深く経験豊かなアナキストだった。夫妻にいろいろ学びながら、三四郎はペンキ職人として働く。
だがこの年、第一次大戦が始り、当然にその戦火にまきこまれることになる。日露戦争に際しては絶対平和的非戦論だったが、ここでは三四郎はドイツ軍国主義を正面の敵とし、フランスの戦いを支持する。開戦直後にひらかれたブリュッセル反戦大会で演説したジャン・ジョレスに惚れ込んだりしている。レーニンが「社会排外主義」「社会愛国主義」と呼んだ潮流に条件付きであれ、与したわけだ。
一か月後,ブリュッセルははドイツ軍に占領される。1915年に入ってオランダ、イギリス経由でフランスに脱出、一年余をリアンタールですごし、さらにドルトーニュ県ドンムでルクリュ夫妻とともに晴耕雨読の生活を送ることになる。
かれはここで薪割りや果樹の剪定に熟達し、野菜やワインを作った。ようやくカーペンターの言う「地球を耕す」生活ができたわけだ。
1919年の秋から半年間、ルクリュ夫妻とともにモロッコに滞在し、そしてもう一度イギリスにカーペンターの山荘を訪ねてから20年秋、八年ぶりに帰国する。

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2017年08月石川三四郎の生涯 6

2017年8月17日 22:11



3 ヨーロッパ放浪(その2)

000000 石川三四郎の生涯 六
三 ヨーロッパ放浪(その二)

海外体験で得たもの

◇ 
日本の知識人にとって、海外体験は大きな意味を持っている。鴎外のベルリン、荷風のパリ等々は精神形成にとって決定的な作用をはたした。一言で乱暴に言えば、それは東京という宙づりの「近代」を越えてヨーロッパ都市に自己を同一化させ、自我を完成させたいという近代日本のインテリにとって抜きがたい精神態度の原型をなしていた。それは鴎外、荷風について言えば大逆事件の前後に大きくつま付き、日本回帰という形をとることにもなるが、この指向性は今日にいたるまで続いていると言える。
三四郎にとってそれは何だったか。
第一に、上の世代と同様のヨーロッパかぶれもなかった訳ではない。帰国を出迎えた荒畑寒村にキスしたりして、へきえきさせている。もどってきて早々、なぜ日本の都市だけがこんなに汚く,和服はかくもだらしないのか、などといっているところは荷風を思い出させる.しかしその背後には、ヨーロッパの中の一番いいもの、自由都市のなごりとしての相互扶助的協同組合とその精神にふれてきたという自負があったろう。
第二に、近代ヨーロツパと言っても、産業についてはまったく批判的で、ロンドンのスモッグ禍などは谷中村の滅亡の姿と重ね焼きにイメージしていたようだ。むしろペンキ塗りや農夫の世界に彼は希望を見た。自分の生き様としても、二年半程の百姓生活の中でやっと足が地に着いた気がしたに違いない。
第三に、第一次大戦でドイツ占領下のブリュッセルを経験して、彼のドイツ嫌いはさらに増幅された。ドイツに留学した左翼、とくにマルクス派が、福本和夫であれ、宇野弘蔵や向坂逸郎であれ、極端に思弁的でクセのある体系姓をそだてて、ある種のセクショナリズムにおちいったのと対象的なヨーロッパ体験を三四郎はすることになった。
第四に、彼はここでヨーロッパの革命の嵐に身を投ずる機会があったにもかかわらず、そうしなかった。片山潜がロシア革命に参加せよとさそったとき、三四郎は感激もしているが、煮え切らぬ態度をとり、マダム・ルクリュが病気でとかいろいろの理由を挙げて断った。むろんここで応じていたとすればそれもまた一局の将棋で、大杉がコミンテルンと接触してアナ・ボル共闘を
組んだりした以上に熱心なボル派に転向したかもしれないし、あるいは反革命アナキストとかいわれて処刑されていたかもしれない。かれは政治革命に飛ぶのでない、地を這うような生活革命の道すじをさがしていたのだろう。
第五に、外遊し、漂白し,「孤独な散歩者」となることで、彼は人類学者の眼を育てた。さまざまな民族にたいする知識は、たんにエリゼ・ルクリュの地理学(人類学の色彩が濃いようだ)から、またその蔵書から吸収しただけでなく、旺盛な好奇心による観察に裏付けられていた。モロッコで古事記研究に没頭していたのも面白い。今日の比較神話学からすれば八方破れではあるが、三四郎は日本神話の源流をユーラシア中部高原にさぐっていく。
こうしたいくつかの点が、これ以後の三四郎の理論活動と生き様に影を落として行くことになる。

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2017年08月窓を開けなさい

2017年8月18日 8:06



その声が余りにはっきりしていたので

000000 「窓を開けなさい」とその声が余りにはっきりしていたので、ゆっくりとベッドから足をおろして、東側の窓を開けた。寝ぼけ眼で時計を見ると、4時45分ころだった。なんなのだろうと坐っていると、しめやかに雨が降り出した。ああ、これか、と思った。今までに何度も明け方雨が降り出す前に、熟睡しているのにざわざわとして、ふと目が覚めると、しばらくして雨が降り出すということがあった。10分くらい瞑想して待っていると、ゴロゴロと雷鳴が始った。もともと寝ながら雨の音を聴くのが異常に好きである。へやが静かに「上流」に向かって滑り出すようで、すぐに天空感覚を体験できる。
私はもともとどんな雨も好きで、傘というものをつかわない。今は足が悪くて長時間歩くことはないが、自転車でも、平気で濡れて帰ってくる。もう昔話だが山に行く時などビニールにくるんだ着替えを一揃いもって行って、樹々とともに濡れるのを喜んだ。雨にセシウムだのストロンチウムだのといわれるようになると、それは出先で突然降って来たという以外にはしなくなった。
いまは部屋の中で、雨を味わうのだ。30分くらいすると雷鳴は凄まじくなってくる。京都の北の方にすんでいる人は誰でも知っていることだが、このあたりは圧倒的に雷が多い。賀茂別雷神社があるためである。太古の昔神社の姫が河で矢を拾って妊娠した。そういことにしてある。成長して雷とともに天に上がったので雷を祀っている。「雷除け」の神様にされているのは重大な誤解なので,近代になってからそうなってしまったに違いない。上賀茂神社は雷を浴びるための神社なのである。
井上靖の『孔子』のもっとも印象的な部分は、小説の最後に皆で雷を浴びるシーンである。孔子はもういず、弟子たちが懐憶している。
「おや、雨ですね。先程から遠くの空を稲妻が奔っておりましたので、若しかすると、と思っていましたが、どうやら一雨やってきそうであります。どうぞ皆さん部屋の内部にお入りいただきましょう。なにぶんこのように、四方八方隙間だらけの家、少し烈しい雨になりますと、土間も、縁側も、みな吹き込んでまいります。」
「では,失礼して、私の方は縁側に坐らせて頂きます。これは、いつかお話しした宋都郊外の農家の空き家で、子とご一緒に初めて雷光、雷雨の一夜を過ごさせて頂いた、それ以来の私の迅雷風烈の迎え方と言いますか、身の処し方といいますか、雷光に、雨に,風に、表を打たせ、心を打たせ、天地の心の鎮まるのを待ちます」
「烈しい雷光ですが、そのままお坐りになっていてください。暫時、迅雷風烈に、面を打たせ、心を打たせ、天地の怒りの鎮まるまで、ここで、このまま、心を虚しくして、坐らせて頂いておりましょう」
これは儒教ではすっかり途絶えているらしい。あらゆる気功辞典にも孔子辞典にも出て来ない。だが儒教、道教の別を越えて、中華民族の雷神儀礼は残存し、日本では平安時代に成立した道教神宵派がこの雷に打たれる儀礼を探求して、特定の方法として確立した。神宵派は一時は道教の主流になるほどの力を持った。明確な「雷神信仰」である。これが上賀茂神社に伝わったとしか考えられない。
私はベッドに坐るから、窓は右手側(東側)、正面は見えないが上賀茂神社、そして神社の発祥の地といわれる神山である。神山は神社脇の駐車場からははっきり見えるが、近づこうとするとぐるぐるまわって近寄れない。そこの笹の葉の一本なりもってきたいが、拒んでいるらしい。
正面の本棚には上賀茂のお守りと八咫烏をおいているが、もう少し立派な神殿を作らねばなるまい。
七時半には雷鳴はほぼおさまってきたので、二時間半の瞑想状態から抜け出した。軽い疲労感と充実感がないまぜになっている。でも、起こしてくれたのは誰だろう。

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2017年08月コナリーのJAZZノート 1

2017年8月20日 1:05



マイクル・コナリーは

000000 コナリーのJAZZノート 1


マイクル・コナリーは著作を出すごとにほとんど全米一位になっているミステリー作家である。ハリー・ボッシュという個性的な警察官が主人公だ。最近はリンカーンの後部座席をオフィスにしている弁護士も新たな主人公にしていて、面白いが、ほとんどはボッシュだ。扶桑社文庫で7点13冊、講談社文庫で14点27冊(一冊で終わっているのがどちらにも一種類、後は上下二巻だということ)で私の本棚には40冊が並んでいる。これほど入れあげているのは後はイギリスのロバート・ゴダードだけだ。コナリーもゴダードもまだ翻訳されていないものはたくさんあるので、いつも待っている状態である。
そこで扱われている犯罪を論ずるのはもうミステリ雑誌などでされつくしているから、私はボッシュの音楽の好みについて紹介しよう。

それとてとても全部取り上げることは出来ない。2003年の『暗く聖なる夜』と最近の2012年の『ブラックボックス』から引用しよう。引用だけで、あまり独創的な研究ではない。今回は『暗く聖なる夜』だけ。

『暗く聖なる夜』ではもうFBIもサンフランシスコ市警も過去の事件として葬ってしまいたい二人の女性の死をボッシュは忘れられず引退してから一人で再調査し、本人もいろいろな眼に遭う。その書類を自宅で再度チェックする時の描写。
「私は自宅のダイニング・テーブルのまえに坐っていた。キッチンにはホットコーヒーを入れたポットがある。五連CDチェンジャーにはアート・ペッパーが伴奏者として参加している晩年のアルバムを五枚、時代順に入れている。そして目の前にはアンジェラ・ベントン事件のファイ寝から抜き出した書類や写真をひろげていた」p38
「手を伸ばして音楽の音量を落としたが、それほど落としたわけじゃなかった。いまかかっている曲を気に入っていた。引き戸越しに外を眺め、デッキの向うに広がるサンフェルナンド・ヴァレーのかなたの山並みを見やった。いつもと同じように、スモッグが出ていた。だが、ペッパーがリー・コニッツをともなって、クラリネットで《いそしぎ》を奏でていると、どういうわけか良く合っているように思えた。そこには物悲しい切なさがあり、ライダーの足すら停めさせたようだ。彼女は立ったまま、何も言わずに耳を傾けていた。
これらのCDはクェンティン・マッキンジーという名の友人からもらったものだ。マッキンジーは古くからのジャズマンで、ペッバーと知り合いであり、何十年もまえに〈シェリー・マンズ〉や〈ドンデス〉や、ウエストコースト・サウンドの隆盛で生まれたものの、ずいぶん以前になくなってしまったほかのハリウッドのジャズクラブで共演したことがあった。これらのCDに耳を傾け、研究するようマッキンジーにいわれた。ペッパーが晩年にレコーディングしたものの一部だった。麻薬に溺れて何年も入獄したすえに、ペッパーは失われた時間をとりもとそうとしていた。伴奏者としての演奏であっても、全く斟酌しなかった。心臓が停まるまで、止めることはなかった。そこには、その音楽には、わが友人が感服して止まないある種の高潔さがある。マッキンジーはCDをわたしに与え、失われた時間を取り戻そうとすることをけっしてやめるな、と告げた」60p

アート・ペッバーは1925年生まれ、1982年に亡くなった。1940年代よりスタン・ケントン楽団やベニー・カーター楽団で活動を開始する。1950年代には自己のコンボを結成し、ウエストコースト・ジャズの中心的な人物として活躍した。
生涯を通じて麻薬中毒によりしばしば音楽活動が中断されている。1960年代後半を、ペッパーは薬物中毒者のためのリハビリテーション施設シナノン(en:Synanon)ですごした。1974年には音楽活動に復帰し、ふたたび精力的にライブやレコーディングをおこなった。
リー・コニッツもサックス奏者。1927年10月13日 (89歳)。シカゴの生まれ。

ボッシュは老人ホームにいるサックス奏者クェンティン・マッキンジーからサックスを習っている。
「ベンツのうしろから楽器ケースを取り出し、歩道をのぼって、老人ホームの両びらきのドアの前まで運んだ。カウンターの奥にいる女性に会釈して通り過ぎる。彼女は私を止めなかった。もう顔なじみなのだ。廊下を通り、突き当たりを右に曲がると、音楽室のドアをあけた。部屋の一角にはピアノとオルガンがそれぞれ一台あり、演奏を聴くための椅子が何脚か並べられていたが、聴衆がほとんどいないのは知っていた。クェンティン・マッキンジーは最前列の椅子に腰掛けていた。背中をすぼめ,うつむき、目を閉じている。私がそっと肩引っ張り出してを押すと、すぐにマッキンジーは顔を起こし、目を開いた。
『遅れてすまん、シュガー・レイ』
マッキンジーは舞台名で呼ばれるのを好んでいる,と私は思う。プロの舞台では、シュガー・レイ・マックと呼ばれていた。まるでリング上のシュガー・レイ・ロビンソンのように上体を揺さぶりながら演奏するからだ。
最前列の椅子から一脚引っ張り出して、シュガー・レイと向かい合うように置いた。腰を下ろし、ケースを床におく。スナップを外して、ケースをあけると、えび茶色のヴェルヴェットの裏地に居心地良さそうにおさめられた輝く楽器があらわれた。『きょうはあまり時間がないんだ』私は言った。『四時にウェストウッドで約束がある』
『引退した人間は約束なんてものに左右されないんだぞ』シュガー・レイはルイ・アームストロングと同じ町内で育った人間のような口調だった。『引退した人間には時間がたっぷりとあるんだ(ハヴ・オール・ザ・タイム・イン・ザ・ワールド)[ルイ・アームストロングの曲We love all the time in the world から ]』
『まあ、なんというか、いま調べていることがあって、それで…その、レッスン・スケジュールは守るつもりなんだが、今後二週間ほど予定が立ちにくいかも知れない。もし次のレッスンを受けられないなら、受付に電話して、伝言を残すつもりだ』
この六か月間、われわれは週に二回、午後に顔を合わせていた。私が最初にシュガー・レイが演奏しているのを見たのは、南シナ海に浮かぶ病院船の上だった。1969年のクリスマス時期、負傷兵を慰撫するためにやって来たボブ・ホープの慰問団の一員としてだ。それから長い歳月が経ち、退職前にわたしが担当したいくつかの事件のうちの一件、ある殺人事件の捜査をしていたとき、盗まれたサクソフォンに出くわし、そのベルの朝顔の中にシュガー・レイの名前が刻まれていた。シュガー・レイの居場所を見つけて〈スブレンディッド・エイジ〉にたどりつき、サックスを彼に返した。だが、高齢のため、シュガー・レイはもう演奏できなくなっていた。たくみな演奏をするための肺活量がもうないのだった。
それでもわたしは正しいことをした。迷子を親のもとへ返したようなものだ。シュガー・レイはクリスマス・ディナーにわたしを招待してくれた。その後も連絡を絶やさぬようにして、退職後、わたしは彼の楽器に埃を積もらせない計画を胸に、彼のもとにやってきたわけだ。
シュガー・レイは良い教師だった。教え方を知らないせいだ。楽器を愛する方法や、楽器から命の音を引き出すやり方に関するさまざまな話をしてくれた。わたしが引き出すことのできるどんな調べも、シュガー・レイから記憶や物語を引き出す。けっしてサックス演奏がうまくなることはないのはわかっているものの、週に二回、シュガー・レイと一時間過ごし、ジャズに関する彼の話を聞き、不滅の芸術に彼がいまなお抱いている情熱を感じるために通っていた。どういうわけか、この楽器を口もとへもってきていると、その情熱がわたしのなかに入り込み、息といっしょにほとばしりでるのだった。
サクソフォンをケースから取り出し、構え、奏でる用意をした.いつもレッスンの最初はジョージ・ケイブルスの曲〈ララバイ〉の演奏ではじまる。わたしがフランク・モーガンのCD で初めて聞いた曲だ。スローバラードで、わたしにも演奏するのは易しかった。だが、同時に美しい作品でもある。いつ聞いても、哀しく,安定していて、精神を昂揚させてくれる。一分半もない長さの曲なのだが、この世に一人きりでいることについて、語る必要のあるおよそすべてのことを言い尽くしているように思えた。とりおり、この一曲だけうまく演奏できるようになれたら、それで十分だと思うことがある。それで満ち足りたきぶんになるだろう、と」
「わたしが演奏していると、シュガー・レイはわたしの指の動きを見つめ、よしよしとうなずいた。バラードの途中で彼は目をつむり、耳を澄ませるだけになった。ビートに合わせて、頭を振る。それはこのうえもない賛辞だった。わたしが小品の演奏を終えると、シュガー・レイは目を開き、ほほ笑んだ。
『なかなか上達したな』と,彼は言った。
わたしはうなづいた。
『まだ肺から煙を追い出し切れていない。もっと肺活量をあげるんだ』
わたしはふたたびうなずいた。一年以上煙草を口にしていないが、うまれてこのかた、ほとんどの時間を一日二箱吸っていたため、そのダメージはかなり残っていた。ときどき、この楽器に空気を送り込むのが、邱の上に岩を押し上げて行くような感じになる。
われわれは話をし、わたしはさらに十五分間、練習した。コルトレーンのスタンダード、『ソウル・アイズ』に無謀な試みをしたあと、シュガー・レイのテーマ曲〈スゥイート・スポット〉に挑戦した。複雑なリフだったが、自宅で懸命に練習していた。この老人を喜ばせたかったからだ」
126-130p

クェンティン・マッキンジー=シュガー・レイはyahooやgoogleでは探せなかった。世代の違うロック・バンドやボクサー、不動産屋などしかなかった。
コルトレーンのソウル・アイズは聞くことができた。ジョージ・ケイブルスは今も活躍中の人だが無料で聞ける「ララバイ」は探せなかった。

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2017年08月コナリーのJAZZノート 2

2017年8月20日 1:08



車椅子で身動きの取れない

000000 コナリーのJAZZノート 2



「すると、彼女は[車椅子で身動きの取れない]夫に歌いかけ始めた。
その歌はわたしの知っている歌であり、彼女はそれを巧みに歌った。その声はそよ風のように柔らかかった.その歌のもともとの歌い手はこの世の苦悩のすべてをそのかすれ声に乗せて歌っていたのだが、だれもルイ・アームストロングの足下にも寄れないとおもっていた。しかしダニー・クロスはまちがいなくそばに迫っていた。
青い空が見える  
白い雲も見える
明るく、清らかな緑
暗く、聖なる夜
そしてわたしは、ひとりでこう思うのだ
何とすばらしい世界だろうと」
サッチモの一節である。この作品のタイトルはこの「暗く、聖なる夜」に由来する。
下巻35p

「ダニー・クロスが夫に歌いかけていたときのことを思い出した。ようやくわたしは腰をあげ、CDプレイヤーのところへいき、ルイ・アームストロングの作品集から一枚のディスクをかけた。ジャズに関するケン・バーンズのドキュメンタリー映画に合わせて出されたCDだった。収録されている大半の曲は初期の作品だったが、最後の収録曲が〈この素晴らしき世界〉であることをわたしは知っていた。サッチモの最後のヒット曲だ」97p

シュガー・レイを外に連れ出して、レストランでのコンサートを聴かせる部分だ。写していて、涙がこぼれて困った。
「センターのスタッフが手を貸してくれて、シュガー・レイを車に乗せた。メルセデスRV車は老人が乗り込むには車高が高すぎた。今後も屋外の見学に連れて行こうとしたら、その点を考慮しなければならなくなるだろう、と悟る。
われわれは〈ベイクド・ポテト〉に行って食事をとり、第一部の最初の出演者を見た。〈フォー・スクエアド〉という名のドサまわりのカルテッドだった。上品だったが、少し退屈だった。ビリー・ストレイホーンの曲を徳に好んで演奏しており、わたしも好きだったので、問題なかった。
シュガー・レイにも問題なかった。顔を輝かせ、聞きながら、肩でリズムを取っていた。彼らが演奏しているあいだ、シュガー・レイはひとことも喋らず、一曲が終わるごとに熱狂的な拍手を送った。敬意が彼の目に浮かんでいた。そのサウンドとスタイルに対する敬意だ。
奏者たちはだれもシュガー・レイのことがわからなかった。骨と皮だけの存在になった今、わかる人間はほとんどいなかった。だが、だからといって、シュガー・レイは気にしていなかった。ひとつの音くらいで、われわれの夕べの価値が現実わけでもない」
途中でシュガーは眠ってしまい、苦労してメルセデスに乗せて帰る。部屋でシュガーはここで練習していたのか、と聞き、ボッシュは少しがっかりして、いつも練習しているよ、と答える。生演奏に行ったことを覚えていないのか。ボッシュはシュガーにおやすみを言って帰ろうとする。
「『〈ラッシュ・ライフ〉だった』シュガー・レイはわたしの背中に向かってつぶやいた。
わたしは振返って、シュガー・レイを見た。彼は微笑みを浮かべていた。〈ラッシュ・ライフ〉は、我々が聞いた演奏者たちが最後に演奏した曲だった。シュガー・レイは思い出したのだ。
『あの曲が好きだよ』シュガー・レイは言った。
『ああ、おれも好きさ』
実り多き人生(ラッシュ・ライフ。酔いどれ人生、の意味もある)の思い出にひたるシュガー・レイを残し,わたしは夜に向かった」p195

ラッシュ・ライフはジャズのスタンダード曲。作詞・曲:ビリー・ストレイホーン。原題《Lush Life》。1930年代の作品。ストレイホーンが所属していたデューク・エリントン楽団のバージョンのほか、ナット・キング・コールやジョン・コルトレーンによるバージョンが知られる。

容疑者がいくつかやっているバーで、くだらない店だが音楽だけはいいな、とボッシュは思う。
「この店のひとつ気に入ったところは、音楽だった。店内に足を踏み入れると、チェット・ベイカーの〈クール・バーニン〉がかかっており、王たちはなかなかの趣味の持ち主かもしれない、とわたしは思った」p200

この翻訳に林家正藏があとがきを書いている。彼がJAZZ好きだと知って訳者は関連部分だけ抜き出して第一稿の音楽関連を送る。中に出てくるCDを並べて、その原稿を読む。
「まずは、ハンク・クロフォードとジミー・マクグリフの〈オン・ザ・ブルー・サイド〉(1984年録音)と、パーカッションが入っているので嫌いな人もいるが、わたしは好きな、アート・ペッパーの〈アート・ペッパー・ファースト・ライヴ・イン・ジャパン〉(1977年録音)そしてちょっぴり地味目に〈ハル・ステイン&ウォーレン・フィッツジェラルド〉(1955年録音)を選ぶ。」p317
という調子で果てしなく続く。ジョージ・ケイブルスのララバイまで探し出してくるのには脱帽である。だがあとは小説の中の曲は取り上げていない。その気分にひたって読もうというのだ。

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2017年08月石川三四郎の生涯 七

2017年8月20日 20:09



四 土民哲学の展開

000000 石川三四郎の生涯 七
四 土民哲学の展開

石川三四郎が歴史に足跡を残したのは、平民社の時代のみで、あとはたいした仕事もせず八十まで生き延びた、という見方がある。たしかに、二十代後半からの十年ばかりの輝かしい脚光を浴びた時代の後で、八年間の滞欧のブランクをはさんで、帰国してからはほとんど世間に忘れられた存在になった。だが、彼の独自な思想の展開の上からは、むしろこの忘れられてからの方が重要だ。帰った時はすでに四十五歳だった。だが、ここまでは序説であり,ここからが本文だった。大正後半と昭和の敗戦までの二十年間、彼は東京西郊千歳村(京王線八幡山の近く)で自給自足的な晴耕雨読の生活をおくりながら、独自の思想をつむぎ続けた。大正十一年(1922)にはルクリュ文庫を日本に作りたいという人がいたため蔵書をもらいに再度訪欧した。この二十万冊は港についたところで関東大震災に遇い、全焼してしまった。大正十三年には諸社会主義のゆるやかな連合をめざしたフェビアン協会に参加したり、昭和二年には上海のアナキストに招かれて港湾労働大学に講義にいったり、また平凡社社長で農民運動家でもある下中弥三郎らと農民自治会を作ったりの活動をするが、全体として組織活動よりも求道的・内省的な著作活動が中心となった
この二十五年間の彼の思索を、大まかに三つの時期に分けてみてみよう。
第一の時期は「土民生活」をキーワードとする石川流アナキズムの開花展開の時期である(大正十年45歳から十五年50歳)。第二の時期は、千歳村に共学社をかまえて農耕生活をしつつ、その歴史哲学、社会美学を成熟させて行く時期である(昭和二年51歳から八年57歳)。第三期は昭和九年(1934)の中国訪問以後東洋思想に没頭し、よりひろいアジア的・人類的視野で土民哲学を追求する時期である(昭和9年58歳から20年69歳)。

大正デモクラシーへの批判

三四郎は帰国後しばらくして東大新人会に招かれて講演したとき、「土民生活」という題を付けている。
E・カーペンターに会った時,三四郎は「あなたの『デモクラシーのほうへ』という詩集の題のデモクラシーというのは俗悪で没詩情、ひどいのではないか」と疑問をぶつけた。カーペンターはギリシャ語の辞書を出して来て、デモスとはもともと土の民、土地を耕す者であり、アメリカ流のマス・デモクラシーはおよそ原義とはずれている、と説明した。三四郎は深い衝撃を受け、デモクラシーを「土民生活」という意味で考え直そうとした。
昭和八年(1933)に『近世土民哲学』としてまとめられた中で、大正十年に書かれた「土民生活」という文章が第一章になっている。短文だが、三四郎の「本文」のスタートにふさわしい密度の濃いものだ。
デモクラシーを「土民生活」と訳したこと自体、「大正デモクラシー」への批判にほかならなかった。「大正デモクラシー」を支える進歩主義、普通選挙の拡大によって民主主義を拡張定着できるという考え方、それを背後から支える軽工業を中心とする生産の急成長の未来を、三四郎はむろん信じなかった。
「進化は常に退化を伴うものである」
この論点は、晩年まで繰り返されるライト・モティーフと言える。安全と自由のためのはずの軍隊が他民族の安全と自由を犯すために用いられる。人と人の間に物資を融通するはずの商業が、有無通ずることを妨害し、需給を操作する。政府も、教会も、学校も、工場もみな自らの影を追うて作られたものだ。
「身を養わんが為の食物を過度にして吾等は却て其胃を疑う。徳に伴うべき名声を希うて、吾等は却て吾が徳を損う」
もともとわれわれは大地の子であった。地より出で、地にかえる存在であることはなお変わりがない。ところが、進歩が一つの強迫観念になって以来、文明人の理想は、科学技術による自然の征服になった。いいかえれば、自然の破壊に。それは、われわれの足もとから大地をうばい、もともと自然に抱かれて生きて来たわれわれの生そのものを貧しくし、疎外した。
こうして、誰もが旅人になってしまった。
「人間は、輪廻の道を辿って果てしなき旅路を急いで居る。自ら落ちつく故郷もなく、負うべき宿もなく、徒に我慾の姿に憧憬れて、あえぎ疲れている。旅の恥はかき棄てと唱えて、些かもはずる処なく,平気で不義破廉恥を行なう」
「我が本来の地、我が本来の生活、我が本来の職業という如き相思は、之を今の世の人に求めても得られない。彼らの生活は悉く是れ異境の旅に外ならぬ」
見知らぬ人びとの国で、われわれは孤独な散歩者となっている。土に還れ、土の権威をうちたてよ、地を耕し,地の芸術に参与せよ、それによって自らを耕せ、と三四郎は叫ぶ。
これは自由なる漂泊者三四郎の、きびしい自己省察でもあった。マルクスは「未来を語って生計を立てぬ」と予言を自戒したが、三四郎は政治のまねごとをし、文筆で叫ぶことが土着の自立した生活からかけ離れていることを悩み、克服しようとした。逆説的にも、故郷を遠く離れ、ヨーロッパを放浪する間に彼ははじめて地を耕す者となった。三四郎は近代人の誰もが寄る辺なき漂泊者であることを見極め、真の自由が土着することにしかないこと、それこそが宇宙意識と出会うことだと考えるようになるのだ。
「二十世紀に於ける総ての社会思想は、自治社会主義に帰着しようとしている」
「如何にして自治生活を徹底させることが出来るか、それは第一は総ての人が土着することであらねばならぬ」 
大正十五年(1926)に書いた「近世土民思想の由来」で、ルソーやフーリエにふれつつ三四郎は述べる。この土着とは必ずしも農民のことでない。自然とのふれあいをもった直接生産者ということだ。
直接生産者が中心になっていないという点に三四郎は、既成の社会改革運動の限界を見ていた。三四郎はボルシェビズムもファシズムも,マスとなった人間、砂のような大衆社会に根ざしている点で同じようなものでしかないと考えた。ばらばらにされた大衆を相互扶助的につなぎなおし、土着させるところにこそ改革の一歩がある。農民の自治体と労働者の組合が手をつないで運動の主体となることを三四郎はのぞんだ。政党ではなしに組合が改革の主体となるべきだという考えにおいて、三四郎はサンディカリズムをうけついでいた。
だが、三四郎は、自ら大杉のように労働者街に入って住み着こうとはしなかった。カーペンターのように、耕しつつ思索する方が自分に向いていると考えた。大正十五年(1926)彼は下中弥三郎や中西伴之助らとともに、農民自治会を結成し、共産党系の農民組合とはちがった、より自治的自由連合的な農民闘争をめざす。しかし,当時埼玉県南畑の小作争議を指導して大きな影響力を持った渋谷定輔がマルクス主義に近い立場で農民自治会に力をかしたように、現場では「主義」よりも闘うことが先決だという空気が強く、農民組合への批判をむきだしにした三四郎は次第に孤立した。
三四郎は必ずしも農民を理想化していたわけではない。「昔の農家が食物も、衣るものも、小屋までも、自分たちで作った時代とは物事が顛倒している。……売るために作るという環境と精神状態とがすでに昔の農夫と全然違っている。其精神は土から離れている」。全国市場に組み込まれて、ますます自立性を失いつつある農民たちに、三四郎は、生活を取り戻すことをよびかけ、「深く耕せ」とよびかけ、自治のカギは電力の社会化であり、電力会社から水利をうばって自治体営にせよと提案し、一人ごと一家ごとに市場に組み込まれるのでなしに、購買組合、信用組合、販売組合、生産組合、教育組合などを網の目のように作って行こうとよびかけるのだ。
昭和七年(1932)、高橋蔵相は、農村を救うことはもう政府には出来ないといい、自力で更正してほしいという談を発表した、三四郎はすぐさま「自力更生」という文章で応じ、結構じゃないか、自力更正してみよう、無産者にとって最高の金言ではないかと書いた。中国が建国路線とする自力更生、今日第三世界のいたるところで、そして日本の永久不況下の労働者にとっても切実な課題となっている自力更正の由来だ。

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2017年08月最新作『ブラックボックス』の

2017年8月21日 1:11



最新作『ブラックボックス』の

000000 コナリーのJAZZノート 3

最新作『ブラックボックス』の音楽関連箇所のリストはそう多くない。ボッシュが誕生日に、娘からアート・ペッパーの珍しい五枚組みをもらうのが中心になっている。娘はマデリン(マッシュ)・ボッシュといい、もう中学生だ。彼女は離婚した母親と香港で暮らしていたが、カリフォルニアの容疑者が香港に逃亡したのを追って捜査した時に、妻が射たれて亡くなってしまう。妻は元ロスの警察官だが、今はもっとずっと稼ぐカード・ディーラーになっていた。娘が残され、ボッシュとともにSFに帰る。それから娘との二人暮らしが始る。
◇ 
「ボッシュが帰宅すると、テーブルの上にバースデイケーキがあり,娘が料理本の指導に従って
夕食の準備をしていた。『わあ、いい香りだ』ボッシュは言った」
料理が出来るまでデッキに出ていてと命ぜられ,彼は従う。
「ダイニングルームのテーブルは、ふたり用にセッティングされていた。言われた通り殺人事件調書をテーブルの向こう側にある本棚に置くと、ボッシュはステレオの電源を入れ、CDのトレイをあけた。娘は父親のお気に入りのCD五枚をすでにトレイに載せていた。フランク・モーガンとジョージ・ケーブルス、アート・ペッパー、ロン・カーター、セロニアス・モンク。ボッシュはランダム演奏モードに設定すると、デッキに足を踏み入れた」
娘がどこから料理の材料を買ったのか、プレゼントもあるというそれはどうなのか不安になって、ボッシュはつい彼女のバッグの中をさぐってしまう。犯人扱いに彼女は激怒し、自分の部屋にこもってしまう。いかに失礼な発想をしていたかをボッシュは初めて、謝るが、娘はドアを開けない。何時間かして、彼女は戻ってくる。
「『ケーキを食べる用意はできてる?』
ボッシュは顔を起こした。娘は寝室から出てきていた。長袖のシャツを着ていた。先ほど着ていた正装の服はたぶんクロゼットに吊るしたのだろう。
『もちろん』
ボッシュは殺人事件調書を閉じ、立ち上がると、コーヒーテーブルにそれを置いた。ダイニングテーブルに近づきながら、ボッシュは娘をハグしようとしたが、彼女は軽くそれをいなして,台所の方を向いた。
『ナイフとフォークとお皿を用意させて』
台所から娘は二つのプレゼントをあけるようボッシュに声をかけた。最初に品物が明白なものからあけてね、と。だが、ボッシュは娘が戻ってくるのを待った。
娘がケーキを切ると、ボッシュはネクタイが入っているのがわかっている長くて細い箱をあけた。父親のつけているネクタイがおんぼろで、色褪せているのを彼女はしょっちゅう指摘していた。ネクタイの概念を白黒時代の古いTVドラマ「ドラグネット」から得ているんじゃないか、とすら言ったことがあった。
ボッシュは箱をあけ、青と緑と紫の絞り染めネクタイを目にした。
『奇麗だ』ボッシュは感嘆の声を上げた。『明日締めて行くよ』
娘はほほ笑み、ボッシュは二番目のプレゼントに向かった。包装をほどくと、六枚入りケースに入ったCDが現れた。最近リリースされたアート・ペッパーのライブ録音コレクションだった。
『未発表アート』ボッシュはタイトルを読み上げた。『第一巻から六巻、どうやってみつけたんだ?』
『インターネットで』マデリンは言った。『アートの未亡人がリリースさせたの』
『アートの未亡人がリリースさせたの』
『こんなものが出ていたとは初耳だ』
『彼女は自分のレーベルをもっているんだよ。〈未亡人の趣味(ウィドウズ・テイスト)〉だって』
ボッシュは複数のCDが入っているケースに目を通した。たくさんの曲が入っていた。
『聴いていいかな』
マデリンは切り分けたマーブルケーキを載せた皿をボッシュに手渡した。
『あたしはまだ宿題が残っているんだ』娘は言った。『自分の部屋に戻るから、でもパパは聴いてて』
『最初の一枚からはじめよう』
『気に入ってくれるといいな』
『もちろん気に入るさ。ありがとう、マディ、いろいろやってくれて』
ボッシュは皿とCDをテーブルに置くと、娘をハグしようと手を伸ばした。今回娘はそれを許し,ボッシュはそのことをこのうえもなくありがたいと思った」
晩年のモンクを聴きながら写している。このあたりはさすがに古沢嘉通氏の訳がうまいというか、自然に何度でも涙が出てくる。読んでいて幸福だ。

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2017年08月コナリーのJAZZノート 4

2017年8月21日 11:26



ボッシュは誕生日に娘から贈られた

000000 コナリーのJAZZノート 4

「ボッシュは誕生日に娘から贈られたアート・ペッパーのライブ録音を順に聴いていた。今は三枚目がかかっており、三十年前にイングランドのクロイドンのクラブで録音された息を呑むくらい美しい『パトリシア』を聴いていた。中年にわたるドラッグ摂取とリハビリ施設暮らしを終えて、カムバックした時期の演奏だった。1981年のこの夜、ペッパーは融通無礙だった。この一曲でだれも彼よりうまく演奏できないことを証明している、とボッシュは思った。『このよのものならぬ』という言葉の意味を正確に把握しているとは思わなかったが、心に浮かんで来たのはその言葉だった。その曲は完璧だった、ペッパーと三人のばんどめんばーのからみあいと意思疎通は完璧であり、ペッパーの四本の指の動きとみごとに合っていた。ジャズ音楽を表現するのに用いられる言葉はたくさんあった。ボッシュは、永年、雑誌やレコードのライナー・ノーツでそれらの言葉を読んできた。必ずしもいつも理解したわけでなかった。自分が好きなものをただ知っているだけであり、それで十分だった。力強くて、やむことがなく、ときに哀しい。
その曲が流れているあいだ、コンピュータ画面に集中しているのが難しいのにボッシュは気づいた。バンドはほぼ二十分近く演奏していた。「パトリシア」の入っている、ほかのレコードやCDをすでに持っていた。ペッパーの代表曲のひとつだ。だが、これとおなじ力強い情熱で演奏されている「パトリシア」は聴いたことがなかった。ボッシュは娘を見た。カウチに横になって本を読んでいる。学校の新たに課題本だった。今回の本は『さよならを待つ二人のために』だった。 
『これは娘のことなんだ』ボッシュは言った。
マデリンが本越しに父親を見た。
『どういう意味?』
『この曲さ。『パトリシア』。アートは、娘のためにこの曲を書いたんだ。娘の人生の長い期間、アートは彼女から離れていたんだが、娘を愛しており,娘と会えないのを悲しんでいた。それがこの曲から聞こえるとは思わないか』
マデリンは少し考えてから、うなずいた。
『そうだね。サクソフォンが泣いてるみたいに聞こえる』
ボッシュはうなずき返した」
ボッシュはマデリンが生まれたことを、四歳になるまで知らなかった。妻はラスベガスでこっそり産んで、その後香港に移り住んで、ボッシュに会わせる気がなかった。香港に行った時に、男がいるのかと問いつめて、四歳の娘を紹介されたのだ。

別の晩だ。ボッシュは余計な心配を娘にぶつけて、二人とも哀しい思いをする。
「『おれがアート・ペッバーみたいにあの曲を演奏できるなら、演奏してみせるんだが。そうすれば、おれがどんな気持ちでいるか、おまえにもわかるだろう』
ボッシュは言いすぎた。自分の疚しさを娘に押し付けてしまった。
『わかってるって!』マデリンは苛立たし気な声で言った。『もう、寝るね、おやすみ』
娘は戸口を通り、後ろ手にドアを閉めた。
『おやすみ、ベイビー』ボッシュは言った」。

新しいキャラクターが出てくる。ホロドナクというロス市警の訓練員で、銃の訓練とかしている。ボッシュよりも大部JAZZに詳しく、会うたびにボッシュにいろいろ難問を仕掛けてテストする。銃が好きで、ずっと射撃の研究をしている娘を訓練に連れて行く。
「『あのな、ハリー、最近はチェンジャーに何をいれてる?』
『アート・ペッパーの古いライブを何枚か。うちの子がおれの誕生日に見つけてくれたんだ。最近何か見つけたかい』
ホロドナクはボッシュの知るかぎりでは、ほかに類を見ないジャズ・マニアだった。そして、彼がもたらすちょっとした情報は、たいてい大当たりだった。
ボッシュはその名前に聞き覚えはあったものの、はっきりさせるのに努力が要った。これはボッシュとホロドナクがよくやっているゲームだった。
『ピアノだ』ようやくボッシュは言った。「トム・ハレルのグループでえんそうしているんじゃなかったっけ? 地元のプレーヤーのひとりだ」
ボッシュは自分を誇らしく思った。
『正しくもあり、間違ってもいる。出身はここだが,ずっとニューヨークにいるんだ。しばらくそっちを拠点にしている。リリーを訪ねてニューヨークにいったとき、〈ジャズ・スタンダード〉で、ハレルと一緒に弾いているのをみた』
ホロドナクの娘は、ニューヨークで暮らす作家だった。ホロドナクは頻繁にそちらに出かけ、夜、書き物ができるように娘にアパートメントから追い出されると、クラブを転々として数多くのジャズ・プレイヤーを発見していた。
『グリセットは自前のアルバムも出している』ホロドナクはつづけた。『「フォーム」というアルバムを推薦するぞ。最新アルバムだが、聴く価値がある。ネオ・バップだ。あんたの好きそうなすばらしいテナー・サックス奏者と共演している。シェイマス・ブレイクだ。「レッツ・フェィス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス』というソロ曲をチェックしてみろ。タイトだ』
『わかった、チェックしてみる』ボッシュは言った。『じゃあ10時に会おう』[娘と銃を射ちにくる]
『ちょっと待った。そんなに急ぐなよ、相棒』ホロドナクはすぐに返事を投げ返してきた。『あんたの番だ。何か寄越せ』
それがルールだった。受け取ったら、返さなければならない。願わくはホロドナクのジャズ・レーダーにすでに補足されていない何かを返さなければならなかった。懸命に頭を振り絞った。マデリンにもらったペッパーのディスクに没頭していたが、その誕生日プレゼントを受け取る前は、自分のジャズの視野を広げようとし、若い年代のプレイヤーに行くことで娘に興味を持ってもらおうとしていた。
『グレース・ケリー』ボッシュは言った。『モナコ公妃のほうじゃない』
ホロドナクはボッシュの投げかけてきた挑戦の簡単さに笑い声を上げた。
『公妃じゃない、若い方のグレースだ。若いアルトサックスのセンセーション。レコードではフィル・ウッズやリー・コニッツとチームを組んでいる。コニッツと組んだやつのほうがいいと思うな。次は?』
ボッシュにはもう一度挑むのは、絶望的に思えた。
『わかった、もう一度だな。どうだろう……ゲイリー・スマルヤンは?』
『「隠された財宝」』ホロドナクはすぐさま解答し、ボッシュが考えていたまさにそのアルバムを挙げた。『スマルヤンがバリトンサックスをバリトンサックスを演奏し、ベースとドラムがリズムを刻むだけだ。いいアルバムだ、ハリー。だけど、おれの勝ちだな』
『ああ、いつかは負かしてやる』
『当分無理さ。じゃあ、十時にな』」

ボッシュとマデリンの射撃練習につきあったホロドナクは、別れ際にも話を続ける。
「『マイクル・フォーマンエック』ホロドナクは言った。『ザ・ラブ・アンド・スペア・チェンジ』
ホロドナクは、片手で銃を射つ仕草をボッシュに向けた。ホロドナクがジャズの話をしているとはわからなかったものの、マデリンは笑い声を上げた。ボッシュは振返り、後ろ向きで歩きながら、両手を上げて、降参の仕草を示した。
『サンフランシスコ出身のベーシストだ』ホロドナクは言った。『インサイドでもアウトサイドでも演奏できる偉大な男だ。あんたは自分の守備範囲を広げるべきだぞ。聴く価値がある人間がみんな死んでいるわけじゃない。マデリン、きみのオヤジの次の誕生日に、また会いにきてくれ』
ボッシュは手を振ってホロドナクに挨拶すると、回れ右をした」

コナリーは読者に挑戦してもいるのだと思う。新しいジャズはどんどん登場してきてもいて、日本では簡単に手に入らない。ここでは2003年と2012年の作品から抜き出した。犯罪を追う本筋以外に、恋人や娘とのストーリーがあり、ジャズにからむ話があり、またサンフランシスコのおいしいものについても偏りはあるが結構書き込んでいる。03年には養老院にいるサックス奏者シュガー・レイのことを準主役級で書いていた。そのご当然彼のことは見送ったのだろうが、先生がいなくなったボッシュのサックスはどうなつたのだろう。克明に読み返せば出てくるのかもしれないが、いままでそういう読み方をしていなかった。

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2017年08月9月23日(土)に

2017年8月21日 13:57



済南料理をやることに

000000 9月23日(土)に檜原村で済南料理をやることになりました。
済南には何度か行っていますが、山東省の首都ですね。孔子の故郷である曲阜もあり、中国一の聖山である泰山もここにあります。もう過去のことですが、私は泰山に二度徒歩で登っています。バスでも二度登りました。伝説の泰山の上が割れたビール瓶でいっぱいだったので、腹を立てて、次回には日本からたくさんのゴミ袋を持ってきてそのかけらを拾い、それを積み上げてまわりで気功をしました。また青島も山東省です。青島の大きな道観を訪ねて道士たちの生活に触れました。
中国料理の中でも済南の料理には特別の思い入れがあります。済南の料理は北京料理にもっとも深い影響を与えた料理です。清の宮廷の人びとはもともと北方の平原にいた人たちですから、羊を焼くくらいの文化しか持っていませんでした。それがあるとき済南の庶民料理に触れた皇帝がすっかり気に入ってしまい、山東からコックを呼んで宮廷料理を作らせました。調理場の共通語はのちのちまで山東語であったとされます。乾隆帝や西太后が愛した料理は済南の料理をベースにしたものだったのです。
しかしむろん済南にも独自の料理は残りました。それは庶民的でありながら非常に洗練されたものでした。文化大革命の時に大部分の済南伝統料理の店は責め立てられ、料理人は皆下放されました。嵐が過ぎ去った時に済南料理の伝統はほとんど残っていませんでした。しかし済南でずっと料理修行をした佐藤孟江さん、佐藤浩六さんが日本で高い水準の済南料理を保持していたので、中国政府は彼らを招いて済南料理を復権しました。佐藤さんたちは最近まで東京で店をやり、料理教室をしていましたが、最近高齢のため引退しました。私は六本木にあったころの店に何度か行き、習ったという程のことはありませんが、いろいろ話をうかがいました。
まだ時間がありますので、済南料理がどんなものかを追々紹介しながら、さてさて何を作ろうか、いろいろ考えて行きましょう。来たことのない方も気軽に申し込んでください。

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2017年08月気と場の勉強会

2017年8月21日 13:59



今回は済南料理

000000 ◆気と場の勉強会〜今回は済南料理〜
https://www.facebook.com/events/665055377017858/
*「気と場の勉強会」は、NPO法人れんげ舎のメンバーが、津村喬さんを招いて、
自分たちのために開いている勉強会です。一般の方もご参加になれます。
【日 時】2017年9月23日(土) 12:30〜20:00
*希望者は+3000円で宿泊もできます(朝の気功と簡単な朝食付き)
【場 所】れんげ舎檜原BASE
〒190-0211 東京都西多摩郡檜原村三都郷2810-8
【参加費】7,000円(食事代込み)
*宿泊の場合は別途+3,000円
【申込み】件名に「9/23 気と場の勉強会参加申込み」と記載の上、
れんげ舎事務局(class@rengesha.com)までメールでご連絡ください。
宿泊や駐車場利用をご希望の場合は、その旨お書き添えください。
<詳細ページ>https://www.facebook.com/events/665055377017858/
【講 師】津村喬さん
【タイムスケジュール (予定)】
(11:30 武蔵五日市駅発・藤倉行きバス→11:57 千足着)
12:30〜15:30 第1部(気功)
16:00〜17:30 第2部(お話)
食事準備
18:00〜20:00 夕食・済南料理
(20:34 千足発・武蔵五日市駅行き最終バス→21:01 武蔵五日市駅着)
*宿泊の場合の翌朝スケジュール
06:00 朝の気功
07:00 朝ごはん、片づけ
(08:50 千足発・武蔵五日市駅行きバス→09:18 武蔵五日市駅着

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2017年08月こんなことを考えているのですが

2017年8月21日 14:22



まだ決まりません

000000 こんなことを考えているのですが、まだ決まりません。
◆徳洲扒鶏
徳洲扒鶏という鶏のとろとろ煮はぜひやってみたいのですが。扒というのは調理法です。徳洲は済南から北に黄河を渡って110キロのところですが、中国の最大綿花集積地になっています。正式の名称は「徳洲五香脱骨扒鶏」といいます。まず赤褐色に揚げてから15種類の香辛料を入れた中で八時間程煮ます。でも煮て非なるものになるかもしれない。山東へ行って買ってきたい。
◆エビとタラの炒め
たらとエビの煮物です。しょうがとネギと炒めます。卵をまぶすように炒めます。黒酢の入ったあんをかけます。
◆肉夹饅
豚の角煮を挟んだまんとうです。
◆銀杏
孔子から数えて53代目の子孫孔治が先祖に敬意を示し、孔府に「詩禮堂」という建物を建てることになり、その門前には一対の巨大なギンナンの木が植えられました。このギンナンは毎年多くの実を付け、その実は毎年の孔府の宴に用いられたそうです。今回のレシピはそのギンナンを使った孔府の名菜から。
◆九天大腸・山東風モツ炒め
名前の由来がなかなか面白いので紹介しておきます(ただしあくまで伝説です)。清朝末期の済南地方に九華楼と呼ばれる有名なホテルがあり、毎日多くの客で非常に賑わっていました。経営者はとにかく”九”の字が好きでたまらず、自分の経営する会社のすべてに”九”の字を冠していたといわれます。ホテル九華楼は規模は小さいながら有名な料理人を多数抱えていたといわれ、ホテルのレストランでは人気料理だった「紅燒大腸」に改良を重ね新たな料理を生み出しました。
経営者の開く宴会では必ずこの料理が出され、招待された客は皆この料理を絶賛し、初めて食べる客は皆この料理の名前を尋ねました。経営者は道教の秘薬の一つである「九轉仙丹」にちなんで、『九轉大腸』と呼ぶと説明していましたが、彼の”九”好きを知る親しい友人たちは、「また”九”か…」と大いにあきれたといいます。
というわけで、この料理は『紅燒大腸』がベースになっているのですが、より香り高く、より柔らかく、より食欲をそそる味付けがなされています。豚大腸を三センチくらいに切り、炒めてから、酢 大さじ3、胡椒粉 1g、肉桂粉 1g、花椒粉 3g、 五香粉 少々で煮て行きます。

まだ確定でないので、研究中です。もう何品か庶民的なものを増やそうかな。北京料理から山東料理を探すとどうしても宮廷料理になってしまいます。

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2017年08月わたしは一回も

2017年8月21日 16:30



聴いたことがなかった

000000 わたしは一回も聴いたことがなかった。いまになって順番に聴いている。わたしのジャズ学校である。高野雲の快楽ジャズ通信だ。もうすんだ番組らしいのだが、ミュージックバードで2008年10月から2010年9月までの毎週土曜夜の夜にしていた。55分枠の番組だから、一回分がかなり聞き応えがある。youtubeに全部入っているのかどうかまだ調べていないが何十かは入っている。最初に聴いたのが「JAZZでする枯葉」。今までシャンソンの方しか知らなかったが、JAZZに入り込んで実にいろんな人が演奏しているのに驚いた。スタン・ゲッツにはじまって,サックスのジョニー・グリフィン、ビアノ・トリオのウィンストン・ケリー、サラ・ヴォーンのヴォーカル、エロール・ガーナーなどの枯葉はまさにびっくり仰天の世界。ビル・エバンス、ジャズ・バッハ、キース・ジャレットなどをとりあえず聴いた。これだけで四時間。あとは書く時に少しずつバックグラウンドで聴いている。一通り聴いたくらいにやっと自分で探して選んで聴ける程度の「教養」は身につくだろう。100時間というのはいい加減かもしれない。

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2017年08月済南料理あれこれ

2017年8月21日 21:30



庶民的な、特に野菜料理

000000 済南料理あれこれ

佐藤孟江さんが書いているのは、庶民的な、特に野菜料理。これも魅力的です。
◇炒土豆絲
じゃがいもと寒天を炒めたもの。
◇炒款冬
ふきの唐辛子炒め
◇紅西柿鶏田蛋
トマトの卵炒め
◇肉末四季豆
いんげんと挽肉の炒め
◇乾焼石歟勺柏
アスパラ、こんにゃく、中国セロリの炒め
などです。北京料理になった済南料理は宮廷料理ですからぜいたくなものが主体ですが、ここに書かれているのはとても庶民的なものでね材料費もかからないので、二つ三つしてみましょう。ていねいな作り方なのでおいしそうです。

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2017年08月石川三四郎の生涯 8

2017年8月22日 0:30



4 土民哲学の展開の2

000000 石川三四郎の生涯 八
四 土民哲学の展開の2

耕しつつ思索する

昭和二年から三四郎は千歳村に住みつく。最初彼は小規模の集団農場的コミューンを構想して友人たちをよんだのだが、三四郎が日本に帰ってきて間もなく年下の愛人となった望月百合子が共同生活をいやがったため、せめて学習だけは共にと、共学社を創設した。福田英子はこの前年に死んでいた。百合子は五年ほど三四郎と暮らし、別の男と結婚する。百合子が別れた翌年、新津志津が三四郎の養女となって石川永子を名乗り、彼が死ぬまで同居して世話をすることになる。 
さて三四郎はいよいよ農耕をはじめるのだが、ヨーロッパで覚えてきたとおりに深く穴を掘ってキャベツを植えて腐らせたり、果樹も虫でダメにしたり、さんざんの状態になる。こういうことは気候風土の研究からしなければダメだったと後で反省している。しかしまあ細々と、農業生産は続いた。手伝ってくれる若者もみつかった。そのかたわら、たくさんのパンフレットを共学社で出し、また個人雑誌「ディナミック」を昭和四年から九年まで出し、千人程度であったが熱心な読者を持った。
時代はますます閉塞し、満州事変から日中戦争へと事態は進みつつあった。三四郎は「ディナミック」その他の紙上で、軍国主義を非難し、自治と平和をうたいつづけ、しばしば発禁をくった。哲学的な著作とは別に、ジャーナリストとしての三四郎の実力はこの時期とくに目立った。マルクス派はこのころぽきぽきと折れるように転向し「土民」と政治の距離をかみしめていたが、三四郎にとってそれは明治末期にくぐり抜けた問題であった。
マルクス派の中には、この距離を埋めるために柳田学に走る者も少なからずあった。柳田の「常民」と三四郎の「土民」とは似通った概念のように見える。
常民は、農民を中心に「目に一丁字なき」民衆であり、エリートではなしにこの人びとこそが歴史を動かすのだと柳田は考えていた。常民の「自らを知ろうとする願い」に依拠して社会改造を押し進めようとした柳田は、政治に触れようとせず、民衆の自治を拡大して政府を無力化することを考えていたらしく、アナキズムに大変近い。これらの点で石川と柳田は近い位置にいた。ラディカルな保守主義ということ,原始生活の省察を未来の社会改造に生かそうという構想、その手がかりが現実の農村からどんどん失われていくことを時間と競争するように切に憂慮していたことも同じだ。ちなみに、柳田も木下尚江が没頭した岡田式静坐に通っている。
だが、土民の語は、ふるい文書の中の「土民起つ」という繰り返される一揆叛乱の記録からとられたものである点が、常民とはだいぶ違っていた。三四郎は追いつめられた農民のまつりとしての蜂起により、それを通してのみ共同体の最良の諸要素が回復するだろうことをうたがわなかった。また三四郎は、民俗学に触れることなしに、イギリス、フランスのエスノロジー的な地理学、人類学に触れた。日本を知るために、という内省の学よりも、異質なものと出会うことで自己をたしかめるという方法が先行した。
昭和八年(1933)の『歴史哲学序論』は三四郎のもっとも重要な著作の一つと言ってよい。第一篇「歴史学総論」では、細分化された科学を批判して人間的・人道的・全体的科学を回復し、人間と大地の交渉に全体史を構想して行こうということが述べられる。また歴史を一元的に見るのでなく,地理的・時代的に多元的に展開するものとして見ることを強調している。第二篇、「進化思想及び進歩思想」は優勝劣敗的進化論への批判をもとに、マルクスはじめ「進歩史観」の誤りを批判している。これは繰り返せば、今西錦司による生態学的なダーウィン批判と通ずる。マルクス自身もけっして楽天的に一元的進歩を説いたわけでないことは疎外と物象化の理論や公害・自然破壊への洞察を見れば明らかだ。しかし、ヨーロッパのモデルを中心として、原始共同体、古典古代、封建制、資本制、そして社会主義という契機的移行が必然他という考え方をしていたことはある。アジア的生産様式の研究を通じてヨーロッパがむしろ例外的であることを学んだマルクスは、次第に人類学と共同体研究に熱中し、多元的歴史観を再構成しようとした。最近「晩期マルクス」として注目されているのがこれだ。
三四郎のマルクス批判には、今からみると一面的なところが目立つが(あまりマルクス・レーニンの原典を研究しなかったようだ)当時の共産党系学者初め俗流マルクス主義を粉砕するにはこれで十分だったとも言える。実際講座派系の近代化論者の中からは、生産力の進歩のためにはファシストにも協力する「生産力史観」に立って転向を合理化した人たちが出たのだった。「必然的な進歩」という考えは、人間を、生の豊かさを冒涜するものであり、「いま、ここ」を押し殺すものであり、かつ進歩の名において行なわれる自然と人間の破壊にたいして自ら武装解除することになると三四郎は主張するのだ。
この石川の反進化論は、彼が親しかった中国革命同盟会のリーダー章炳麟の「倶分進化論」によく似た響きを持っている。章は進化があれば退化がそれに伴うこと、好勝心=優勝劣敗の思想こそ悪の根源であることを主張した。それだけでなく、無政府、無社会、無人類、無生物、無世界の五無論を唱えた。無政府だけではだめで、無世界まで行かなければ生命に内在する闘争本能を断つことはできないといって、アナキズムが見落としがちだった生物本能の問題までもえぐったことは注目される。章は清朝(満族)にたいする漢族の「復仇」をとなえて、民族主義革命の立場に立ったが、凡百の民族解放論と異なるのは、だが省みれば中原はもと苗族の地であったのだから、苗族、越族は漢族に「復仇」する権利があり、動物は人間に「復仇」する権利があり、植物は動物に、といって,無生物を解放することなしに人間の解放はなく、中国の解放はないという無限の連鎖を示した点である。生態学的・相互扶助的世界観を説く「唯識」を革命原理とした章炳麟の思想は、弟子の魯迅・蔡元培らを通じて毛沢東にも大きな影響を与えた。三四郎が、コミュニズム一般をあれだけ憎悪しつつも、中国共産党だけは土民哲学に立っているとして擁護し期待しつづけたのはこのためだったろうか。

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2017年08月焼酎との出会い・マオタイの洗礼

2017年8月22日 10:30



マオタイの洗礼

000000 焼酎との出会い・マオタイの洗礼
焼酎偏愛(海風社) から
マオタイの洗礼

1985年、海風社で『月刊焼酎通信』を出して当時の質の悪いワープロ(一文字変換)で書きまくった時に、わたしと中国酒との最初の出会いを書いた短い文章があったので、掲載しておく。

焼酎との最初の出会いは、見せてもらった中国でのことだった。
中国には七回ほど行っているはずだが[これはとんでもない勘違いで、この1985年の時点で28回ほど中国に行っている]最初に行ったのは1964年、もう20年以上になる。高校に入ったばかりで、たしか六月から休んで三か月ほど向こうですごした。むろん国交の開かれるだいぶ前で、普通はなかなか行けなかった。父親が中国と縁が深く、昔年の病を中国で療養してみないかと招かれたのに便乗して、一家で訪中したのだ。当時は香港からしか入れず、広州から中国民航で北京に飛び、少し滞在してから汽車で24時間揺られて大連に行き、そこでロシア人が使っていたのではないかと思われる西洋式の家屋を提供されて住んだ。父は数度目だし,母は二度目だからこごのんびりと過ごし、兄とわたしは退屈だろうと、ハルピンから広東までまわらせてくれた。思い出しても大変な配慮で、一生を労働運動に捧げた父への中国側の労働組合の真情があふれていた。われわれが帰ってからも父は一年近くのこりかなり元気になって帰ってきた[厳密に言うと、兄と母は一か月余で帰り、わたしはさらに二か月ほど居残った。]
初めての外国であるから,当然深刻なカルチャーショックがある。まだ観光客というもののない時代だったから、見せるためのポーズが少ない時代だ。人民公社の農家の軒で雑穀に煮たいんげんを乗せただけの飯を横取りさせてもらうかと思えば,上海のもとのイギリス人の高級クラブで老いたボーイのビリヤードの妙技を見せてもらったりもした。文化大革命の始る前年であるから、よく言えば落ちついて、中国らしいゆったりしたリズムを味わえる時期だったし、悪く言えば腐朽してよどんで二十歳いた。すでに農村では社会主義教育運動という形で動乱の予兆があったが,この時はわからなかった。
いろいろと刺激の多かったこの旅の中で、あとあとに影響を残したこととして三点ほどを挙げることができる。ひとつは南京のことだ。兄貴分のように冗談を言い合っていた通訳のT氏が唐突にこわばってしまったのが日中戦争の記憶のせいであることを知って、はじめて正面から向き合って日本と中国の歴史的累積について話をし、日本軍による虐殺の遺跡を案内してもらった。自分の暮らす国を外から見る視点をわたしは初めて手にした。罪を詫びると行った意識はあまりなく、むしろ自分の生の背後の歴史的重層決定に気づいたということだったろう。
もうひとつは、しばしば書いているが、中国の医学との出会いだった。父のからだを診てくれた医者は三人いて、ひとりは漢方もわかる西洋医、ひとりは指圧・マッサージ師、もうひとりが太極拳と気功の教師だった。太極拳、気功とであったことはわたしに医療・体育についての目を開かせてくれた。
わたしが二十歳そこそこで書いた最初の本『われらの内なる差別』(70年)ガコの南京体験のときほぐしだったとすれば、パンフケット『東洋体育運動の基礎』(73年)以来の気功・太極拳を軸とした「からだ自主管理」運動はこの父親の受けた「治療」から出発したものだったといえる。
三番目のインパクトが『月刊焼酎通信』にまでつながった。マオタイ(茅台酒)の洗礼を受けたのである。
大連(当時は行政上は旅順と一諸にして「旅大」と呼んでいたが)の家は十いくつかの宿舎の団地で、二分ほど歩いて食堂に毎食食べに行った。片言の日本語のできるコックがいて、時折ひどい味の「日本風」料理を作って自慢げにしていた。父にコレステロールがよくないと、黄身のない真っ白な目玉焼き(?)を作ったりして、父は大いに不満だった。
普段は工作員がいろんな内部刊行物を持って情報伝達に来たが、時々幹部が宴会に来た。単調な日々へのもてなしでもあるが、それを口実にして、幹部たちがハメをはずす機会でもあった。ところが父親はまったく酒というものを口にしないので、彼らはバツの悪さをごまかすために未成年の[16歳]わたしにしきりに乾杯を強いた。ビールやワイン程度ならばこっそり飲んでいたが、52度のマオタイはまさしくカルチャーショックだった。当時から大きかったから向うも悪いことをしていると思わなかったろうが、まずいとか辛いとかまったく思わず喜んで飲んだのはやはり天性というべきか。
父が飲まなかったのは病気のせいではない。明治のクリスチャンから社会主義に転じた父には殉教者的な風貌があって、酒は罪悪であり、酒を飲まなければホンネが語れないなどとは人間的弱さの現れだと信じていた。自分が飲まないだけでなく、部下にも禁じた。酒どころか麻雀とゴルフなしに研修会もしないというのが今の組合だから、エイリアン扱いで彼の言うことに全部賛成する人でもつきあうのは難事業だった。そんな父親の前で公然と酔っぱらえる機会をわたしは最大限に利用した。ワイングラスに十杯ほどのマオタイで文字通りぶっ倒れた時はさすがに何か言われた気がするが、よく覚えていない。
もちろん反抗心はあって、実直でほぐれない父に同情しながら、つきあいきれない、という部分はあった。しかしあとから思うと、酒の上でまあまあとやる日本的甘えへの父への憎悪は理解できるところがある。せめても、本当にうまい酒だけを飲みたい、自分をごまかすために飲みたくないと、いま思っている。
中国でうまいのは茅台酒だけではない。茅台酒は田中訪中以来政治価格がついてやたらに高くなった。味の点では汾酒(ふぇんちゅう)や五糧液(うーりゃんいえ)の方が上という人もいるし、そんなに有名でないが劉伶酔(りゅうりんつぇ)もすばらしい。西鳳酒(しーふぉんちゅう)というのも高級な油を飲んでいるような不思議なもので、沖縄の残波で古酒を飲んだときにこれを思い出した。
78年だったか,久々に中国へ行った時、他人のみやげはまったく買わずにこの種の酒を16本もさげてきたことがあった。関税を心配してたら「雑酒」扱いで五六百円しかとられず、日本の酒税法の認識不足に感謝感激だったことがある。今はどうか知らない。
ここに挙げたのはみな焼酎である、新しいとはいっても五百年は経つが、少なくとも李白や杜甫の唐代にはなかったので、もっと弱い醸造酒であれだけ壮大な酒の詩を書いた想像力には頭が下がる。李白にひういう輝くような焼酎を飲ませたらどんな詩をつくっただろう。
麹の種類は違うが、麦芽でなく麹を使った蒸留酒という点で、中国酒と日本の焼酎は兄弟分である。好みもあろうが、中国酒の迫力にはだいぶ負ける気がする。日本の焼酎は基本を25度に設定しているのが、弱みでもあれば強みでもある。中国酒のようなふくいくたる、部屋中に広がる香りはのぞめないが、もっと微妙でしみじみとした味を味わえる。だが、わたしの焼酎を味わう舌はどうしても「マオタイの洗礼」の記憶がひとつのモノサシになってしまうところがある。我が焼酎も兄貴分をライバル視して洗練して欲しいものだ。

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2017年08月焼酎道の師匠たち

2017年8月23日 3:17



山崎と小苅米

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焼酎道の師匠たち・山崎と小苅米 わたしに酒を教えてくれた兄貴分


 新日本文学会というところから熱心な誘いがきて、よくわからぬままに入ったのが1971年だった。五年くらいの間かなり深みにはまってつきあい、勉強させてもらうことになるのだが、最初は小野二郎を編集長とする『総合芸術辞典』の計画があって、その編集スタッフとして招かれた。だいぶ勉強会をくりかえしながら結局実現しなかったこのプロジェクトで、せりか書房をやっていた久保覚やフランス哲学・文学の紹介者としてすでに活躍していた宇波彰といった先輩に出会った。
社会新報にいた詩人山崎昌夫、演劇評論の小苅米哯もこれに参加する形で新日本文学会にかかわり、このふたりとはなぜかとくに気が合った。わたしの方は二十歳そこそこで、ふたりは一回り以上年上だったはずだが、生意気な半可通の「構造主義」者だったわたしを対等に相手にしてくれて、とくに山崎とは週に二度三度と会って飲み歩いた。
山崎はイガグリくんのような短髪の丸顔で牛乳瓶の底のような眼鏡をかけていた。ずんぐりしてパワフルな印象を与える山崎に対して小苅米はひょろっとして気弱そうなところがあり、酔って浄瑠璃などうなり、細い首を振っていると文楽人形のようにみえることがあった。
 ふたりともとにかくよく飲んだ。小苅米は岩手だったかの東北の出で、清酒が好きだったようだが、新潟出身の山崎は清酒ものんだが焼酎のほうを好んだようだった。焼酎の師匠としては山崎の名を挙げておかねばならない。明け方三時四時まではペースをくずさず、新宿で言うと五十鈴のようなところで始発電車まで清酒かビールで酔いをさまして帰った。山崎は朝帰りしてひと眠りして、子供を幼稚園に送り出してから母ちゃんと仲よくして、それから出勤しに行くのだと言っていた。

 なんでも喜んで飲んだ中で、山崎にはとくに焼酎の教育を受けた気がする。それも、梅割りやホッピーでなく、本格焼酎や泡盛である。
 中野から北へ行って、早稲田通りの薬師銀座入り口の近くに田原坂という店が今もあるが、ここは山崎に連れて行かれた[ここは2017年現在いまもある]。清酒は熊本の美少年、焼酎は熊焼酎が置いてあって、焼酎をやりながら鉄鍋の煮込みで初めて辛し蓮根など挟み,茶そばで終えるのが彼のいつものやりかただった。そういうささなことの、考え抜かれていてしかも嫌味のない美学といったものを教えられた。最近行ったら美少年の粕取りが置いてあって、なかなかよかった。  泡盛は山崎に仕込まれるまで知らなかった。
新宿二丁目のモダンアートというヌード劇場に、できたてのころは時々行ったが、その近くに汚いガラス戸四枚で道とへだてられた五六人のカウンターだけの、くずれそうな店があって、そこは泡盛しか置いてなかった。裸電球が二つ下がっていた。小便、というとガラス戸の外のバケツにしろとおばさんに言われた。しょんべん横町と同じように、街の中の異境というところがあった。ずっとあとになって沖縄へ行くまでは、わたしは泡盛というのは山崎のように割りもせず一気にあおるもだとばかり思っていた。
 泡盛屋は、飯田橋の警察病院の角から下がったところの店や、中野の田原坂の近くの店に何度か行っているが、名前も忘れてしまった。新宿の西口から淀橋警察のほうに行ったところにもあって、店の名前も山崎と言った。あるとき、いいかげん飲んでから勘定して出て、かなり歩いて駅の方へきてから、山崎が急ににやにやして、外套の懐から泡盛の一杯入ったカラカラを取り出した。「ちょっと欠けてるけど、なかなかいいから、津村さんおみやげ」といわれてびっくりしたが、引き返すわけにも行かないから、有り難くもらったが、波なみと入っていては電車にも乗れないのでやむなく駅に着くまでに二人で飲み干した。山崎は店の物を持ち出したりする人ではないが、何か気に食わないことでもあると、その種のいたずらを一種のひそかな懲罰というか、鬱憤ばらしにすることがあった。何か店の態度に気に触ることがあったのかなと思ったが聞かなかった。このカラカラはまだ神戸の家で使っている。

 マオタイとはなかなか出会えなかったが,新宿で飲める中国酒にパイカルがあった。白乾児と書いてパイカルである。もともとは中国での安い白酒(焼酎)の総称である。満州で造り酒屋をしていた永昌源が焼酎乙類として認可をとって東京で作っていた。パイカルが35度で楊貴妃が25度だったか。石の家と言う,これも満州帰りのやっているギョーザの店があって,ここではコップ一杯百円くらいで飲めた。これは新宿の南口から東に階段を下って行って御苑の方に行きかけたところにあった。この階段の下には台北という店があって、やはりパイカルなどを飲めた。どちらも今でもあるはずだが[この階段がルミネでなくなって台北はきれいに消滅している。石の家は新宿三丁目でしている]台北を台湾のおまわりさんだという人がやっていたしばらくの時期は、おいしいし話も面白く、よく通った。  もう一軒、パイカルでわすれられないのは中野の北口がまだサンモールとか呼ばれていなかったころ、そこからちょいと入ったところにあったギョーザの店だ。パイカルもギョーザもたしか120円くらいだったので、しばしば通い、ここはわたしが山崎を連れて行った。ギョーザの水準は相当に高く、つまみに出すニンニクの醤油漬けがあまりにうまいのでコツをならったりした。おじいさんと娘と二人でやっていて、仲良くしていたが、ある日行ったら店がなくなっていた。しばらくして電車の中で娘の方にバッタリ会って、麻布と行ったか、店を出し直したからと聞いたが、行きそびれているうちに忘れてしまった。僅かのだらしなさのために大事な物をなくしてしまうことが、人生には多いものだ。 [山崎は鹿児島での結婚式に来てくれて、さつま焼酎を飲みまくった。彼女に関することは書かないことになっているので、何行か削除する。彼は祝婚歌を書いて朗読してくれた。そのなかで「ウィスキーをまるかじりにする」という表現があるが、これはもともと久保覚が津村について言った言葉だ]

 所沢に越してからどれくらいたってか、山崎が清瀬に入院しているという話を聞いて見舞いに行った。近いので世話になりすぎてはと知らせなかったと水臭いことを言った。なにか作ってきましょうかと聞くと,さつま芋を葛でつないで水ようかんみたいにしてほしいと妙なものを欲しがった。それはお安い御用だと帰って作ろうとしているうちに、死んだという知らせがあった。病気の正確なことはよくわからず、医療過誤だと言う人もいた。芋ようかんを届けなかったことが悔やまれた。
 それからたしか一年もしないうちに、山崎の奥さんが小さい女の子を残して亡くなった。時期的な前後は記憶があやふやだが、小苅米も唐突に死んだ。山崎も小苅米も唐突に死んだ。山崎も小苅米も四十そこそこで、これからの仕事が楽しみというところだった。  山崎は『旅の思想』『旅の文法』という二冊の本を残した。舌を卷く博学がきらめくような文章に織り込まれている。旅にこだわり続けたのは、まさに漂白の魂を持ち続けたためだろう。  小苅米哯は『仮面と憑依』『葡萄と稲』といったこれまた凄まじいまでの思考力を見せた本を残している。とくに『葡萄と稲』は好きな本だ。演劇が専門だから、ギリシャ悲劇と能の比較研究を舌と言っても誰も驚きはしないが、それを葡萄と稲というふたつの作物文化がどのように酒と芝居という二つの夢の形を生み出して行ったかという方法は誰も想像もしなかった見事なものだ。ゼウス・ファミリーにとって異端であるディオニュソスが悲劇の神であるとともにワインのかみであるのは、騎馬民族に征服された葡萄栽培民の鬱屈した「夢」の結果である。能の翁は稲実翁を原型とするが、これも稲作民の「夢」のかたちである。しかし天皇は大嘗祭でいったん死んで穀霊として蘇る。その権力の劇は実は「制度化されたクーデター」だという。レジスタンスとしての能のメタレベルに天皇の即位儀礼があるというのは、歴史像を転換させてしまう洞察である。
この本を読んだ酒好きは誰であれ、どうにかしてこのひろびろとした展望のうえにユーラシア史をくりひろげられぬものかと、ひそかに野心を持つに違いない。  山崎と小苅米の残した本を手にするごとに、もう死んでもいいというほどの輝くような本は書く物ではないと思う。真似る能力がないのが幸いである。それにしてもあれだけ飲んだくれていて、これだけの勉強はいつしたのだろうか。勤勉な吞ん兵衛は命を縮めるというべきか。それとも酒の中にこそ詩と演劇についてのつきせぬ情報源があるというべきか。

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2017年08月神田・兵六のこと

2017年8月23日 8:58



親が死んでから

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 親が死んでから二年あまりのあいだ、神田神保町の三省堂の裏のビルにワンフロアを借りて、ACCを名乗っていたことがあった。アサヒカルチャーセンターでなく、アジア文化センターである。もともとは日大全共闘の書記長だった田村正敏がそこの一階に本屋を開いて、アジア関係の本を集めて売りたいと言っていて、上が空いているし、いろいろ動きを作ってくれたらありがたいというので、たまたま父の香典での分け前で敷金くらいはあったし、「文化センター型拠点」を考えているところでもあったので、誘いに乗った。今「反原発新聞」をやっている西尾漠に僅かの「給料」を渡して常駐してもらい、事務所兼資料室と、会議やイベントのできるスペースを作った。

英会話をやったりジャーナリズム講座をやったり、いろいろしたが経営はまるでダメだった。確かまだ『びあ』はなかったはずで、情報伝達のカイロに困った。まだ快医学をやり出す前の苽生良介さんの怪しい映画『食生活革命論序説』の上映をしたり、冲至のトランペットの夕べとか、原正孝や大森一樹のごく若いころの自主制作映画の会とか、ラテンアメリカ研のレコードコンサートとか、いろんなことをした。組み合わせると三角になったり四角になったり六角になったりする面白いテーブルがあって西尾はアレンジして遊んでいた。
企業戦略権教会、広告批評懇談会もここでやっていた。金にはならないが毎日面白かった。『週刊ピーナッツ』もここではじまったが、手狭で四谷に広いところを借り、それが忙しくなった頃にACCを維持する資金力も尽きて、やむなくたたんだ。  そこの歩いて一分のところに兵六はあった。

神保町界隈の編集者が好んで集まるところで、親父を囲んでぐるりとカウンターがあるほかは小さなテーブルが三つだけで、いつも混み合っていた。球磨焼酎の峰の露といも焼酎のさつま無双を置いていて、清酒は美少年だった。本格焼酎を正面から看板にしているところは、当時の東京では非常に少なかった。いも焼酎は湯割りでカラカラに入れて出し、球磨焼酎は冷やしてあってコップになみなみと注いだ。ここに来るだけで焼酎通になったような気がした。
 つまみがまたいい。名物は自家製のつけ揚げ(さつま揚げを薩摩ではこう呼んでいるが、さつま揚げとつけ揚げは微妙にどこかが違う)と豆腐、肉、もやし,キャベツなどを炒めたちゃーどうふで、ギョーザも青のりも自家製の塩辛も文句なしだった。
 しかし一度行くと病みつきになってしまう最大の理由は、何と言っても親父の魅力だった。一見とっつきが悪く、黙って坐っていると不機嫌そうに見えるが、役者の様に立派な顔をしていて、笑うと引き込まれるようだった。複数で飲んでいる客が「つけ揚げ」と数を言わずに注文すると、いくつかわからないといつも叱った。
「チャー豆腐いっちょうーっ」と置くに向かって張り上げる声は朗々としてよく響き、この声が聞きたくて通っている人は少なくないはずだ。  酔って乱れかけているのを見ると「もうお帰りなさい」と売らなかった。わたしが一人で来て、七杯目の球磨焼酎を注文してからトイレに立ったら、わたしの足もとを見ていた親父が「これだけ飲んで全く変わらないのも珍しいですな。
この前六杯飲んだ人がいて勘定して出て行ったら、そこの冨山房の石段を転げ落ちましてな。救急車を呼ぶことになりました」とニヤリとした。上品に脅すのがうまいのである。  新日文で魯迅講座をわたしがコーディネートした時に、店に「横眉冷対千夫指」の魯迅の書の額があるのでその話になったら、親父の目の色が変わった。ほかの客を追い出して、わたしと差し向かいになり、自分が上海の租界政府の官房にいたころの話をしてくれ、魯迅や内山完造のことをなつかしそうに語った。

 今でも東京に行くと、北斗出版の長尾さんと会ったり、岩波の小口さんを呼び出したりするのに兵六を使う。飲み屋は改装すると高くてまずくて雰囲気が悪くなるというのが九割りがたき待っているが、兵六は多少こぎれいにしてもいささかも魅力が薄れていない。壁にかけてある魯迅や林芙美子や壷井繁治の字をころさぬように改装したという感じだ。
 一度親父さんがいなくて息子さんがやっている時に当たって,焼酎どうですかという話をした。「そばはないかとか麦をくれと言う人が増えて、ブームに対して親父も少し機嫌が悪いようです。さつま無双が麦を出したのも親父は絶対ダメだと言っていた調子が悪くて休んでいる時に入れちゃったんです、試しに。欲しがる人はおおいがやっぱにもうひとつで、仕方なくうんと冷やして出しています」  フームに関係なくずっと本格焼酎の良さを訴えてきた店の中には、ブームを苦々しく思っている人も多いだろう。プームから定着期に向かう時に、やはり昔からのこう言う店のセンスが頼りになる。親父さんにもますますお元気で頑張って欲しい物である。

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2017年08月兵六にかかっていた

2017年8月24日 9:53



魯迅の対聯

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兵六にかかっていた魯迅の対聯。 横眉冷対千夫指 伏首甘成孺子牛 眉を横たえては何を言われても冷静に動揺しないいうこと。千夫は敵たち、くだらない文学者や評論家が何を言おうとわたしを指差そうと。息子のためには四つん這いになって牛になってやっている。敵の多かった、というか、くだらないことをのうのうと書いている連中が許せないという気持ちと、家族への無条件の愛が両立しているなと自分でも驚いているところかな。

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2017年08月焼酎ブームから焼酎を守る

2017年8月24日 19:56



焼酎を多量に飲み続け

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 焼酎を多量に飲み続けていると肝ガンになるという報道があって、「焼酎ブーム」に少しだけ水をかけた具合だ。しかしこれはもともと焼酎の消費量の多い鹿児島の、しかも飲む意外にあまり娯楽もなさそうなひなじた漁村の、それもだいぶ以前のデータであるらしく、今日の都会的な焼酎の飲まれ方とは話がだいぶ違う。どんな酒であれ無茶のみすれば肝ガンくらいなるはずで、「焼酎=ガン」図式は少し早とちりの気がする。  清酒は割ったら飲めないが、焼酎は多様な飲み方ができる。しかし、素材の風味を生かした本格焼酎なら、お湯割りが最上だ。よくできた焼酎は六四と言わず、もっと薄めにしてもゴマカシがわかるので、砂糖を添加したものなどは甘さが浮き上がってくる。
 昔から焼酎好きは強いのをガブ飲みしていたかというと、そんなことはない。茶家(ぢょか)という鹿児島の、土瓶を平たくしたような酒器は、一人か二人でじっくりと愉しむためのもので、ぬるま湯で割った酒を入れて軽くカンをつける。はじめに生の酒を入れて、猪口についだ分だけ湯を入れて行くと言うやり方もある。酔いがまるころころには湯に近づくわけで、酔い心地もよく、健康的である。

本当の酒好きとは、がぶ飲みするものではあるまい。  しかし、最近のチューハイブームを見ていると、また別の意味で、あまり酒が好きでない人たちだな、と思う。ほとんど清涼飲料である。  焼酎が見直されるに至った原因はいくつもある。ひとつには、既成の清酒やビール、ウィスキーが明らかに売れすぎてまずくなった。その品質に疑問の声がつよまってきた。低成長期に、飲み代を少しでも節約したくなったこともある。糖分の少ない焼酎の方がからだによいという健康志向もある。  だが、ウィスキーの売り上げが目立って落ち、生ビールも敗北宣言が出て、明らかに戦後の酒文化の大転換期を思わせるようになるためには、チューハイが浮上する必要があった。これで、酒は好きでないが飲む雰囲気は好きだというギャルたちを含めて、広範な層が焼酎を支えるようになった。  焼酎の中でも比較的無正確な甲類が、このチューハイには向いている。炭酸や甘みが入ってはじめて飲める物と言いたくもなる。とはいえ、甲類も昔の水割りエチル=ホワイトリカーと違って、風味のある本格焼酎と飲みやすい甲類をブレンドしたり、苦労している。

そのニューモード焼酎が時代に受け入れられるとしたら、それに文句をつける筋合いはない。問題はその先にある。この「焼酎ブーム」によって、日本が世界に誇るスピリッツである本格焼酎が、チューハイ程度によろこぶ都会人の嗜好に合わせて「飲みやすく」されてしまうと、それはじつに重大な、取り返しのつかぬ損失だ、ということである。  もともと火薬工場の副産物である甲類焼酎と違って、乙類・本格焼酎は、琉球弧の島々や九州各地を中心に、それぞれの風土の中での素材を生かして,長い時間かけて作り出されてきたものだ。
一方で茅台酒やコニャックと比べうるユニバーサルな性格があるとともに、安易によそ者の理解を許さない、風土に密着した個性的風味を頑固にまもってきたのが、泡盛や黒糖酒、いも焼酎などだ。多くの小さな、土地の人に飲まれるための醸造所があって、清酒や洋酒中心の文化の中では辺境に位置してきたがゆえに、かえってその貴重な個性を守ってくることができた。  「焼酎ブーム」ということになってくると、飲みやすく、ライトにすれば売れるということで、個性を殺して甲類に近づいていく傾向が出ていく傾向が出てくる。売れ出すと、これまでじっくりと寝かせて自然の甘みを出していたのが間に合わなくなって、砂糖を添加したりすることにもなる。

 ちょっとここで立ち止まって考えてみよう、ということで『月刊焼酎通信』という冗談ぽい題のメディアを作った。この八月からである。「焼酎ブームから焼酎を守ろう」という皮肉な編集方針になった。この八月からである。だがメーカーにしても生活のためにやっているので、どの銘柄がうまい式のグルメ的、ウンチク派的論議では無力にすぎる。焼酎がまともであるためにはどんな困難があるのかを明らかにして、それを酒飲みとメーカーが共有して立ち向かって行かねば、焼酎も「地酒ブーム」のように個性の食い荒らしに終わってしまうかもしれない。  なんでも「ブーム」にしては使い捨ててしまう情報社会の中で、風土とか個性というものがどう守っていけるものか、まことにむつかしい。だからこそ、これらの焼酎の背後の風土と歴史にもっとこだわってみたいと思っているのである。

 わたしが「うまい」と思う焼酎を真っすぐに出せばいいのに、毎日新聞の読者には理解してもらえないだろうとくどくどしく、「彼ら」がいいと思っている物を一つ一つ消して行くという文体になっている。焼酎=肝ガン説への反論からはじまって、サントリー・ウィスキーを飲んでいたり大手ビールメーカーを飲んでいる人をます排除する。チューハイに理解を示しつつ全面否定。本格焼酎の中でも都会にこびる二階堂やいいちこを全面否定。これは名前を出していない。やっと無添加の本格焼酎にたどりつき、あとは言わないよ、食い荒らさないでね、と終わっている。 マスメディアにいかに不信をもっていたかの記録みたいなものである。

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2017年08月石川三四郎の生涯 9

2017年8月25日 13:08



4 土民哲学の展開の3

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土民哲学の源流を求めて

 昭和九年(1934)三度目の訪欧を企てた三四郎は、中国に渡って準備するが、三か月中国にいるうちに、中国の思想風土に全身的にひかれ抱き取られ、渡欧に興味をなくして帰ってきてしまう。彼の残りの人生の非常に大きな部分が、東洋史研究に捧げられることになる。  むろんこれも「六十の手習い」であり、無手勝流である。専門家からの批判はいくらもあろう。だがその根本の構えにおいて、三四郎の中国・アジア思想研究は,今なおわれわれの心を打つ。

 第一に三四郎は、土民哲学のはるかな源流をたずねて、ユーラシアの大地に眠る大地母神への信仰をさがしあいた。中国ではそれが后土教の形をとっていた。「拝天の宗教はけっして支那太古の民衆の信仰ではなく、寧ろそれは貴族或は権力者の宗教であって、民衆は却て”后土”を礼拝した」(「自叙伝」より)。
拝天=天孫降臨がスキュタイ系の征服騎馬民族のもので、それへの抵抗として
后土=大地母神信仰が実にユーラシア全域にひろがって階層構造をなしていることは石田英一郎以後の研究が明らかにしている。
 第二に三四郎は、孔子を官僚主義、階級的奴隷主義の教育者として全面的に批判し、「井を掘りて飲み、田を耕して食う。帝力我に何かあらんや」の老子こそが、后土教をひとつの哲学にまで発展させ、中国思想の中の最良の物源流をなしたと讃えた。章炳麟、魯迅から今日まで、孔子批判はさまざまにニュアンスを変えながらも、一貫して中国革命の中心的思想課題だったと言える。
中国に長く生活した橘樸も、
中国=儒教という見方を続ける限りは日本はけっして中国を理解できないとして、道教研究に力をいれた。
三四郎はわずかな経験を通じて、「非儒」こそ中国民衆理解の要であることを見抜いたのだ。
 第三に三四郎は、中国文化の次なる発展を「太平洋文化」に展望した。

「上海はかつて欧州文化、地中海文化の黎明期においてアレキサンドリアが担ったような使命を未来の太平洋文化に対して負うだろう。そしてその太平洋文化こそ、これから発展してくる世界文化の主調をなすのであろう」(『自叙伝』)より。  まだ日本が破竹の進撃を続けているとき、多くの断章ではっきりと日本の敗戦を予測しながら、三四郎は大東亜共栄圏がほろびたあとに、アジア諸国の友愛と相互扶助によって成る太平洋文化時代を、そしてヤポネシア的に開かれた日本がそこに参加して行くことを、夢見ていたのだ。

[40年後のコメント]  后土教というユーラシアの古層の信仰の発見、騎馬民族の天信仰との対比、その継承者としての儒教と道教の対立ということについては三四郎も書いていたなとかすかに記憶していた。しかし中国が欧米文化に変わる「太平洋文化」を築いている展望をもっているということについては、すっかり忘れていた。今中国が南太平洋に拠点を構築し、日本の国境対して大変穏やかな形であれ圧迫を加えてきていることは、こうした大きな文明史的転換の中でとらえられなければならない。

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2017年08月虞定海先生が来られて

2017年8月26日 11:28



一連のイベントがある

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虞定海先生が来られて一連のイベントがあるので、『五禽戯の世界』の新しいまとめを作るのにしばらく熱中します。
◇ 五禽戯の世界
◇ 一 いくつかの伝統的五禽戯

01 周稔豊の五禽戯
02 胡耀貞の五禽戯
03 養性延命録の五禽戯
04 張宇の五禽戯
05 郭林気功と五禽戯
06 自発五禽戯と粱士豊

二 五禽戯の基礎理論

01 気功の原典「五禽戯」の再認識
    動物模倣の諸系列
    運動療法・経絡療法から見た五禽戯
    「人間らしさ」を脱ぐとき・心理療法としての五禽戯
    五禽戯の可能性
02 簡単で奥が深い周稔豊五禽戯[動作解説]
03 胡耀貞の自発五禽戯とはどういうものか[動作解説]
04 養性延命録の五禽戯[動作解説]
05 張宇外丹功と五禽戯[動作解説]
06 《対談》五禽戯の源流からその意義を語る 岩井佑泉+津村喬
07 シャマニズム気功と五禽戯 漆浩
08 《対談》アイヌ古式舞踊と動物模倣
09 動物模倣の系譜・亀蛇気功から五禽戯へ
10 動物ストレッチングの源流と展開 三浦国雄

三 さまざまな動物模倣

01 アメリカの子供たちの動物模倣と治療のふたつの方向
02 智能功・捧気貫頂功を体内の動物進化とむすびつけてみる
03 シベリアの熊の踊り
04 孔玉振の病気の動物の模倣
05 体内の神々を真似る
06 形意拳の動物模倣
07 わたしはポプラ、わたしはグミの木

四 中国の動物導引と五禽戯研究の一端

01 馬王堆から五禽戯へ 枕寿
02 馬王堆はどのようにしてみつかったか 津村喬
03 導引研究を強化しよう 津村喬
04 導引図と引書 津村喬
05 導引図と模倣気功 周世栄

五 「諸病源候論」からの導引世界

01 導引の再構築ー「諸病源候論」と「医心方」をめぐって
02 諸病源候論の養生方導引法
03 諸病源候論の導引91バターン
04 巣氏宣導法 王松齢

長くなりすぎるかもしれない。そうしたら四五を圧縮します。二週間のうちに印刷しなければならないので。

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2017年08月わたしの翻訳した

2017年8月27日 20:42



『健身気功五禽戯』

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これはわたしの翻訳した『健身気功五禽戯』の短い後書き。まず健身気功をしている人に、それから中国の学者たちによびかけている。15年たったが誰からも何も反応がなかった。 ◇  楊名時先生から太極拳の最初の手ほどきを受けた時に「太極拳は鶴と蛇の格闘のさまから作られた」というお話を聞いて、非常に興味を持った。まだ学生のころである。構造主義人類学が花形のころで、アニミズムやトーテミズムについて関心があったので、動物のまねをするという文化に惹かれた。気功にはからだの身振りで時間を遡って「反省」するという一面がある。赤ん坊iになってみて大人のわが身のヨロイを知る「還童功」とか「胎息」という類いや、都市生活社が農作業のまねをするあるシリーズなどは、象徴的なものだった。「動物に還って」真似てみることには、進化の階梯を逆にたどるという根源的な問題意識が内包されているようだった。キリスト教文明は人間を動物から神への中間とみていたから、動物のまねをして動物に学ぶというような発想がおこるはずもない。
そうとすれば、五禽戯はあらゆる生命存在と心を通わせるための貴重な文化遺産であり、地球環境が限界に達して一日一種ずつ生物種が絶滅している時代に人間のあり方を振返ってみるレッスンになりうるものと思われた。  
その後わたしは周稔豊先生の五禽戯を学び、焦国瑞先生が胡耀貞先生から継承した五禽戯を学んだ。どちらも初級教程だけだが、それでも十二分に刺激的だった。カリフォルニアにいる張宇先生からは「新しい五禽戯を編集中なので資料があったらという相談があって、手元にあるだけの資料[大部分は中国で買い集めていた中国語の五禽戯の資料]を送った。この新五禽戯はのちにハワイとカリフォルニアの観気旅行で習って楽しんだ。「アメリカ人は真面目すぎるので、自分で自分を笑える五禽戯が必要だ」と張宇先生は言っていた。黄美光先生からも華佗の故郷に五禽戯を20年前に見せてもらったことがあり、最近一緒に本を作ってまた久々にDVDの記録に立ち会った。

 私自身はふだんは周稔豊五禽戯を主に、あとは上記のさまざまな五禽戯を自己流に編集して練功したり、教えたりしている。今度はそれに健身気功五禽戯の楽しみが加わった。  五禽戯を演ずることの意味に対して、比較的最近になって欧米の新しい医療と心理療法の現場から新しい光が当てられている。ひとつはドーマンによる先天性障碍児の治療で、障碍児は胎児の間に進化の階梯を飛び越すことに由来する障害が多いという見方で、魚のように泳がせたり、ワニのように這わせたりすることで回復した例が多数ある。
それを障害がない人でも、特定行動により脳のさまざまな部位を刺激することで、人間になってからの脳である前頭葉をばかりを過熱させている現代生活の中で起きる偏りを調整しうるという発見をしたのが国際ピアジェ研究所である。この視点から伝統気功を見ると、ただ入静=瞑想状態によって前頭葉の過剰な血液を調整するということだけでなしに、五禽戯などの動物模倣によって、大脳旧皮質、辺縁系に血液を送って活性化し、また亀や蛇(龍もふくめ)の爬虫類模倣気功によって「ワニの脳」である視床下部を活性化する技術が気功だとわかってきた。

 新しい生物学、脳科学と五禽戯等の「進化を遡る気功」が全面的に出会う時に、それは人類史の新しい曲がり角の道しるべとなるかもしれない。(2004年9月) ◇ これは中国国家が正式に出したものの翻訳だったので、日本の学者のみならず、中国の学者から反応があるかもしれないと思ってやや挑発的に書いた。日本からも中国からもまったく無視された。ここ十余年、いろいろと言葉を変えて伝え続けているがまだ反応はない。中国の理論家たちは動物の真似をするという行為をなんのためだと理解しているのだろうか。


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2017年08月わたしはポプラ

2017年8月1日 0:18



わたしはグミの木

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わたしはポプラ、わたしはグミの木


 ある程度の豊かな自然が残っているところであれば、「樹林気功」をしてもらうのに、たくさんの説明はいらない。
 「木にタッチして、掌や額をつけたり、よりかかったり抱きついたりする方法と、向かい合って立つ方法があります。木の気の流れは根っこも含めて球形なのに注意して下さい。一日の時間によってそれが縦長になったり、横長になったりします。站椿といって自分も木になってしまう体験をすると、木と話ができそうな気がします。でもあんまり思い込みが強くない方がいいです。ただ立つのに疲れたらスワイショウをしてもいいし、簡単な繰り返しの動きをしてもいいです。
木から気をもらうことだけ考えていると自分と木が分裂したままなので、あげたりもらったりしながらだんだんに融け合って行く感じをつかんでください」  この程度のことを言って森に散開してもらう。それだけで30分とか45分とか放置しておいて、「おーい」と声をかけたりピーと笛を鳴らして呼び集め、どんな体験をしましたかと、時には地面にまるく輪になって話してもらいもする。

初めて気功をしたというような人が、結構深い体験をしているのにびっくりする。人間が教えることより、木に教えてもらうことのほうが多いのだ。   站椿やスワイショウをもっと深めていくということはむろんできる。樹木の気というものについて、漠然とした印象批評からもっと精密なそれぞれの木の性質を識別したり、はては樹木の個体識別に近いこまかい情報にからだが開かれて行くプロセスもある。しかしそれは習うということより慣れることから出てくる。いったん方法がわかれば,自分で探求して行くことができる。仏教の言葉で言えば「平等一相」である。初めての人と「達人」との間に本質的な差別はない。人間と、とりあえず「老師」である樹木との間にも本質的な違いはない。
「山川草木悉皆成仏」である。樹林気功は道教や神道の自然崇拝や、仏教のエコロジカルな一面をバックグラウンドとして継承している。 ◇  93年に黒龍江省の鉄力に行った。
東方気功養生学研究会という名でチベット密教気功の大きな組織が東北一円にひろがっていて、そのセンターが、指導者である劉尚林先生の故郷である鉄力にある。ハルピンから車で五時間ほど東北に行ったかなりの田舎の町だが、そこに六階建ての大きな気功ビルが落成し、その祝に招かれたのだった。  この鉄力が小興安嶺の原始林から近く、満州時代の林業の一大拠点だった。千人以上の人を集めたオープニング・セレモニーの翌日、バスの都合で二百人ほどの人で桃山という原始林に行くことになった。

バスの中で劉尚林先生が「あんたの言う樹林気功をみんなでやってみよう。もう一度かいつまんで、みんなにどう言えばいいのか説明してくれ」と隣に坐った。樹木とともに気功をするという方法はみんなある程度やっているという。彼は黒竜江省の林業局の人であるので、林業関係者も多く、植物の知識は豊富である。「樹林気功」という言葉に出会ってその体験の累積がひとつに結晶し始めたと劉先生は言った。山小屋のバルコニーから200人に向かって「もう君らがやってきたことだが、新しい気功の流れがここから始ると思ってやってくれ」と彼は説明した。「もうひとつ、日本から来た通天大法があるので紹介しよう」といってビニール袋を掲げた。「山にゴミが落ちていたら、これに入れて持ち帰る。これも21世紀の気功だ。ここにいる津村さんが発明したものだ」200人から拍手がわいた。この辺りの森は泰山のようにゴミやビール瓶のかけらはなかったのだが。それ以前に各地の聖山でゴミ気功をしていたのを誰かから聞いたらしかった。冗談にしながら、心に響く物があった。歩きながらゴミを集め、樹木によりかかって瞑想し、小高い山頂で天と通じ合う緑土母の呪文の瞑想を長時間した。  その前夜にも、「人民に服務するという毛主席の言葉は普度衆生を言い換えたものだ。

しかし今や”地球に服務する”でないとならない」というような話をしあって、鉄力のこのビルの中に環境教育中心を設置することに決めた。チベット密教気功と林業文化が結びついて行くと、中国気功の新潮流を形成して行くかもしれない。 ◇  「樹林気功」と私たちが言い出したのは1988年のことである。それ以前から、樹木と一緒に気功をすることがなかったわけではない。樹々の中で、また特定の木とともに練功するということは伝統分野の中にひとつの分野を占めていた。しかし,樹林気功という言葉ができることで、それまでばらばらに存在してきた問題意識と関心が、ひとつのはっきりした潮流になり始めた。この年に出た関西気功協会のパンフレット『樹林気功の手引き』はB6版の、文字通り掌に乗る小さなものだったが、いくつかの本にも転載され、英語、フィンランド語、中国語にもなった。国木田独歩の「山林に自由存す」から始っているそれは、いくつかのdzの違うバックグラウンドを持っていた。  ひとつはなんといっても、気功が健康商品あるいはオカルト商品として極めて低次元で輸入され始めたことに対して、別の明確な文脈を作る必要があったということである。

木に習いに行きなさい、では余計なお金の取りようもない。  第二は広がり始めた森林浴の動きに対して、もう一歩深めないとつまらないよと言いたいことがあった。森林浴は自分が変わることなく、木からもっとサービスを受けたいという思想に基づいていたから,自然が好きとはいいながらどんどん自然を破壊して行くリゾート思想とはっきり自分を区別する必要があった。この意味では、森林浴は人間の都合ばかり考えた「浅いエコロジー」だったが、それを「木になる」体験をテコに「深いエコロジー」の領域に引っ張って行きたかった。  第三に、それと重なってくることだが、世界的規模での森林の消滅の進行に対してどうしていくかを考えずに健康法をしていても滑稽だということがあった。樹林気功は日本での環境気功の最初の具体的なかたちだった。  中国気功界でも、樹木との練功は様々な形ですでに取り上げられていた。
劉漢文先生の禅密功の中には植物からの採気法がある。立ち木や鉢植えを站椿の両手の間に入れて左手から気を入れて右手から出すようにする。仏像に向かって気を出し、受けて一体になって行く時と基本的に同じである。湖南省の水力発電に関わるグループがこの方面で経験を積んできて、上海中医学出版社から『樹功』という本にまとめられている。ここに掲載されている約160種の植物の薬効については、群馬中医研の井上さんに頼んで『気の森』に訳してもらったことがある。 漢方薬はもともと飲むものであるよりも服につけたり(服薬)握ったり(握薬)したのだということはまだそれほど常識とは言えないかもしれない。飲むというのも、ある成分がからだに入って作用することもあるけれども、特定の気を放射する物質を一定期間体内に留めておくというためのものだ。自分に合った薬を握ると肋骨の下がふっとゆるみ、合わないと緊張するということを利用して、握訳を診断に使う医師もいる。
森の木でも自分を歓迎してくれる気がする時はその木の出す気がいまの自分に合っているので、あまり思い入れを強くしないで虚心に耳を傾ける必要がある。

 ぼっとしたまま森を通りかかってもある程度の効果は自然にあるけれども、からだをオープンな状態にして気と一体になることができれば、森は本当に薬箱になる。或る程度の気功状態の脳が必要なのだ。世界を薬箱としてみて行く博物学的世界も、それにふさわしいオープンなからだを前提としたものなので、ただ知的なものではない。  ディープ・エコロジー・ワークで知られるマーガレット・パヴェルがこの三月に神戸のわが家に来た時に、さまざまな手作りのおみやげを持ってきてくれた中に、鹿の皮で作ったメディシンバッグがあった。南北アメリカのネイティヴやラップランドのサーメがよく用いる、首から下げる小さな革袋で、そこには自分を癒してくれる何かを入れておく。小石でも木の葉でもどんぐりでも鳥の羽根でもなんでもいい。ただ、歩いていて自分に呼びかけているような、連れて行って欲しそうにしているものに出会ったらそこに入れる。
漢方薬の膨大なシステムも、こうしたことが幾億回となく繰り返されるうちに形成されてきたに違いない。 ◇  樹林気功のもうひとつの重大な関心は、この方向で中国気功を見て行くと、それと世界各地のさまざまな先住民文化との共通領域が浮かび上がってくるということにある。漢方薬とメディシンバッグというのはそのひとつの例である。あちこちで書いて来たので繰り返さないが、わたしが最も強い影響をうけたのはフィンランドのカレワラ文化であり、それをいまでも継承しているライフスタイルである。森に相談すべき木をもっていたり、暖炉やサウナに薪をもやしながらもその木からの語りかけに耳を傾ける文化である。現代フィンランドを代表する思想家であるタピオ・カイタハルユは、森の妖精と出会ったファンタジックな体験を詳細なレポートにして、そういう信仰をひそかに持ち続けていた大部分のフィンランド人を励ました人だが、これまでに五回ほどインタビューさせてもらった中で、カレワラ以来の「木と話をする」伝統についても詳しく語ってくれた。モミはなかなか口を開かないが、いったん親しくなると深いつきあいになる、赤松は気楽で誰にもわかりやすい気を出している、白樺は女性的で優しい、などなど。その後にヘルシンキのCDショップでシベリウスの全集を見ていて、彼がたくさんの種類の樹木についてそれぞれの曲を作っているのを知って、フィンランドの神秘の回廊にもう一歩はいることができた。

 C・W・ニコルさんと樹林気功をめぐる対談をしたことがあって、彼もそういう体験をしていた。少年時代に今からは考えられない程虚弱だったとき、おばあさんに「森に行って木に抱きついてきてごらん。好きな木を決めてずっとそうしていると、じょうぶになるよ」といわれたのだという。ケルトの伝統文化にそういう感性があるということなのだろう。
 宮沢賢治の詩の世界に、それに通ずる感受性が豊富にあふれていることをわたしは最近になって知った。

   何と云はれても
   わたくしは光る水玉
   つめたい雫
   すきとほつた雨つぶを
   枝いっぱいにみてた
   若い山ぐみの木なのである

という短い詩は、木と一体になり、木の眼で世界を見ることができた賢治の樹林気功的感性を余すところなく伝えている。彼の詩の世界全体が雲語や白樺語や風語やカエル語で語られた世界の人間語への翻訳である。『れいろう』96年1月号に掲載した「賢治の宇宙後学校」という文章でわたしはそのあたりをまとめてみた。  最近できた映画『種山ヶ原』のなかでは、賢治の教え子たちが楽しそうに賢治の学校劇『種山ヶ原の夜』のことを回想している。からだを横にゆすっておけといわれて芝居の間じゅうゆすっていて、「先生あれは何だったの」と聞くと「ススキをやってもらってた」という。タテゆれはと聞くとポプラだという。木のまねをしてからだを揺するというようなことを、賢治自身がいつもやりつづけていに違いないのだ。ちなみに坐って左右前後にからだをゆするのは臨在の七支坐から気功に持ち込まれた伝統である。  たくさんのヒントが出そろっている。みんなで樹木と一体になる経験を積み重ねながら、どうすれば森の文化をこの国に、これからの地球によみがえらせていけるかを考える時だと思う。


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2017年08月イースト菌を買って

2017年8月1日 0:18



粉とまぜて、マントウを作った

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イースト菌を買ってきて、粉とまぜて、マントウを作った。粉は700g、ぬるま湯二合、イーストは小さじ三杯。台所のテーブルの上をピカピカにして、打ち粉をして、最初ボウルで混ぜた生地をこの上で15分ほど煉りに煉る。

二時間放置すると、三倍くらいにパンパンに膨らむ。もう一度テーブルに打ち粉をして、煉る。空気を抜いて均等にするためだ。丸める。中には何も入れないが、小龍包の大きさのを20個、大きめの肉まん風のを八個。
さらに入れて蒸籠で蒸す。20分もあればいいか。ちゃんとおいしくできた。以前経験しているが久しくしていない。

これは山東風の作り方なのだが、キコリさんたちが来る時も作る予定。それはいいが、何もおかずがない。買ってくるのを忘れた。

昨日の鶏皮とか鶏肝とか煮たのがあればちょうどいいが昨日食べてしまった。冷蔵庫に牛筋を煮たのが少し残っていた。それとらっきょうでマントウを食べた。汁などいくらも作れるが今日は面倒だ。はちみつに紅茶。

ま、こんなところだう。

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2017年08月虞定海先生講習

2017年8月1日 0:18



虞定海(ぐていかい)さんは

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虞定海先生講習 虞定海(ぐていかい)さんは上海体育学院の指導者で、健身気功の五禽戯を作った人です。また奥さんの呉京梅さんは仕事は同じですが、長く日本に滞在して、関西気功協会の保健気功研究所の所長として活躍してもらった人です。

健身気功五禽戯の編集者にも名をつらねています。今の中国気功指導者で私はベストワンと思っていますが、ぜひその風貌にふれてください。奥さんの呉京梅さんは普通に日本語を話せる人なので通訳をしてもらいます。  
このほど名古屋で開かれる人間性心理学会で、五禽戯について二回の講演をされます。  そしてそのあと、NPO法人日本健身気功協会の主催で、三日間の実技講習があります。それから京都に移動して、気功文化(紫野教室)の方で二回講習をします。

お申込み:気功文化研究所
連絡方法:FAX 075-777-7719
E-Mail:kikoubunka@yahoo.co.jp

場所・日にち・時間・会員、非会員・連絡先をお知らせ下さい。

9月13日(水)//////////////////////////////////////////////
13日 13時30分から18時まで
途中練功、休息があります。
主として虞先生の長年の五禽戯研究について突っ込んだお話,質疑応答をしたいと思います。
通訳は呉先生にしてもらえます。
また健身五禽戯が出来る以前の五禽戯の一部を紹介してもらいます。
晴れていれば裏の公園も使ってします。健身五禽戯もしますが、主としてお話の会です。
本当の本物に直接触れる得難い機会です。
18時半 虞先生を囲んで「おでん」の会です。
講習のみ会員8000円、非会員10000円
食事一律3000円

9月16日(土)//////////////////////////////////////////////
土日定例講習の土曜日だけを虞先生・呉先生にしていただき、
そのあとに送別宴会をします。
13時から15時  虞定海先生五禽戯の深層
15時から16時  ティブレーク。中国茶と点心を出します。
16時から18時  呉京梅先生保健気功講習
18時半 上海料理での送別宴会です。
講習のみ会員8000円、非会員10000円
食事一律3000円

9月17日(日)//////////////////////////////////////////////
虞・呉先生はこの日関空から帰国されます。
10時から12時 周稔豊気功 亀蛇気功、易筋洗髄経、易筋外経ほか
12時から13時 昼食・昨日の残りです。今日はお粥だけでなく少しあれこれ。
一律1000円にさせてもらいます。
13時から15時 午後の講習は道教八段錦、簡易動功その他
希望する功法も
15時から16時 露伴研究会は集まった人の顔を見て。そろそろ少しずつでも仙書参道契に入りたいのですが。

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