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2019年10月








2017年06月染織家の吉岡幸雄さん

2019年10月03日



染屋の五代目

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吉岡幸雄

染織家の吉岡幸雄さんが亡くなった。昭和21年京都の生まれだから、私の二つ年上である。尊敬する同世代だった。1971年に早稲田の一文を出ているから同じ体験をしている人だが、当時は知らなかった。江戸時代からつづく染屋の五代目である。ほんのここ二三年その仕事を知り、夢中になったが、そのうち会える気がして、会いに行かなかった。一愛読者のまま終わってまった。
吉岡さんの仕事を一番手軽に知ることができるのが岩波新書の『日本の色を染める』である。三代目ですっかり化学染料の時代になって伝統と切れてしまうが、四代目の父親がもう一度伝統的な染めを研究して大学の教壇にも立つようになり、五代目の彼になって伝統の全面的な復活を目指すようになった。この小冊子では邪馬台国の染色に立ち返り飛鳥・天平、源氏物語の世界へと立ち戻り、戦国武将、江戸時代の庶民の流行色まで日本の染織と着物文化を総覧してみせた。
だが、本として一番面白いのは紫紅社という自分でやっている小さな出版社で出した『日本の藍・ジャパンブルー』である。アトキンソンやラフカディオ・ハーンのような明治の外国人は藍を着た農民たち、藍の暖簾の奥に暮らす日本の農民に驚嘆した。一方で藍で濃く染めたものは虫除け蛇よけの力があり、経典から野良着までに使われる理由があった。藍甕に一二度つけただけという薄い青を意味する「甕覗き」から水浅葱、浅葱、薄藍、薄慓(糸扁)、納戸、藍、紺、島(手偏に島、褐色)、濃紺などまでの微妙な変化があった。その藍の奥行きのある世界をあふれるような見本とともに本にしてみせた大変楽しい本がこれである。
吉岡さんの本は多く、どれも質が高いが、私が惚れ込んで一日一回は覗いているという本がやはり紫紅社の大きな本『日本の色辞典』〔3300円別〕である。身の回りの伝統色209色を中心に新しい追加も含めて379種の色を詳しい解説つきで分類して見せた。これから私が世界を見る時にこの辞典を抜きにして考えられない。

あと四日。十月七日は旧暦の九月九日に当たる。九という最大の陽の数字が重なるので「重陽節」という。酒飲みは酒杯に菊を浮かべて飲む。上海蟹の名声が鳴り響くと、広東や上海の酒飲みはこれを無理にも蟹と結びつけようとしてきた。菊を見ながら左手に蟹の足、右手には菊を浮かべた酒が標準スタイルなのだと言う伝説を作ろうとしてきた。
ついこのあいだ亡くなった吉岡幸雄が『日本の色の十二か月』の中で昔の重陽節のことを書いている。蟹はなくとも、酒と菊を用意して、李白の詩でも思い出して吉岡の記念としよう。
「日本ではこういった習わしは平安時代に定着し宮中では天皇が紫宸殿に出て華やかな宴が催された。音楽が奏でられ、舞いが演じられて、さらには詩も吟じられ、そのあとの饗宴には菊の花びらを浮かべた酒もふるまわれた。
菊にまつわる節会の中でもっとも興味深いのは「菊の被〔き〕せ綿」である。前夜に、菊に露が降りて花の色と香りが逃げてしまわないように、黄色、赤色、白色とそれぞれの花の色に合わせて絹の繭からつくった真綿を染めて、花を覆ったのである。
清少納言も『枕草子』にこの様子を記している。

  九月九日は、暁がたより雨少し降りて、菊の露もこちたく、覆いたる綿などもいたく濡れ、移しの香も持てはやさて、つとめてはやみにたれど、なほ曇りて、ややもば降りたちぬべく見えたるもをかし。

 真綿は宴が始まると菊花から同時にはずされるが、そこには花の香が移っていて、この綿で顔や身体をぬぐうと、不老長寿がなうとされていた。仙人の里に咲いたという不老長寿の菊を愛でて、菊の花びらの浮かんだ酒を飲み交わし、菊の香りの移った真綿を身体に当てた。それが九という数字が重なる永遠の日にいつまでも麗しくとねがう重陽の節句の由来である。」
吉岡の霊に乾杯!

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2017年06月私にとって必要な道具

2019年10月04日



一日50枚書くとはざらにあった

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PILOT HI-Tecpoint

ずっと30年以上つきあってきたボールペンがある。パイロットのハイテックポイントという。途中から黒だけでなく10色に増えた。太さも0.3ミリから0.1ミリまでいろいろ作られたが、私は0.4ミリに決めて使ってきた。それは時には気分を変えて0.5ミリを使ったり、赤や青、緑に浮気したことはあるが、基本はずっと黒の0.4ミリで来た。値段は30年前は100円だった気がするがいつしか200円に上がった。時には五本、十本とまとめて買うこともあった。特別の紙ではなく、普通のコクヨのノートだとか200字の原稿用紙にぴったりフィットする。一日50枚書くとはざらにあったが、このハイテックポイントだけが疲れない。もっと滑りのいいものもあったし滑らかでないのもいろいろあったが、これだけがわたくし用に作られていた。
それがなかなか手に入らなくなった。置いてある店が減ってきて、欲しい時に手に入らない。古いものを細々と使うしかなくなった。病気をしてからは、わざわざ探しにも行けず、手元に二本残ったのを使った。一本はインクが漏れるようになり、もう一本はペン先が曲がった。それからはまあまあ使い心地のいいものは目をつぶって150円程度のものをいろいろ試してみた。ボールペンも新型が膨大に出ている。今日は閑に任せて100種類以上試し書きせてもらった。書店の店員はさぞ嫌な奴だと思ったろうが、「ゼブラばかり勧めしていましたが、パイロットの新しいので0.7ミリなのに昔の0.4ミリの感覚のがありますよ」という大事なことを教えてくれた。0.7ミリでは自分ではまず手に取らないだろう。ハイテックポイントならば0.7ミリではすぐ紙が汚れるのだ。ところがとても書き口がいい。柔らかすぎず、紙にかすかにひっかかる感覚を残している。しばらく試し書きしてから「こりゃいいじゃないか。そのへんのゼブラと一緒にするなよ」というと店員は頭をかいて、「パイロットの書き口がお好きかと思ったものですから。それも安い中でこういう感じがあるのが」敵もさる者である。パイロットと言ってもただのボールペンに3万5万の価格をつけたのが隣に並んでいるのだが、私の姿格好を見て202円のを勧めてくる。
ハイテックポイントは袋に入れてインクだけデザイナー用に少しおいているだけのようだった。いや、楽しかった。この202円のをしばらく体験して、長く使えるか試してみよう。

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2017年06月菊見て、一杯

2019年10月06日



黄花、逐臣を笑う

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白い菊は鉢植えである。八方に三十輪ばかり咲いている。黄色い菊は切り花を買ってきた。これは15輪ほど。二日ほど放っておいたら少し乾びたがマリメッコのカップに水を入れて活けておいたら、忽ち元気を取り戻した。
明日の月曜日(10月7日)が旧暦九月九日になる。「菊見て、一杯」になるかどうか。
図書館に陳舜臣の『天空の詩人李白』というのがあったので借りて来た。陳さんとは一緒にフィンランドに行ったり四川に行ったりした。なんとなく死なないように思っていたから季節ごとに思い出すと寂しい。
李白の連作の一部であるらしい。

九日、龍山の飲
黄花、逐臣を笑う
酔看風落帽
舞いて愛す、月の人を留むるを

ここに「九日」ということばがあるだけで、誰でもそれが、陰暦九月九日重陽の節句の日だとわかる。同時にその日は「登高」という行事があることもわかるのだ。その辺りの高みに登って、宴をひらく。それに欠かせないのは、酒杯に菊花を浮かべる優雅な行事である。陰暦だから季節としては絶好なのだ。
重陽の日、龍山という高みに登り。宴を開いた。龍山は安徽省当塗県の南十里にある龍の形に似た山なのだ。この山にも故事がある。晋の大将軍の恒温がここで重陽の登高をしたところ、幕僚の孟嘉が風に帽子を飛ばされても、酔っぱらって気がつかなかったという。
黄花とは菊の花である。「菊譜」によれば菊の正しい色は黄だとする。その菊が追放された臣である私を笑っているようだった。李白はまちがいなく逐臣であった。宮廷から放逐された臣なのである。
(【逐臣】チクシン 自分の国から追放された家来。)

昨日登高し罷むも
今朝更に盃を挙げる
菊花 何太〔はなはだ〕苦しき
此の両重陽に遭う

その翌日の十日は小重陽いう。昨日登高の宴を終えたばかりだが、今朝は更に盃を挙げている。酒に菊の花をうかべなければならない。いやはや菊の花もとんだ災難で、二つの重陽に巡り会うとは。
(【両重陽】リョウチョウヨウ 九月九日の重陽と、その翌日の小重陽のこと。)

一人静かに菊に笑われ飲むのが一番か。

二日後
すっかりでき上がっている。こんなに飲んだのは久しぶりのことだ。二年前の正月に向けて金箔入りの松竹梅というのを戯れに買った。なにやら外国のお客さんに買ったのだったと思うが飲む機会もなく、棚においたまま忘れてしまった。
それはすぐ飲んでしまい、紹興酒が残っていたなと飲み始めた。ところが瓶の下の方に何センチか残っていたはずというのが記憶違いで、瓶の半分以上残っていた。まあ菊の宴が思わぬ豪勢なことになってしまった。ないのは蟹の爪くらいで、李白も四川の山奥で蟹を食べていたわけもないから、その辺はよしとしよう。
ジュンク堂の本店に行って白川静さんの平凡社の棚に『文字答問』というのを見つけた。175ページしかない薄い文庫本なのに900円している。普通なら「そのうち買う」のリストに入れて手をつけないところだが、いきなり第一章が「菊について」と題されて「菊は音読みですが、訓読みはないのでしょうか」とある。これは編集者に「やられた」である。菊茶を秋になると毎月少量ずつ買っている身としては本を買わずに放置する手はない。
「それは菊は中国から渡来したもので、古い時代にはわが国になかったものだからです。」
たとえば馬は中国語で「マー」。それが「うま」になった。この説明は間違いで、菊の音読みは「ju」つまり数字の九と同じである。「ma」が変形して「うま」になってくれたようには行かないが、翻訳語としては「ju」が「きく」である。つまり、音読みは「じゅー」で訓読みが「きく」てある。陶淵明の詞や懐風藻の使い方で「ジュー」はわからず「きく」と日本語に開くしかなかった。白川静さん、いかがですか。

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2017年06月手書き

2019年10月17日



30余年前にワープロを始めて以来

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別冊宝島

 手書きを何十年かぶりに復活させようと思っている。30余年前にワープロを始めて以来、たまに葉書を書くとき以外は手書きを使うことはなく、ずっとワープロを使ってきた。ワープロに頼らずに頭を整理することはなかった。ワープロに文章を書くのにまったく抵抗することはない。自然に息を吐くように、自分の文章を文字にしてきた。

それだけでいいのだろうか。このまま生涯を終えてかまわないのだろうか、といつしか思うようになった。ここでつながっている数人か十数人かの友人に向けて書いているだけでいいのか。量の問題ではなく、それ以外に残したい言葉があったのではないのか。

私は宝島の初期のころには、手書き原稿だった。別冊宝島35号の「東洋体育の本」のときには手書きである。1983年6月25日の発行。石井慎二さんが所沢に来て、私が一枚また一枚と原稿を渡すのを黙って待っていた。こうして作った本がたぶん30冊くらいある。それから私は試作品のようにして作られたワープロを順に試し、だんだんにマッキントッシュの発展と歴史を共にするようになった。

私は小学生の頃三年近く書道を習いに行っていた。母の女学校の同級生だった大須賀さんのおばさんのところに井の頭線の神泉に通った。十朱幸代という女優さんのお母さんで60を過ぎてもきれいな人で、ていねいに教えてくれた。三年ではこころもとないが、なんとなく書道の基礎の基礎はできた。

最近少しやってみたくなって、安い紙とか筆とか少し買い込んでみた。そのうちに石川九楊という大先生の本にれて、夢中になった。十数冊仕入れてまだ全部読んでいないが、圧倒されながら読んでいる。まだ中国古典の楷書からというのは無理なのだが、少しずつ少しずつでどこかで突破できないかと思っている。そんなわけで、新たな旅が始まった。書道の真似事と並行して、ハイテックポイントというボールペンで日記を書いてみよう、「京のことのは」という本のぬきがきをしてみよう、などのあれこれが始まったのである。

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