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津村 喬


2014年03月02日 「新編私の気功歴新版1964-2014」くらい配らなきゃ
2013年09月30日 ①自己紹介(1)高野の両親のことなど
2013年09月30日 ②自己紹介(2)津村喬として
2013年09月30日 ③自己紹介(3)猪俣津南雄について
2013年09月30日 ④自己紹介(4)津村喬の本
2013年09月30日 ⑤脈脈発刊宣言
2013年10月01日 ⑥イマジンをもう一度

 



  『新編私の気功暦新版1964-2014』くらい配らなきゃならないかも

2014年03月02日


師弟 師弟


『新編私の気功暦1964-2004』という36ページのパンフレットがある。新編というのは、2000年くらいにいっぺん出したものに、大幅に書き加えてこれを作ったのだが、このときで気功を始めて40年だった。今年は六月で50年になるから、5月の総会のおみやげに『新編私の気功暦新版1964-2014』くらい配らなきゃならないかも。でもこの十年のことはほとんど覚えていないな。ぼけが激しくなってきたのかもしれない。まず最近10年の年表つくりからしてみよう。

健身気功の会で報告してくれといわれて日程の関係でできなかった。代わりに、ちょっとしたエッセーを書いておいてきた。雑誌に載せてよと頼んだが、実現するかどうかはわからない。

私の二つの始まりについてすこしだけ書いてみます。ひとつは私と気功との出会いについてです。それは1964年のことでした。もうひとつは私と健身気功の出会いについてです。それは20...04年のことでした。

1964年、日本の労働組合総評議会の秘書長をしていた私の父親の病気が思わしくないため、中国に来ないかと誘われました。当時高校に入ったばかりの私もそれについて初めて訪中しました。大連に家を借りて療養生活をしたのです。はじめ太極拳を習ったのですが、父親はちっとも覚えられませんでした。代わりの先生が来て、黙って座っているように言いました。何が始まるんだろうと待っているうちに、何も始まらないで「終わります」といわれました。私の静功との出会いでした。この静功は一般のものではなく、道教の荘子にはじまるものです。

それからしばらくして、父と私は杭州工人療養院を訪ねて、陳攖寧の指導を受けました。ご存知の中国道教協会の主席で、道蔵全巻をわかりやすく解説した人です。指導を受けたのは短かったけれど、私は誇りを持って陳攖寧の弟子であると言ってきました。それから間もなく文革の嵐にさらされて、中国道教協会は崩壊し、陳主席も行方がわからなくなりました。わたしは自分で陳先生の教えを育てるしかありませんでした。陳先生はそのあと六年してなくなりました。

実は今年の六月で陳攖寧先生から習った50周年になります。その後人民体育出版社の閻海先生から、陳先生が60年代に使っておられたガリ版刷りのテキストをいただきました。私は今になってやっと陳先生の静功を教えられるようになりました。私は今回の楼先生のすばらしい講義を聞きながら、50年前の陳攖寧の静功を皆さんに伝える機会があれば、とふと思いました。中国でもほとんど絶えてしまった重要な功法を日本からお伝えすることがあっても面白いのではないか、とおもったのです。
これは私と気功との出会いの話です。

私は中国の健身気功の始まりの一場面に皆さんをご招待しましょう。皆さんにもきっと興味があることでしょう。2004年に海軍病院の副院長である馮理達さんのところを訪ねた時のことでした。「健身気功という新しい動きが出てきているのよ。私から話すより直接の責任者である黄鷹さんを呼んで話してもらったらいいわ」と言いました。

馮理達さんとはお互いの親の代から付き合いがありました。馮理達さんのお父さんが毛沢東を支えた軍閥のひとつである馮将軍であることはご存知と思いますが、お母さんが初代の衛生部長をされた李徳印さんでした。彼女は戦後中国で最初に日本を訪れた中国人になりました。中国で行方のわからなくなった日本人のたくさんの遺骨をもって、人道的な意味で日本に届けにこられたのです。それを迎えたのが当時総評の事務局長をしていた私の父、高野実でした。高野は戦時中から中国侵略戦争反対を唱えて長く獄中生活をしましたので、戦後に日本の労働運動の最高指導者となったときに、GHQに真っ向から反対して朝鮮戦争で中国朝鮮支持の姿勢をとり、当時「ニワトリだと思って育てたものがアヒルだった」といわれました。その高野にとっては、初めて公式に中国とつながる機会は大きなものでした。そして以前から馮理達さんは存じ上げていたのですが、私の父と彼女の母さんのことを話したときにとてもびっくりして、いっぺんに仲良くなりました。

その馮理達さんが紹介してくれた黄鷹さんは長いこと青年同盟の仕事をして、胡耀邦ともつながっていたので、とても頭が切れて、しかも謙虚な態度でした。馮理達さんの事務所ら彼女が当時使っていた別荘に場所を移して、古い茶室で三人で長時間話しました。いろいろ話した中で、たとえば八段錦について,この気功はストレッチングをテーマにしているのだから、世界でひろまっているストレッチングに匹敵する言葉を作るべきだといいました。一部では「抜長」の言葉が使われていましたが、一般的ではありませでした。あとにって八段錦のテキストにはご存知のように「牽拉」の言葉が出てきました。あ、黄鷹さんはきちんと討論してくれたなとわかりました。黄鷹さんとはその後も何度か話し合い、私が主催した気功の将来を語り合うための二日間の討論にも参加してもらいました。そしてあるときには最初の編集過程の立役者であった人民体育出版社の周黎衣さんと、のちに彼の後をついで主任になる雛さんも紹介してくれました。雛さんとの話は儀礼的なものではなく、格闘技に近いものになりました。じっと聞いていた黄さんが「喧嘩はすみましたか」と言ったほどです。もちろんこうした討論を通じて雛さんとは深く理解しあい、友情は今も続いていのですが。

残念なことに黄鷹さんはまもなく癌が発見されて、それから何ヶ月かのうちに亡くなってしまいました。黄さんが今日の健身気功のさかんな様を見たらどんなに喜んだことだったでしょう。黄鷹さんも、馮理達さんもこの間に亡くなってしまいました。

今回の培訓班ではいくつかの重要な報告がありました。私たちはこれまで、気功の伝統理論については別のとこで学ぶ、健身気功では体の動かし方を主として学ぶ、というつもりで来ました。虞定海先生や張明亮先生からは中級段階のお話をぽろっと漏らされるようにお聞きすることもありましたが、もっと若い先生方からはただ体の動きだけ学ぶことが多かったのです。しかし今回は気功の背景の伝統思想について十分にお聞きしました。これはとてもよかったと思います。各国の幹部の方はもちろん、中国の健身気功の幹部の方にとっても新しい学びの機会になったのではないでしょうか。

私自身も二日間のお話に大いに啓発されるところがありました。しかし私たちはもう30年以上もずっとこういう話をしてきたのです。だから健身気功でこういう話が出てくるのは大歓迎です。今回は儒仏道についての簡単な、しかし周到な説明をしていただきました。その中で「気」の概念もさらに明確になったと思っています。そしてさらに、この先の講座をずっと継続的にしていつて各国の健身気功の指導者たちが、こうした総合的な教養を身につけていっていただきたい。そしてこれまでともすれば特定功法の背景解説として、たとえば禅密功の中で、たとえば知能功の中で、あるいは亀蛇気功の中で、語られてきた歴史と理論を、もっと広い視野に立って説明していく機会を持ってほしいと思います。

 

 


 

1964年中国道教協会の陳攖寧会長から気功を習い始め、それからずっと中国の伝統社会とつきあってきました。
1980年前後から京都気功会、神戸気功塾、気功懇談会を作りました。
1987年から関西気功協会を作りました。
2000年に気功文化研究所を作って所長になりました。
2004年にNPO法人健身気功協会を作って理事長になりました。
2012年にNPO法人気功文化研究所の理事長になりました。
気功にかんする主な経歴はそれくらいかな。
1994年にNHKで気功専科Ⅱというのをやってからしばらくは、ど田舎の旅館にいっても「あら、津村さんじゃねえだべ」と言われました。

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自己紹介(1)

2013年09月30日


自己紹介⑴高野威として何十人かに「友達」のご招待をして承認をいただいていますが、自分が何者かをご存じない方も多々いられるとおもうので、あらためて簡単な自己紹介をします。 出自からいいますと、高野実を父とし、高野倭文子(しづこ)を母として、1948年に生まれました。

高野は1921年の第一次日本共産党の参加者で、学生部長をしていましたが、特高から竹刀で肋骨を全部おられるという拷問を受けて、それがもとで肺結核になり、終生それと戦って、結局74年に74歳で亡くなりました。生涯獄中と病院にいた期間のほうが娑婆にいたより長かったと自称していました。
その後共産党のずさんさにあきれて袂を分かち、労働組合畑に移り、全評という組織を育てました。のちに総評を作って、二代目からは自分が事務局長になって、マッカーサーを裏切って「にわとりからアヒルへ」の転身を遂げ、大きな役割を残しました。

母は18歳で父親と死...別し、中公の嶋中社長のところに談判に行って最初の婦人記者にしてもらい、中央公論、のちにできた婦人公論の編集者をしました。久保田万太郎ら江戸趣味の人たちと並行して、当時の非共産マルクス主義者として大評判で『金の経済学』などのベストセラーを次々に生んだ猪俣津南雄の担当になり、のちに妻になりました。人民戦線事件で逮捕されて事実上引退し脳軟化になった猪俣を見送ったあと、猪俣の実践面の一番弟子だった高野の求婚を受け入れて、夫婦になりました。

そして戦争末期と戦後に二人の息子を作りました。兄のほうが高野孟(はじめ)で、弟がワタクシです。 母は柳橋の色町の生まれで芸者の子として育ち、三味線琴なども達者だったので晩年はたくさんのお弟子を持っていました。教えたのは小唄を主とし、歌沢、薗八は自分で習って研究していました。私の話に唐突に三味線や芸事の話が出てくるのはそのためです。母は他方で、10歳前後から物書きとして訓練をほどこしてくれました。父も母もずいぶん前、74年に亡くなっていますが、いまだに両親の影響は大きいなと思います。

ひたすら面白い本を集めて、乱読していくのが何よりの趣味で、毎週の鞍馬口の古本屋を楽しみにしています。トイレにも文庫新書600冊を入れましたが、そろそろ本棚もう一つになっています。息子と娘がいますが、今は二人の妻と離婚していて、一人暮らしです。

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自己紹介⑵

2013年09月30日 5:19


津村喬として実は高野威が津村喬とはご存じない方もおられるようなので、改めて自己紹介です。 津村喬のペンネームは18,9のころに七つ八つ使っていたペンネームのひとつで、深く考えた名前ではありませんが、私が柳田謙十郎という共産党系の哲学者の悪口を趣味的に書いていましたら「赤旗」という新聞に八段抜きで「津村喬批判」が出て「へえ、有名人じゃん。これしばらく使お」と津村喬を使い始め、ついに今に至ったという次第。

猪俣津南雄の津ではあったのですが。 最初の本が1970年の『われらの内なる差別』で、ちょっとしたブームになり、新左翼と異質な全共闘というものの存在と、切実な在日朝鮮人差別の問題をやや乱暴に提出しました。それ以来とにかく書き続け、当時の総会屋雑誌(中身は左翼でも広告が取れればいいという雑誌)とかに休む間もなく書き続けました。当時単行本にできなかった一部をスガ秀美さんの編集で去年『津...村喬精選評論』にまとめました。

太極拳と気功は1960年代からやっていたのですが、80年代後半から次第にこの分野での発言が多く成りました。途中で政治新聞『週刊ピーナツ』の編集主幹になったり焼酎雑誌の編集長もしたし、自分で『満月通信』以降の数々の自分メディアも作りました。 今は気功について啓蒙的なことを書き続けていることと、少し高級な中身(気功についてこれまで誰も書かなかったこと)を小出しに(わかってくれる人を育てながら)出して行ったりする一方で、昔の都市論、メディア論、差別論、企業論、明治維新論、エネルギー論、現代史論、文学論、映画論、演劇論などを少しずつ新たな文脈で取り上げ治したいと思っているところです。

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  自己紹介  ⑶

2013年09月30日 5:37


そんなわけで、私の「自伝」があるとすれば、猪俣津南雄から始まるしかないのです。母は猪俣の愛人として長い時間を過ごし、のちにやっと妻になるや、そんなに幸福な時期は長くなく、死別しました。父は1921年から猪俣派として過ごし、その実践面の一番弟子だったが、最初の妻と早くから死別していた父は猪俣の死後しばらくして母と一緒になりました。二人して猪俣の影を引き受けたというところでしょう。「人民戦線事件で検挙されるが、腎臓炎悪化のため執行停止。1942年に死去。アメリカ留学中に知り合ったベルタ・ゲールと結婚するが、のちに離婚。

『婦人公論』編集者であった大塚倭文子と再婚する。倭文子は猪俣没後に高野実と再婚し、高野孟と津村喬の兄弟を儲ける」とウィキペディアにはあります。「あんたは猪俣の生まれ変わりみたいだよ」と母は時折言っていましたが、兄にもそういっていたのかは知りません。私についていえば結局政治の実践場面よりは理論面に行きたがったのですが、猪俣のような本格的学者になることもできませんでした。 猪俣は明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日)。彼の名前は子規派の河東碧梧桐の『三千里』の中に新潟の16歳の少年鹿語として出てきます。碧梧桐の新傾向を加速した一人だった。

上京してしばらく根岸に出入りしたがその後訪米してウィスコンシン大学に学びヴェブレンの制度派経済学などから多大の影響を受けました。1916年アメリカ共産党に参加、22カ国語で最初の機関紙を出したアメリカ共産党の開放的雰囲気に刺激を受けました。 帰国して早稲田大学の教授になり、浅沼稲次郎や高野実を指導します。1921年日本共産党を創設し中心メンバーとなりますが、徳田、鍋山らと対立し革命ごっこをやっているだけと縁を切ります。他方で山川均、向坂逸郎ら学者肌の社会党も見切りをつけ、経済学者として影響力のある十冊の本を書くと決めて、『窮乏の農村』『農村問題入門』『金の経済学』『帝国主義』など影響力のある本をかきますが、10冊計画は実現しなかったようです。

この時期共産党の講座派と全面対決し、野呂栄太郎、福本和夫らと論争しました。その一方でコミンテルンにはレポートを送り続けました。 猪俣の詳細な評伝、その仕事については、遠からず専用のブログを作ります。猪俣津南雄研究16巻もネットで復刊していきましょう。

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自己紹介 ⑷ 津村 喬の本

2013年09月30日 5:47


手に入る本や入らない本や、割合好きなものを紹介します。詳しい紹介はあらためて。


    《 初期の六点 》
  • われらの内なる差別 ( 三一新書 )
  • 魂にふれる革命  ( ライン出版 )
  • 革命への権利  ( せりか書房 )
  • 歴史の奪還 ( せりか書房 )
  • メディアの政治 ( 晶文社 )
  • 戦略とスタイル  ( 田畑書店 )

  • 《 食関連六点 》
  • ひとり暮らし料理の技術 ( 風濤社のち新泉社 )
  • 今日も一日おいしかった ( 現代書林 )
  • 健康食とうふ  ( 農文協 )
  • 風土食の発見 ( 北斗出版 )
  • ライスブック  ( 宝島社 )
  • 自然流乾物読本 ( 農文協 )

  • 《 気功六点 》
  • 気功への道  ( 創元社 )
  • 気脈のエコロジー ( 創元社 )
  • 気・イメージ・人間 ( アニマ 2001 )
  • 気功・心の森を育てる ( 新泉社 )
  • 気功・癒しの人間学 ( 新泉社 )
  • 健身気功入門  ( 春秋社 )

  • 《 総合 》
  • 津村喬精選評論 ( 論争社 )

  • 《 近刊 》
  • 横議横行論 ( 航思社近刊 )
  • 戦略とスタイル増補改訂新版 ( 航思社近刊 )

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脈脈発刊宣言

1987年06月25日.  2013年9月30日 23:40


まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて私にとっての歴史的な文書ですが、本来これは気功のホームページに掲載されるべきものですが、そして実際今準備中のものに掲載して行きたいのですが、今のところ一番たくさんの方に見ていただいているfacebookにまず掲載しておきます。関西気功協会を作って、『脈脈』という機関誌を出した時の創刊号巻頭の文章です。

気功を愛するすべての皆さんと、ひそかに、しかし脈々と気脈を通じるために、この通信を送ります。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という宮沢賢治の言葉をここにもってきたら、あんまりレトロだと、皆さんは思いますか。焦国瑞先生が実にいろいろな文章の中で、WHOが「二十世紀の終わりまでに世界中の人々が健康を享受できるように」というよびかけにふれているのは、このことだと思うのです。「世界が全体健康にならないうちは、個人の健康はありえない」………違いますか。私だけ健康に幸福になれるなら、ひっそり山にでもこもって功夫をつければいいことでしょう。人を押しのけて幸福になろうとする人の不幸は、自分だけ健康で長生きをしようとする者の病的であるのとおなじことです。だから、気功をすることは気脈を通ずることと離れてはないのだ、とここで言葉にしておきたいのです。

正しい気功の真髄は、心と心をつなぐ努力のうちにある、と。あんなに孤独を愛した賢治がどんなふうにしてこの言葉を書いたのか。これは彼が農民生活そのものが科学であり芸術であることをめざした活動ネットワークとしての「羅須地人協会」を作って、そのよびかけのようにして書いた「農民芸術概論綱要」の中の言葉です。「世界がぜんたい」に続けて、こう書いています。

「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな世代が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
これに応じていくことである」

この方向は、まさに気功が追い求めるものではないでしょうか。宇宙と人体の相似象ということこそ、すべての気功の成立根拠にほかなりません。「農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である」というのは「気功とは」と置き換えてさしつかえありません。しかし、内部に宇宙を感じようとする人々はしばしば孤独に宇宙と向き合って悟りを得ようとします。生活のただなかで生活そのものを気功に高め、それによって集団の自我、集団の感情を組織し感応することさえできずに、「宇宙」と交感できるはずがそもそもないのに。

「そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせいとする
そは人生と自然とを普段の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観賞享受することを教へる
そは人人の精神を交通せしめ、その感情を社会化し
遂に一切を究境地にまで導かんとす」



関西気功きょうかいが自分の生活の中で銀河系との共鳴を広げたい人々の集まりであるとすれば、私たちはこれから集団で思考し、集団で感情し、気を通じ合っていくための「進化する自我」の訓練をしていかねばなりません。
サルトルは皆の気持ちの融け合った「融合集団」がいかに形骸化して「制度集団」に堕落していくかを分析した道筋はなるほど一理あるものですが、私たちはそんなにワッと盛り上がった昂揚感によってこの教会を組織したわけではありません。むしろ、個々人皆違う人間であることを冷静に認識しながら一応の制度を作ってみて、そこからどんな「融合」が始まっていくか、互いに穏やかな期待をもって向き合い始めているのが現状でしょう。これは気功の集団にふさわしい、まことに穏やかな始まりです。

精神を交通せしめ、その感情を社会化するために、気脈を通ずるために、この通信を出していきます。言葉のいらない世界で体得することを共有し合うために、言葉を用いてみます。さしあたり一方的なこの通信は、集団で学び集団で快感する訓練が重ねられるにつれ、文字通りの網の目に進化することでしょう。

私たちは見える限りの物と人について語ってきました。気と気功について、気脈と気配について語ることにお互いもっと習熟しようではありませんか。

「職業芸術家は一度滅びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ」

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イマジンをもう一度

2013年10月01日 1:06


古い文書が出てきたので、自己紹介代わりに掲載しておく。1990年のアメリカのイラク侵略のさいに書いた。それを2003年の自衛隊のイラク派遣の時に、いまもネット友達である西村びんさんが見つけ出して、序文をつけてチラシにしてくれた。西村さんはそのころ松江の市会議員をしていた。 そのまえがきはこんなふうである。


「イラクへの自衛隊派遣を前にして先般、イラクへの自衛隊派遣をさせるための特措法が強行採決されました。しかしもともとこの戦争は、いまだ見つかりもしないイラクの大量破壊兵器の脅威を取り除くための"正義"の戦争としてアメリカが始めたものでした。そして今も戦闘が続いているこの地に日本は自衛隊を派遣しようとしているわけです。こうして戦争に巻き込まれていくのだろうかという、言い知れない不安とやりきれなさの中、90年の湾岸戦争の時に津村喬さんの書いた平和を求める技術としての気功・太極拳の意味についての文書を見つけました。今読み直してみて、やはりこの考え方が必要なのだと、改めて痛感した次第です。もう一度ご紹介したいと思います。皆さまはどうお感じになられますでしょうか。  西村びん」


イマジンをもう一度

イラク戦争の前で気功的生活とは何か

イラク戦争のさなかの英国で、ジョン・レノンの「イマジン」が放送禁止になった。出征兵士の家族を傷つけるのだという。英国を包んでいる病の深さを感じさせると同時に、なるほど「イマジン」はそれだけ現実的な力、戦争を実際にやめさせる力をもった歌なのだと、あらためて思った。ジョンは英国王室に勲章を返したが、この「勲章」は喜んで受け取るだろう。 ジョン・レノンが気功的生活を歌った歌は多いが、「イマジン」は中でも気功の「心法」を見事に表現しているものだ。



想像してごらん 天国なんてどこにもないって

その気になれば簡単なことさ

ぼくらの足の下には地獄なんてない

あたまの上には空がひろがっているだけ

想像してごらん みんなが今日のためだけに生きているって    (山川健一訳から)



観念の上の正義や合法性のために、どれほどの血が流されなければならないのだろうか。イラクは武力で国境線を変更しようとした。それをゆるさないというのが人類全体の意思であり、それがすべての論議の前提だとテレビで評論家が叫んでいた。だが、それならイスラエルがシリア、エジプトから奪った広大な占領地域に国連軍はなぜ出兵しなかったのだろう。イラクの行動自体が英米が中東を長年にわたってもてあそび蹂躙し支配し、クゥエートという国家を作ってきたひとつの結果だとすれば、ひとつの当然の正義があるのではなく、二つの立場の違った正義があることがわかる。
つまり、正義とはたいしたものではないことがわかる。生きていること自体にくらべれば。 これが正しいという判断は脳の一部でしていることにすぎない。正義よりも生命が広い。政治よりも生活が広いように。政治を、理性的判断を避けたり、知らないふりをすることがいいのではない。ぼくらが考えられる「現実」とはもっと大きな生命の一部だと本当にイマジンできたときに、理性はもっと健康になり、「正義」でない者を打倒するための道具でなくなる。
それに気づくことが気功の始まりだ。とすれば気功は平和の技術でありうるし、そう位置づけられるべきではないか。



想像してごらん 国なんてどこにもないって

むずかしいことじゃない

殺し合いの理由も消え

宗教だってありはしない

想像してごらん みんなが

平和に暮らしてるって



そのためには、「意念」こそが大切である。世界はイメージした通りになるのだから、だれもが意念を磨かなければならない。放松功では武装した筋肉に「ゆるめ」と呼びかけるのではなく「もうゆるんだよ」とよびかける。ジョンは戦争にもそうよびかけるべきだと考えた。ベトナム戦争のさなかのクリスマスに全世界に向かって「War is over.If you want」とよびかけた。すでに終わったとイメージしてみるがいい、意念の力がわかるだろう、といったのだ。

君はぼくのことを夢想家だというかもしれない
だけどそういう人間はぼく一人じゃないんだ
君もいつの日にかぼくらの仲間になって
世界がひとつになればいいのに



この「万物斉同」の思想は主としてヨーコから来たもののように思う。「イマジン」のビデオをこの機会に初めて見たのだが、どの場面でもヨーコが主張していたのは、私たちはつながっている、そう実感しさえすれば、ということだった。国境や所有というものが人と人を分けているにすぎないのだから、そんなものが生命にとって本質的なものでないことがわかれば、容易に人々はとけあえるのだと。

気功は現実政治の前ではまったく無力で、無関係であるようにさえ見える。だが、この殺し合いの前で気功に何ができるのかという問いを怖れてはならないと思う。「イマジン」が教えてくれているように、世界の巨大なメカニズムを巻き込んで進んでいるどうしようもない流れに見えるものも、もともとは皆が自分のイメージの描き方を間違えているところから始まっているのだから、意念をともに磨いていく方法さえ共有していければ、お互いにまだ治癒の可能性があるのだ。ジョンはこれをただ「心法」のこととして歌にしただけでなく、正義よりも、経済よりも生命が大事、というその思想をヨーコと、息子ショーンの生活の中で探求し、本当の愛を共有して行こうとした。自分を「世界のスター」から「ハウスハズバンド」に変革していく訓練の中から生み出されたアルバム「ダブルファンタジー」は、一見些細なことに見える事柄を通じての「生命への帰依」こそがどんな正義のよびかけよりも普遍性をもっていることを、音でわからせてくれる。

もう一度「イマジン」を聞いてみてほしい。イラク戦争の映像を消費する代わりにその背後の現実に、自分自身の心に向き合うために。

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