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New York目録


NY11
NYへの出発があと三時間半ほどだ

2014年2月18日2:30(日本時間)



NYへの出発があと三時間半ほどだ。ほぼ荷物も作り終わって、MKの乗り合いタクシーが五時に迎えにくるのを待っている。この記事を書き終えたらwifiの端子をはずしてリュックに入れる。リュックには本と小型のコンピュータ、電線類などを入れた。地面を引いていくガラガラだが、一番小さいのを選んで衣服と包帯類、薬類、多少の自己紹介のためのパンフレットなどを入れる。メールが普通に使えるかどうかは分からない。アメリカの人からは普通にメールが来ていたから、たぶん大丈夫なのだろう。エストニアでは国中どこでも通じるし、フィンランドはラインをつながないだめなところと、なんとなくその家の電波が流れている場合とがある。

またネズミが来るといけないから、台所は割合ていねいにきれいにした。六日間のことだから、一ヶ月家を空けるときの緊張はない。あとはあちこち片付かないままだ。ストーブだけはちゃんと切らないと。
もっていく本は三冊。九鬼周造の『イキの構造』、大村博士のOリングの本、それから私の『戦略とスタイル』。また空港で小説を買いたくなるかもしれないが、持っていくのはそれだけだ。大村博士は90近いはずだが、NYに住んで活動している。思いつくのが遅かったが、会えたら会いたい。きのうメールをした。会えたら会ってくる。治療の機会があれば頼む。NYといっても広い。大村先生のところはホテルから一時間くらいかかるらしいが、ぜひ行ってみたい。
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『戦略とスタイル』を中心にしたシンポジウムをする。私が45年前に書いた本である。私の本の中では一番評判がいい。まあ『東洋体育の本』が17万部でたとか、『危ない食品から家族を守る法』が10万部ぎりぎりで再販されなかったというのに比べれば『戦略とスタイル』は3000部だったと思うから、影響は微々たるものだが、いろんな学者、批評家が一番高く評価してくれたのがこの本だった。全体が不思議な文体で作られている。これはたしか二ヶ月もかからずに書き下ろしたものだが、全体が熱病のようなトーンがある。でもとても論理的で緻密だ。今の私には真似ができない。1972年という時代が作り出したものだろう。
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これには二つ折り四ページの正誤表がついている。103項目の訂正がある。「堕落」が「隋落」になっていたり、「過去」が「退去」になっていたり、「テクスト」が「テント」だったり、「R・カイヨワ」が「R・カイヨウ」になっていたりというのが100項目以上あるのだ。ほとんど著者校の時間はなかったはずなので、出版社のほうでしたのだが、校正者がぜんぜん文章について来れなかったということだろう。竹内好さんにも本をお送りしたのだが、「こんなに校正のある本は明治以来かな」とはがきをくだすった。
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『戦略とスタイル』のことはまたゆっくり書こう。いや、目次だけ書いておこうか。

1  近代性のスタイル
2  差別の構造
3  言語とテロル
4  戦争の言説(ディスクール)と言説(ディスクール)の戦争
5  一九三〇年代・極東における帝国主義
6  毛沢東思想をめぐって
7  核抑止=帝国主義とモードの概念
8  革命の考古学あるいは共同体論
9  革命のジャーナリズムあるいは方法としての第三世界
10  戦略的理性のために
このうち5はスガさんの編集した津村喬評論選に入った。毛沢東個人ではなく、日本に対抗して戦争をやった人びとが毛沢東という集合名刺になっていたとすれば、毛沢東は日本を写す鏡だった。戦略とスタイルとは戦争の二つの次元を表していて、毛沢東戦略論・持久戦争論と石原莞爾の永久戦争論が、ひとつのものの両面だったし、毛沢東整風運動が日本民俗学と両面をなしていたということを書いている。このことはもっと様々な学者がフォローしてくれるかと思ったが、すぐには読まれなかった。何十年かたって、少しずつ読まれていったのだ。同時にこれは「クラウぜヴィッツからグリュックスマンまで」の戦争論の総まとめでもあった。日中戦争はまだ形を変えて続いているという考えだった。そしてレーニンによれば、まともな神経を持った人は「自国の敗北」をこそ願う事が本当の平和への道なのだ。
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安倍が登場して、「自国の敗北」がイメージしやすくなった。日本と韓国なら、あえて韓国の立場に立つレッスンをする。もちろん北朝鮮も。アメリとだって、権力者以外の人々とつながれるのだ。
さてそれでNYでどんな議論になるか、飛行機の中でもう一度読み直してみよう。・・・・・HOMEに返る



NY9
ニューヨークに着きました

2014年2月19日(日本時間)



ニューヨークに着きました。もう昨日のことで、それから三度報告をしようとしたのに、フェイスブックの、というより文字変換システムの機嫌が悪く、途中で消えてしまいました。また気をとりなおして書きます。ワープロソフトで作って移せばうまくいくでしょう。いまから朝ごはんにいってきます。・・・・・HOMEに返る



NY5
ニューヨーク日録①

2014年2月19日(日本時間)



ニューヨークに着いた。もう昨日のことだ。
座席はエコノミーにしては広くて、そういうクラスがあるらしい。足が不自由だから、なんとかしましょうと私をよんでくれた平沢さんが言ってくれて、基本の旅費とか滞在費を持ってくれるニューヨーク大学と別に日本基金という外務省系の基金からからなにがしかの金を取って、座席を上等のにしてもらった。席に座ったら、スチュワーデスって今は言わないのか、客室乗務員のおねえさんが「あちらが空いていますがよろしかったら」と案内してくれたのが三席続きで空いていたのでありがたい。もっとも昔のエコ席は腕掛けが上がって本当に寝られたけれど、いまは視聴覚関連の機械がつまっていて、三席空いていても荷物をゆったり置ける程度だ。
おなかが空いていたから機内食が楽しみだったが、何もかも甘い感じで、大部分残してしまった。果物の甘さだけがすっきりしていて、いい。途中で出るカップ麺もJALのマークがあるだけでひどくまずい。濡れドーナッツもまずい。味覚がおかしくなったかと心配してしまった。到着二時間前に出たスープ・ストック・東京のスープはまあおいしかった。大森の小さなレストランに何度か行ったが、味は落ちていなかった。フィンエアはもう有料になっているが、JALのニューヨーク便はシャンパンもコニャックもただである。シャンパンで初めて赤ワイン、コニャックと食事に合わせてもらった。コーヒーリキュールで〆たいがさすがに無料メニューにはなかった。十二時間半のフライト。ヘルシンキより三時間半長い。
車椅子が要りますかと聞かれてついことわってしまったが、通路はえんえんと続いた。もう誰もいない通路をゆっくり歩く。通路のベンチで荷物の整理をしていた二人連れの日本女性を邪険に追い払っていた太った黒人女性が私にはびっくりするほどやさしく、エレベーターまで案内してくれた。そこには五百人ではきかない人が入国管理の列に並んでいた。これは一時間だなと覚悟したら、別の黒人女性によばれて別の道を通してくれた。そこは身障者用入り口で、なんと一人しか待っていない。偏見かも知れないが、太った黒人女性に繰り返し助けてもらった。こちらも太っていて同類と思われたのかも知れない。リュックを背負って杖をついた姿だ。
平沢さんは二十分くらい遅れてきた。通関で五百人を飛び越してきたのを知らないから無理もない。出口にベンチを見つけて自分の書いた本を読んだ。『戦略とスタイル』、1971年、二十三歳のときの本である。・・・・・HOMEに返る



NY6

まだ時差ぼけかな。

2014年2月20日(日本時間)



すみません。前稿は19日ではなく18日でした。
まだ時差ぼけかな。きょうが19日ですね。
コンピュータの時計は日本時間のままで20日午前一時半です。・・・・・HOMEに返る



NY10
ニューヨーク日録②

2014年2月20日(日本時間)



今回は『戦略とスタイル』について話し合うためにニューヨークに来た。飛行機の中で精読した。やっと三章まで読んだ。今の私にも難しい。その代わり、書いた当時気がつかなかったさまざまなポイントに気がついた。45年後に読み返しているわけだ。
私の本では『東洋体育の本』が十七万五千部といっていた。数年前にも復刻しているからもう少し行っているだろう。『危ない食品から家族を守る法』はカッパブックスで出て十万部に少し足りない売れ方をした。十万部を越さないと再販にはならないのだ。それに比べると『戦略とスタイル』は三千部である。しかしこれほど研究者や活動家の間で話題になってきた本はない。四十年たっても論議する価値があるとみなされている。吉本隆明や広松渉や当時のそうそうたる理論家に次々喧嘩を売っている。スガ秀美さんなどは何冊もの本の中で吉本との対立については「津村の勝ち」と軍配をあげてくれている。毛沢東という存在を一人の人間とみなすのでなく、中国革命をやりぬいた集団の集合名詞として捉えた。そして戦略の次元での毛沢東の持久戦論を石原莞爾の永久戦争論と対比し、整風運動の毛沢東を柳田國男的なものと

を石原莞爾の永久戦争論と対比し、整風運動の毛沢東を柳田國男的なものと対比して捉えた。それによって日中戦争は当然にも二つのばらばらな歴史があったのではなく、ひとつの近代の両面として生きられたのだと主張した。
それは今も日中関係を支配している。相互主観性の論理を国家の間に展開して相互近代性の論理を打ち出した。これを超える業績があるのかどうか、寡聞にして知らない。
タクシーで真ん中へ向かった。南のほうに行くと中華街がある。リトルイタリーは凋落してしまって、ワンストリートしか残っていない。中国人や韓国人が幅を利かせている。中国人の中でも福建系、広東系、客家系が入り混じっているのだろう。
ホテルは大学の近くで縦に長い、ワンフロアに八部屋くらいしかないが二十何階かある建物だった。平沢さんが日本食屋で豚丼と味噌汁、アンパンとクリームパンと買ってきてくれた。
ワイファイはすぐ通じた。包帯を替えてまた自分の本を少し読んで、少し寝た。八時ころ平沢さんに連絡しようと思ってかけたが、通じない。フロントに行ってやっもらうが、だめだ。メールが来ていたので電話がかからないと送ったらすぐ電話がかかってきた。彼が来て電話機を見たがわからない。こちらから連絡します。急ぎのときはメールでということになった。
ホテルからあまり歩きたくないので、筋向かいのメキシコ料理店に行った。十九度の強いビールをもらってみたがあまりおいしくない。魚介類のタコスを頼んだが、予想に反して餃子の皮くらいのタコスに野菜とエビがはさんだのが三つ。みんなだんだん少食になっているのかも知れない。平沢さんといろんなことを話した。彼は映画で世界とつながっていて、日本の若松孝治とか足立正生の作品を紹介したり松田政男の風景論・映画論を紹介したりしている。私は松田や足立らとは1970年に『映画批評』にゴダール論をかかせてもらってからの付き合いだ。松田の本の出版記念会で会い、そのあと一晩はなしたことがある。
ホテルに戻って別れた。豚丼とクリームパンの残りを少し食べて、また本を読んで四時間ほど寝た。ベッドがやたら高いうえにふわふわなのが気に入らない。いっそ床に寝具を引きおろそうかと思ったが、大事になる。腰痛を引き起こすベッドだ。・・・・・HOMEに返る

 



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ニューヨーク日録③

2014年2月20日(日本時間)




八時少し前に朝食に行った。まずは普通のスタイルを食べてみたい。薄いトーストが二枚、目玉焼きが二個、ベーコンが三枚、ミックスポテトで18㌦、ラッテが5㌦。東京でもこんなものか。初めおいしかったが、ベーコンの塩辛さに辟易してきた。結局一枚残してしまった。ラッテはおいしかった。サインして出るときになぜか1206と書いてしまった。1406なのに。あとで平沢さんがきたら訂正してもらおう。明日はクロワッサンにラッテにしよう。

 平沢さんが来て大村先生に電話をしてくれた。大村先生はOリングの創設者で、医学博士だが広く漢方や気功を研究しておられる。もうニューヨークには長い。わたしのかかりつけの鈴木医院で薬を決めているのがこのOリングによってだ。どうせ行くなら大村先生に診てもらってはどうかといってくれる人がいて、アメリカに来る直前にメールを出した。それが届いていなかったらしい。おととい、きのうと留守にしていらして、今日いたところにいきなりお電話した。気功をやってますというと、外気功ですか、自分で病気を治す気功ですかと聞かれるので、外気功ではありませんと答える。外気功は私はやっていません、外気功の人とは会いませんとはっきりおっしゃる。内気功のほうですと説明して、実は足に傷口が開きましてという病状を簡単に話す。明日から三日間学会があるので、その会場に来てくれませんかという話になった。ずっと会いたいと思っていたが、いわば雲の上の存在で、直接病気を診てもらうことなどないと思ってきたので、明日会えるとなってとてもよかった。とにかく気さくで、もったいをつけるところがまったくない。本当に治療していただければいいし、話を聞いてもらうだけでもめっけものという感じだった。
タクシーでネイティヴ・アメリカン・ミュージアムに行った。入るときに金気のものを全部はずして、ベルトのバックルもはずして空港のように厳しい。私のベルトはずぼんのベルトの穴より少し大きいので、いったんはずすと苦労する。平沢さんは根気よく待っていてくれて、申し訳ない。合衆国だけでなく、カナダから南米までの資料が展示されている。ワシントンのほうがずっと充実していて、ここは概要だけのようだ。それでも、さまざまな土器や陶器、織物、槍や弓矢や斧などの武器、食器、衣服などが所狭しと並んでいる。
「諸民族の歴史」がてにとるようにわかる。それはさしあたりヨーロッパからの移民が到着する以前にここにいた人々の歴史なのだが、そしてそれは疑いもなく貴重な視点なのだが、私としてはその上に、スペインやイギリスやフランスから来た人たちがどんな血の歴史を作ってきたのか、大西部開拓という名の大虐殺がどのように進んだのか、その記述がない「諸民族の平板な歴史」が存在しえたかのような展示だった。いっそ、その後飢えたアイルランド人が新大陸への道をたどり、一方で中央アフリカを中心にたくさんの黒人が奴隷として連れてこられ、WASP〔ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント
黒人が奴隷として連れてこられ、WASP〔ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント〕の権力が確立され、さらにメキシコ人、中国人〔福建人、広東人、客家など〕韓国人日本人などが加わって「人種の坩堝」となっていったプロセスの全体が理解されて、その中で太い縦線をなすネイティヴの姿が浮かび上がってこなければ、先住の諸民族はただ「かつてこんな人々がいました」という枠の中に押し込められてしまう。それはネイティヴのミュージアムの仕事ではなく、「アメリカ歴史博物館」の仕事であるかも知れないが、せめてそこにつながる記述の部屋を持っていなければネイティヴ・ミュージアムとはいえないと思ったのである。
とはいえ、ネイティヴたちの作るさまざまな道具や芸術品、それにかかわる書籍やCD、などを売っているショップは実に楽しかった。やっぱり好きなのである。
もう二十何年か前にニューヨークに来たとき、さまざまな雑貨屋や本屋、クリスタルのショップなどを回って、「先住民グッズ」を集めたことがある。フェリシモという通販の店と一時親しくしていて、私が持っていたラップランドや中国西南少数民族の作品や生活雑貨を見せたところ、これにアメリカン・ネイティブや黒人文化として入ってきたアフリカの文化などを加えたカタログができれば、ということで、三百万ほど入ったカードを渡されて、ニューヨークから西海岸、アリゾナ、コロラド、ユタなどを回ったことがあった。アメリカのネイティヴをはじめ、メキシコ、中央アメリカ、さらにガーナなどアフリカ諸地域の芸術品を集めて歩いた。世界を抑圧された諸民族の文化の殿堂として見る、という視点である。
これはコレクションしている間が一番楽しかった。フェリシモは輸入をしていなかったから、これらの集めた品物をもとに日本で商品を作るという構えだった。それは無理だと私は主張し、実際にいろいろな民族とつながってそこから仕入れてこそ意味があると考えた。それでこのカタログのプランは流れてしまった。集めたものの大部分をとりかえしたのでとんでもなく豊かな「我が家のコレクション」ができたが、それで新しいショップを作るまで当時手がまわらなかった。
その記憶があるので、先住民グッズはたまらなく懐かしく、また苦い思い出にもなっているのだ。〔続く〕・・・・・HOMEに返る



NY7
ニューヨーク日録④

2014年2月20日(日本時間)



 ネイティヴ・ミュージアムのカタログは安い。大判で三センチくらいの厚さで,27ドルだった。80とか100ドルしても驚かないが、むろん安いほうがいい。同じように立派な本で先住民のクックブックがあった。おいしそうな料理の写真だけでなく、ふんだんに展示物の写真が入っている。このミュージアムが編纂したクック・ブックである。しかしこの二冊で荷物は相当重くなってしまう。片方をリュックに入れるかな。
あとはネイティブのお茶、それから指人形のふくろうと蛇のもの。ホピが作るような片手に乗るようなポッド。そのへんの二ドルとか五ドルというものを少し集めた。
タクシーで中華街へ行った。入り口で太鼓が鳴り響いていて、ああ、今日

は旧正月の二日目だと気づいた。中華街自体が何ブロックにもわたって、かなりの広さだが、中国人と中国人を見に来た外国人観光客とが渦巻いている。落下傘が出たりする大きな爆竹がはやっていて、すでに街路はその屑で埋め尽くされているが、さらに子供たちやものめずらしがる外国人によって繰り返され、歩く人の頭に降り注いでくる。数ブロック歩いて、おいしいと評判の飲茶の店にたどりつく。
まわってくるワゴンからシュウマイとかふかひれ餃子とかとる。正月二日は餃子を大量に食べる日だ。そのわりに余り食べなかった。香港式の焼きそば、なすのはさみあげなどとった。普耳茶がきた。ほかのお茶は有料でこれはサービスらしい。普耳茶は持ちがいい。七回くらいついでもらってもまだお茶の味が出る。ポットの蓋を傾けておくと黙ってお湯を足しに来る。ありがとうというときは指二本でとんとんと二回叩く。口がふさがっていてもお礼がいえるのである。神戸のうまいところには及ばない。メニューも単調だった。汁物がいっさいない。でもまあおいしかった。
それから五分ほど歩いて、中華材料の大きなスーパーに行った。生鮮野菜が安い。大きな白菜が一玉59セントは信じがたいが、どの野菜も安かった。保存食品類は日本のほぼ半分と思ったらいい。腐乳が二十種類くらいおいてあって、そこに足が止まった。日本で手に入りやすい台湾物は避けて、四種類ほど買った。そうだ、これはレシートがある。
白腐乳        1.19ドル
辣腐乳        1.29ドル
天馬好味辣腐乳  1.99ドル
陳なんとか辣腐乳 1.99ドル
五香粉        0.99ドル
卑県豆弁       2.39ドル
合計で9.84ドル。ほぼ千円というところだ。日本で買う四割といったところ。もっていければもっといくらでも買いたい。
なんブロックかの一角がすべて中華街である。今日は休んでいるが、美容院とか不動産屋とか銀行もある。
ホテルにもどった。土曜日のシンポジウムの質問項目の大体の話を聞いた。全学連と全共闘とどう違うかというところから話さないといけない。
夕飯はもしおなかがすけば朝食の店で、またメニューが変わっていますし、といわれたが、まだおなかがいっぱい。少し寝てから、今日のまとめを書き始めた。・・・・・HOMEに返る



NY13
ニューヨーク日録⑤

2015年2月20日(日本時間)



 朝ごはんは今日はオムレツとクロワッサンにした。なぜかおいしくない。オムレツはちょっと焦がしたほうがおいしいのに。平板に、ただ固形化しているだけという感じ。食堂で二時間近く本を読んだ。『戦略とスタイル』の最後の三章にとりかかる。とにかく面白い。自分の過去の著作をこんなに感動して読んだことはない。これと同じ章立てで新しい本を書いてみたくなった。42年もたつとそれ相応の事態の進展がある。しかし誰がどう見ても40年前の津村のほうが優れていたということになってしまうと、ただ衰えを自覚するだけになってしまうが。  タクシーでホリデイインに行った。大村恵昭先生にお会いする。  大村恵昭さんは個性的な人でびっくりした。アメリカ人や中国からの人の前で公開で やってくれた。ほかにも何人もの希望者がいたのだが、午後一番でやってくれた。  三時間かけた。そのていねいさはあきるばかり。初体験の人は250ドルとる。 これだけていねいにやってくれるのだから、高くない感じだ。診療を受けたいたくさんの人がいるし、三分診療とまでいかないが、せいぜい30分くらいまでと予想していたのだ。  まず衣服が汚染されていて、上着も下着も全部替えなさいといわれた。たしかにずっと着ているズボンとシャツで行ったし。衣服のいたるところから感染菌が出ているという。触りもしないで、ご自分の指への感応だけでそういう判断をするのだから、どこまで本気でいっているのか、わからないところがある。以前のOリングは人差し指と親指で作る輪がどれだけ力が抜けるかを測るのだが、今や指先を対象に向けるだけである。途中で助手の人に70度のアルコールを買いに行かせて、それを吹き付けると汚染が消えるという。それは直接病状と関係ないかもしれないが、現に体に悪い影響を与えているのは間違いない。飛行機で特に汚染されたのではないかと思われた。下着など捨てなさいといわれた。パンツは余分に持っているけどシャツは少ししか替えがない。 私の座っている椅子も汚染されているので、ていねいにアルコール消毒するまでは誰も座らないほうがいい。 心臓は悪くない。右心室はとくにデータがよい。ステントの入っている左はそれほどよくないが、マイナスではない。これは少しほっとした。  足の傷は糖尿から来ている。糖尿を治せばすぐに解決する。いま見かけ上は足が一番ひどいが、これはわりあい解決しやすい。〔基本的には砂糖と炭水化物をやめればという意味らしい。ただたんぱく質でも脂肪でも悪いものはいちいち見ていかなければだめだという姿勢だ。お昼を一緒に食べたが,鮭やひじきやのその弁当の中では千切りキャベツだけがだめだと残しておられた〕  ガンのテスターが銀紙のケースに入ってカ ード100枚くらいある。これを調べてくれて、前立腺がんで、 全身に転移しているといわれた。これはごく軽微でいまのところどんな器械にもでてこないが、急速に広がるケースでは、何年かするとガン専門の医師にもわかるように大きくなるかもしれない。ただ、六十になってからのガンは進行が遅いという。  いろいろな薬で試してみると、十分くらいは劇的な効果があるがそのあと効果は微弱になっていく。その理由がわからない。もしかして衣服の汚染と関係があるかもしれない。明日すっかり着替えてきてくれればこの先のテストができる。〔明日はシンポジウムでこられない。あさってにはもう帰国してしまう。それに言わなかったが着替えがない〕この二種類の薬はガンの抑制に関してどちらもマイナス10をプラス12に変えるほどの力があるがどちらも10分くらいで効果が弱まり30分の内にほとんど効果がなくなっしまう。  私がずっと使っているオリーブの葉の粉末は傷口にはよくない。全然効果がない。オリーブは飲み薬としては、一日二錠はだめで、一錠ならかなり効果がある。 傷口に使っているオリーブ粉末とティートリーはまったく徒労で、やめたほうがいい。  私を見本にしているのだが説明は全部英語でしている。わからないところをなるべく聞き返すようにしているが、英語も専門用語ばかりで〔参加者は医者が多い〕追っかけられない。平沢さんもごく概要しか通訳できない。専門外だから無理もない。公開の場ではなく二人きりのときに詳しく診断してもらうかと思った。  ガンに関しては半信 半疑のところもある。次の番に見てもらった女性は胃が痛いというと胃がんでしょうと簡単に言っていたから 信じていいかわからない。ただ、ガンについては随分経験を積んで来られた。  『未来医療・Oリングテスト』の中でOリングの特許で世話になった弁護士の奥さんのお父さんが前立腺がんで危ない状態になっていることの相談を受けた話が出てくる。EPAとDHAには抗ウィルス作用と同時に抗がん作用もある。EPA,DHAはイワシなどの魚からの脂からの抽出物の事である。それからある偶然から、ご自身が水銀中毒になっていた時にベトナム料理を食べた翌日は数値が大幅に改善している事から、ベトナム料理が多用している香菜(シャンツァイ、コリアンダーの生葉)が強い治療力を持つことがわかり、このがん患者にEPA,DHC,コリアンダーなどを投与すると「わずか二週間ほどで転移したガンが見つからなくなり、元の前立腺がんも縮小してしまった。もちろん本人の体調も回復し、食欲もはずんできた。前立腺がんにかかると、前立腺特異抗原(PSA)が増えてくる。私がこの末期がん患者を初めて診察したときはPSA値が10を超えていたが、大部分の転移がんが消えた事を確認した段階で再検査したところ、なんと1以下に下がっていた」と書いている。糖尿に関しても、「糖尿の発症にはウィルスや細菌の混合感染がからんでいる」ことに気づき、それが抗生物質だけでは聞かないのが「抗生物質と一緒にシラントロ(コリアンダーの有効成分)を与え,手の代表領域を刺激したところ、急に薬の効き目が現れ始めた。局所に沈着している重金属をシラントロが流し出すと、患部に到達した薬が効き始めるのである」。本態性高血圧も同じ仕組みで著効がある。  私の場合、この段階でははっきりした効果のある薬が見つからなかったが、京大病院から出ているEPA,DHCは効果がありそうだし、香菜は種子をたくさん買い求めているので、もっと育ててみようと思う。  こういう診断を受けて、帰った。翌日くれば治療費はいらないし、適合する薬を見つけてくれると言ってくださったが、シンポジウムの当日は無理だった。また必ずここへ来て相談しようと思った。  ホテルに戻って、ズボンと三種類のシャツを丸洗いした。包帯は一日で乾いているが、ズボンなどだめだったら ドライヤで乾かそう。強力なドライヤがある。新しいパンツと洗い立てのTシャツに 着替える。 ご飯パン麺類とお菓子はすべてやめて、とにかく糖尿を治してしまうことにした。オリーブを塗るかどうかは迷うところだが 帰国してまた鈴木さんのところに行って報告・相談してみよう。・・・・・HOMEに返る



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ニューヨーク日録⑥

2014年2月21日(日本時間)



今日はNYに来た理由であるシンポジウムが午後からあります。
その準備もあるから、きのうOリングの先生のところで聞いたショックな話はかえってきてからにしますね。相変わらず冷え込んでいます。・・・・・HOMEに返る

 

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ニューヨーク日録⑥-1
ニューヨーク日録 ⑥-1 2015/2/21  シンポジウムには15人くらいの人が集まってくれた。昼前から雪になっていてニューヨーク大学の四階の窓からは、降りしきる雪が見える。  ゆうべは高祖岩三郎さんと平沢剛さんと三人で食事をし、飲んだ。平沢さんはいまは飲まないが、私は赤ワインと焼酎・スピリットは「体にいい」ことに決めており、高祖さんとは調子が合った。平沢さんが二人の自己紹介をしたときのメールを引用する。  「高祖さんは80年代からNYCに在住されていて、批評家,翻訳家として都市論、蜂起ー革命論を展開されています。彼と私で10年以上国際的なアナキストのネットワークの構築に参加し,理論的にはマルクス主義的な革命論、アナキズム的な蜂起論について,世界各地で議論を行って来ています」  「私個人の専門は1960-70年代の日本映画になりますが,映画論というより、映画を媒介にした革命論、蜂起論が関心の中心になります。その中で足立さんや松田さんとおつきあいさせてもらっている次第ですが、最近は日本の映画や理論を海外で紹介する事に力をいれています。映画・メディア論の文脈で津村さんの70年代における新しいメディア論を、政治運動論では新左翼批判を興味深く拝読してきました」 という紹介だったので、どんなこわい人たちかと思ってしまうが、二人ともまことに気持ちのいい、つきあいやすい人たちだった。高祖さんはいま60歳で、70年ころには高校全共闘だった。平沢さんは40代である。もともと松田政男の『風景論』の復刻の時に平沢さんが解説を書いて知り合った。高祖さんには『戦略とスタイル』復刻版が出る時には解説をもらおうという予定がある。  私が知っている人では四方田犬彦さんが来てくれた。ボストン大学にいると言ったか。以前映画論を何冊か読んでおり,最近『ゴダールと女たち』を読んだ。四方田さんも私より何歳か下の高校全共闘で,その事も書いている。あとは存じ上げなかったが日本の新左翼と全共闘を博士論文にしている日本女性がいたり、ニューヨーク大学の教授の日本人がいたり。何をなさっているのか聞いたのに忘れてしまったが、猪俣津南雄の『窮乏の農村』が研究の決定的転機になったというやはりこちら在住の日本女性がいたり。あとは日本研究をしているアメリカ人だった。  マックの映像を通して、バークリーともつながっていた。  平沢さんが六つの質問項目を用意してくれていた。その質問と私のだいたいの答えを要約して紹介しよう。

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ニューヨーク日録⑥-2

2014年2月21日(日本時間)



 タクシーでホリデイインに行った。大村恵昭先生にお会いする。
大村恵昭さんは個性的な人でびっくりした。アメリカ人や中国からの人の前で公開で やってくれた。ほかにも何人もの希望者がいたのだが、午後一番でやってくれた。
三時間かけた。そのていねいさはあきるばかり。初体験の人は250ドルとる。 これだけていねいにやってくれるのだから、高くない感じだ。診療を受けたいたくさんの人がいるし、三分診療とまでいかないが、せいぜい30分くらいまでと予想していたのだ。
まず衣服が汚染されていて、上着も下着も全部替えなさいといわれた。たしかにずっと着ているズボンとシャツで行ったし。衣服のいたるところから感染菌が出ているという。触りもしないで、ご自分の指への感応だけでそういう判断をするのだから、どこまで本気でいっているのか、わからないところがある。以前のOリングは人差し指と親指で作る輪がどれだけ力が抜けるかを測るのだが、今や指先を対象に向けるだけである。途中で助手の人に70度のアルコールを買いに行かせて、それを吹き付けると汚染が消えるという。それは直接病状と関係ないかもしれないが、現に体に悪い影響を与えているのは間違いない。飛行機で特に汚染されたのではないかと思われた。下着など捨てなさいといわれた。パンツは余分に持っているけどシャツは少ししか替えがない。 私の座っている椅子も汚染されているので、ていねいにアルコール消毒するまでは誰も座らないほうがいい。
心臓は悪くない。右心室はとくにデータがよい。ステントの入っている左はそれほどよくないが、マイナスではない。これは少しほっとした。
足の傷は糖尿から来ている。糖尿を治せばすぐに解決する。いま見かけ上は足が一番ひどいが、これはわりあい解決しやすい。〔基本的には砂糖と炭水化物をやめればという意味らしい。ただたんぱく質でも脂肪でも悪いものはいちいち見ていかなければだめだという姿勢だ。お昼を一緒に食べたが,鮭やひじきやのその弁当の中では千切りキャベツだけがだめだと残しておられた〕
ガンのテスターが銀紙のケースに入ってカ ード100枚くらいある。これを調べてくれて、前立腺がんで、 全身に転移しているといわれた。これはごく軽微でいまのところどんな器械にもでてこないが、急速に広がるケースでは、何年かするとガン専門の医師にもわかるように大きくなるかもしれない。ただ、六十になってからのガンは進行が遅いという。
いろいろな薬で試してみると、十分くらいは劇的な効果があるがそのあと効果は微弱になっていく。その理由がわからない。もしかして衣服の汚染と関係があるかもしれない。明日すっかり着替えてきてくれればこの先のテストができる。〔明日はシンポジウムでこられない。あさってにはもう帰国してしまう。それに言わなかったが着替えがない〕この二種類の薬はガンの抑制に関してどちらもマイナス10をプラス12に変えるほどの力があるがどちらも10分くらいで効果が弱まり30分の内にほとんど効果がなくなっしまう。
私がずっと使っているオリーブの葉の粉末は傷口にはよくない。全然効果がない。オリーブは飲み薬としては、一日二錠はだめで、一錠ならかなり効果がある。 傷口に使っているオリーブ粉末とティートリーはまったく徒労で、やめたほうがいい。
私を見本にしているのだが説明は全部英語でしている。わからないところをなるべく聞き返すようにしているが、英語も専門用語ばかりで〔参加者は医者が多い〕追っかけられない。平沢さんもごく概要しか通訳できない。専門外だから無理もない。公開の場ではなく二人きりのときに詳しく診断してもらうかと思った。
ガンに関しては半信 半疑のところもある。次の番に見てもらった女性は胃が痛いというと胃がんでしょうと簡単に言っていたから 信じていいかわからない。ただ、ガンについては随分経験を積んで来られた。
『未来医療・Oリングテスト』の中でOリングの特許で世話になった弁護士の奥さんのお父さんが前立腺がんで危ない状態になっていることの相談を受けた話が出てくる。EPAとDHAには抗ウィルス作用と同時に抗がん作用もある。EPA,DHAはイワシなどの魚からの脂からの抽出物の事である。それからある偶然から、ご自身が水銀中毒になっていた時にベトナム料理を食べた翌日は数値が大幅に改善している事から、ベトナム料理が多用している香菜(シャンツァイ、コリアンダーの生葉)が強い治療力を持つことがわかり、このがん患者にEPA,DHC,コリアンダーなどを投与すると「わずか二週間ほどで転移したガンが見つからなくなり、元の前立腺がんも縮小してしまった。もちろん本人の体調も回復し、食欲もはずんできた。前立腺がんにかかると、前立腺特異抗原(PSA)が増えてくる。私がこの末期がん患者を初めて診察したときはPSA値が10を超えていたが、大部分の転移がんが消えた事を確認した段階で再検査したところ、なんと1以下に下がっていた」と書いている。糖尿に関しても、「糖尿の発症にはウィルスや細菌の混合感染がからんでいる」ことに気づき、それが抗生物質だけでは聞かないのが「抗生物質と一緒にシラントロ(コリアンダーの有効成分)を与え,手の代表領域を刺激したところ、急に薬の効き目が現れ始めた。局所に沈着している重金属をシラントロが流し出すと、患部に到達した薬が効き始めるのである」。本態性高血圧も同じ仕組みで著効がある。
私の場合、この段階でははっきりした効果のある薬が見つからなかったが、京大病院から出ているEPA,DHCは効果がありそうだし、香菜は種子をたくさん買い求めているので、もっと育ててみようと思う。
こういう診断を受けて、帰った。翌日くれば治療費はいらないし、適合する薬を見つけてくれると言ってくださったが、シンポジウムの当日は無理だった。また必ずここへ来て相談しようと思った。
ホテルに戻って、ズボンと三種類のシャツを丸洗いした。包帯は一日で乾いているが、ズボンなどだめだったら ドライヤで乾かそう。強力なドライヤがある。新しいパンツと洗い立てのTシャツに 着替える。 ご飯パン麺類とお菓子はすべてやめて、とにかく糖尿を治してしまうことにした。オリーブを塗るかどうかは迷うところだが 帰国してまた鈴木さんのところに行って報告・相談してみよう。・・・・・HOMEに返る



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ニューヨーク日録 ⑥-3

2014年2月21日(日本時間)



(2)津村さんにとってのマルクス主義  津村さんの理論に刺激を与えているマルクス主義は大きく三つあると考えています。一つは欧州のルフェーブルやベンヤミン、もう一つは毛沢東主義と文化大革命、最後は戦前と戦後の日本のマルクス主義理論です。非西洋的な革命論を考えるうえで、三つの関わりを津村さんはどのようにお考えでしたか????  たくさんのことを話す必要があると思いますが,なるべく要約して話します。  フランスのアンリ・ルフェーブルはその共産党との独特の距離感と、幅の広い理論作業に大きく影響を受けました。とくに日常生活批判という考えに共感しました。これはマルクスが経済学批判を理論化しようとしたのに対して、日常生活の批判的認識にこそ現代の課題があるとし、ブレヒトやベンヤミンを高く評価したわけです。とくにブレヒトの日常生活批判を大事にしました。私が『戦略とスタイル』でスタイルと呼んだものですが,ブレヒトはヒトラーに対決する身振りということを言いました。当時のドイツ共産党の弱点は、ヒトラー考え方では批判できるのだけど、それに代わる身振りを提案できていない。だからヒトラーなんかと馬鹿にする人たちがどんどん知らずにヒトラー支持に巻き込まれてしまう。身振りの次元でヒトラーと対決できるものはと問い続けて「肝っ玉おっかあ」「セチュアンの善人」「コーカサスの白墨の輪」「ガリレイの生涯」などを書き、またたくさんの詩を書くのです。それをかれは異化の理論と呼びました。Entfremdungつまり外国人のようにされてしまうというのがマルクスの言う疎外ですが、彼はそれをひっくりかえして外国人のように見せてしまうことをVerfremdungs・effktつまり異化効果と呼ぶ訳です。それは今日でも大切な言葉だと思っています。    毛沢東とは誰の事か。中国の博物館に行くと、毛沢東の著作には劉少奇や葉剣英や林彪の訂正書き込みが入っていて、何十人かの共産党指導部の共同の著作がマオの名前で発表されていた事がわかります。井岡山から新中国の初期までの二十年間、彼は集団のことでした。三つの時期があります。第一は1916年ころから27年以前。毛選集に入っていない頃の著作です。彼は湖南共和国を求めていて、諸共和国の連合体が将来中華コミューン連合に発展すればいいと考えていました。モンゴルやイスラムや漢民族の間で対等の関係が発展する事を願っていました。また彼の仕事が体育教師だった事はご存知でしょうが、「体育の研究」を書いて孔子以来の知識人が身体を常に低く見て来た事を批判し、体育革命なしに中国革命はないと主張しています。これが初期毛沢東であり、27年から58年ころまで、集合名刺としての毛沢東がつづき、いったん国家主席を劉少奇に譲り、彭徳懐らに徹底的な批判を受けて以降、孤独な逃走者としてのマオになるわけです。この時期のマオの精神世界はとても面白い。自分は宇宙人だとも言っている。田中角栄が訪ねた時、楚辞という楚の国の自殺した大臣のシャーマン的な詩集を贈っている。楚は秦に滅ぼされた南の帝国で老子と荘子の故郷でもあります。お前は新潟の歌を歌え、と呼びかけたのかもしれない。そして自分の味方がいなくなったときに、全国の小中学生に起ち上がれとよびかけ、大人たちは打倒すべき実権派だと訴えたのです。大雑把に言って1967年から68年の二年間だけ、マオは本物の革命派でした。そして非共産党の若者たちの間から戦後の官僚制を打倒して止まない本物の革命のパワーを引き出してきました。そしてじきにそれを恐れるようになりました。彼らの大部分を辺境に追放してしまった。辺境に行ってこそ革命は深まると。しかし貧しく深い闇に包まれた農村は若者の手に負えるものではありませんでした。彼らの中から非合法に上海に逃げ帰るのに成功した者が中国のコンピュータ文化を育てたのです。  さて、もうひとつ残っているのが日本の左翼との付き合いですね。私は小学校四年の時に母親からレーニンの『青年同盟の任務』を「読んでみる?」と渡されて、夢中になりました。良い共産主義者になるには、それ以前に人類が到達した遺産のすべてを知らなければならないというのに感激したのです。それから中学三年までの六年間、私の読書歴はレーニン全集43巻に向かうと同時に、エム・イリン、ツィオルコフスキー、ガモフらの科学読み物と岩波文庫の百冊に始まる教養主義に支配されていました。  日本のマルクス主義に関しては、私は山川均から野呂、福本までの殆どすべてを読んできましたが、ほぼ全部無駄だったと考えています。ただ一人,今から読むに値するのは猪俣津南雄です。ただ、猪俣について紹介するのは簡単に行きません。16歳の時には彼は俳句の形を借りた前衛詩人で、碧悟堂が芭蕉を真似て三千里の旅に出た時に、猪俣の詩に出会ったのをきっかけに新傾向俳句を確立します。その後彼は子規門下として根岸に出入りしますが、アメリカにわたってウィスコンシン大学に留学し、ソースタイン・ヴェブレンの経済学を研究し、またブハーリンらの影響を受けます。アメリカ共産党の創立に参加し、機関誌が14カ国語で出ているのに感銘を受けます。日本に戻って早稲田の教授になるのですが第一次共産党事件に連座してやめ、その後は一人で書き続けます。『金の経済学』はストリートカーの腹に広告が出るほど売れた本ですし、『農村問題入門』など質の高い仕事を続けました。日本と世界の主要各国が金融独占資本主義体制になるのを同時代的に解明した、また「隣邦支那の前途」など日本と中国の近代を一体のものとして描き続けたのが大きな仕事でした。さっき述べたような「横断左翼」の論議もあります。  こうして三題噺にお答えしますと、皆さんが思っておられるマルクス主義なりとはだいぶん異なる歴史像が生まれてくるのではないかと思います。それぞれ論議を深めていきたいところです。・・・・・HOMEに返る



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ニューヨーク日録 ⑥-7

2015年2月21日(日本時間)



(6)食と文化、身体の革命について  1970年代における運動の衰退のなかで、津村さんは既存の狭義な政治運動(街頭行動や過激派の軍事路線)ではなく、日常の政治(身体、気功、食物、日常の文化全般など)に更に重点を置かれて行きます。そして、現在は気功や食物について教えられているわけですが、津村さんの70年代以降の歩みは、蜂起以後と言われる2015年の現在の問題意識と深く通底していると思います。こうした文脈から、闘争とはなにか、ラディカリズムとは何かを、津村さんが現在どのように捉えられている伺えますか???  直接お答えするのでなく、少し昔の話をしましょうか。それは岡田虎次郎のことです。 岡田は膝を揃えて折る正座の形を普及したので、中国式、あるいはそれの日本的変形を指導したように思われていますが、彼はアメリカ帰りでした。アメリカでクゥエイカーの強い影響を受けたのです。日本を代表するクゥエイカーに同志社大学を作った新渡戸稲造がいます。かれは”Silent Siiting”という本を書いています。クゥエークはアースクゥエーク(地震)の時に使う言葉で、揺れるということです。日曜になると教会に集まりますが、そこには司祭も牧師もいません。皆ぞれぞれのリズムで揺れています。誰かが急に立ち上がって短い演説をしたり神の言葉を伝えたりしますが、ほかの人は拍手もせず、「うるさい」とも言わずにただ揺れています。岡田はこのやりかたを伝えたかったので、黙って坐る、揺れたければ揺れてもいいと伝えました。縁があれば10人程度の人にも伝えましたし、何百人も集める力と会場を持った人も居ました。天皇家の人や貴族院議員の中にファンができました。しかしそれだけでなく庶民の間にも広がりました。  岡田式を広げるのに大きな力があったのが相馬御風、相馬黒光の夫婦でした。彼らは新体詩人でしたが同時に新宿に中村屋というパン屋を開いていて、各国の革命家をかくまいました。ボースというインド人をかくまった時にはインド・カリーを習いました。エロシェンコというロシアの亡命者をかくまったときにはロシア・ケーキを習いました。中国人からはフルムーンの月餅を習った。彼らは古代の海洋民の一族で安曇野に住み、たくさんの彫刻家を育てましたが、岡田式正座を庶民とつなぐ役割を果たしました。  同じ安曇野の出身である木下尚江も正座に加わりました。幸徳秋水の同志でしたが、ほかの罪で獄中に居たので大逆事件では殺されないで済みました。彼は大阪毎日の記者をしていて、『火の柱』などの小説を書いていました。岡田の後継者と見られるほど熱心にしましたが、岡田が47歳で死んだ時には後を継ぎませんでした。  木下の縁で、アナキスト石川三四郎も参加しました。彼は幸徳や大杉のような直接行動派ではなく、農村で自立した生活を目指すタイプのアナキストでした。また木下は毛沢東の一世代先輩の章太炎Zhangtaiyuanや北一輝とも仲がよかった宋教仁Songjiaorenを岡田のところに呼び、夢中にさせました。章は当時東京に亡命して中国革命同盟会を作っていた人で、毛沢東と同じ湖南の人でした。岡田式正座は一気に中国の革命派の間に広がりました。そのころ二十歳だった上海の革命家蒋維喬Zhangweiqiaoは日本で岡田式を習い、岡田の実業の日本社の本を翻訳しました。彼はそのころのさまざまな日本の瞑想法や体操法を紹介しました。今でこそ気功は中国が本場ですが、当時は日本のものを中国が習うのが一般的でした。のちに蒋が天台止観から学んだ静坐法を本にした時に岡田の訃報が入り、彼は嘆き悲しんで岡田の追悼をその中で書いています。革命後に上海市が気功研究所を作った時にはこの蒋維喬を初代の顧問にしました。その仕事は今の中国気功界に受け継がれています。  私は石川の伝記を書いた事がありますが、また岡田の伝記も書きかけていますが、石川のコミューン的アナキズムはとても深いものがあります。  岡田式はアメリカから伝わったところが興味深いところです。われわれが生活全般の革命を目指した時に、アメリカのホール・アース・カタログに刺激を受けたこともあります。それはただの商品カタログに過ぎませんでしたが、私たちはもっと自分の手仕事で買うことを減らしていけると考えていました。でもあの月から見た地球の写真は魅力的でした。  ラディカルとは暴力的な事ではなく、根源から発想し直す事です。伝統の中に古いよいものもあれば、それを全く新しい次元で実現できるものもあります。皆さんの参考になりましたでしょうか。・・・・・HOMEに返る 









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ニューヨーク日録 ⑦

2015年2月22日(日本時間)



 朝食にはオムレツもベーコンももう一つだったので、フレンチトーストにしてみた。メープルシロップまでついてくるが、もうつけなくてもけっこう甘い。大村さんの本を読んでいたら時間が経って平沢さんが迎えに来た。部屋に戻って荷物を詰め、ちゃんと入らないのは空港で時間があるからつめ直すことにして、出発する。12時半のフライトだが、まだ8時だ。雪の心配もあって早くしたが道路の雪はすっかり除かれている。  平沢さんにはすっかりお世話になってしまった。また京都でといって別れた。きのうも高祖さんがいっていたが、郊外のいい会場で一週間くらい、気功・指圧と料理のワークをしたら楽しいだろう。大村先生のところへもゆっくり来たいし。左翼書店にもぜひ案内したいしと言っていた。  ニューヨークは二十何年かぶり。これからも来る気ならばいわば下見である。まず足を治して、もうすこしすたすた歩けるようにしよう。エコノミーとビジネスの間のような切符なので、さくらラウンジには入れる。誰もいないところでゆっくり包帯を換える。13時間のフライト。大村さんの本を読み返す。  昼食は久しぶりにシャンパン一本、赤ワイン二本、トマトジュースにウォトカ、レミーマルタンが一本とミニ瓶ばかりだが最初に全部頼んで隣のテーブルをバーにした。これでカルーアでもあると完璧なのだが、甘いものはやめよう。  ほどよい酔心地で、食事の後そのまま眠り、起きたら七時間ほどたっていた。30分もののニュースとかライン紀行とか札幌の料理人のプロフェッショナルとかNHKをいくつか見る。成田から伊丹に飛んで、そしてあとはホーム・スィート・ホームである。ほんやら洞が焼けてからは、帰ってくると、ああまだ焼けていないとほっとする。・・・・・HOMEに返る


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